2日目

3:茜洛都-⑤


 軽太は何時間、目を瞑っていたか覚えていない。眼精疲労も眠気も打ち消えたというのに、夜明けの瞬間がやけに想起出来る。

 目覚まし用のアラームが鳴る。彼は鮮明な寝ぼけと共に、携帯の画面に表示された『アラームをオフにする』のボタンを押す。中華風に酷似した様式のランプを点け、軽太は寝そべっていたベッドに腰掛ける。

 奥の襖を目視した時には、ここが見慣れた場所でないという認識を取り戻していた。窓から後光が差し込む。朝になった今、窓の先の光景は彼に郷愁感を覚えさせる。諦念にも近い感情だが、軽太は言語化出来ずに居た。彼の人生経験として、諦めには良いニュアンスを内包していない。瓦や茅葺が屋根として光沢を見せるその情景は単なる、不思議なもの以上に具体化されていない。心地の良い未知を前に軽太は暫く、うっとりする。


 空腹感のもと、彼は部屋の外へ出る。部分部分が剥がれた漆喰の壁は軽太に『レトロ』の3文字を思い出させる。巾木を目印に、適当な方向へと進んでいく。早朝特有の空気感は軽太にとって心地良いものだ。誰も居ない、明るい時間帯。冷めた太陽光の感覚を彼は良く覚えている。スズメやハクセキレイ、極稀に獣が目に入る程度の空間。誰にも気を掛けなくてよい早朝の一、二時間は彼にとっては最高の一時である。

 

 軽太は玄関にある靴を手に取り、かかとに手を伸ばす。


「おはよう」


 聞き覚えのある声であった。軽太にとってそれ以上それ以下の声ではない。


「おはようござっ――あ!」


 挨拶を返そうと振り返った途端、軽太はすべてを思い出した。微妙そうな顔でこっちを見る人はリョウセイ。汽陸族と呼ばれる種族の女性で、入間荘のオーナーである。


「朝から外出る奴が居るか」


 リョウセイはこの程度の奇人には慣れていたが、彼に対しては落胆の表情を見せていた。


「蚊に噛まれた跡が痒いなって」


 軽太は彼女の表情などつゆ知らず、出任せに会話を続ける。


「蚊取り線香ならうちにあるよ」


 リョウセイは腕でぐるぐる巻きのジェスチャーをする。冷淡とした微風が彼女に纏わりつく。


「一本ください」


 軽太はそれを筒を指し示していると感じ、右手を差し出す。


「スプレーだろそれ」


 跳ね逃げるように握る動作をしていた。鰓が緩む。変な人に見られてないか不安になる。


「んじゃあロープ」


 彼はもう片方の手も彼女に差し出す。今更、寝ぼけて外出しようとしたとは恥ずかしくて言えず、必要もない笑顔で意図を誤魔化す。


「自殺幇助なんだが」


 リョウセイは彼に悪意を感じた。無尾類とも魚類ともつかない、アメーバ状の顔が彼女を焦慮させてくる。醜い外見を抜きにしても、彼の陰間めいたペースからは、無垢な悪どさが読み取れて仕方がない。


「崖とか登るのに必要じゃないですかー」


 彼女の鰓へ呼応するように、軽太は手を広げる。実の所、彼はリョウセイをからかうのが楽しくて仕方がない。スズスハ家は些細な冗談が通じないし、カータクはブラックジョークの応酬が聞くに耐えない。


「やっぱ自殺行為じゃねえか。やめろ」


 リョウセイは地団駄を踏みつつ彼の方へ近づいていく。


「あるんですね――」


 軽太は本意など完全に忘れており、ただ雄弁に口を動かしていた。

 ふと、リョウセイに腕を握られる。気が付いた頃には彼の体は、彼女の両腕でホールドされていた。


「こっちに来い」


 リョウセイは軽く彼を持ち上げ、共用部屋の方へと連れ戻す。彼が蒼尾族に似た平熱の持ち主だと初めて知る。二度と使うことはない知識だろうが、感慨深くて仕方がない。


「離してよ、変態!!」


 必死にリョウセイの拘束を解こうと、腕を上下左右させる。彼の両腕にリョウセイの鱗が擦れる。ゴムのような質感の腕が気味悪くて仕方がない。


「はい、戻った戻った」


 胸部への接触を厭う彼を不思議に思いつつ、彼女は抵抗を許さず部屋へと連れ戻す。

 開放された彼はもう抵抗する気もなく、ただ荒い息と汗をカーペットへと流していた。




 早朝、酉後11時半。新把あらは空港のフライトスケジュールに乱れはないようで、野外の自由見学スペースからは『東果航空』のロゴをした垂直尾翼が確認できる。コンクリートを下に敷くシートは、四隅に置かれた荷物とコラツルの四肢に挟まれつつ、淡い風によってはためく。


