4:蛇芭大社-⑨


 枯れかけた話の花に水をやるよう、フウギは自ら話そうとも考えないツルイグレを相手に口を動かす。


「ふふ、思い出すじゃろ? ……」


 ツルイグレに向けた言葉であったが、ふいに自分自身という存在を思い出す。彼は40年程生きているのだが、未だ自分が何者か判らずに居る。辻天市立の病院に勤務していた際、患者は若年性認知症だろうと睨んだ際は、脳神経内科によるCTスキャンが陰性であることを待ち詫びていた。陰性の字を見た途端に患者への興味は薄れ、淡々と相手とラポールを形成していた。ツルイグレに服用させている新型の抗認知症薬についてもフウギは学術の場に四肢を下ろしたし、治験結果も把握していた。

 軽度認知機能障害ならばともかく、認知症の改善こそできど、寛解などしない。論文の作用機序からして彼はその処置の無為さを判っていた。元の彼女が戻って来る訳でもない。延命でしかないと彼女の家族へ伝えようともしたが、結局は伝えられずに居た。造り物の温情程度ならば大半の医者が抱く。彼に限っては、感情を無表情にモニタリングする自分が常に居た。何人もの廃人を診てきた自分が何故、彼女一人に未練を抱いているか考えたくもない。


「そう」


 眼の前で数歩たりとも動かず、ただ抑揚も変わらぬ相槌のみを彼女を五感こそは検知するものの、脳がその情報を優先しようとしない。かつてもしただろう思考が再び、眼の前に顕れてくる。若かったあの時。フウギは大層、彼女の浮気癖を呪った。若いフウギは浮気癖のある彼女を愛していたが、浮気対象へは人としての尊厳を認められずにいた。


 フウギにとって、己如きは彼女に似合わないとして離婚を申し出た。本心でこそあったが、本音ではなかった。ヌヌカとは娘を設けたにも関わらず、愛情と呼べるのうち暑苦しい面は常に、ツルイグレを向いていたし、油のように溜まるその情動は彼の理性に染み渡っていた。


 彼女の周りを許せない。ある日、ツルイグレに対して、本人以外に向ける全てが呪いに満ちた感情となった。そん方日の夜、フウギはカイロを4枚ほど服の裏に貼り、悴む手足を上げてライターと灰皿に古紙を持ち、遠くの湖へと赴いた。月夜の中、星に凩にとが照らす晩秋では殆ど人など居なかった。蒼尾人の群れを警戒し、柵に近い方にて、フウギは一枚、ポケットから紙を取り出した。


 紙に円を描き、その中央に彼女の姓名を書く。予めバケツに溜めた、湖の水につけた後にライターにて火を点けた。


 用済みになったライターを仕舞った後、フウギは両手を地面にて合わせて暗唱する。発音こそは彼の出身たる崐央こんねい郡のものだが、文法や単語は再構された上代東果語である。祝詞の類は上代東果語で詠むものだし、その知識はヌヌカから手に入れた。すぐ足元の茂みが音を立てて四肢に絡みつく。フウギは自分の声など聞き取れていなかった。


 初めに彼女が浮気した男性が亡くなった際、フウギは呪いが成就したことを心の底から歓んでいた。彼女の浮気相手の住所を書き連ねた紙切れを持ち出し、舌を乾いたインクに触れつつ割いていった。音を立てる様がとても愉快でたまらない。

 

 そこから八年、浮気癖への復讐心のことなど、フウギの脳裏には最早無かった。その間にもスズスハ家は不幸な出来事を繰り返し経験した。フウギの知る限りでは、蛇芭大社の宮司、スズスハ・ナハの急逝。神祇省官僚の再就職に伴って齎した捻じれ。蛇芭一族の後継者争い及び、その他多くの不祥事による混乱。フウギにとっては蛇人族の各々への認知的上限に関する論文雑誌を目に通したことも不幸の一つであろう、近い将来にて、フウギは修復による改善など不可能に等しいと悟らせたものだ。


 皆は口を揃えて言う。『呪いだ』と。東果国民ならば大人でも心で信じてしまうものだ。フウギにとっては尚更であった。呪いの噂はインターネットにも及んだ。東歴2362年度以降の義務教育において情報リテラシーに関する教育は強化されたが、その原因は辻天のインスタンスでの書き込みが拡散され、一過性に祭り上げられるでもなく浸透してしまったが故だという。当時のフウギは乾いた嘲りと共に、舌も出さずただその様子を伺っていた。


