3:茜洛都-⑥


 朝食の時間まで、軽太は携帯ゲーム機を触っていた。

 Web上に公開されたゲームを数個かじっていたが、概ね陳腐か悪趣味かの二択であり、どちらでもないものについても、文章の比率が多いか、使用すボタンが多いかの二択。費用対効果が釣り合わない。ゲーム機はスズスハ家に無いし、買って貰うのも烏滸がましい。故に彼は手先での娯楽を断念していた。

 

 ところが、手元のゲーム機はどうか。機械音痴気味な彼でも手に取るように操作が判る。液晶上の若干の不都合も一瞬で調整でき、手間取る場面がとても少ない。

 彼は時間を忘れていた。リョウセイの怪力さに戦きもしたが、今となっては気にもならない。有意義に暇を潰したのは今日が初めてだ。



 朝食をリョウセイに配膳された際、彼は度肝が抜けた。こうも、茶椀の中にグロテスクなものを見せられると考えてもいなかったのだ。


 左手にあるそれを一旦お盆の外に追いやり、続いて山菜ご飯や味噌汁を時間稼ぎとして平らげる。意地でもこの国に出される昆虫が無毒無害だと考えたくはなく、毒虫か何かだろうと考えていた。

 

 味噌汁を底まで飲み干した後、テーブルの上のそれへ緊張混じりの溜め息を吐く。彼は昆虫を食す機会を多く有していたが故、昆虫食の比率が高い東果国の食事に抵抗がない。ただ、たった今お目にかかる、ワラジムシの酢の物だけは別であり、今まで舌に入れたことがない。

 目を瞑り、目の前の黒褐色を何とか噛み潰す。箸を握る最中、もう片方の手は腰掛け椅子の角張った感触だけを覚えていた。

 初めは溢れる血リンパ液に苦みこそ覚えたが、2、3回箸を運んだ後には、サクラエビにも似た食感への好感が勝った。最終的に彼はおかわりまで要求し、周囲の人は彼が微笑む様子を奇っ怪がった。


 食べ終わった後も、ただゲーム機で遊んでいた。近くに来た数人を誘いマルチプレイを行ったり、彼の考えうることは全て行った。途中、彼らもバイトや大学で入れ替わり、軽太も適当なタイミングでゲーム機の電源を切る。喪失感を覚えながら、右往左往と適当に、リョウセイの部屋を探す。

 15にも満たない彼にとって、甘える相手の喪失は相応にストレスであった。

 最早強がる気も、気張る気も失せ果てていた。



 リョウセイは背もたれを掴み、仮眠を取っていた。数字に強い方でもない彼女にとって、計簿の整理は重労働だ。とりわけ『消費税13%』は強敵であるし、食材費は0%、他に軽消費税5%があるのだから脳が爆発する。インターネットに公開されているツールを使おうとも考えたが、数字を睨むのも相応に面倒であり諦めた。

 二台の加湿器が最大出力で働き、彼女の部屋は霞がかっている。料理と山歩きと部屋の整備だけしていたい。光源も乏しいが故、視界は無に塗り潰され、彼女は暗がりと同程度の安らぎを得ていた。


 衝撃音が彼女の肌に突き刺す。彼女はのたうち回るように数回跳ねた後、音源の方を見る。


 黒い陰と共に誰かが入り込んでくる。霧にも等しいそのミストは彼に纏わりつき、彼女の閾下の速さでリョウセイの胴体を締め付ける。


「ひまーー」


 呆気に取られていた。水主軽太であったが故に、リョウセイは数秒だけ自身を疑っていた。


「あ、なんだいきなり。ゲームあるだろ!」


 彼が異常名だけだと気がつき、ただ刹那的に怒鳴る。理解が出来ない。昨日や今日の朝の彼はこうも幼稚ではなかった。


「取られちゃったー」


 リョウセイの機嫌などいざ知らんと、彼は甘える素振りだけを続ける。


「……まあ、あいつらそういうやつだし」


 空っ風が混ざる部屋の中、リョウセイは稚児の対応をする保育士のような気分を取り繕う。ふと首を他所に向ける。ドアが自然に閉まっていくのを見、強引に自分を安心させる。

 

