1:岶岼市-②

 バスの中、コラツルは背もたれを折った可動椅子に四足を付ける。コラツルは座席を取る度、不快な感触を持つマットに腕肘が直に触れないよう試みる。


 彼女は半年前に地元の宇沽野うるのから岶岼に引っ越した為、高校にてあまり縁のある人は少ない。せいぜい生物の話題が交わされたら会話に割り込む程度であり、大半の話には関心を抱いていない。通信制のコースに切り替える申請をしても良かったのだが、小中の慣習から替えられる自信がどうもないし、そもそも教室に居ること自体は苦ではない。地域柄、蒼尾あおお族の人は地元より多いが、知人と接する内に彼らの振る舞いには慣れており、現在では偶に会話も交わすか、殆どはその他の生徒同様、廊下をぶらつく、本を読む等で空き時間を潰していた。

 コラツルは窓の風景を見つめていた。この辺ならば、もう目的地の『鵜鶻うこつ町』に近い。座席に置いていたものを片付け、立ち上がる用意をする。


 耳に入るか入らないかくらいの音程のブザーが鳴らされる。コラツルは出口へと向かい、運賃箱に備え付けられたカードリーダーにICカードをかざす。【定期利用】の表記がされたのを確認もせず、コラツルはバスの外へと降りる。


 バスの出口を降り、前へと進んでゆく彼女の鱗を、鋭角の夕日が温かく照らす。歩道に出てからは再び四足をつけ、目的地へと向かっていく。



 フウギは業務の都合上非常に多忙で、帰宅するのが酉後6時ということも珍しくない。

 幸い、コラツルは家事が出来ないことはない。家事のスケジュールを宣言型プログラムの方針で建ててからは、ルーチンについて問題を抱えていない。

 

 他方で、常に一人で居るには致命的な点がある。コラツルは料理が作れない。元々火を扱うのに心理的抵抗があるし、使おうにも怖すぎて火に近寄れない。ある事件以降は包丁すらトラウマ気味になり、それ以降は自炊を渋っている。

 可能な範囲でフウギは作り置きの料理も用意しているし、コラツルも料理をするときは数日分作っておくのだが、冷蔵庫に溜めておけるスペースからして限界がある。

 買い出し弁当も考えたがどうも割に合わない。貯蓄が切れた場合は基本的に外食で済ませているのである。



 岶岼市に位置する岶岼大学は、龍屾たつやまえ地方山間部の盆地に位置する国立大学である。

 立地からして研究に没頭できる蛇人族だけ来てくださいなる裏の意図が透けて見えるだし、数十年前はその意図を隠すことさえしていない。

 時代が進むに連れ土木工学を駆使した自然災害対策が徹底され、現在では定住という観点に於いては、別種族が想定された都市となっている。

 

 ただしKhRの交通費としては、仮に県庁所在地たる杜籠もりかご市から乗ったとしても片道4桁もの交通費がかかる。そのため岶岼市は下宿やアパートの類が多く、現在彼女が渡る通路にも点在する。

 

 コラツルは道なりに進み、『入間荘』の看板の取り付けられた下宿の中に入る。玄関の先は共用部屋であり、複数人が彼女を出迎える。

 手荷物を横長椅子の真後ろに置く。先にオーナーに挨拶する旨を伝え、談笑そっちのけで調理室へと向かっていく。


 下宿の調理室にて、共用部屋のテレビの音声を聴くこの魚人は、紺碧色の鱗を震わせ、鰓から湿り蠢くような声を出す。彼女たち汽陸きりく族脂肪の詰まったうきぶくろを握るように震わせ、コミュニケーションの手段としている為である。


 岶岼さこゆり市民は、彼女の事を勝手に、『リョウセイ』、と呼んでいる。というのも、彼女の名前は陸に棲む者にとって発音しにくい。

 発音出来ない訳では無いのだが、東果国の標準語の音韻に存在しない発声を大いに含み、日常会話として発することはほぼ不可能だ。

 リョウセイ自身も名前を明かすことを良しとしない。東果国に於ける汽陸族の文化圏では、名前とは単なる識別記号ではなく、より深遠な意味を持つためである。


「おーい、食いに来たぞ」


 コラツルは恒例となった挨拶を交わす。


「……アタシんうちを子ども食堂にしないで?」


 リョウセイの胸鰭が立つ。不機嫌なであるが、案の定コラツルに通じることはない。


「いやあ、儂のパパも料理頻繁には作れんからな」


 コラツルは口輪の隙間から舌を出し、料理の匂いを嗅ぐ。油の絡んだ鶏の臭いがする。


「料理教えたでしょアンタに」


 叱りながらも、鰓と鰾を締めすぎないように気を配る。彼女を恐喝してしまっては元も子もない。


「油が怖くてな」


 リョウセイの方を改めてコラツルは向く。彼女にとって、火は致命的に怖いものである。まず在るのか無いのか判らないのが怖いし、存在するかのように小さく轟音を発するのは更に怖い。ビーカーに火を当てる程度なら必要経費として許容できるのだが、日常的に使う分には堪えられない。現在の家に遷りIHヒーターに替わってなお、音を立て飛び散る油は怖く、自炊は渋り気味である。


