3:茜洛都-⑬


 コラツルは自室に着くや否や、リュックからビデオカメラを取り出す。側面部のカバーをスライドしSDカードを手に取り、ノートパソコンへと接続する。I:ドライブのサイドバーをクリックし、サムネイルの表示から見栄えの良いだろう写真を25枚ほど選択する。


 プリンタの接続を確認し、左クリックして『印刷』を押す。印刷サイズはE1に設定し、『決定』を右クリックする。動作音と印刷された光沢紙とがプリンターの隙間から流れていく。その間に彼女は爪サックを嵌めておき、黄色いクリアファイルを取り出す。そうする内に、蒸気とも取れない轟音が鳴り止む。コラツルは写真をまとめて手に取り、一枚一枚ファイルの中へと仕舞い込む。ガムテープを手に取り、ファイルの表紙に貼り付ける。次に油性ペンで『ナザネル用』と書き留めておく。


 次に本命の写真を1枚選択し、サイズをEマイナスいちとして印刷。彼女は瞬く間に操作を終える。面積にして他の2倍サイズである写真を眺め、コラツルはうっとりと眺める。


 蛇人の腕は、長さ一泛の紙を皺無しに運ぶことを想定していない。少し考えた後に軽太を呼び、手伝ってもらうようお願いした。


「わ、大きい」


 コラツルは、彼の発する感嘆文をしっかり耳にする。蒼尾人のように難なく巨大な写真を持ち、難なく指定した机へと運んでいく。机の上に用意しておいたドライバーを手に取り、フォトフレームのねじへと取り掛かる。暫く彼女の耳は、軽太の快活な鳴き声を聞き続けていた。


「お前、本当に免疫どうなっとるんじゃ?」


 ふと、疑問が脳に濾されないまま発される。最後のねじを取り外し、ねじ用の一時保存ケースに入れるところであった。


「マスクとかしてれば良いやつでしょ?」


 軽太は指で彼女の頭先を指す。


「感染はするじゃろ。あと、その写真を中に入れろ」


 右手で彼が指す箇所を触ろうとした。硬く重いその感触から、彼女は一時的に口輪を嵌め直していたことを思い出す。


「退屈で死ぬなら、派手に死にたいかな」


 彼は彼女の指示を聞き、写真を畳の上のフォトフレームへと運んでいく。手に取る寸で、湿った手に気が付き、ハンカチを片手づつにして掴んだ。


「……苦痛じゃぞ病死は」


 彼女は父の学生時代の話を思い返す。医学生にとっては死体より、末期の患者が余程精神に悪いと聞く。


「ま、一度ひどい目には遭ったな」


 軽太は、自らが自然に持つ免疫を見くびっていた時期を思い返す。未知の病気にかかり相応の苛め苦を味わった時の思い出だ。彼の時代では『A型インフルエンザ』など未知の病でしかなく、治癒には入院の上で2ヶ月を要した。