「なんか話してよー」


 軽太は恐慌に遭ったような目をリョウセイに向ける。乾いた水滴の付くその表情は鮮明な像として視神経を通る。


「いや、おい。本当どうした――」

「なんか話してよー」


 彼女はその狂気的な圧に負けていた。その骨のある触手のような感触を払い退けることも出来ない。とにかく彼が厭になった。


「知らんって! はい向こう行って――」

「まーまーーー」


 彼女は苦いイソギンチャクを吐き出すような、噎せた様相を見せていた。


「……良いもんじゃないけどな、親なんて」


 リョウセイは、彼そっちのけで嫌悪感を爆発させる。肉を薄皮で包んだような生命体に構うことで精一杯であり、過去の感情を隠す能力さえなかった。


「……」


 彼は息を荒げ、タコのように彼女の顔を見やっている。返事をする能力を喪ったかのようだ。一瞬、腹の方を向いたが、やはりタコのように腹を膨張収縮させており、結局彼女はにらめっこをする羽目となった。


「うん。でしょー」


 軽太の腕は彼女の膝から数歩離れ、続いて漆喰の壁の粗に揉まれる。無言で手が傷む素振りを見せる。

 リョウセイにしてみれば相変わらず、彼は、幼児退行の素振りを見せているが、本人としては冷静に暴れた自分を卑下している。熱の籠もった、冷つく空気が、彼の肌に纏わりついて仕方がない。


「どんな家だよ、お前……」


 彼は腕を広げると、目を瞑って腹を膨張させる。暫く膨らませ続けた後、ゆっくりと腹部に溜まった空気を吐き出す。リョウセイからすれば、それこそタコのようであった。墨を吐きつける彼らが脳裏に浮かぶ。


「んまあ……パパとママが偶に家返ってくるくらい?」


 軽太はキョトンと首を傾げる。既に冷静さを取り戻したつもりで居た。


「……」


 リョウセイはただ黙っていた。鰓も鰭も手足も呼吸程度の脈動しかせず、ただ突っ立っていた。


「ぁあ……」


 軽太は押し黙るリョウセイを前に、両手を朧気に、手首を胸元に当てつつ重ねる。軽太としても自分の言い分が厭な気がしてならない。


「全然判らねえ」

「うん」


 軽太は既に、謝罪して逃げたい。こんな話題を出すべきではなかった。逃げたい意志とは裏腹に、虚しく体操座りをしていた。


「家族が分からん、アタシとどんだけ同じなんだ、パパとママって概念――」

「――うん?」


 軽太は首を左右に振る。見知らぬ部屋であり、時計の針が無機質に鳴っている。彼の尻に敷かれている床は緋色のカーペットで、

 彼は自分が何をしていたか、あまり思い出せていない。ただリョウセイを頼ろうとしていた。それ以上の記憶が特にない。


「親の仕組みから違ってるんじゃないの、生物とかそっちで」


 リョウセイの話しぶりから、大体のことを思い出す。概ね自分は、家族に関するPSTDめいた発作を起こしたのだろう。

 彼は家族の存在について、極めて懐疑的だ。両親と疎遠であるが如きで幼児退行を起こす自分が不思議で仕方がない。


「まぁ……親は違うだろうね」


 発汗未満の微熱が彼の体を這う。現状、彼女の話にはあまり興味がない。


「つうか、アタシが知りたいな」

「?」


 混沌に陥っていない、純粋な混乱を見せる軽太を前にして、リョウセイは、目線を合わせて素直に尋ねる。

 手を差し出すと、彼は掴んで立ち上がる。先程まで喚いていた幼生の生き物だとは最早思っていない。


「人間って、どんな奴だった?」



 軽太は椅子のマットを沈ませつつ、リョウセイの話を聞く。部分部分、声質上聞き取りにくい部分があり、何度か訊き返すこととなったが、彼女は親身に、丁寧に説明を続ける。


 この世界に於いて、『人間相応の存在』は数多といる。例えば、リョウセイをはじめとした汽陸族に、コラツル等が含まれる蛇人族、カータクら蒼尾族等。このように、文明を築く程の知的生命体は『人類』と定義されているし、互いの生理的挙動や精神性を理解できずとも了解はしている。


 彼らは断じて、絶対的な存在ではない。

 

 一方、軽太のかつていた世界における『人類』とは、人間ことヒト以外を指さない。ヒト科まで視野を広げた所で、ホモ・サピエンス以外は全てドラゴンと同じ、伝説上の存在だ。

