#55 無職と新社長




 リカコさんが沼津へ引き払った翌日から、俺も一人で引っ越しの準備を始めた。

 比較的近所(今のマンションとハルカさんの家の中間辺り)でワンルームを4月から借りられたので、引っ越し業者は利用せずに自分の車で少しづつ運んでいる。


 そして、全ての荷物を運び出すと、最後にマンションの大掃除をした。

 これが俺の最後の仕事だと思い、キッチンやバスルーム、リビングや廊下の床や窓ガラス、全てをピカピカにしてやろうと、一日かけて掃除した。


 掃除が終わると夕暮れ時で、何もないリビングは少し薄暗く、まるで俺の心境をビジュアル化したかのように物寂しさを感じ、思わず独り言が零れた。



「リリィ、もう向こうには慣れたかな」






 新居に移ってからは就活に対する意欲が消失してしまい、料理教室のアルバイトには惰性で行ってるけど、以前ほどの労働意欲は無く、何をするにも気が抜けてしまい、主夫だったのがウソみたいに自炊すらしなくなり、自堕落にダラダラしてばかりになっていた。


 何の目標も目的も無く、世間体やプライドだけで動いてても、何の成果も上げられず、それが自分でも分かってるから、世間体すらどうでもよくなって来た。

 こういうのを燃え尽き症候群って言うのかな?

 それともペットロス?


 いや違うな。不完全燃焼症候群か。

 俺は燃え尽きることが出来なかったんだ。

 前職の会社で辛酸を味わった時と同じだ。


 会社で憂き目にあった時は、寿退社して逃げた。

 そして今度は結婚生活で挫折して、離婚した。

 逃げてばかりだ。

 結局俺は、この程度の人間なんだろう。


 

 と、卑屈になってネガティブなことばかり考えていると、5月の俺の29の誕生日を迎える頃には自堕落無気力人間に片足どころか首までどっぷり漬かり始めていた。


 その誕生日の日、去年はリカコさんに忘れられてて落ち込んだものだが、今年はそのリカコさんからお祝いのメッセージが来た。


 メッセージには、リリィを抱いたリカコさんからのお祝いの言葉や近況報告を語る動画が添付されてて、顔色も良く元気そうなリカコさんと、相変わらず愛くるしいリリィの様子に、沼津に帰ってからまだそれ程経っていないのに懐かしさを感じると同時に、学生時代のリカコさんを彷彿とさせる溌溂はつらつとした表情から、既に前を向いて歩いているのだろうことが見て取れた。


 自分もまともな生活を送っていれば、きっと安心したり励みになっていただろうが、今の自分と比べて勝手に敗北感を感じて、更に卑屈な気持ちに落ち込んでしまい、メンタルは益々ネガティブにと悪循環に陥っていた。




 ◇



 6月になり、今のアパートにも生活にも慣れてきたある日の夕方、久しぶりに藤田さんから電話が掛かって来た。


 リカコさんが引責辞任して以来、顔を会わせていないし連絡も取って無かったのだが、『急で申し訳ないですが、一度お会いして相談したいことが』と言われ、相談と言われると会社のことだろうとは想像がついたが、リカコさんが退社した今は俺は完全に部外者だし、俺なんかに何の用事があるのだろう?と不思議だったので用件を聞くが、『会って直接はなしたい』と言う。


 ちょっぴり気が引けたが、藤田さんには迷惑や心配を沢山掛けてしまったし、同じ苦難の中で協力しあった戦友の様な親近感も有ったので、取り合えず会うのを了承した。


 それで、『会社に行けばいいですか?』と訊ねれば、『どこかで食事でもしながら』と言われ更に気が引けたが、深く考えるのは止めて、待ち合わせの場所と時間を確認してメモした。



 

 藤田さんはリカコさん以上に身嗜みや礼儀作法がキッチリしてる方なので、久しぶりに会うのに失礼が無い様にと、次の日近所の床屋に行って、少し生え始めたハゲを誤魔化すように坊主にして無精髭も剃り、当日は久しぶりにスーツにネクタイを締めて会いに行った。


