2:杜籠県-②
長屋に停めた自動車の中から一人の男が表れる。スカートを靡かせる彼は助手席に置いていた買い出しのビニール袋を取り出し、車の鍵を閉める。
夕焼けと夜空の境目から、僅かに星空見える。肌寒い色をした空気を脚で掻き分けながら玄関へと進んでいき、すぐ近くにある階段を登って行く。カータクの部屋は3階にあるが、なまじ得体な方なので嵩張る荷物片手に階段を上る程度は苦ではない。
岶岼大の講義の中身は正直、あまり覚えていない。というのも大して興味がなく、どう女の子を口説くか考えている方が有意義な気がして仕方が無いからだ。カータクは自分自身本来法学部か情報学科に居るべき人だと思っているが、あいにく岶岼大には法学部はないし、理系も得意な方ではない。世間一般で見れば彼はそこまで頭の良い方ではない。
そんな彼が、わざわざ教育学部へ進学した理由は皆無である。単に下洛したかっただけであり、地方大に入ること自体が目的だったと言い替えても良い。というのも、自身を養ってくれてる義母に申し訳ない。こうも嫌な形で生まれた頭の悪い『俺』でも親孝行はして良いはずだし、しなければあの子への申し訳が付かない。それに一応国公立だし、出版社に入るだけのキャリアとしては申し分無い。卒業要件として社会科教育の教員免許は取る必要があるが、使うことは今後一生たりともないだろう。留年さえしなきゃエスカレーター式に就職が決まるので、楽なものである。
階段を登りきり、覚えているままにカータクは通路を歩く。西日が一人のカータクを冷たく照らしてくる。優しげな匂いが舌に染み付く。今日は特に清掃の人は居ないようで、帰宅の際の郷愁感を誤魔化す相手が居ない事にがっかりする。部屋番号や名札を見るまでもなく独りでに左折し、解錠する。
扉を開けた所、電灯が点いてあった。特に履物が増えていないことから不審者ではないと判断し、布靴を脱ぐ。とりあえずでビニール袋は土間のすぐ先に置いておいた。カータクの部屋の玄関はパステルカラーからダルトーンまで複数の靴が並んでいるのだが、明日はどれを履くべきか少しばかり悩む。
「邪魔しとるぞ」
「……考え事に割り込まないで欲しいっすね」
カータクにとってコラツルの来訪は特別驚くべきことではない。月一の頻度でカータクの元へと訪れるし、なんなら愚兄ことナザネルにも会いに行く。口輪を外しているのも特段驚くべきことではない。彼女はカータクの部屋を、自室その2の如く扱っている節がある。
「迷うくらいなら履かなきゃ良いじゃろ?」
コラツルはナザネルの私物である漫画を眺めながら軽口を叩く。パーティションの奥から持ってきたものだ。
「んなことしたら汚れ……ああくそ」
汚れるという理由で履かせようと思ったが、拭いた痕跡がある床のタオルを見て汚れる訳がない事を悟る。安全や衛生を盾にすることは考えたが、どうもコミュニケーションが成立せず上手く行かないのだ。
「……飯はやらんっすよ?」
あまり意味はないと理解はしているのだが、極力、カータクはコラツルの眺めるソレを見ないことを心掛けている。自炊は何にしようかと、ビニール袋の中を考える。
「食いもんは買ってきてある」
コラツルは無頓着に会話を続ける。つい中身がカータクの視界に映ってしまったが、全年齢対象の4コマ漫画だと知り安堵した。
「これっすかね」
カータクはビニール袋を指差す。
「いいやコンビニ」
コラツルは指示代名詞の意味内容を目指した後、漫画を片付けにナザネルの『部屋』へと歩いて行く。カータクはただその様子を注視していた。
「……それで、何の話っすか」
カータクは自身の安全を確認し、口を開く。気が付けば兄のような仏頂面になっていた。カータクは『俺らしくない』と心で自己批判し、元の性格を取り戻す。
「森が岳分屯基地の見学」
彼が自分の部屋に上がるのを気にも留めず、コラツルは4コマ漫画の本を仕舞う。ナザネルは基本、本をジャンル毎に仕舞っていると言うが、分岐学的な様相を見せない『ジャンル』という概念は、コラツルとしては理解出来ずに居る。
「无方日のアレっすか?」
「うむ」
調子を取り戻すカータクをよそ目に、間髪入れずにコラツルは頷いたつもりでいた。
「あー……どうしよ」
カータクは食材とにらめっこしながら、どっちが行くべきか迷う。ここ数週間兄は表に出て居らず、軽く引き籠もりである。卵焼きを作ることとした。
「俺が行くっす」
カータクが返答に詰まったのは単に今日、何料理するかを迷ったからであり、決して兄の身を断じたものではない。『兄のことだし、それっぽい画角で航空ショーの様子でも撮っときゃ喜ぶだろ』程度には見下している。
「頼むぞ」
コラツルはリュックから夕食を取り出す。彼女は他人の家に上がる際は基本的に自分の分はコンビニで買うこととした。
「……ああ。はい」
何か違和感を覚えたが、カータクは気にしないこととした。コラツルは電子レンジの方に向かい、200
「本当、
気がつけばコラツルはレンジの取っ手を握っていた。コラツルの総評を端的に述べれば『ウザくて面倒なクラスの女』である。
「……言うほどコミュ難かあいつら?」
カータクは彼女の認識を疑う。カータクは大学で彼らと接する場面が存在するが、特に話の通じない存在だとは思わない。
「通じない、としか言いようがないんじゃよな。定型文しか喋らん」
