2:杜籠県-⑫

 欠席した分の授業をオンデマンドで見返す最中、コラツルはメールの通知を聞き、内容を見てすぐさま役割を失った枷を外した。すぐ帰るつもりであったが、昼食を取り忘れたと気が付いた彼女は共用部屋で晩餐を食べることとし、平らげた後に四肢で帰宅をする。外出するのは一日ぶりである。雨を降ってることから低体温症を警戒し、撥水パーカーを被っていた。


 扉を開け、飛び出すように駆けたところ、聞き慣れた声に呼び止められ、首を右に向ける。天色の傘を手にした軽太と、コラツルと同じ黒色の雨合羽を来たカータクがコラツルの視界に映った。


「一日ぶりー」


 軽太は天色の傘を左手に移し、右手で手を振る。


「すぐに居るとは思わなんだ」


 反射的に感想を述べた後、相当待たせただろうと考え、『夕飯食っとった』と業務的な連絡をする。


「ちょっくら、成敗してきたっす」


 カータクはコラツルに携帯を手渡す。軽太は少し目を逸らした。雨音と奥を通過した車とで掻き消され、コラツルには発言が聞き取れていない。聞き返そうにも、既にどこか乱脈たる気配に呑まれつつあった。さて誰かとカータクが映った写真を見、腕の映り込みから持ち主が撮影したのだと考えた。


「……? 自撮りくらいタイマーセットすりゃ良いじゃろ」


 コラツルは水溜りから彼の携帯が故障する可能性を考え、一旦立ち上がる。想像可能な限りで無難な答えを返す。自撮りは利き手を画面外に追いやる構図が多いのが、彼女は特に理由を解していない。『誰かを成敗してきた』と聞き取れた気もしたが、写真に映る黒い鳥類は記憶にない。正確に写す必要下であれば通常、カメラを用意するものの筈だし、撮影機能を持つ端末であってもこうは雑な写真は撮影しないだろう。


「コイツが問題児だったんで」


 言い切った後にカータクは肩の高さで首を傾げる中途半端な聴覚を加味し、カータクは『黒い奴』と付け加える。


「意味が分からん」


 『漆鳥族の誰かを成敗した』と解したが、突拍子のない彼の言動に当惑してしまい、行動理由から先へと思考が進まない。


「この子がスパムメール送ってきたってさ」


 軽太は彼女の横に回り、写真のカーラを指して説明する。ふとコラツルの湿った外套の袖が見え、幾分申し訳無い感情を覚えた。


「ああ、そう」


 コラツルは雨音の中立ち止まり、数秒して納得を示す。コラツルにとってメールの脅迫状は自然災害以上の認識がなく、現在の話との関係性を見出だせていなかったのだ。


「通報したのか?」


 彼女は携帯を彼に返そうとした。そのまま手を突き出すと濡れてしまうと考え、右手で左手の袖を捲くった後、カータクの掌に乗せるように返却した。


「カルタくんは嫌がってそうっすね……」


 顔を歪め後ずさる軽太が視界に入ってしまい、反射的に指摘してしまった。カータクは構文解析に失敗したのをすぐさま感知し、濡れた袖のことと情報を追加する。


「……すまん」


 コラツルは彼が本当に嫌がっているか把握していないが、少し考えた後に言われたまま詫びることとした。


「ヘーキ」


 軽太は傘を持ち直しつつ、笑顔で済ませる。彼としても不快がったのは反射的な行動であり本意ではない。コラツルは彼の頬に垂れた水滴が気になった。


 暗い色の雨の中へとコラツルが前進し出すと、軽太が彼女に続く。カータクは携帯を元あった場所に入れ戻し、軽太を追うようにして歩行を始めた。彼は水溜りを避ける一方、四足と長靴とは時折大きな水音と飛沫を立てる。


「あ、通報はしてねーっす」


 暫くは雨音と通行音と無言が続いた中、話を思い出したカータクは街灯の中、口を開く。


「困る」


 カータクに対して、コラツルは細々と口を開く。単に口輪のフレームから入り込む雨水を可能な限り垂らしたくなかっただけであり、他意はない。


「少年院送りにしたかねーっすわ。まだ若いのに」


 カータクは腕を後ろに組もうとしたが、雨水が合羽の中に入り込むのを感じてすぐさま下へと向かせた。本心を言ってしまえば、通報などすれば不法侵入で捕まる。カータクは基本、他者に損害を与える犯罪に与する気はないが、彼とは共犯仲間のつもりでいる。


「……そうなのか?」


 相変わらず、彼女は一層小さく口を開く。


「なんじゃねえっすか」


 実際、彼は少年法をよく知らない。コラツルは自らに関係しない法律であるので眺めたことがなく、特段興味もない。信号機が赤い蛍光を雨へと照らし、濡れたコンクリート特有の足音が漸減していた。