 巣篭もりを明かした頃ではとうとう、リノ・ツルイグレは若年性認知症であったと、フウギの同僚の口から告げられた。すっかり忘れていた情が、今度は煤のように崩れ落ちていく。八百屋に行く度にした彼女との会話が最早思い出せない。

 何かが聞こえる。人語に似ているも、似つかない何かだ。フウギの体に耳に、鼓膜に纏わりついてきて仕方がない。脱皮しつつある皮を乱暴に剥ぎ、入念に若々しい色の鱗を洗った記憶さえあるが、纏わりつくその感覚は取れやしなかった。


 辻天を襲う呪いはフウギの愛娘にさえ及んだ。蛇芭大社は元来の被害妄想を極め、厭でも犯人を作りたくて仕方なくなっていたのだ。辻天市は最早彼女と関わる者などいない。子供は大人の言うことを半信半疑ながら信じてしまうものだし、信じなければ彼らの毒牙にかかるが故だ。



 ふと彼は瞬きをする。ツルイグレを収める部屋の中であった。石が部屋の四隅に集められたこの場の光景が目に入る。


「ワシがお前を呪ったこと、呪っとるか」


 フウギは息を吸いきると、蒼尾族のようなわざとらしい抑揚表現をする。我に跳ね返るのは当然として、彼女を巻き込んでしまうとは考えてもいなかった。科学的には認知症と正の相関を持つ遺伝子を多く有していたのみであろうし、呪術に関する因果関係は立証などされていない。フウギは、自身の後悔が単に種族上の認知の特性が故であることも文面上は理解はしている。理解しているのみで、実際の脳は本能の通りに罪悪感を表明したがる。自分の脳が体が嫌で仕方がない。生物としての本能が恨めしい。フウギにとって次のコンマ数秒は、数時間にも感じられた。彼は息を途中で止めると、気が付けば彼女を凝視していた。思えば唐突な告白であっったかもしれない。断じて認知症の蛇人に行うべき反応ではなかったが、医者としての経験的知識など頭の外へと廃棄されていた。


 ツルイグレの硬い足音が鳴る。


「呪ってないって」


 特段大きい小石を、手枷の付いた手で器用に拾ったツルイグレは抑揚もない声を上げる。


「本当か」 


 咄嗟に口が動く。気が付けば四肢を付け、辺りを見回していた。


「本当」


 彼女は石の方を見、撫で回す。その有り様に対してフウギは認知症を患う前の彼女を思い出していた。目に見える風景こそ視覚情報として入っているが、今この場などとっくに見えていなかった。


「仕方のないことじゃん」


 ツルイグレは自然な無視を続ける。フウギはこの数秒が、十数年にさえ感じて時計を一瞥する。面会時間の終わりまで残り数分であると知り、ふとまた我に戻っては立ち上がる。


「……時間なのでな、またな」


 扉の前へ向かった彼は投げやり気味に鍵を開けると、静かに扉を開閉して施錠の音を響かせた。通路を区切るガラスからは、季節外れの乾いた日差しが彼を襲っている。乾いた寂寥感を背に浴びつつ、フウギは帰路へと向かっていった。



「おかえり」


 フウギを視認したコラツルは飛びかかるようにして、車用扉のロックを解除する。


「ただいま」


 彼は作業的にシートベルトを着用し、そのままエンジンを掛け直した。


「大丈夫じゃったか」


 車体が揺れるのを察知し、コラツルは助手席へと戻る。


「良かったよ」


 足音が数回鳴った。左隣に彼女が居るのを確認し、ハンドルを押す。フウギはようやく、人並みの感情を表現させていた。


「居らんかったってことじゃな」


 コラツルが欠伸をしつつ意味解釈を呈すると、フウギは二つ返事を返す。当のフウギは単に車両の音に聞き惚れており、彼女の話をろくに聞いていない。


「ずっと思っとるんじゃが」


 コラツルは僅かに、声の調子が変わっていた。彼が駐車位置から外れようとハンドルを右に回した直後のことである。


「儂の一族だけ急に、不祥事が明るみになったのはなんでなんじゃ?」


 一瞬、フウギのハンドルを握る手が強まる。彼女が神祇省を漠然と厭う理由である。行政に疎いコラツルからすれば、彼らはこぞって実父を虐めたいようにしか見えない。


「偶然じゃ」


 東果国住民は誰もが呪術を信じてしまうものだが、結局は噂止まりである。フウギはわなわなと顎を震わせつつ、車を妻の元へと通わせた。

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