第5話 匣の中はすし詰め状態
転職ちゃんの名前はJと言うらしい。
夫より25歳も年下の既婚で子供が二人、良い話し相手だけれども決して浮気や不倫の関係ではないと、直接会えば分かるということだった。
「会う?」と訊かれ思わず目を剥く。老若男女だれであろうと私は夫の相手に会う気など微塵もない。相手に訊きたいことなどひとつもない。
口が立つ人でないことは分かっていたが、夫は自分で関係を説明することを卑怯にも放棄した。自分のスマホのロックを解除すると、チャットを全て読んでみて、そんな関係じゃないと分かるから、と言うのだった。
大した事前説明もなく、故に大した防御もしないままに、私はチャットを開いてしまう。スカイブルーのアイコンは、中身の詰まったパンドラの匣であったのに。
パンドラの匣というのは、開けてはならぬという禁忌を犯したためにこの世のあらゆる災禍が飛び出してきた、というギリシア神話だと理解しているが、私は軽く手に取ってしまった。あれ以来何度も、これは何の報いなのか、過去のどのような悪事のためにいまこれほどの仕打ちを受けているのだろうと考えてしまう。
そもそも私は無駄に悲観的思考の持ち主で、怖ろしいことを妄想しては自分勝手に傷ついたりする傾向があるが、しかしこんなことは想定外だった。
この痛みはいつか和らぐのだろうか。何度も立ち返ってきてしまうこの日に戻らずに前向きに歩ける日が来るだろうか。
蓋を開けて手渡されたスカイブルーの匣の中を覗き込む。
およそ五ヶ月間、分刻みのドッジボールから生み出されたテキストは凄まじい量であった。それを古い順に追っていく。読み進めるうちに明らかになること、湧いてくる疑問、質したい発言、衝撃的な事実、が押し寄せて、私は分刻みで潰れていく。
重なった嘘、軽んじられた惨めさ、知らずにいたという恥の感情、一緒に過ごしたときをないものにした怒り、屈辱、哀しみ、伴侶がこれほど愚かな人間だと気付けなかった悔しさ、馬鹿にされたという思い。自尊心がひび割れて、幾つかの人間的情感を喪った。気道が狭まるようで息が苦しく、皮膚に痛みを感じた。
心の被害は甚大だった。これまで、私はあまりに平和だった。
このあとの数日間は、膨大なテキストを読み続け明け方に薄く眠る日々だった。写真に撮らせてもらった会話を繰り返し見返している時、ひび割れた心を叩き潰す幾つかの事実に気付いてしまう。
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