4:蛇芭大社-③

 ☆


 宇沽野県辻天市は、杜籠もりかご岶岼さこゆり市からは県境を二回跨ぐ。歴史的資料上、東果国の山岳地帯の藩境は山脈と一致し、県として統合が為された現在も、大掛かりな山脈は県境として君臨する。


 巽海自動車道は掛目のように、南の巽峡―北の海汢地方間を覆う高速道路群である。岶岼から辻天へは巽海横貫自動車道を用いて横断出来る。ちょうど、フウギらの乗る車両は8キロほうに渡るトンネルを抜けた所であり、道路脇では『山囲やまがこ県』の表記と簡素な県章とが出迎える。


「ポテト、まだある?」


 軽太は食べかすが数粉残る程度のパックを備え付けのゴムバンドで折りたたむ。彼の認識として、東果国で標準的な芋として知られる『ヤモエイモ』はサトイモとサツマイモを混ぜた質感を持つ。ふと、森林限界を超えた高地で育つ植物であり、龍屾たつやまえ地方の主産品の一つでもあると、どこかで耳にした情報を思い出す。


「要らんからやる」


 コラツルはポテトを台座に乗せ、右手で側面を押して後ろに転送する。


「自分にもくれよー」


 ナザネルは、彼女が走行音の中聞き取れなかったことを思い出し、気がつくような怒声を出す。


「お前は十分食ったじゃろ!」


 彼の怒声に対し、コラツルは同等の音量を返す。フウギは『R=1.2kf』と書かれた注意看板を一瞥し、ハンドルを引っ張って備える。


「病んじゃうぞー俺が」


 冗談めかすナザネルを他所に、軽太はわなわなと手を膝の上に乗せる。彼にとって、コラツルの大声とは発狂に伴う奇声でしかない。


「……君、カータクくんだよね」


 右にハンドルを強く傾けつつ、フウギは口を挟む。『違うぞー』と快活な声を聞き、彼は微笑んだ。


「戸籍上はカータクじゃな」


 コラツルは目先以上のことを考えたくなく、適当に耳にした質問を答えた。


「無戸籍なんだよ俺様、人の借りてんの許してくれ」


 彼は腕を後ろに組んで円背になり、大袈裟に上腹を誇張する。


「体型が全く同じだし、鱗の模様も全く同じだよね」


 フウギのカーブに気を取られていないかのように、無表情気味の声を発する。


「……俺様に気でもあんのか?」


 彼は少し歓喜し、日光と僅かに車内の黴を吸った鱗の臭いとを感じ取る。


「ない、あと君らって多重人格だよね」


 ふと彼は力み、脚と尾が座席に叩きつけられる。前方は暫くなだらかな直線が続き、フウギは肩の荷を降ろしていた。


「んあ?」


 ナザネルは呆気に取られたフリをする。カータクではないと断言しなければ無限に彼を困惑させ続けられるだろうし、折角バレそうというのに渾沌とさせないのは、彼の本質として勿体ない。


「弟と体共有してるでしょ、君――」

「うわ゛ぁ゛ァ゛ぁ゛あ゛ーーー!!」


 腹はそのままに頭を抱え、甲高く哮けりを上げる。ナザネルにして、愚弟とは最悪以上の何でもないし、あの体の一人格であると自覚したくない。


「――治療受けたら?」


 フウギは彼のオーバーリアクションを完全に無視し、右腕でポテトを一切れ摘む。


「ステマか」


 ナザネルは姿勢を戻し、つまらなそうに窓を見る。彼として、自身の体の辿った道を知りたいとは思わないし、カータクが機械的に知識を積んでくれる生活は有り難い。喧嘩別れのチャットを繰り広げ数十分もすれば量子力学の本を開く程には勤勉であり、寛解しては自分の取り柄の3割が減る。


「紹介しても変わんないんだよね、僕の給料」


 フウギは口内のポテトを味わいつつ、口から出た半分の嘘を後ろめたく思う。


「じゃあー行かんわ」


 彼は全力の厭味を声色に込める。


「なんで山中なんだよ。……お家のことね」


 軽太は、咄嗟の愚痴を質問へと変換する。ナザネルは顔を動かさず、彼の萎める頬を舐めるように見る。


「ニンゲンは山中に棲まないのか」


 フウギは興味深く思い、軽太に質問を返す。


「まあ、人間はねー」


 軽太は自分の言葉に含みを感じ、自分に対して一瞬戸惑っていた。


「人妻差し置いて誰の元に行くんだよん」


 ナザネルはフウギの脚もたれに両腕を凭れさせる。


「リノ・ツルイグレ」


 フウギは陰性感情を押し留める。元妻である等とも訊き出した癖して、堂々巡りな質問が大層癪に障った。


「……浮気か?」

「初恋の人だよ」


 続け様に、抑揚の無い返事のみを返す。ナザネルにはデリカシーという概念は無く、感情的になっていてはキリがない。


「こういうことか?」


 ナザネルはルームミラー目掛け、第二指と第四指をΛ状に垂らして揺らす。軽太はピースサインの上下反転としか捉えていない。


「うん」


 フウギはミラーを向き、適当な返事を返す。後部座席の彼は呆気に取られたように手を膝に置き出す。事実を否認する悪癖は彼にないし、患者でもな人に嘘を吐くのは彼の医学倫理に反する。軽太はΛの意味が気になったが、タイミングを計るうちに疑問を忘れた。