「そのうち克服しろよ」


 リョウセイには言いたいことは山ほどあったが、特に長く語らないことにした。


「ああ」


 相変わらずコラツルは匂いを嗅ぐままだ。気安い空気がこの場を流れる。


「まあ、包丁使えるだけお前は偉い」


 リョウセイの鰓が少し開き気味になる。肯定的な態度を表す表情だ。


「鋏でいいじゃろ」


 コラツルは後ろを振り向きながら言う。


「汚いだろ」


 蛇人族というものは表情を表す為の顔のパロメータが少ないし、彼女はとりわけ判別が難しい。リョウセイは漫才の真似毎をしだしたのだろうと、嗤い気味に対応した。


「毎回錆は落としとるし、料理用にしか用いてないぞ?」


 コラツルは自身の発言が冗談でないことの説明を試みる。彼女の声質から自身の発言が冗談だと捉えられたのだと察したし、実際顔を見た所笑いの表情だった。確かに、紙等を切った鋏を料理用に用いるのは不衛生だろうし、冗談と捉えられてもおかしくない。


「使い方教えたでしょ包丁は……ほら、こうやって」


 リョウセイは、包丁をトントンとするジェスチャーを彼女に見せる。


「使う必要が分からん」


 コラツルは彼女を向いていない。蛇人の視線は人を捉えないものだが、今は意図的に、彼女を視界から外していた。


「『ハサミで切るよりやりやすい』っつってただろお前」


 歯止め悪い彼女に対し、怒り気味に鰾を震わせていた。彼女が何をしたいのかリョウセイにはさっぱり分からない。聞き苦しい冗談は言わない人であるとは知っているが故、余計に理解しがたい。


「……怖いんじゃよ、包丁」


 コラツルは瞳孔を細くし、必死そうに瞼に力を入れている。


「初耳だが」


 料理出来ない事が後ろめたいことと思ってでもいるのだろうか。コラツルは首を左右へとフラフラと向けている。


「前まで扱えてただろ?」


 コラツルは微動だにしない。どこか踏ん張っているように見える。実際コラツルはといえば、両手を地に付けそのまま這って逃げてしまいたい程だ。

 包丁に苦手になった経緯の事件について訊いて良いのかわからない。実際彼女はこの事に関与しているのだが、これ以上思い出したくない。

 リョウセイは不審に思い、彼女へと近づいていく。


「おい、どうした――」

「怖えんじゃよッッ!」


 リョウセイは反射的に、後ろへと跳ねていた。次には龍が唸る様な声が鰓をも貫いていた。


 コラツルは耐えられず、完全に目を瞑っていた。リョウセイ、という記憶を可能な限り遠ざけつつ、傷も無いのに痛がる左腕を右腕で掴み停める。

 

「なんで、お前が、ああだったか。全く分からんのに、儂がああなって、パパ切るとか!」


 彼女は現状に対し渾沌とした態度で、嫌だ、怖い、と、形容詞のみを哮え続ける。素人目ではあるが、コラツルの瞳に映る彼女は、特に精神疾患を拗らせているようには見えない。言動も一般的な汽陸族にしか見えないし、伝聞とはいえ、父も彼女には箔を押している。

 故に、自分も発狂するのではないだろうかと。彼女は納得の行く料理が出来るようになる度に、あの光景が脳によぎって仕方がなかった。


「……誰も、聞いてくんなかったんだよ」


 ふと目を開ける。リョウセイは口を閉めて嫌な顔を見せていた。コラツルは両手を地に付けていることに気が付く。両腕の筋に喉仏にが活発に動く。彼女の体は、恐怖体験に対し、とにかく息をすることに必死だった。


「訊ける訳があるか」


 コラツルは息を荒くしたまま、ただ、細い目で彼女を睨み付けていた。身体が防衛反応を示して鬱陶しい。首を下を向け、彼女を襲わないように務めている。リョウセイはというと、胸鰭を萎びれさせていた。出来ないという料理を教えときながら、自身がその出来ないの原因であるとは考えてもいなかった。


「……訊かれはしたよ、言っても聞いちゃくれないのにな」


 リョウセイはカエル座りをし、彼女と目の高さを合わせる。当初、リョウセイは自身の寂寥感は埋められないのだろうと考えていた。しかし彼女はあの誠実な精神科医の娘である。自然と体が傾聴を申し出ていた。


「虚言癖の類はないじゃろ」


 コラツルは後足をだらしなく後ろに垂らす。瞳孔に力は入っていなかった。


「信じてくれない前提で話すよ、アンタが持ち直すならさ」


 暫く床を見た後、リョウセイは彼女へ顔を向け、自分について来るよう彼女へ促した。

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