宵々、裡に火は灯る
それからはあっという間だった。
捨てに行くのも億劫だったゴミを片っ端から片付けて、毎日2回風呂にも入って、昔からワキガだったから髭のついでに毛の処理もして、服も出来るだけよれていないのを選択し直して綺麗にした。
大掃除みたいなのは出来なかったけど、それでも最低限出来ることはやった。少しずつ出来ることをやっていったら、気持ちもちょっとだけ軽くなった。身体を動かしてアレコレやってみると、次第に何も考えなくなった。
もちろん、鬱が消えたわけじゃない。ただ鬱でいる時間が減ったことと、ただアイツと会う為に色々とやっている自分を頑張れていると思えるようにはなっていた。
明日が移動日、そして約束の日というところで、冷静に鬱について考える時間が生まれていた。
少し綺麗になった部屋の中、煙草に火をつける。
埃の積もった段ボールはそのままだけど、いつもより煙草が美味い。
緩やかに燻る紫煙を眺めながら、イヤホンをつけて音楽を流す。
思えばずっと辛いものを忘れるための煙草だったけど、今は気持ちを落ち着けて考えを整理するためのものになっていた。
穏やかな気持ちのまま、思考の底へと沈んでいく。
鬱になってからわかったことがいくつかある。
鬱の奴に頑張れって言うなっていうけど、それは半分正解でしかないと思う。むしろ変な気を遣うならどうしたいのか、何が出来るかを聞いてほしかった。話しづらそうにしているなら、初歩の初歩から聞いてほしい。鬱は頑張れないんじゃない、頑張ろうとしている。ただ、頑張ろうとして苦しくなる。一緒にやってくれる誰かが必要なんだと思う。
……そんなんだから社会から見れば甘えなんだろう。でも、そう思うのはその人が頑張れる何かを持っているからに過ぎないと思う。支えが何もない状態で生きていける人間なんてどこにもいない。誰かに幸せになってほしいから、欲しいものがあるから、推しがいるから、守るべきものがあるから……。そうやって自分の支えを見つけて生きていくのが人間だろうから。
まあ、だからこそ、あの時に死んでおけばという考えからは逃げられない。さっさと死んでいれば、こんな生き恥を晒さなくても良かったんだから。幼稚な人間、稚拙な人間だなんて他人から見られずに済んだんだから。親に苦労も掛けず済んだんだから。
それでも、もし、それでも死なずにいることが許されるなら、少しずつ頑張っていきたい。出来ることを少しずつ増やしていって、自分の居場所を見つけたい。何もできないままでいると、何もできなくなっていく。それは自分一人では抜けられない。誰かの存在がなければ、抜けられない沼なんだ。
支えてくれる誰かを傷つけたくないから、言葉を飲み込む。自分なんかに意識を向けてくれる人を失望させたくないけど、どうすればいいのかわからない。そんな想いに蝕まれて、何もできずにいる。逃げたくて仕方ないのに、死ぬ勇気はない。そうするにはあまりにも人の痛みがわかる人間になってしまった。自分が味わう苦痛の何倍もの苦しみを誰かに与えたくない。自分が弱いのをわかっているから、誰かの弱さを受け入れることは出来る。でも、そんな自分の弱さを誰かに受け入れさせる真似はしたくない。切欠を探すけれど、外の世界は怖い。誰かを心の底から愛することは出来るけど、誰かの愛を素直に受け入れることは出来ない。自分がそれに値する人間だとは思えないから。まさしく生きるには向いてない、でも死ぬには多くのものを手にしてしまった状態。
それらがない交ぜになって、すべてのことが怖くなる。傍にいてくれる誰かが欲しい。全部を肯定する人じゃなく、自分を必要としてくれる誰かが。
きっと自分の根底には、どこまでも人間的な欲望があるんだと思う。それは醜くて口に出せない。だけど、そんな願いがあるからこそ誰かの為に人は動けるんだと思う。自分の人生に価値はないけど、そんな人生でも誰かの為に活かせるかもしれない。そんな想いがあるから、お礼を言われたときとか、自分が認められた気がして心が軽くなるんだと思う。
思考は堂々巡りを繰り返して、何度も何度も生き死にを考えて、それでも生きている理由を探して、辿り着くのがそんなものかと思われるかもしれない。もしかしたら、自分の為に生きろとも思われるかもしれない。
だけど、人間なんてそんなものだと思う。見知った誰かの為に生きることが、自分の為になることもある。それが悪いことだなんて誰も言えないはずだ。それが醜いことだなんて誰にも言う資格はないはずだ。
面と向かって誰かに言うことは憚られるけど、自分が愛されていることはわかっている。自惚れかもしれないけど、そう思うから何とかしたいと思っている。そう思うから、そうしてくれる誰かの為に在りたいと思っている。
嗚呼、明日が楽しみだ。
電車も新幹線も親と会うのも怖いけど、それでも会いたいから。
何本目かの煙草を吸い終わり、伸びをする。
あまり動いていなかったからか、身体は軋みを上げる。
でも、そんな痛みも今なら心地良い。
勢いよく立ち上がって、風呂場へと向かった。
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