4-蛇芭大社-②
☆
日時は一週間遡る。フウギは平日より早い帰宅の後、平日のように縁側を這い渡る。軽太は既に就寝し、娘も寝床につく支度を始めていた。互いに会話は交わさずに通り過ぎてしまう。風呂場にてシャワーを浴び、寝間着姿で帰路につく。僅かに冷えた体温が残る抜け殻を両手に、夜風の通る縁側を二足で歩いていく。藤が雨に濡れる6月では最早、夜空に悴むことはない。
片手で襖を開け、着替えを整頓する。懐から携帯電話を取り出し、電話番号を暗唱するように入力する。
発信ボタンを押し、月の浮かばない夜空を自室から見上げる。着信待ちのジングルを耳元にしつつ、自然と
「――」
ジングルが途切れ、耳障りなキーボードのタイプ音が、耳元へと遠く響く。
「遅かったな」
数秒して、フウギは反射的に耳元から携帯電話を離してしまう。
「おいはバイト忙しかった」
左手に握るものを耳元へ戻しながら、再び彼女の声を聞く。スズスハ・ヌヌカ。彼の配偶者であり、遠く離れた
「何やっとった」
部屋を右往左往としながら、彼女のジャミングがかった音量の声を辛うじて聞き取る。
「Webデザイン」
無骨な液晶の向こうにいるヌヌカといえば、嬉々とした態度を隠さない。フウギと娘が引っ越して以降は暇を持て余し、倉庫小屋を作業部屋代わりに複数のバイトを掛け持ちしている。彼女としてスタイルシートとは瞬時に定義できる存在である。
「アホか」
フウギは畳を脚で触れながら、彼女の、ゴミ屋敷も同然の部屋を思い出す。整頓も何も、家具を外庭にも置き散らす始末だ。その上で容易く適切な家具を用いる様は最早、
「夜勤って体凝って、えらくね」
彼女は両腕を解そうと肩を回している。再び音量がジャミングがかる。
「スタイルシートなんて、強調表現で黄と青使うだけじゃろ、ワシでも出来る」
フウギは布団へと頭から潜り込む。インターネットが研究機関程度の存在であった頃、書式指定ファイルを数度作ったことを彼は思い返す。彼にとって強調表現として赤緑度と青紫度、ついでで透明度を指定すれば十分な存在である。現在のWebサイトのレイアウトについても内心、難色の眼差しで見つめている。
「おぬはFか0かしかタイプせんやん」
くぐもる音を聞き取き、フウギを外庭へはっ倒した記憶が蘇る。一時期、彼は趣味用のホームページを設立していたが、白地の背景の上には黒い文字か、偶に極端に真っ黄色か真っ青しかない、その独創的なレイアウトを見た際は頭の底から煮えたものだ。
「失礼な、7Fも使うよ」
フウギは頭と携帯とを布団から出すと、飛ぶ虫を目で追っていた。フウギは愛妻に指摘されて以降、適切に7Fを用いて修正するよう心掛けている。
「医者って色盲だとなれんのに?」
コーディングの進める中、彼女は無地の液晶に向かって軽口を叩く。四色型色覚の住民が大多数たる東果国の医学資料は、光スペクトルの分解能が高い前提で記述されており、特に、二色型色覚を持つ
「ワシのホームページは別に、医学資料じゃないけぇの」
目と頭の先にに着地した蝿をはたきつつ、フウギは指摘を口にする。彼は医学の道に著しい壁があると考えていない。法律上、医学科、及び医師免許の取得には色覚に基づく制限が存在しない。手術等に支障があるとはいえ、理論が中心の薬学、或いは看護や介護を主な研究対象とする者は多い。
「戻ってくるんか」
前触れもなく、ヌヌカは本題に触れる。二人は
「ああ。ワレこそ平気か」
フウギはより影響を受ける彼女を気にかけつつ、体全体を布団に触れさせようと後退りする。
「まぁ、おいは見つかっとらんよ」
ヌヌカは彼の心配を適当に流しつつ、コードを確認する。蛇芭一族は彼ら3人へ執拗に接触したがる。現在のヌヌカの棲家は辻天市の最南端、それも広葉樹の繁る山の中だ。文明の利が及びにくい場所といえど、蛇人は山への訪問を苦労しない。フウギは一族を強く警戒し、彼の父親名義で登記簿に登録させた。ヌヌカ自身もカモフラージュの為とはいえ不便な陳列を強要されており、広さの割に窮屈である。
「良かった」
フウギは気が抜け、喜びの声を発した。蛇芭一族は非常に執念深い。旧姓のままの父の協力を仰ぐだけでなく、フウギは予備の隠れ家を用意している。彼は
「辻天の行政がグルじゃのぅて、助かる」
ヌヌカはノートパソコンを折りたたみ、バッグの中へ仕舞う。ヌヌカに言わせれば、一族は誰も彼もが猜疑心の塊だ。