「その人、認知症でね」


 フウギは5年前を思い出す。ツルイグレの顔を覗きに彼女の家に赴いたが、若年性のβ型認知症を発症していたと彼女の両親から聞いた。精神科医であるフウギは事の重大性を誰よりも理解し、誰よりも己に絶望した。


「それで見捨てたんか?」


 ナザネルは申し訳無さげに、コラツルの方をチラ見する。彼女は俗世的な会話へは興味が無いし、実際に聞き流しているようだった。


「見捨ててはないかな」


 フウギは口を籠らせる。抗アミロイド薬の投与が行われて2年半は経過するという。最先端の医療と云えど失った機能が回復する訳ではないし、外的に回復させようものなら、それはもう、彼女ではない。故に認知機能の余命を引き伸ばす無為さを誰よりも理解しており、誰よりも彼女を諦めていた。


「えー」


 軽太が油臭い車内の換気をする中、ナザネルは彼の中途半端な答えにブーイングを吐く。


「僕なんかが似合う相手と思えなかったからね」


 フウギは当初に抱いた感情を思い出す。家族に対する愛と同等であり、。交際し結婚生活を送る過程で、血縁関係もない彼女を『我が子』と見下す自分に気が付き、一年足らずで離婚の協議をした。


「医者が言う台詞か?」


 半開きのサイドガラスから風を浴び、ナザネルは閉めるように軽太に要請した。


「ああ」


 フウギは意図的に、彼の本意を無視した。離婚すると決めた際も、彼女は常に穏やかな顔を浮かべていた。


「んで、今の妻とはどうして結婚したん? やっぱ孕ますためか?」


 ナザネルは再び右手でΛのシグナルをした後、左手で第四指を掴む。軽太はルームミラーから視線を外し、窓も閉めずにいた。


「経済的理由からだな。僕が崩れたら終わりだし」


 思い出すかのように言葉を続けたフウギを見て、軽太は給料に関してコンプ気味なのだろうと考えた。


「まー、スズスハ家もお医者さんならお似合いだわー」


 ナザネルの悪意を受け、ようやく軽太は窓を閉める。


「当時知らなかったよ、僕は」


 フウギはもう一切れ、ポテトを摘み取る。もう少しは肌寒い自然風を浴びていたかったが、言語化する余裕がなかった。

 

「……アホじゃねえの?」


 ナザネルは、彼の常識の無さに慄く。


「単に『スズスハ』姓の人なだけかと思ってて」


 彼の反応は気にかけず、ポテトを舌と歯で味わう。


「アホだろ」


 辻天市に棲む彼は、『スズスハ姓』と『蛇芭一族』を結びつけようとはしなかったのだろうか。字面からして滑稽であり、ナザネルは嘲笑の気持ちから深入りをしないこととした。


「あれ、おかしくない?」

「おかしいよなー、ホント」


 ナザネルは最早、軽太は悪意を持っていないことに気が付かない程度には、彼を嘲る気持ちを隠せずに居た。軽太としては、男性であるにも関わらず姓が変わる現象が不思議に思っている。


「ニンゲンは男の名字になるのか」


 フウギは彼の悪辣な感情より、軽太の素朴な疑問の方に耳が向いた。東ワグンの地域は伝統的に女性の地位が高い。特にこう苙圻りゅうごん民衆群国の内陸地域は女性が取り仕切っていると言っても過言ではない。海から隔たった東果国や邁寵まいちょう王国、イィキロフ国は女性に特別な立ち位置を与える事は無かったが、蒼尾人の渡来や近代化等で度々大陸のシステムを流用しており、女性は依然権威的だ。


「あ、そうですね」


 ナザネルは、軽太が先走り気味に答えるのを聞き、しめた態度でフウギを眺める。


「ウラアダ王国みてーなもんじゃねえの!」


 ナザネルはニンゲン社会についてある程度の予想はついている。鴻国からはグッヴァン山脈に区切られたウラアダ王国に於いては男性社会だ。ニホン国については惰性で社会的性差を受け継いだ地域なのだろうが、視線の先の彼に恥をかかせるために敢えて伏せている。


「神主も男ばっかだったりするのかい?」


 フウギがその前提を疑わないのを見、ナザネルはしめたと口角を上げる。


「まあ……神社といえば巫女さんかなあ」


 軽太は一瞬言い淀む。彼の時代では神社など、大衆に意識もされない存在であった。『巫女』は日本語の固有名詞であるため、彼は男版の神主であると注釈を入れる。


「ぃこ……なんて?」


 聞き取れなかった様子の彼らを見て、軽太は『み・こ』と音節で区切る。東果語には両唇音が無いし、近辺の言語にも存在しない音声だ。


「……カコ・カルタって発音出来るの、奇跡なんだろうな」


 東果語を母語とする彼らは何度か訊ね返したが、PAに差し掛かるころで音声の理解を諦めた。ナザネルはフウギに何をしようとしていたか忘れ、用を満たしにドアから飛び出した。

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