 確かに、人間から外れた『人類』は居たのだが、それでも人間が非常に権威的であった。故にヒトとは相対化が不可能な存在だったし、軽太も自身を相対化できない。

 結局彼は「人間とは何か」については、申し訳無い気持ちで頬を緊張させつつ、判らないと答えた。彼女は落胆していたが、彼に鰭の動きが伝わらないのは僥倖であった。


 さてリョウセイは部屋をウロウロしつつ、自身の話を続ける。彼女は顔こそ平坦であるが、軽太は何とも言えない領域に負の感情を感じ取っていた。どうも穢い話に聞こえて仕方がない。途中、愛想笑いと真顔のループとなり、最早適当に聞き流していた。


「――んでまあ……おかんになったんだよな。次女」


 椅子のクッションに軽太は手を沈ませる。やや彼の体は弾んだ。


「『おかんになる』って?」


 彼はリョウセイの背鰭を見る。聞き取れていた自信はあったが、意味がよく理解できない。


「え、そりゃ。そのままの意味だぞ」


 自身の木机に埃が掠るのを見、リョウセイは払いのける。


「変わらないでしょ、ママは」


 軽太が首を傾げる中、彼女は気に停めていないかのように腕の突起を見やる。軽太の目では、その突起が犬かきに見える。


「あー……そこから食い違ってたか」


 リョウセイは本題を思い出した。彼女は人間を知るという体の雑談を繰り出していたし、椅子で首を傾げる彼もそこに疑問を抱いてはいない。暫く、大きい瞳孔が軽太の左右を見渡す。瞬きもないその姿は軽太にとって印象的だった。


「アタシたち、家の長なんだよ。親権あんのが。爬虫類共と違って」


 軽太に伝わるだろう言葉を吟味し、恐る恐る口にする。軽太は大口を開く彼女の、上下だにしない舌に少し惹かれる。胸鰭や鰓、第一背鰭といった外面的特徴へは最早気を留めていない。


「家父長制……?」


 彼女の体内に見とれつつ、彼は恐る恐る、言い慣れない単語を口にする。小学校の歴史の時間に聞いた言葉を暗唱しただけで、特にその深い意味内容は意識していない。


「ああそれだそれ。家父長制っつうか、家長制」


 リョウセイは嬉しそうに首を上下する。彼女も中学校の社会科に聞いた言葉を暗唱しているだけだ。再び、すぐ近くにあった椅子の背もたれに抱きつくよう座る。


「長子、次子って順で。早い方の名字になるな。同じ順だったら男の方」


 リョウセイの説明を、軽太は『車枝を継ぎ足すようなもの』と解釈した。


「アタシ、そこの長女」


 彼女は自分の腹を指そうとしたのち、顔の方へと指を向け直す。軽太は二つ返事を返す。


「ホンットさ、子宮から出た順で争うってクソじゃね? 数秒違うだけじゃん」


 軽太からして見れば、リョウセイは愚痴っぽい。先程から家族への僻みに聞こえている。


「双子なの?」


 彼は適当な質問をし、彼女から受ける負の感情を薄めるよう心がける。


「いや三つ子」


 彼女は四本指の右手のうち、第四指を折りたたんで3を表現する。


「そりゃ……なんてレアな」


 リョウセイの眼力が強まる。反射的に鰾に圧を掛ける。


「稀じゃな……ああ」


 彼女は、彼のな言動にツッコミを入れようとした後、『人間では一人っ子が普通』であると気が付く。


「……?」


 リョウセイは疑問に応えるべく、自身の子孫に関する生物学的な説明をする。

 『汽陸族は、三つ子が普通』。普遍的事実であるが、軽太にとっては異界の門である。


「そういや。夫? っているの。リョウセイさん」


 彼は異常な事実を噛み締めた後、別の話題を振る。彼にとっては『夫』なる単語も言い慣れず、使い方は正しいかと彼女の顔を伺う。


「……次女に譲ったよ」


 軽太は彼女の顔に引き込まれる。無表情を貫く彼女に見えないほど、悔しげな表情だった。


「なんでアタシがいるってだけで、三男が虐められなきゃいけないんだ」


 リョウセイは自身の座る椅子の背もたれを殴打する。湿った衝撃音が部屋の湿度に希釈される。


「この代で滅びちまえばいい」

「あの――」


 軽太は立ち上がろうとしていたが、半端な地点でフリーズした。常識上何か言葉を掛けるべきであったが、彼女に何も言えずに居た。


「どうした」


 リョウセイは彼の挙動を訝しんでいる。手洗いに行きたいだけだと思いたかったが、こうも数秒同じポーズをされると気になって仕方がない。


「……なんでも」


 軽太は余計な事を言うほうが失礼だと割り切り、諦めて席へとつき直した。

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