3:茜洛都-③
☆
夕方。コラツルに連れられた軽太は鵜鶻町のバスを降り、確かにその地形を踏みしめる。黒いリュックサックをぶら下げるように持ち、連れられるがままに青白い空の下から硬い足音を響かせ、『入間荘』と名乗る下宿へ入る。
視線を向けられた彼は挨拶を交そうとしたが、気にも書けずに這うコラツルを追いながら中途半端にしか出来ず、彼が特に返礼をされることはなかった。不穏な感情を覚えていたが、リュックサックを握ると柔らかい皺に押し留める。
扉を見る。古典的な西洋式のようにドアノブを持つ形式であり、異世界へ通じているかのようだ。
「来たぞー」
コラツルはドアの前で大声を発する。
『面倒な調理をやってるから、待ってて』
「はーい」
自分に宛てたものではないだろうと気が付いたのは、口にした感動詞を吐ききった時であった。
『終わったぞ』
不気味に蠢きちらす声を聞いた彼女は迷わず、軽太のために扉を開ける。その先は調理室であるようで、様々な食材の香りが軽太の鼻で書き混ざる。礼儀なる概念は東果国には無いのだろうと、再三軽太は頭で唱えることとする。
「よく来たな、いらっしゃい」
花浅葱色の唇と、翡翠色の目をした彼女が見る。軽太は特に動じることはなく、彼女の視界に入り挨拶を交える。
「ああ、お邪魔しまーす」
一度、目を瞑りながら頭を下げた後、瞼を開ける。
この国の挨拶は自分の知る通りで良いのかと疑ったが、自国の文化だと説明すればよいとも考えていた。彼女は突っ立ったまま、尾さえ微動だにせず、自然な脈や以外の全てが固まっていた。喉板が軽太の目に映る程度には上を向き、その方角から動かない。彼女は情報の海に溺れている自覚がなかった。彼女は次に何をしたかったか、完全に忘れていた。彼の外見と言えば、肉を羽毛を削った鳥皮の中にねじ込んだような見た目で、黄土の肌の中に薄っすら、汽陸族のように、青緑の血管が見えているのが気味悪い。唇は左右上下に広がったり、顔の横についた鰓の出来損ないのようなものといい、眼の前のものが何であるか認識するのに手間取る。平たい顔をした彼は、雫のような粘液を額に浮かべる。彼女は時間を忘れ、ただ口を上下させていた。
少ししないうちに、軽太は彼女の異常に気がつく。とっさに彼は後ろを向く。
「……ねえ。この人、ぼくがここに来るって知らなかったんじゃないの?」
軽太は自身が怒る寸前であると自覚していた。眼の前の不手際に対し、忘れていたストレスが目尻や手へと向かっているのを感じていた。
「伝えてあったが」
コラツルは声色に啖呵を効かせる彼を疑問に思う。彼が不穏な行動を侵すのだろうと冊子、
「説明不足なんじゃない?」
軽太は目を瞑る。瞼に汗が這い寄る。これ以上は何も考えたくなかった。
「……? それはない」
コラツルは文面を思い出す。間違いなく、カルタについては十分過ぎるほど伝えた。どうせ伝えても初めは当惑するだろうし、リョウセイが取り乱すことは想定範囲である。故に、彼の頬が赤くなる理由が全く理解できずにいる。
「『ニンゲンのこと詳しく伝えなかったよね』、いい加減にしなよ」
軽太はわざとらしく間延びさせ、再び彼女の方を睨む。何も知らないかのようにぼんやり自分を見つめている彼女が疎ましい。軽太は一瞬、自分の足元を睨む。自身の靴裏の形質を透視出来るつもりでいた。
「おい、お前」
ブヨブヨと震える声が軽太の片耳へと入る。ふと軽太は我に返る。
「どうしました?」
軽太は首が後ろに向くように体幹を捻ねらせる。今更、彼女の『鳴き声』に動じることはなく、彼は考えずとも笑顔とされる顔を取り繕う。
「アタシが勝手に引き受けただけだから、キレるならアタシにしろ」
さて彼の癇癪を察し、適当な言葉を投げかける。胸鰭の発する表情が極めて平坦なものになっていると気が付いたが、人間の彼に汽陸人の表情パターンなど知らないだろうと、表情を取り繕わない素振りを続ける。
「なんで、ちゃんと聞かずに引き受けちゃったんですか?」
軽太は言われた通りにした。彼は怒るつもりでいたが、頬や額の筋の動きから若干微笑んでいる自覚があった。
「……あの。お前に聞け。なにこの絵面ギャグ漫画か?」
彼女はただ。カエルのように四脚をつける。理性以外の全てが彼を排除しろと告げていた。顔のパーツをウニャウニャ動かす様が恐怖で仕方がない。気がつけば、彼の顔をただ伺っていた。
「……」
コラツルは罰が悪いように両者の中間を見やっていたが、気がつけばしゃがんだまま床のシミを眺めていた。
「言ったからには、責任取って預かるわ」
彼女は軽太に一旦目をそらすと、床にへばる蛇人の方へと連絡をする。暫く、遠方から喧騒が鳴る無音の場を眺める。