「ま、ワシの所に誰も来とらんでな」
フウギが転出届を提出して半年が経つが、未だに後を付けられた様子はない。彼は目前の不快に対して、胸を撫で下ろす態度を示す。
「おいも、陰謀論ってこんなしょうもないんだと思ったよ」
バッグを手に取り、よちよちと、倉庫外のテントへと向かう。二人共々、狂気的な推論を夫婦で交わしていた頃を思い出す。引っ越したばかりの秋は気が気でなく、互いに珍妙な造語を頻発させていた。一時期は精神科医が妻にカウンセリングを受ける構図となっていたが、巣篭もりを終える頃には思考回路も回復していた。
「まあ、
フウギは抑揚の無い声を発しつつ、器用に、掌にこびりつく虫の残骸を払う。結局岶岼には無事に引っ越し、娘とは平温な生活を続けられている。
「神祇省は悪くない」
ヌヌカは星を見上げる。彼らは決して、蛇芭一族に阿てはいない。表面的にはコラツルが、蛇芭一族の混乱の根源となっているが、コラツルは勿論、両親たる彼女らへも、神祇省職員は不当な対応を下さなかった。
「ワシの所に来るこたぁないし、集権地区かどうか、彼らはちゃんと守っとるな」
フウギは神祇省設置法の法文を思い返す。東果国には、宗教的事業を執り行う家計に対してに集権地区が割り振られており、その地区に在住する血縁者を優先的に高い地位に着かせる制度がある。祭祀を司る神祇省は東果国の精神性の根幹を担うとだけあり、違法行為に手を染めることはない。全く持ってフェールセーフな組織ではないが、とフウギは脳裏に、強迫的に擦り付ける。
「あと、おいの方には来ないんでしょお前」
ヌヌカの音声は雑音かかる。テントのポリエステルの擦れ散す音がフウギの耳に障り、再び液晶を顔から離す。
「時間がありゃ来る!」
フウギは携帯を地面に置くと、声を大きくして応答する。
「そういや。元嫁ってどんな奴なん?」
ヌヌカは質問した後、布団から彼の這い出る音を聞いた。暫く彼は応答しない。
「……スズスハ家とは関係ない女性」
部屋を消灯させたフウギは再び布団に戻ると、抑揚を打ち消そうとした声を発する。
「それは知っとる」
ヌヌカの詰問を聞き、フウギは触りだけでも鮮明に思い返してしまう。リノ・ツルイグレ。フウギのように細い、長身の持ち主である。
「……」
フウギは星空を凝視しようとする。フウギは話題となっている彼女を意識しないように努めていた。有精卵を産むことは無かったが、尾を交じらせさえした人物だ。畳やら中庭やら、今は家全てが過去から彼を逃そうとしていない。
「おいより優先度高いって、妬くぞ」
機体の向こうの彼女はネットミームを交えつつ、ツルイグレが何者かを聞きたそうにしている。
「やめてくれ……」
単語一つ一つがフウギの混迷を誘う。ヌヌカの何でもないコメントでさえ、彼は忌まわしい情動を思い起こして仕方ない。
「ん、聞いたらダメだったん?」
ヌヌカは何か質問をしていた。
「ああ!」
フウギは、暴力的に液晶へと吠える。カマキリの侘しい鳴き声が、開いたままの襖から流れ込む。彼はどこか定点を眺めていた。
「終わったらちゃんと説明する。今は出来ない」
息を枯らしつつ、予め脳に用意された語を放してしまう。フウギは再び携帯を見下ろす。
「おいには言えないのか」
「ああ」
フウギは口先まで出た言葉が不毛なやり取りを起こすと察し、新たに適当な感嘆文を発する。里帰りとは普通、最も親しい親族に顔合わせするための行為である。ヌヌカは元妻に謁見する相応の理由が知りたい以上の事を考えていないし、フウギも彼女の思考は完全に把握していた。
「わかった。あと。どうせなら、おいの両親の診察でもしといてくれん?」
相変わらずのペースで、ヌヌカは彼に軽口を叩く。フウギは体力の都合上、これ以上会話をする訳に行かないと察する。
「ワシはもう寝たい、明日言っとれ」
フウギは流れるように電話を切り、すぐさま目を瞑って布団に埋もれた。フウギは、ツルイグレをつとめて意識出来ずに居た。業務について考えようにも考えてしまい、愛娘を想って誤魔化そうにも次の瞬間には彼女を考えてしまう。戦闘機について考えた頃には明日のことなど忘れており、気が付けば茶を飲みに行っていた。
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