 その日は金曜日で、地下鉄に乗って待ち合わせに指定をされた歓楽街の駅まで向かい待っていると、約束の時間ぴったりに藤田さんがやって来た。


 藤田さんは仕事帰りのグレーのタイトスーツ姿で現われたが、相変わらずキッチリした身嗜みで女子アナみたいな人目を惹く容姿に、ヒールをカツカツ鳴らせながら背筋を伸ばして姿勢よく歩く姿は、人通りの多い中でも目立っていた。


 俺に気付くと、表情を綻ばせて軽く手を振りながら俺の傍までやって来て、綺麗な姿勢で腰を折って「お久しぶりです。東丸さん。今日は無理言ってすみませんでした」と挨拶したので、俺も慌てて頭を下げて、「こちらこそ、ご無沙汰してしまい、すみませんでした」と挨拶した。


 挨拶もそこそこに早速お店に移動することになり、案内してくれる藤田さんの横に並んで歩きながら、改めて藤田さんのことを思い返していた。


 確か、リカコさんの2つ年上だったはずだから、今年で32歳か。

 あまりプライベートなことは自分からは話さない人だが、バツイチの独身というのは聞いていた。

 綺麗な人だけど、見た目や話し方がキッチリしてて女性ながらに仕事人間っぽく近寄りがたいオーラがあって、俺も最初は苦手意識が少しあったし、失礼ながらバツイチと聞いても何となく納得してしまった。


 でも、交流を深めていくと、年下の俺なんかにも礼儀正しくて、人を褒めるのが上手だし、リカコさんの事では悔し涙を流す程の情にも厚い人だと分かり、リカコさんのことでは俺も沢山頼りにしたし、色々助けて貰い、最初に抱いていた苦手意識は全く無くなっていた。


 今はリカコさんの跡を継いで社長となり、忙しい毎日だろうに、俺なんかにいったい何の用だろうか?


 と、考え事をしていると、藤田さんが事前に予約していたお店に到着した。



 そのお店は、ちょいとお高めなお鮨屋さんで、偶然にも俺が会社勤め時代に取引先の接待で何度か来たことのあるお店だった。


 勿論、当時の俺は新人に毛が生えたような物で上司や先輩のお供だったし、数回来た程度の俺の事なんて大将も店員さんも憶えて無いだろうが、お食事代がどの程度くらいは分かるので、『こんなお店で俺なんかに接待でもする気なのか!?』と更に気後れし始めた。


 藤田さんはそんな俺を他所に、慣れた様子で店員さんに名前を告げて、店員さんも同じく慣れた様子で座敷席に案内してくれた。



 向かい合って座ると、直ぐにお通しとビールが運ばれ、お互いお酌しあってから乾杯した。


 飲み始めると、藤田さんは柔らかい表情で機嫌が良さそうに近況などを饒舌に語り、飲むペースも早かった。

 話題は会社のことがほとんどで、大変な時期なのに何でこんなに機嫌良く余裕もあるんだろ?と首を傾げながら聞いていたら、「まだ確定した話では無いんですけど、実は・・・」と前置きして、その理由を話してくれた。


 リカコさんの事故で性接待等が発覚し取引停止していたA社の方から新たな引き合いがあり、大口では無いが取引が再開するかもしれないと言う。

 何でも、取引停止はコンプライアンス的に配慮した一時的な処置だったらしく、これまでの実績を買われ、再度本格的な取引再開をする前に、まずは来年度の新入社員教育の一部をまたお願いしたいと打診があったそうだ。


 藤田さん本人は「これまでの実績が買われ」と言っているが、恐らく発覚当時の藤田さんの対応が良かったのだろう。遺恨を残さず、今後の可能性を残すように上手く立ち回ったのでは無いかと思う。



「それは、凄いですね。普通に考えたら揉めても可笑しくない話だったし、簡単な話では無いと思いますよ」


「ええ、私もこんなに早く向こうから打診が来たのには、ビックリしました」うふふ


「それも藤田さんのお力ですね。おめでとうございます」


「私の力なんかじゃないですよ。会社のみんなの力です。みんなが頑張ってるからあんな事があっても、会社の信用を落とさずに済んだんです」


「そうですね。みなさん本当に頑張ってらっしゃいましたしね」


「ええ。 それでご相談なんですけど」


「はい」


「東丸さん、ウチに来て頂きたいって話、本気で考えて頂けませんか?」


「・・・え?」





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