3:茜洛都-⑧

 酉後2時半。微風を前から浴びる軽太の後ろで、僅かに朱い地平線が後部で煌めく。

 本来小学生ならば寝る時間であり、不要の外出となれば補導対象でしかない。リョウセイは真横の奇妙な存在を極力、意識しないように努める。

 夕方からの軽太は非常に大人しい。宿の住民とも打ち明けたし、今となっては日常会話の話題に食らいつく意気込みを見せている。リョウセイは彼の事など忘れ、ふと外出したくなっていた。

 さて夜風に当たるぞと意気込む玄関にて、彼女は軽太の方から同伴を申し出られた。断ろうとする刹那、朝と昼間の奇行を思い出し、同行を許可する体で監視することとした。


 彼女は『人間』について詳しくないが、普通はああも理不尽な思考を持つ存在ではないだろう。自分に言い聞かせるようにして、ただ前を歩く。汽陸族の体の構造上、地上ではバランスが取りにくい。腕を垂らし左右へ揺らしつつ歩く蒼白の塊は、軽太には古典的なゾンビを連想させた。


「どうして、山の中にいるの」


 切羽を詰まらせる程度に肌寒い中、軽太はふと口にする。白未満の僅かな湯気が口から放出される。


「さっき言っただろ」


 リョウセイは強い苛立ちを覚えたが、気に障っていないかのように前へ進み続ける。


「住んでて苦労しない?」


 軽太は彼女の表情を解すことはない。笠を被って居るならば尚更判別不能だ。音色からただのツッコミである解釈し、単に説明を加える。


「めんどいな。冬が」


 二人は白い線の前で立ち止まる。リョウセイの両腕はだらしなく下へ垂れ下がる。


「アタシ、冬眠するから外出るんだけどさ、水の中のがマシ」


 彼女は右手を喉板へ向ける。過去数回の会話から、対人間では鰓を指すより意図が伝わりやすいと判断した。


「? どういうこと?」


 リョウセイは左右へと尾を引きずるように、横からの往来を確認する。


「汗かくんだけどさ、乾燥してるから」


 軽太に行くぞと左腕で伝える。腕にバランスを崩し、一瞬カエル歩きのようになる。一調理師として、道路で手や袖を汚すことは本意でない。カエル歩きのようになりながらも、意地でも足のみで着地する。軽太はその奇妙な振る舞いへ、何とも言えない笑いを向けた。


「凍っちゃうのかな」


 申し訳なく、彼は彼女のやや左を向いていた。視線の先の道路標識は意味こそ理解出来るが、背景の垣根よりも余程、異国情緒を放っていた。


「凍える方」


 リョウセイは硬い舌を見せるように話す。


「?」


 彼女の軽い羞恥心をよそに、軽太は首を傾げる。コオロギの音がよく澄み渡っており、彼女の声がよく聞こえずに居た。


「凍らないんだよ、アタシらの粘液……!」


 胸鰭を力ませる。苦い稚魚が口に入り込んだ気分だった。彼に無関係な腹立ちに考えを巡らせ、極力彼に苛立たないようにする。数秒、革靴の底と、草鞋の底との音のみが木霊する。


「どうして、そこまでして……」


 軽太は彼女の様相へ恐る恐る、探るようにして話をしようとする。


「同族はクソだから」


 一瞬立ち止まる。それ以外の理由はないと、リョウセイは苦味を吐くかのように言い放つ。


「――まあ、緑の連中が冬眠すんのは嬉しいな」


 息を整えた後、再び歩を進める。軽太にとっては溜め息をついたように見えた。


「冬眠?」


 軽太は答えを想像し、引き続き鳴き声を奏でるコオロギに聞き入っていた。


「数日に一回しか食わなくなるし、基本部屋から動かんくなるから」


 T字路を右に曲がりながら、リョウセイは何でもない常識を話す。彼は冬眠の全容を知らないことは想定しており、驚くに値しなかった。


「冬眠するんだ」


 思わず、彼は口を開いた。


「するぞ」


 リョウセイは彼の驚嘆を無視し、無機質に常識の食い違いを訂正する。蛇人族という連中は基礎的事項を伝えない。やはりといった表情で、彼女は一瞬斜め下を向く。


「ってことは……夏は嫌なの?」


 なんとなく、軽太はカーブミラーを見ていた。中途半端な暗がりを以上の情報はなかった。


「そうでもない」


 リョウセイは気持ち上を見る。疎らながらの星が彼らを見下ろしている。彼女に合わせ、軽太は脚を止める。


「よく行けるから好きだぞ、山」


 軽太には一瞬、変わらぬ暗晦を見ているだけに感じた。不自然に欠けた空の海から、彼女が何に着眼しているか心で理解する。


「好きなんだ」


 ほくそ笑んだ。『私は海の魚です』という外見から発せられたことが、面白くて仕方がなかった。


「景色良いからな。星もよく見えるし」


 軽太は横で、興味なさげに聞き入る。実のところ、汽陸族の視野は人間以上に多くの星を捉えている。というのも、彼女たちの僅かな光を感知する分には都合が良い。

 また色覚の精度こそ非常に悪いが、僅かな色もよく見える。赤、黄色の星こそ一緒くたに見えるが、青い星はハイライトされたように目立つ。リョウセイにとって夜空とはカラフルな代物であり、気分転換に外に出ることも増えた。