彼はコラツルに愛想笑いを浮かべる。既にコンロのガス栓を開け、換気ファンを付けたところだった。
「普通じゃねえかっす、外人なら」
ガスコンロを捻り、青い火をつける。
「2年暮らしとるのに、じゃぞ」
コラツル自身、坵暁語程度に有名な言語ならまだしも、東果汽陸語は簡単な文しか書けないし、そもそも発声器官の都合もありカタコトになりがちである。それ故高校に上がった最初は違和感を覚えていなかった。
しかし一週間接した頃からだろうか。彼女はどこからともなく慣用句を覚えたり、使い分けに困る挨拶文を完全に使い分けていることに気がついた。複雑な文でさえ1、2回聞けば真似出来るのは不可解であり、何年東果に棲んでいるか聞いた所2年は棲んでいるという。それにしては複雑な文を発さないし、どうも言葉の伝わる伝わらないの境界が分からない、彼女とコミュニケーションを取ろうにも円滑に進まない。ならばこちらが氷渡語を話せばよいのではと気が付き、インターネットから氷渡語の論文でも眺めてみたのだがまるで理解出来ないものだった。
「……クラスメイトのことっすか?」
興味が湧いたので、改めてカータクは文脈を整理することとした。すでにフライパンには油を入り、弾けようとする頃合いだった。
「ああ。ホント面倒なんじゃよ、アイツ」
コラツルは電子レンジから荒々しく食べ物を取り出す。ふと、カータクはある名前を思い出す。
キューガ・ハズトル。イィヒロフ国から隣国の東果に引っ越してきた氷渡族の女であり、彼女の愚痴では常連でその名が出てくる。
「まさか、そいつも付いてくるって言ったんすかね?」
「ああ」
「断れよそんなやつ」
コラツルはキジの腿を両前足で挟み、口で引きちぎる。箸は店員から貰っていたが面倒になった。油と雉肉の匂いが口内に充満する。
「別に、少し話す程度なら困らないんじゃよ」
話し続けながら、皿の下に敷いておいた白いタオルに両前足を付ける。
「ほう」
「変な反応し出すんじゃがな。詳しい話すると」
コラツルは彼女とのやり取りを思い返す。軽い歴史や等を話す分には問題ないのだが、レーダーの原理やターボファンエンジンの構造の考察、流体力学辺りの会話はどうも噛み合わない。会話の様子をコラツルが喩えるならば、『針の穴に糸を通そうにもトンネルエフェクトを起こす』。
「断れよそんなやつ」
「エアプのまま教えたがる奴ならな」
キューガの様相は正直、氷渡族の習性として照らし合わせると病的である。本を見る限り、彼らにとっては『正確かはどうでも良いの伝われば良い』らしい。それでも教えたがらない彼女はどうも、何かしらを患っているように思えてしょうがない。
「アイツに頼みゃ良いんじゃねえっすか。ほらあの……、色盲おばさんに」
カータクは彼女の名前を思い出そうとしたが、そもそも教えてくれなかったことを思い出した。
「別にリョウセイは色盲ではないじゃろ……」
コラツルは彼の奇怪な言動が気に障る。汽陸族は2色型色覚を持つ、という事実は至極当然であり、特に色盲とは呼ばない。
「そう、そのリョウセイってやつ」
彼は入間荘の主たるリョウセイが嫌いである。入間荘の住民に会いに稀に彼女の元へと訪れるのだが、些細な言動に突っかかってきて鬱陶しい。そんな彼女なので、居ない隙にカータクはパソコンの色覚サポートを切ったり言語設定を少数言語に換えたり、アイコン表記や名前を出鱈目に変えるなり諸々やってやったのだが。仕事用でないのは確認してあるし、業務妨害罪にはならないだろう。ちょうどシェルスプリクトの練習にもなったし彼女はアホで有り難い。犯人不明と耳にして思わず『ざまあ!』と言ってしまったのはちょっと恥ずかしい。
――そんな彼なのだから、向こうも善く思っていないのだが。彼女視点彼女は犯人でもなんでもないが、人の不幸を嘲笑うような奴が正常だと思わないだろう。実際、彼が元の彼女に嫌われた理由の一つとなっている。
「昨日行ってみたんじゃよな」
「ほう?」
「断られた。用事があると」
一呼吸置き、コラツルは手の甲に付いた肉汁をタオルで拭く。気怠いので舌で舐めてしまいたいのだが、行儀が悪いらしいのでやめておく。
「あらま」
一方でカータクはちょうど卵が焼けたことに気が付き、火を止めた上でガス栓を閉めた。換気扇は暫く付けておくこととする。彼自身は困らないが、彼女の舌障りに悪いだろうし。
「んまあ実際。ソニックブームで酸欠なるんじゃねえっすかぁ、アイツぅ」
カータクは自身の口端が左右に引っ張られるのを理性で堰き止める。彼も、自分の口からこうも笑えない冗談が出るとは考えていなかった。
「あと、カルタのことも訊こうとしたが、流石は年配の女じゃな。どうも通じん」
ニンゲンを拾った翌日のことだ。コラツルはリョウセイの元に訪れ、いつも通りタダ飯を貰うついでにニンゲンの事を訊いてみた。案の定、蛇人の女特有の造語症か何かと勘違いされたのだが。生物学の素人に訊くことではないと察し、これ以上聞かないこととした。
とはいえ諦め悪いコラツルのことだから、向こうも気にかけていたのだが。話が話故に神経質な対応を取りがちだっただけで。
「……哀れっすねぇリョウセイさん」
その後も会話は続き、カータクが晩餐を食べ終わる頃にコラツルは帰宅した。
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