3:茜洛都-⑫


 路面電車の中、カータクは歩行の動作を保ちながら、多目的トイレへと駆け込む。自動に閉まっていく扉の取ってを迅速に握り、迅速に鍵をかけてしまう。


 カータクは洗面所の蛇口を踏むように捻ったきり、微動だせずに居た。特段用を足す気などなく、ただ地面にある芳香剤へ舌を向ける行為だけを繰り返す。半端に黒黴びた床を眺め、ふとそこを外すようにして床を躙りつける。


 鏡の中が映り、殴り壊したくなった。寸でのところで拳は横にずれ、ただ、水色に白のタイル状の硬い壁が彼の手を疼かせる。


 自分が理解できない。コラツルに話しても無駄なことは知っていたし、何故彼女に話さんとしたか、自分でも理解できなかった。


 そもそも、生まれた経緯の程度が知れてる自分が、他人に受け入れられる筈もない。ツェラヒラに打ち明けた際には引かれ、疑心から数週間で破局した。コラツルに出会う数日前のことだ。


 唾を吐き捨てる。嫌に舌に絡み、水でも飲もうとした。手元にないと知り、放心とも熟考とも取れない態度をとる。


 車体が嘲るように揺れる。彼は何もかもに嘲笑われている。小綺麗な白いドアも、煤っぽい電球も、何もかもが五月蝿くて仕方がない。多目的トイレに入った自分が憎い。誰かが自分で迷惑したらどうしろというのか。体が邪魔である。とっとと車体の外へ出てしまいたい。放り捨てられて死ぬだろうが、ちょうどよい。生憎、この部屋に窓などないし、あったとて身を投げる気もないだろう。半端な自分が嫌いである。彼など学と色好みだけの存在であるし、彼こそが一番それを自覚していた。初めから虚無と決められた人生である。茶番でしかないというのに、何故こうも不快な思いをさせなければならないのか。本当に嫌だ。カータクにとって、誰も彼も、何もかもが嫌になった経験は数え切れない。どうせ二桁も届いてないだろうと自負こそするも、内心、9桁にも及ぶ回数であると定義されていた。鮮明に光源が見える。顰めた目をしてみる。ヒトデ状になってみえる。――もう、消えてしまうか。カータクは目を瞑ると、湿った床へ背を付けた。寝そべったまま黄色いパーカーを床に擦り付けつつ、蒼白い携帯を見つめては適当なキー操作をする。


 彼は暫く、それだけをしていた。兄が駆けつけてくれる。カータクは憂鬱から逃れるため、後は何処か、時間も空間もない何処かへ消えていった。


☆☆


 杜籠駅に付くまで、ツェラヒラは藍色の彼と言葉での折衝をし続けた。彼女は何度も彼の正気を疑った。話が噛み合わなそうで噛み合う彼が不思議で仕方なかったが、彼女の気質は単なる些事としか捉えることはなかった。


 一方でコラツルは、喧しく小声を捲し立てる彼らを大層不快がり、イヤホンを耳栓代わりにして一切を遮断した。影が彼女の視界をチラつき回ることも目障りであり、彼らの元を離れようとさえ考えていた。



 新幹線に預けた荷物を各々持ち、駅を降りた彼らは最後の会話を交わす。


「んじゃ、ありがとなー」


 コラツルは無言で別れを待った。重いキャリーケースを緩慢に押すツェラヒラが一行から解散するのを見、すぐさま彼女は、誰も気にもかけない彼に近寄る。


「おい、


 名前を呼ばれた彼は彼女の方を振り返る。乱暴に振る舞う彼はスカートが捲れ、脹脛の上部を露出させる。コラツルにとって、彼の挙動はカータクのそれより疲れない。彼は最早、カータクのフリなどしていない。


「ツェラヒラ、お前のこと知っとるんか?」


 彼女は低速で這いつつ、下心から舌を出し入れする彼を見上げる。ナイラス・ナザネル。多重人格を患うナイラス・カータクの『兄貴役』であり、コラツルとしては今の彼の印象が強い。


「……知らねーな!」


 ナザネルは快活な声を上げる。頻繁に荷物を持つ指を貧乏揺すりさせ頻繁に刺激を与える様は、弟に比べても女性に近い。


「教えたらどうじゃ?」


 コラツルは、単に彼の動機が理解が出来ずにいた。

 

「ほらさ、無知シチュっていいじゃん?」


 ナザネルは駐車場への方角へ向かおうとし、すぐ止まった。尤も、ナザネルは元カノ等に自身の正体を教える気など無かった。ふとナザネルはケースの中身を顧みる。黒く湿った外套を桶水の中、洗濯板と素手で洗濯することを想像する。愚かな弟の後始末など面倒事以外の何物でもないし、述べ一ヶ月はカータクと名乗る必要のある自分が厭である。


「意味が分からん」


 彼女はKhRの方へ進もうとする。彼がこの性格であることは承知しており、まともな返事をしないだろう前提で会話を進めている。


「てか自動車乗らね? 面倒だろ交通費」


 ナザネルはコラツルの方を唐突に向く。カータクには出来ない気遣いであり、彼もフットワークの軽さは自負している。


「頼むか」


 コラツルは考えるまでもなく、彼の方へ向かった。



 県庁所在地たる杜籠市は岶岼市のドライブとは大きく異なる。巽頭そんとう平野に位置するが故に、坂やカーブは少ない。コラツルの体に遠心力がかかることはなく、最初36分程度は退屈そうに寝転がっていた。退屈なドライブ区間に加え、昼間は手足を使い続けたが故、二重に疲労が蓄積する。言葉を発するどころか、並走車両をカメラで撮る気さえ無かった。