「あと、キューガちゃんの話がしたくて――」 

「したくない」


 コラツルは、カータクの声を聞いた自覚がない。彼女の口は口輪が許さない程に開こうしていたのだが、圧覚に鈍いが故に気が付いていない。


「そういうところっすよ本当」


 軽太は路上で機嫌を悪くする彼女を見、気まずくなり、カータクに頼ろうとしていた。止める気配がないことから、自分の感覚が非常識でしかないのだと悟り、自分は付き添いでしか無いと、自分の無為を羞恥心故から正当な行動であるということにしたい。彼は改めて、外に目を向ける。LEDの灯籠が木製建造物やコンクリート、果てには自分自身を支える鉄までを広く照らしている。すぐ、自分の膝程度の高さにも小さい信号機が設置されていることに気が付く。その様子は電柱に備え付けられた小さな切替盤のようで、横ばいになったコラツルはそこを注視していた。


「あいつ、ほんとに意味分からん」


 葵色を発する信号機の先から重トラックが右折し、ガードレールの先で重低音を響かせる。丁度コラツルの憤った声は水飛沫にジャミングされていた。雫や軽太のことなど脳裏から消えており、日常的ストレスに対する呆然とした感情とすり替わっていた。


「弱い者虐めはしちゃいけないっすよ」


 カータクは自分の道徳観に自信こそあったが、弱い者いじめは極論、『生態系として正しい行為』なので彼女に伝わらないのではと考えた。


「しとらん」


「よそ者って弱いもんだろ」


 カータクは鍔を吐き捨てるようにそっぽを向く。


「正直。儂はあの女で嫌な思いをした」


 咄嗟に反論が思いつかずにいたが、明らかな詭弁だったので話を押し通すこととした。


「ええと……入学式始まって数日だったか。なんで儂に指図してくるんじゃ、あいつ」


 続けてコラツルは説明をしようとしたが、言葉が纏まらず飛躍する。二人は突然、彼女が再び這い始めるので前を見た所、信号は既に葵い色を光らせていた。


「指図?」


 軽太は不自然な彼女の話運びを気にかけようとしたが、カータクが代弁してくれたので、黙って、見慣れない色を見せる青信号を渡ることとした。


「『恨む』っつったら酷いって喚き出したりな」


 コラツルはカータクに、聞かれた通りの内容を答える。


「恨むって……どういう言い回しで言ったの?」


 水気を嫌う彼の足音が、雑踏の中に輪郭を持って、軽太の後で続いている。


「『儂の携帯壊したら恨むぞ』だったな。実際壊されたら一週間は覚えとるわ」


 コラツルは体が前進する中、推定される内面的被害を述べる。彼女は自分の携帯に愛着こそあるが、破壊されたとしてリユース可能な電子部品を別の用途に転用させれば良い。といえど、喩えるならば友達を殺され、その遺体をドナーとして扱うようなものであり、恨む感情は仕方なく生じる。


「……言い方くらい換えてあげたら?」


 軽太はカータクの足音が数歩程度、遠くなっている気がした。実際、カータクはコラツルの様相を頭の硬い中年課長のものと捉え、意図的に意識から彼女を省除し、ひとりでに彼に任せていた。


「変える筋合いがない」


 コラツルの両手の感触は生ぬるい水混じりのアスファルトから、表面が湿っているだけのコンクリートへと変化する。続いて彼女の両足もその通りに感じたくらいで、彼女はひとりでに立ち上がる。長屋の玄関で雨宿りすることとした。軽太は恥じらいの感情を覚えていたが、所詮は動物であると見下し、不本意に対処した。コラツルも濡れを嫌う住居者の妨げにならないよう、可能な限り壁際に寄っている。


「儂だって言い回しは考えた。じゃとして。フラップとスラットの違いも知らん、通信規格も出鱈目。指摘しても変えんのは向こうもじゃし、なんなら儂はどう齟齬が生じてトラブルが起きるかも。具体的に説明したぞ」


 彼女はリュックの中段チャックから使い捨てのカイロを二枚取り出し、床に一枚だけ置こうとしたが、両方とも手から離れてしまった。始めに鼠径部のすぐ上を熱せるよう、床に落ちた一枚目を手に取る。作務衣の褄下をぶっきらぼう気味に開き、その裏に貼り付ける。


「東果語でどう言えばいいかわからないだけじゃ?」


 軽太は言い放ったらすぐ、後ろにいるだろうカータクの方を見やる。街灯の近くで傘を差して突っ立ち、無責任に携帯電話の液晶を触っていた。


「全部外国語じゃろ」


 二枚目をコラツルは手に取り、装着のために一度立ち上がる。作務衣の剣先を持ち上げ、同様にして、すぐ下の辺りへと貼り付ける。


「しかも。なんで儂にだけ言ってくる? 親の問題なら児童窓口で話すべきじゃろ」


 集中気味に、作務衣を淡く均していると、キューガを奇怪と称する根拠を口にしていた。


「聞きたくないって言ったら?」


 軽太は左拳を握っていたことを自覚し、一旦深呼吸をしようと路上の方を向く。


「儂も最初、他に当たれって言った」


 軽太は最初、二つ返事をするように頷いた。


「聞いてくれなんだがな」


 次に軽太は生返事を返した。


「うーん。向こうって傷つきやすかったりしない?」

「ハッシュ値が違ったに、思い違った感情は棄てりゃいいじゃろ」


 彼はコラツルに歩み寄り、キューガという人柄を詳しく知ろうとした。確かに彼女の中では確かに筋が通った発言であり、迷わず口へと出していたが、軽太にとって彼女は奇天烈な比喩を繰り返す人、という認識であり、理解出来ない比喩を多用するからではないかと推察する。