「助かるぞ」
コラツルは立ち上がる。リョウセイは帰宅を促そうとしたが、尾が∪ターンの跡を残すように三日月状になったのを見て、促すまでも無いと悟る。
「……なんて送ってました?」
軽太は彼女の退出を見届ず、白黄色の割烹着の方を見る。
「まさか。こんな生きもん連れて来るとはなぁ」
リョウセイは、こうも不意打ちをかましたコラツルが憎たらしいし、責めたくもなった。同時に、眼の前の彼については事前にどんな説明を受けても納得出来ないと彼女は理解しきっており、思考の折衝から中途半端な感想が漏れ出る。
「はあ」
軽太は事態を把握し、ただこの場に居ないコラツルへと溜息を吐いた。
☆
軽太は、リョウセイのおむすび片手に自己紹介をして周る。彼らは一同に集まる機会には乏しく、晩餐も例外ではない。
共用部屋、廊下、金属錠の掛かった襖を何周か巡った後、焦燥感と足の痛みを覚える。彼は全員に挨拶を交わすことは不可能だと判断し、空きの客室へと向かう。思い当たった先に一人、見知らぬ服の人が居たが、着替えた誰かだろうと考え、暫くもせず彼の意識からは退けられる。
道中同様、部屋の入口として木製襖が立ちはだかる。唯一の違いは唐紅の無地のまま、何のデコレーションもされていない点程度だ。軽太は、彼女から予備の客室だという旨の説明や、スズスハ邸における日常生活での不便を思い出し、過度な期待を持たず襖をスライドした。
予想していた通り、漆喰壁や背の低いテーブル、木々で出来た床天井が出迎える。しかし、軽太の目はそこへと届いていない。床と並行な角度を向くパイプ椅子のクッションに、背の高い机。白色のマットレスに縹色のシーツとが出迎え、軽太はそこへと皺を付ける。普段、彼はフウギの替えの布団を流用しているのだが、こうも皮の硬くないものは久々に見る。左手で、すれ違ったテーブルから手に取っていた注意書きへ目を通すとその存在を忘れ、軽太の体はベッドの上で跳ねていた。消耗・破損の恐れを感じることもなく、ただ脚でベッドを蹴り遊んでいた。いつぶりか、本心からの笑顔を出す。この場には誰も居ない。リュックを入口で落としたことさえ気が付いていない。ただ一人の時間が楽しく、いつぶりかに見た平穩を見つけた気がする。
やがて脚の疲れを思い出し、重力に任せて横たわる。息の音を鎮めるがてら、軽太は周囲を見回す。ベッドテーブルの上に中華風に似た様式のランプを見つけ、ふと、外国人用の予備部屋を疑う。どこの国の様式なのだろうか気にするが、それにしては都合良く、人間に生活様式を流用できる種族が居るものだろうかとも考える。ふと横のテーブルを見た時、ただ使えそうな家具の寄せ集めなのだろうと納得する。息は意識にも上らず、ただ肺辺りに違和感を覚える程度の強さだった。
寝転がり、洗面台ヘと向かう。早く寝る支度をしてしまいたい。酉後すぐだというのに、眠気が強くて仕方がなかった。黒いリュックサックの中のチャックを開け、自前の寝巻きを丁寧に、しゃがみながら、備え付けのテーブルへと下ろす。続いて歯ブラシを手に取り、歯磨き粉の入ったパッケージのキャップを捻り開ける。自らの顔が鏡に入る程度の高さへと起き上がり、キャップを陶器のシンクの端に置いて歯を磨き始める。
ふと、歯磨き粉の、青白い注意書きが目に入る。見慣れた文字で書かれたそれに魅入っては仕方がない。
オーナーの反応が脳裏に浮かぶ。本当に自分は『異界の人』でしかないのだろう。その感覚が自分の抱く孤独感に近いかはいざ知らなかった。大昔から孤独が普通であったし、元々。両親と義祖父、為守で彼の人付き合いは完結していた。
軽太にとって為守に会いに行く通り等もないし、親族は論外。打ち捨てて脳裏に浮かんだのは緑の鱗の人々。特に、コラツルにフウギであった。
歯ブラシを下ろそうとしたが、水を容れる容器がない事に気が付く。用済みになった歯磨き粉を吐き、洗い捨てた後に、片方の手でマグカップを取る。
軽太は彼らへ悪感情を抱いてはいない。ふと、この家の経済力が憎いのかと思っていたが、自身の家も裕福であると思い出し棄却する。何故コラツルが非常に腹立たしいのか把握できずに居るし、そんな自分にも嫌気が差す。正直、彼らにとって自身の存在は迷惑でしかないのだろう。自分は此処で住めばよいのではないのだろうか
――いや、感染症リスク高いだろ。彼女なら迷惑なら追い出すだろう。父は彼女の言い分を反対するタチでもない。……だから、ぼくは平気。
気がつけば、彼は頬裏に歯磨き粉が点いていないか、舌で確かめていた。
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