 彼にとってこのエピソードとは、想起するだけ羞恥と自己嫌悪を招くものでしかない。歯切れを悪くしつつも、写真がフォトフレームに収まったことを報告する。


「お前、なんで自分の免疫が機能しとると思う」


 コラツルは更なる疑問を呈しつつ、フォトフレームの方へと近寄っていく。


「?」


 軽太はフォトフレームから退き、彼女の声は聞き取れなかった体を保つ。


「その辺の風邪ウイルスに、お前の免疫が対応しとると思うか」


 コラツルは渋々、バックフレームのねじをはめていく。彼女として言い直すことへ嫌悪感はないが、彼は聞き返す頻度が多くどこか面倒に感じている。


「じゃなかったら、その辺の空気で死んでるって」


 軽太は手持ち無沙汰そうに、近くの座布団へと座る。平均気温や気圧等、彼の知る地球とは僅かに異なる。微弱な感覚の差は体調を崩すのに十分である。


「重病になったらどうする」


 彼女は続いて、対岸のねじの固定へと急ぐように這う。


「それ、コラツルもじゃん」


 座っていた座布団が二つ折りされていると気が付き、展開してみる。蛇人の体系に合わせる都合だろうが、軽太にとっては折りたたみ式ベッドにも等しい存在であった。


「蛇人ビルナ病でも起こしてみろ、ワクチンも抗生物質もないのに」


 気楽に寝転がろうとする彼は気にかけず、彼女は単に重篤な可能性を述べ始める。


「ビルナ病?」


 3つ目のねじを締め終え、彼女は最後のねじを手に取る。軽太は未知の名詞たちへと顔を向ける。


「汽陸族の体内に潜伏するウイルスによって引き起こされる病気。儂らの場合は腸炎として感染する」


 彼が興味無さそうな呻き声を上げるのを聞き、コラツルは彼が早死しないか不安になる。


「……ちなみに、汎用ワクチンってあったりするの?」


 軽太は未だに、この世界の科学水準が判らずにいる。100年前くらいとこそ目星は付けているが、時折古典的なレトロ像から逸脱した技術・概念が出てくる為確認はしておきたかった。


「? 汎用?」


 『汎用』の意味解釈に詰まり、手を止める彼女を見、『やはりか』という顔つきをする。


「うーん……変異したウイルスにも対応できるワクチン?」


 軽太は病原や応急処置にこそ詳しいが、医薬的知識がある訳ではない。徐々に自信がなくなり、強張った表情へと変わっていった。辞書で調べた限りでは、『そのウイルスそのものだけでなく、遺伝子的に周辺のウイルスへの免疫も獲得できる医薬品』。彼は補足として、保健体育の教科書の記述を解釈込みで想起する。それこそ、『A型インフルエンザ』のように貫通するウイルスこそ居るが、汎用ワクチンの開発により予防接種の頻度は有意に下がった。


「……」


 彼女は無言で作業を終わらせた後、彼に写真立てを然るべき場所へ運ばせた。


「カルタ。付いてきてほしい。儂らの地元へ、頼む」


 具体的な要求を躊躇しつつ、彼女は一文節ずつ言葉を発する。


「わかった――え?」


 軽太は、軽作業の頼まれ事に続けるようにして頷いたが、彼女は今の話をしていないと気付く。


「父も儂もあまり良い思い出がないのと、ナザネルも付いていくからな」


 軽太は畳を踏むように起き上がり、コラツルの顔を確認しようとする。


「ナザネル?」


 彼女は一向に軽太の方角を見ることはなく、自前の写真に釘付けになっている。


「カータク」


 彼がナザネルを知らないと思い出し、咄嗟にカータクと言い換える。


「ずっとリョウセイの家に居ても飽きるじゃろ」

「うーん……そうかも」


 コラツルは彼に用もなく、座布団へと体を伏せる。暫くは、コオロギの鳴き声程度がこの場に鳴り響く。写真棚の中の旅客機については先月に立てかけたLas-2のものとは全く異なる表情を持ち、彼女は自分の顔を仰向けていた。


「あのさ、コラツル」


 軽太は一歩、彼女の方へ歩み寄ろうとした。乾いた畳の質感が裸足越しに伝わる。


「どうした」


 一瞬彼の方へと振り向く。腕を半ばまで上げ、何かをしようでもない姿勢へ興味はなかった。


「ぼく寝るね」


 彼は腕を半端に上げた姿勢のままUターンし、部屋を出た。


「おやすみ」


 コラツルはただ写真の方を眺めていた。軽太にとってはその様相も微笑ましい。足元に気をつけながら、そっと縁側を歩いていく。不思議と夜空は黒一色に見えず、義祖父が眺めているような感触に入っていった。