 彼は夜に急かされていたのだが、気が付かない。彼女に問題があるようにしか思えず、強気で、口を開こうとした。


「コラツル。君も悪かっ――」


 軽太は、確かな理由から彼女を非難したかった筈だったが、小学生時代のあるエピソード記憶に阻まれた。目の前の記憶に圧倒されて言葉が出ない。軽太は強い自責願望から人格を背けるように、フィラーのジャブを発する。


 ふとコラツルは外を見やる。無秩序な人の往来という煩多な情報が、光の不在や、大小様々な音として入り込み始めており、様子のおかしい軽太を含めて身の危険を覚えていた。コラツルは再び這い込むと、軽太をカータクを説得するように丸め込み、再び路上へと出る。 


「ん、もう止んだっす――」

「今付いてくるな」


 コラツルは単に、カータクに指示する。彼はスケジュールの変更に柔軟な対応をする方だし、今解散しても問題ないという判断からの言動であった。


 カータクはふと、黄緑に混ざった人混みの中に取り残され、ボケていた背景音にピントが合う。口角を左右、閉じた口を上下に浮動させ、不審に首を振る。少ししてから彼は、気がつけば部屋に居た。

 


 15時12分。針の音は軽太にも聞き馴染みのある音であり、彼は背景音として、雨の音と湿気以上に感じ取っている。小学生は寝るべき時間であったが、軽太に睡魔が刺そうともしない。どうも昼寝を長く取りすぎたようだ。どう寝つこうか迷い、アナログ媒体のものを楽しむこととした。


 机の上に置いた日記を手元に取る。フウギから借りたもので、竹筒模様の表紙が特徴的だ。使い方が記された1ページ目を残し、残りは全て、漢字とかな文字の羅列だ。この世界に居る誰もが意味を知り得ない文章であり、軽太は周囲の目など気にすることはなかった。文字が記された最後のページを捲り、見開きの左ページを背景に、軽太はPSTDを伴っていた記憶を、思い出して良い範囲で書き認める。


 あるクラスメイトがイジメの首謀者となっていた出来事である。軽太は蚊帳の外であったのだが、首謀者もターゲットも友人であった。そして何より、彼らは互いにイジメの関係にあったという自覚がない。単に互いが嫌いなだけであり、周りが勝手に囃し立てていただけという。その互いを認めていないし、周りが無関心を貫くその様相がコラツルの現状に重なって仕方がなかった。

 ふと軽太は首を触ろうとしたが、鏡が目に入りすぐにやめてしまった。軽太は鏡の中に居た背の高い人物を頭から追いやろうとする。

 彼は自分の体が嫌いである。6年生が168cmある事実を認めたくないし、背の順で並ばされる度に不快な思いを偲んでいた。だがいくら牛乳を適当に飲もうとも背は替えられない。故に大人びた、背伸びこそした態度を取っているが、それでも彼にとって、いじめという概念は重力定数より親しい存在である。故にその定義や有り様を疑えないし、文章を書き散らしてようやく、気が付いたことであった。


 『いじめはこの世にない?』 現実世界、とりわけ学校のような狭いコミュニティで書くことは憚れる中身であったが、どうせ誰も読めない。

 『小学校の先生は『単にたがいを知らないから』と説教のように言ってたし、出来すぎだと聞いてなかっていた。もしかしたら的を得てる?』慣れた文字を更に続ける。


「そのノート、良いだろ」


 嗄れ気味の獣声が向けられていたが、単なる音響として聞き流されていた。


「お前大丈夫なん?」


 しばらくして軽太は、フウギが帰宅し、自分と会話を試みている事に気が付いた。スズスハ家だけとは信じたいことだが、彼らは基本挨拶をしない。


「ああ、はい。ちょっと。友人トラブルで。コラツルとも色々ありまして――」

「首突っ込むのやめときや」


 軽太は彼の朗らかな顔を見たが、口ぶりからすると怒りを覚えているようにも見えた。


「……まあ。そうですね」

 

 適当な返答をした所、フウギは廊下を歩いていった。さて、軽太は続きを目で読み返す。それ以降彼は義祖父を初めとした、『人間ではない人間』に惹かれていた。東果国の住人も例外ではない。彼は過度の期待をしていたし、やっと全体像として知覚する。薄々分かっていたことであり、今更幻滅はしない。むしろ、強迫的に脳に付き纏う、突き放したくて仕方がない思想を棄てられたことに充足感を得ている。


 彼らも交流関係に難を持つし、日常生活こそをトラブルの温床として過ごす。鏡の裏で、軽太は朗らかな笑みを浮かべていた。


 『かれらはアンガイ、人間と変わらないものだし、以上以下もない』。漢字を思い出そうとノートPCの予測変換に頼ろうとしたが、そんなものはないと気が付き、軽太はただ諦めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

東果を覆う海陸のもの 浅葱柿 @MrReeton

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