#43 帰宅後の夫婦
お盆休み前にリカコさんの転院が済むと、義両親には一度沼津に帰って貰った。 二人がリカコさんの世話を看てくれてたから、俺は俺のするべきことが出来た。
ディーラーに引き取って貰ったアルファロメオは、ディーラーまで一人で見に行ったが、とても修理して乗れるような状態では無かったので、廃車にすることにした。
ピカピカの真っ赤なアルファロメオは、俺にとってはリカコさんの象徴の様な存在だったし、初めての左ハンドルでビビりながら沼津まで運転したことや、入籍した時に車内で結婚指輪を貰ったりと沢山の思い出が詰まった車だったが、それも全てがくすんでしまった。
会社の方は、結局A社との取引は完全に停止となり、売上ダウンの影響は大きく、予定してた新規事業や企画などは全て凍結して、新卒採用も難しい状況で来年度入社を予定していた新卒の内定者へ謝罪した上で内定の取り消しを通達したそうだ。
その中には俺やリカコさんの母校の学生も含まれてたそうで、大学側からクレームが入り、大学紹介のパンフレットやHPに掲載されていたリカコさんや会社の紹介等も全て削除された。
そんな中でも今は現状の売上を守る為に、藤田さんが陣頭指揮を執って、スタッフの皆さんが必死に頑張ってくれている。
本当に頭の下がる思いだ。
事故による賠償などに関しては、保険会社に交渉を代行して貰い、そちらは滞りなく進んでいるそうだ。
まだ治療中でリハビリも先のことだし、後遺症もどうなるか分からないので、最終的な額がどの程度になるのかは未定だが、かなりの額になるそうだ。
不貞行為に関する斉木の奥さんや斉木自身との交渉は、リカコさんの快復を待って貰っている状況で、今のところ進展は無い。
リカコさんの回復状況に関しては、骨折した右膝は順調で、8月中には退院出来る見通しだ。
他にも怪我をした顔や腕に関しても、既にガーゼ等は外されて、傷跡が残らない様に看護師さんにアドバイスを貰いながらケアをしている。
しかし、怪我の回復は順調だが、精神面ではダメージが大きい様で、まるで別人のように無気力な人形の様になってしまった。
そして俺も、地元の病院への転院前後は、会社経営者の夫として気丈に振る舞うことを意識出来てたが、アルファロメオを廃車にした頃から張り詰めていた糸が緩んでしまったかの様に、リカコさんの世話を黙々とこなすだけの日々になっていた。
リカコさんは起きててもほとんど喋らず、俺が傍に居ても目を合わせずに、ずっと窓の外をぼーっと眺めている。
トイレや湯浴みも俺が介助しているのだが、パジャマや下着を脱がせる時も体を洗ったり拭いたりする時も、ただ黙ってされるがままだ。
そんなリカコさんを毎日見てても、早く元気になって以前の様に戻って欲しいのか、このまま大人しく喋らないままで居て欲しいのか、自分でもよく分からない。
リカコさんの不貞行為に対して、俺はまだ結論が出せないでいたから。
何よりも、リカコさんの口からその話を聞くのが怖かった。
アンタなんて、最初から利用するつもりで打算で結婚しただけだ。
アンタとのセックスが退屈でつまらないから、他の男としてたんだ。
養って貰ってた分際で、私に文句言うつもりか。
愛してるって言ったのも、アンタを利用する為の方便だ。
そんな言葉を吐き捨てられるんじゃないかと怖くなり、俺からは1度もそのことを話したことは無い。
リカコさんも何も喋らないから、俺が病室に行って二人きりになっても、お互い黙ってそこに居るだけになっている。
お盆休み中に一度ハルカさんがお見舞いに来てくれた時も、俺達夫婦のそんな状況が異常に見えたようで、帰りがけに病室の外まで連れ出されて、かなり心配された。
沼津の義両親や義妹のハナコさんも度々様子を見に来てくれたが、多少事情を話してあったせいか、俺たちがそんな様子でも責めるような事は一切言わず、労わってくれていた。
そして、そんな夫婦の関係は、退院して自宅での療養が始まってからも変わらなかった。
ウチのマンションは、バリアフリーが整っているので、リカコさんでも車椅子や松葉杖など使えばある程度の行動は可能なはずだが、寝室のダブルベッドで一日中ぼーっとして過ごしている。
俺は用事がある時だけ寝室に入り、寝る時も何かある時に直ぐに対応できる様に同じ寝室だけど、来客用の布団を床に敷いて別々の布団で寝ていた。
けれど、朝、リカコさんが目を覚ますと「おはよう」と声を掛けるが返事は無く、寝る時に「おやすみ」と声を掛けても無反応だった。
ただ、自宅介護を始めて1週間程すると、唯一リリィがリカコさんに甘えた時だけは、リリィと話すようになったが、やはり俺とは目を合わせることは無く、お互い必要最低限のことしか話しかけなかった。
ハルカさんは俺たちの事が相当心配だった様で、退院して自宅に戻ってからは二日に一度はマリンちゃんも連れてお見舞いに来てくれた。
ハルカさんはお見舞いに来ると、食料品を買って来てくれたり、トイレの介助も俺の代わりにしてくれたし、リカコさんが生理の時には面倒を見てくれたし、毎回キッチンでみんなの食事を作ってくれたし、俺に「少し外の空気を吸いにリリィの散歩に行って来たら?」と、留守番までしてくれたりして、リカコさんにも沢山話しかけてくれていた。
ハルカさんはノー天気に見えて、義理堅く、情に厚い人だった。
料理教室を立ち上げる前にリカコさんが相談に乗ってくれたことや、俺がアルバイトとして料理教室を手伝ったことや、階段から落ちて助けに行ったことを今でも感謝してくれてて、「義理と人情を忘れたら、人間お終いだよ」と明るく笑いながら話してくれた。
ハルカさんが居てくれる時間は、俺にとっては唯一気が休まる時間になってて、でもハルカさんが帰ってリカコさんと二人きりに戻ると、怒り、悔しさ、悲しみ、後悔、恐怖、不安、その他様々なネガティブな感情が次から次へと頭の中でグルグル回るので、自分でも相当ストレスが溜まっている自覚があった。
次第に夜中に目が覚めることが増えて寝不足が続き、固定電話やスマホが鳴ると救急隊員から連絡を貰った時の事を思い出して吐き気を催したり、胃痛や胸やけを感じることも増え、自宅での介護生活が1カ月を過ぎた頃には円形脱毛症にもなってしまった。
3月頃からずっと不安でストレスを感じていたし、追い打ちをかける様に事故と不貞行為発覚と介護生活と続いて、俺もボロボロだった。
そして、ハルカさんがお見舞いに来てくれた時に、その円形脱毛症を見られたく無くて、部屋の中でもニットキャップを被ってたら、直ぐに怪しまれて、隙を見て帽子を取り上げられ、結局見つかってしまった。
俺の頭に出来たハゲを見たハルカさんは、泣くのを我慢している時の様にくしゃくしゃに顔を歪めて、「今から散歩に出かけよう」と言って、リリィとマリンちゃんを部屋に残して留守番させて、俺だけ強引に外に連れ出された。
部屋を出た時から左手をずっと強く握られてて、ハルカさんはその手を引っ張るようにして俺の前をズンズン歩いていたが、表情は見えなかったけど時々鼻をすすってて、やはり泣くのを我慢しているようだった。
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