 

「カータク、何があったんじゃ?」


 山間部に差し掛かり、本来の刺激を浴びたコラツルは思い出したように声を出す。一~二等星程度の星が彼らへと顔を出していた。


「……さあ」


 ナザネルは彼のした体験を、口語へ起こす気さえ無かった。家族のコンプレックス一つで折れることは珍しくもなかったが、流石にああもメンタルが弱いと辟易さえする。主人格でもない彼にとっては『たかが肉親』程度の認識でしかないし、カータクの家族関係に固執する習性へは最早口を出さないようにした。


「いつまでお前で居るつもりだ」


 蒼尾族の男性は解離的に振る舞うものである。他人種と比べてロールプレイは得意だし、色覚以外ならば人工的な刺激下でも集中できる。しかし、ナイラス・カータクはその特性が極端に出ている。


「知らねー、一生俺様でありたい」


 ナザネルは左足でブレーキを踏む。カータクは一ヶ月以上、現実世界での生活を押し付けることも珍しくはない。ナザネルとしては心が折れるたびに面倒事の全てを押し付ける弟が厭でしかない。


「そうも言えんじゃろ」


 コラツルは信号待ちの強い慣性から、四肢で席にしがみつく。ナザネルの運転は弟に比べても粗略であり、コラツルからすれば蒼尾族女性のする運転に感じられる。


「考えたくねー」


 葵色の信号になり、ナザネルはすぐに車体を走らせる。彼にとっては同人誌のネタを探す方が楽しいし、機械的に絵を描く愚弟より余程、有意義に時間を使っている。どうも側方の紫信号を見る癖が付いたようであり、既に彼はアクセルに左脚を運んでいた。


 暫くは沈黙が続く。コラツルは彼の運転が危なっかしすぎて、何かに集中する気も起きない。運転席側の窓には崖に設けられた、棚状の居住区が見えだす。


「3週間後、地元に帰省するんじゃよな」


 そろそろ市街地だと考え、コラツルは久し振りに声を上げる。 


「ほう」

「儂ら行きたくないから、付いて来てほしい」


 宇沽野県辻天つじあま市、月鵜阿地区。コラツルにとっては因縁深い土地でしかない。


「んあー……別にいいけど。親の許諾とか取れるん?」


 内心ではほぼ二つ返事であったし、彼女の父は断らないだろう。しかし、高嶺の花とでも言うべき彼にとって、下賤な思考をばら撒く自分なんぞ不審者以外の何物でもないだろう。ナザネルは謙遜しつつも、父を強く敬遠している。


「絶対取れる」


 コラツルは既成事実を事実のように発する。月鵜阿地区とは彼女のみならず、フウギにとっても悪縁を思い出させるだけの土地でしかない。既に交流のあるナザネルならばいっそ付いて行ってほしいと言うだろう。


「りょーかい」


 また暫くナザネルは運転に集中する。雨を感知し、ワイパーを作動させる。市街地に差し掛かった頃だった。


「……親ってクソじゃね?」


 クラクションに地に染み込まない雨音にが交叉する中、次に場の沈黙を破ったのは彼であった。ワイパーの無機質な音が車内を埋める。ふと左を見る。カーナビの案内は最早機能を果たしていた。


「親って。ゴミよな」


 一時の寂寥感の後に、ナザネルは文節でハキハキと区切って伝える。水溜りをタイヤが踏み散らしたが、特に彼は言い直すことをしなかった。


「地雷って話か?」

 

 コラツルはわざとらしく大声を上げる。彼女は特にナザネルへ興味を抱いていない。特に理由もなく親を嫌う習性は今更である。


「リアルの話よ」


 スズスハ家の旧套ないし、その禍害は彼らの耳にも伝わっている。リョウセイも家絡みの問題を抱えていたというし、どうしてこうも親という存在は根を貼るのだろうか。


「行政の能力不足じゃろ」


 コラツルは親族を恨んでなどいない。非協力ゲームである以上は共通の敵を叩くことは珍しくもないし、彼らの所業は今になっては当然だった。一方で、蛇芭一族、或いは神祇じんぎ省の管轄能力に対しては怨讐の念さえ抱くし、もし協力者が居るならばテロでも革命でも起こす自覚さえあった。


「虐めっておかしいよな」


 ナザネルは声を出す。実のところ、彼はフロントガラスの先の景色を見失わないことで精一杯だった。理性を介さずに自然に出てきた、言葉のような鳴き声であった。


「極端な話、戦争もそうじゃろ」


 彼女は無難な音程を発する。協力関係となる人数が多いと仲割れを起こしやすい。コラツルにとって、虐めも戦争もそれ以上の意味合いを持たないし、同列の存在だ。とはいえ、彼にとっては根深い問題である。理性を介せば彼の意に沿うことも出来るだろうが、彼女はナザネルを前に理性を取り繕う気はなかった。


「よく判ってんな」


 ナザネルは脊髄反射の会話も辞め、後は淡々と帰路へ向かっていった。

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