 幼い頃、彼女はフライトスケジュールを暗記していたという。取り分け、国内のフライト時刻は現在でも暗唱できるという。蛇人族は大体偏狭な記憶力を持つものであり、今更彼女の過去に大した関心はない。ツェラヒラは飛行機近辺の車を器用に、タブレットのカメラ機能を用いて録画している。操縦者や乗客がガラス越しに確認できる分、ただの鉄屑より余程、気分が良い。カータクは言葉も意志もない乗り物が苦手である。分屯基地に行かされた愚痴を聞かされた事が記憶に新しい。


 嗚呼。花柄のシートに寝そべり、黙々と一眼レフカメラを機体に向ける朴念仁さえ居なければ、このような暇を覚えていない。カータクも少しくらい我慢すればよいのにと、彼女は憤りを舌と脚に隠す。あと1時間半、定点観測の苦行が続くというのだ。適当に空港でも歩き回ろうかと考えたが、誰も居ない空港内部など不気味の極み。もう寝てしまいたい。轟音の前駆が嫌に耳へ入り込む。耳栓を持っていくべきだったと、ツェラヒラは深く、後悔する。


「やはり、飛行機は自分の手で舐め回すに限る」


 ふと彼女は口を開く。10分前からずっと、彼女は位置取りを変えていない。


「ライブカメラ、見たことある?」


 とうとう苦言を漏らしてしまう。動かないならば公式サイトで良いだろう。茜洛に行った心地がしない。彼女としてはカータクを連れて老舗でも巡りたいものである。


「ここのライブカメラ、ゴミじゃぞ」


 コラツルは彼女の質問を一蹴りする。


「ゴミって……」

「使うに値しない」


 コラツルは語義を説明する。目尻に力が入っていた。ツェラヒラもライブカメラに関する悪評はよく耳にする。『茜洛都のライブカメラは低品質』という声言は。故に彼女の憤った態度が判らずに居る。


「走行事故が起こるのが嫌なだけじゃろ、どうせ」


 彼女にとって、新把空港のソレは特に目障りかつ低品質であり、全く観た心地がしない。父からは保安上の問題故と聞いているが、納得行かないものは納得行かない。


「責任取れんのじゃろな。大体、なんで茜洛が全てだと思うんじゃか。頭悪いんか? ……――」


 つまるところ、未知に対する威嚇だ。ツェラヒラは彼女の喚く陰謀論未満の愚痴を内心、『年相応だ』と嘲笑する。


 暫くして、ツェラヒラは眠気を覚える。無理に朝に動くべきでなかったと後悔し、適当に舌を動かす。無機物と低級の有機化合物との香りがするこの場に対し、花の香水がこの場にないことへ悔いを感じていた。


「ちょっと。眠たいから寝かして。他の人が来たり、帰ったり、災害時に起こして」


 ツェラヒラは自身の黒いバッグを開け、タオルを複数枚取り出す。コラツルの頭布を参考に、ポケットティッシュを耳当て代わりにする形で結ぶ。彼女の邪魔にならないよう、シートの左辺で仮眠を取る。発着の音からシーツの揺らぎから何まで、全てが遠くのことに感じられた。


 思考が収まった後、彼女の中に一つの疑念が浮かぶ。何故、カータクを避けているのか。思えば、道中でも彼の話題を一切、出そうとしていないし、普段カータクに頼る事項を全て、自分に頼っている。


 カータクとコラツルの仲は良い。典型的な凹凸コンビだ。普段の噛み合う彼らが瞼の裏に浮かぶ。

 特に、彼女はカータクの呼びかけに応じていない。彼女だけがカータクを厭うている。不穏で仕方がない。思考がクリアになる中、安心に包まれた恐怖心が舌を出す。仮眠時特有の自動思考の下、72分間、ツェラヒラは漠然と杞憂とした考え続ける。


「――起きろ!」


 唐突に、頭へ何かが乗っかる。


「!?」


 心臓が急に、彼女の思考の中へと主張しだす。思わず、上に乗っかった何かを手で払い除け、目を左右へ振っていた。


「?」


 すぐ右には唖然とした様子のコラツルの顔があった。


「あ、お。お前か」

「どうした」


 彼女は『悪夢でも見たのか』、とだけ続ける。自分の手に恐怖したとは一切、思いが巡っていない。


「……え。ああ、うん」


 ツェラヒラは抗議しようともしたが、どう起こせとまで言わなかった自分が悪いだけと悟り、素直に彼女の片付けを手伝った。

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