第8話 あのとき手を握ってくれたら 

 私は半病人の体で、自分のスマホ通知をオフにして取り憑かれたようにチャット履歴の読み込みに没頭した。絶望の種は次から次へ際限なく見つけることができたので、私は毎日新しい傷を拵えては瘡蓋を剥がし自分が腐っていくのを感じていたが、インド男事件の真相に打ちのめされた。


 濡れた犬のような顔でしょぼくれる夫に苛立ち呆れながら、詰りの言葉を何度も何度も飲み込んでいた。一連の顛末について説明も弁解もなく、それが余計に腹立たしかったが、罵ったところで虚しいだけだとも思っていた。

 しかし事件の背景に自力で行き着き、いつ打ち明けるつもりだったと問うたとき、話すつもりはなかったと返ってきた言葉に絶望し、深いところへ沈んでしまったのだ。


 哀しく辛く悔しく腹立たしく惨めで痛くて寂しくて、予感していなかった自分が恥ずかしくてならない。嘘を重ねていたこと、尋常でない額をボッタクリバーに自ら投げ捨てたこと、出稼ぎ女に入れ上げたこと、会えなくなっても執着していること、既に相当額を渡していることーーー。


 あまりにばかばかしい。こんなことが自分の歴史に入り込んでくるなんて。


 そして、踏みにじられた人生のパートナーとしての私。こんな屈辱を受けるなんて。


 何と言っても、女と私を組み込んだ移住計画が、そんな構想を持てることが、薄気味悪いのだ。隣人として暮らすという彼の妄想は私の理解を超えている。

 さらに、素敵な食事の時間も、春の旅行のときも、夏の夜の散歩も、雄大な山を眺めながらも、美しいコンサートホールでも、映画の合間にさえも、女と分刻みで会話をし続けていたこと。一緒に見ていたはずの景色が、音が色が温度が風が匂いが、私の時間が消えてしまった。

 何よりも哀しいのは、突然の来訪者に怯える私に寄り添うことなく、女の安否を優先しその夜も電話をかけて励まし慰め翌日も次の日も会いに行っていたこと。女を無事に逃げさせ、怖れ引きこもる私には事情を打ち明けるでもなく、軽口を向けるばかりだったことだ。


 あのとき、手を握って肩を抱いて一緒にいるから大丈夫だよと言って欲しかった。


 私だって安心させて欲しかった。


 写真の女はどこか私に似ていた。のちに長い闇から這い出ようと決心した次の日、私は髪を15センチ切って色を変えた。


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