第三話 入り口
初めて、あの信じられないぐらい狭い客間以外の部屋に通された。
リビングだった。木製の四角いテーブル。セットになっているであろう木製の椅子。全部の椅子にふかふかのクッションが置かれていて、でも、その中のひとつだけが明らかに真新しいということに気付かないわけにはいかない。
──あの子の席だ。
「そっちに座れ」
と光臣が指差した椅子は、國彦のものだと思う。遠慮なく腰掛けた僕の目の前に、マグカップ……が……置かれた。
え? どうした? 光臣、疲れてるのか?
それとも毒でも入っているのか?
「どうだった」
短く問われ、僕は小さく首を傾げる。報告したい内容が多すぎる。
まず、光臣はいじめ加害児童の親から子どもたちへの『祓い』を依頼されている。光臣的にはこれがメインの業務だろう。
だが、響野憲造とともに加害児童の保護者と面会した僕の感想としては、子どもたちが主張している『悪魔』なんて本当に存在するのか? という疑問が大きい。可能であれば、まずそこから話し合わなければいけない。光臣と話し合いなんていうのが……可能で……あれば……。
更には、この家の問題だ。錆殻本家。死んだ従妹。光臣の娘。彼女を死に至らしめたのが本当に狐憑きの一族なのだとしたら、従妹の死と苅谷夜明に対していじめという加害行為を行った上、現在自分たちも『悪魔』を目撃して苦しんでいるという加害児童たちのあいだには何らかの繋がりがあると仮定することが可能だ。狐、という繋がりが。
「おい」
光臣が、苛立ったようにテーブルの上を指先でコツコツと打つ。菅原を呼ぼうかと思ったが、やめた。僕だってここに長居をするつもりはない。
マグカップの中の紅茶をひと息に飲み干し、会談に持っていったトートバッグの中からクリアファイルを取り出す。悪魔の絵の、原本だ。響野憲造に渡そうかとも思ったのだが、彼は「俺は写真だけ撮らせてもらえればだいじょーぶ」と言い、本当にデジカメで撮影だけして帰って行った。
「なんだ、これは?」
「悪魔の絵です」
「悪魔?」
光臣が大仰に顔を顰める。左手が静かに口元を覆い、「悪魔だって?」という呻き声が聞こえた。
「……おまえ、どう思う」
「虚偽の申告をしていると思います。特に男子生徒3人は」
ヤギの角、ヤギの頭、額に五芒星。粗雑な落書きのような絵。
「会合に同行してくれた雑誌記者の男性は、バフォメット? とかいう悪魔を描いた有名な絵を検索して模写したのではないか、と言ってました」
「同感だ」
ちょっと驚いた。光臣の口からそんな、肯定的な台詞が出てくるとは夢にも思わなかったからだ。
どうしたんだろう。やっぱり体調でも悪いんだろうか。
「バフォメットの模写が3枚──」
光臣の左手が絵に触れる。
「──狐が2枚」
「そこも、なんというか納得が。浅瀬船中学校に出るのは悪魔であって、狐ではないですよね?」
光臣は黙っている。僕も、口を閉じる。
短い沈黙が落ちる。
「市岡か?」
光臣が呟いた。
またその名前だ。
呪い返しで、従妹の命を奪った──とされている狐憑きの一族。
返されるほどの呪いを放ったのが錆殻家のいったい誰だったのかという問題はあれども、呪いそのものを的確に跳ね返して来るというのもなかなかの強者だ。
その市岡が、やはり関わってくるのか?
光臣は黙っている。僕は、そろそろ、帰りたい。菅原のことも待たせているし。
「週末」
絵を睨み付けたまま沈黙する光臣に、声を掛ける。
「雑誌記者の男性と、苅谷夜明さん──いじめ被害者の女性が現在入院している病院にお見舞いに行く予定です」
光臣は何も言わない。
「伯父さんへの依頼が、『祓い』なのは承知しています。でも、この事件は、」
何かおかしい。
最後まで、言うことができなかった。
光臣の背中の向こう、システムキッチンがある空間がぐにゃりと歪んだ。
手が。
出てきた。
人間の手ではない。似ているけれど。毛むくじゃらで、節くれ立った六本の指。長い爪。それが、空間を引き裂くようにして現れて、光臣の、首に──
「伯父さんっ!!」
叫んで、咄嗟に手元にあったマグカップを投げ付けた。だが効かない。指が呆気なく陶器のマグカップを破壊する。
光臣がゆっくりと顔を上げる。青褪めている。意識はあるのか? ないのか? 薄っすらと開いた口の中に、毛むくじゃらの指が侵入する。舌を掴む。そうして──
「な、んだよ……これ……!?」
手、腕だけではない。顔が。空間をぶち破ってヤギの角が、黒い顔が、額の赤い五芒星が現れる。
ズズズ
ズズズズズズズズズ
ズズズズズズズズズズズズ
悪魔。バフォメット。光臣の細い顎を掴んでいる。殺すつもりだ。首を捩じ切って。
おいふざけるな。まだ仕事は始まってもいない。
なんなんだ。こいつは。
「うわあ! 気持ち悪いですね!!」
停滞した空気をめちゃくちゃにシェイクするような、馬鹿でかい声がした。
菅原!
「あなたが浅瀬船中学校の『悪魔』ですか? そうかなぁ? どうかなぁ? 菅原にはどうにも、あなたが本物だとは思えないんですけどねぇ────」
菅原は靴を履いていた。玄関から入ってきたわけではなさそうだ。顔の長い──異常に長い、1メートルぐらいはあるんじゃないだろうか──悪魔の腕はその顔のデカさに釣り合う長さと太さをしていて、光臣の目はどこかうつろで、
「父さん!」
國彦の声だった。そうか、國彦が、菅原をこの家の中に入れたのか。
菅原は人間ではない。招かれなければ、他人が所有する空間に入り込むことはできない。
では、今、光臣の背後に出現している得体の知れない存在は?
「火を、お借りしますよ」
菅原の行動には迷いがなかった。男子生徒3人が描いたいびつなバフォメットの肖像画を一枚引っ掴むと、國彦が差し出すライターを手に取り、容赦無く紙そのものを焼き払った。
光臣の首を絞めていた、口の中に手を突っ込んでいた奇怪な存在は、空気に溶けるように消えた。
「父さん、父さん、しっかりして……!」
テーブルの上に上半身を投げ出した光臣を、國彦が半泣きで揺さぶっている。手の中にほんの少しだけ残った灰を握り拳の中で更に粉々にしながら、菅原が溜息を吐いた。
「國彦さんが私に気付いてくれて良かった」
「菅原、GOサインが出ないと入れないもんな、家とか」
「左様です。そして今、ひとつだけ分かったことがあります」
テーブルの上に残された4枚の絵。それを指差して、菅原は続けた。
「血を混ぜ込んだインクか何かで、描かれていますね」
「は?」
「おそらく先ほどの気持ち悪いヤギのような物体の、出入り口として使用するために」
ちょっとちょっとちょっと。
何言ってるんだ?
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