 自身の寝室につき、襖を閉める。予め敷かれてあった布団を触覚だけを頼みに探し、そのままその中へと包まれていく。

 軽太は目をつむった。寂寥とも多幸とも呼べるこの感情が何なのか、彼の意識は判らないままだった。





☆☆






 酉後3時半、全ての支度を終えたリョウセイは給湯器の設定を『水質ろ過』にし、『追い焚き』ボタンを押す。リョウセイは既に裸体を晒し、暗闇の中で寝床の完成を待っている。上服に比べて袴は乱雑に脱ぎ散らされ、部屋の隅へへと投げやりに追い棄てられている。


 リョウセイはつとめて、自身の体を見ないようにしていた。あの、イソギンチャクとカニのキメラめいた指が映るのではないかと恐れ、身動きが取れずにいる。寝床にする都合上、住民へは夜間の風呂場への立入禁止をキツく伝えてあるが、今日ばかりは心底後悔していた。汽陸族の社会通念上、異種族に全裸を見られることは恥ずるべき事柄の一つだ。扉が開けられ、野郎や淑女共に全裸でも見られれば、彼らへ飛びかかるくらいは出来ただろう。


 ――どうせ、気味の悪い生き物でしょ?


 水主軽太と名乗る生き物の声が反芻される。リョウセイにとって、心の奥底を見透かされた気分であった。『ちょっかい掛ける人いる?』とも続いたが、何よりもその言葉が引っかかって仕方がない。彼の顔は特に気味悪く変わり、彼の口やその近辺はアメーバか何かのようにしか感じられずにいる。ふと、立ち上がって鏡を見る。青と白い斑点を映すコズミン鱗だけがそこにあり、口は筒の形を保ったまま、割った竹のように大きく開く。目も円状であり、垂み溶けたような微妙な形状を醸し出しなど居なかった。


 リョウセイは携帯を触り、動画アプリを開く。適当な文字列を検索欄に入れ、検索の上位に出た動画をタップ数する。スワイプが完了すまでの刹那の間、『ニンゲン』と意味を為さない言葉を並べた自分に気がつく。


 動画が流れる。梅に関する動画であったが、彼女は見る気も聞く気も失せて携帯を横たわらせる。本当に気味が悪い。醜く何の魅力もない人間を想っている自身が気持ち悪いし、精神に極めて悪い。彼女の心的世界で喩えるならば、彼女の意識のドアを向こう側にいる。人格の形を取っていない、巨大なミジンコの疎結合のようなものが逃げたがっている。腕を切り落させ、憎悪から叩き潰す程の何かだ。この世の全てに向けられた猜疑心、以上の形容もできない。彼女は大して興味がないし、向こうも彼女と混ざり合いたがらない。たった今日まで、その存在を忘れてさえいた。


 ――だというのに、彼は何だ。何をかき混ぜようとしている? いや違う。軽太ではない。一昨日、昨日にそんな、自己同一性を破壊する何かが現れたことはない。肺が、陸の空気を吸おうと一生懸命に働き出す。やめろ。あっちに行け。二度と、二度とアタシの脳裏に現れるな。アタシを壊すな。


 リョウセイは左手を右手で掴む。蒼尾人の一部は中学生時代、尻尾に落書きして自分を演出する『中二病』を患うという。何度も生え変わる尻尾如き、何しても痛くも痒くもならない。せいぜい脊髄が痛いくらいだ。自身を単なる中二病だと思い込もうと、必死に演技臭い言葉を連ねる。よし、数分もすれば――


『――追い焚きが完了しました』


 機械合成の声が彼女の胸鰭を貫き、体をカエルのように跳ねさせる。次に、側面や底面の穴から泡がポコポコと湧き出す。リョウセイは右手をバスタブの水に漬ける。海水と同じ35度に保たれた水は大気のそれより暖かく、うっとりする質感であった。次に左足から雪崩落ちるように風呂に浸かり、一日ぶりに、口から鰓へと水を濾す。肺を使わない呼吸法はいささか、彼女に心地よさを与えた。


 蓋の取っ手を掴み、空間を閉ざす。水漉しに鰓が慣れた頃には、彼女は何を憂い恐れていたか、忘れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る