「そんな見えないものなの?」


 無関心よりの意気込みで、軽太は適当な質問をする。熱意を否定する気はないが、彼にとって天文とは、方角を算出するため程度の存在だ。


「あんま海辺って見えなくね?」


 汽陸族の知覚は海底と、オマケ程度には夜の陸上に特化している。高い感度の桿体細胞が仇となり、海底は勿論、海辺で見上げる星は『ボケ』が生じてしまう。高湿度の生み出す光の撹乱や、なにより街頭の光が彼らの目を狂わせるのだ。3等級ですら目を凝らさないと見えず、特に4等級以上の恒星は視認さえ出来ない。北斗七星の脇には何もないしい、リョウセイもアルコルについては詳しく知らなかった。


「……うーん?」


 軽太は『海辺』から大雑把な風景を想起しようとし、微妙そうな顔をする。軽太にとって『海の光景』とは、浮標一つない離島の光景のことだ。


「いや、アタシらだけだったわ。忘れて」

「?」


 リョウセイは彼を誹る寸前、人間なるものの知覚特性を思い出した。軽太は当然、訳の分からないような顔を彼女に見せる。


「海辺ってどの辺?」


 前後に数言ほど感動詞を漏らす。困惑の表情こそ浮かべていたが、彼女に読み取られることはない。蛇人と向かい側ですれ違う。軽太は何度か、何気なさげに通る彼らを見ており、今更珍しいものではなかった。


「そりゃ、漁村の海とか――」


 蛇人の彼が歩くのにつられ、二人は再び歩き始める。リョウセイは地元こと、山苅さんがるを思い出す。地元住民には嫌な思い出しかないが、風景は確かに良い場所であった。波止場に入港し、ボラードにじたくを停める様子がありありと浮かぶ。よく短冊状に船が並んでおり、乗り慣れた漁船もそこにはある。確かに温情のある空間であったし、棄てるべきものではなかったのやもと若干の後悔を思い出し始める。


「漁村」


 軽太は風が、自身の髪が目に吹き付けるのを感じ、咄嗟に顔を両手で覆う。

 彼の言葉にはイントネーションが無かった。訓読点のみが語尾にあるその有り様に何か、リョウセイは憂慮を覚える。


「……は? どこ出身だよ」


 その内容を口に出そうとしたが、彼女は不自然に、胸鰭を前に突き出していた。


「日本」


 彼は無機質な声を続ける。悍ましい程に抑揚がない。


「本気で言ってんのかよ!」


 リョウセイは口をゆうに震わせ、両手は今にも跳ね飛べる程に広げる。彼女は自身の怒りに気が付いていない。本能的に、得体の知れない感情を隠蔽していた。


「飛騨。山の中の」


 相変わらず彼は、感情の籠もっていない声を発した。軽太は彼女の不穏さから、微妙な感情しか出せずにいる。


「なるほど――」


 リョウセイはわざとらしく、頷く振りをする。慣れない挙動から手から着地し、数ミリ秒ほど呻き声を漏らす。


「?」


 軽太はただ彼女に無垢な顔を見せる。人間でもない彼女にとっては不快感の塊でしかなく、この奇天烈さへは本能が理解を拒んだ。


「山の中って、景色がよく見えるよな」


 リョウセイは差し出された左手を掴む。改めて彼を見る。小学生ながら上品で、結構な恵体だ。彼女は12歳と聞いたが、こうも背の高いものだろうか。


「そうだね」


 ジロジロと見つめる彼女を他所に、軽太は微妙な塩梅の感情を声に込めていた。山では地を這うような湿気がないし、環境光も著しく少ない。せいぜい手に持つ懐中電灯に、ホタルの群れ程度だ。空に近いだけ星もよく見える気がする。彼女の言わんとすることを、口にせずとも掴んでいた。


「ただ、汗が酷いのはやめてほしい。部屋が汚れる」


 ふと、ポケットからメロディが鳴る。リョウセイは携帯を取り出すと、慣れた手つきで応答する。手癖で彼へ手を向けていた。彼は言わずとも、彼女の通話には参加しないよう心掛けた。


 軽太がすぐ横の公園に寄ってもよいか小声で尋ねるので、リョウセイは顔を上下に向いて彼へ指図した。早急に電話を終わらせると、遊具に佇む彼の元へと向かっていった。



「終わったぞ」


 滑り台に座る中、リョウセイの呼びかけに応じ、軽太は駆けてゆく。彼は気が気でなかったが、気がついていなかった。


「どうしたんだ」


 彼女からして、息を切らす軽太は異様でしかなかった。彼はどこか情緒不安定で幼く見えるが、それを加味してなお不自然な行動であった。


「なんか、さっき怒鳴ってなかった?」


 不穏を垂れ流す彼の質問を聞き、リョウセイは電話の内容を思い出す。嗚呼。ツェラヒラの奴は本当、自惚れが過ぎる。彼女はそそっかしいのだが、まさか抗夜行薬を飲み忘れるとは考えてもなかった。忘れ去っていた怒りが少し、彼女の両手を広げさせていた。


「あー……あんま良い話じゃなかっただけ。聞かないで」


 リョウセイは無表情で彼を促す。軽太は何も聞かず、ただ彼女の帰路へと付いていった。


 軽太はただ、つまらない景色を歩いていく。彼は不穏を覚えていた。リョウセイと他愛の無い話をするうちにその感情は、玄関の光を浴びる頃には内容さえ忘れていた。

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