死なずにいたら知れたこと
星野 驟雨
ワンルーム
道路に面したボロのアパート3階。明かりの消えたワンルーム。
時分は秋の夕焼け。朱は窓の外、目先の駅舎のガラスに反射して部屋に差し込む。
鋭く痛い光は掃除されないままの乱雑に置かれた段ボールを照らして、その上に積もって久しい埃に吸い込まれていく。それを見る分には、目が痛むこともなく、それを汚いとも思わなかった。むしろ、視界の端に映り込む満杯になりかけのゴミ袋の方が遥かに汚いと思った。
そんな部屋の中、横になったまま溜息を零す。イヤホンから流れてくるピアノの音がそれを掻き消してくれた。だけど、心まで軽やかにしてくれるわけではなかった。
自分は何をしているのだろうと思う。
何もしていないだろうと宣う理性に、何もできないんだと心は叫ぶ。
それが無意味なものであることを良く分かっている。
だけど、それでやめられるぐらいなら、きっとこんな風にはなっていない。
大学に進むまで、世界は素敵なものだと思っていた。
それまで大きな失敗はなかったし、自分の周りは上手く回っていたから。
少なくとも、そういった善良な人たちが傍にいてくれたから。
でも、大学に進んでからは違った。
世界はどうしようもなく終わっていて、いかに自分の周りにいた人たちが善良だったかを知ることになった。学びに来るはずの場所には遊び人で溢れ、グループワークは殆ど一人で纏め上げた挙句、その評価を他人に搾取される。その分野では有名であるはずなのに、周りにいる連中とは話が合わず、楽しさを見いだせずにいた。
他の面々が推薦で終わらせる中で最後まで受験勉強に励んだあの日々は何だったのかわからなくなった。周りにいる殆どは、高校の頃にいた学もなく軽薄で嫌な奴にそっくりだった。それこそ、本気で受験勉強をしている奴に「落ちた」だと「滑った」だのとヘラヘラ笑ってくる奴と何ら大差ないゴミに見えた。
そんな欲求不満を解消しようと金を稼ぎに夜間バイトを始めた。そこは自分にとっては楽園だった。少なくとも、生きるために金を稼いだり、責任感を持って仕事をしている人が殆どだった。バイトの給料をもらいに事務所に行った時なんかも、最近どうだとか聞いてくれる人がいた。
でも、そんな生活は長くは続かない。眠らなきゃ人は死ぬし、自分が壊れていることにも気づかない。ストレスを抱えながら大学に通い、逃げるようにバイトをして、稼いだ金をストレス発散に使って、それも徐々にできなくなって、ある日倒れた。
次第に起きれなくなっている時点で気づくべきだった。金遣いが荒くなって周りに心配されているうちに気づくべきだった。そんな人たちにまで「俺の人生だ」という想いがあって、彼らが離れた後になってようやく気付けた。
病名は双極性障害Ⅰ型だった。
あのまま死んでいたらこんなことを考えることもなかったんだろうか。
いっそのこと後先考えずに、怖がらずに死ねたならどれだけ良かったのだろうか。
今でもそう思う。
生きたいという気持ちもなければ、死にたくないという気持ちもない。自分で自分の時間を掌握している感じがなくて、この世界の時間の流れから取り残されているような感覚で、気がつけば一日が終わっている。なんとか気持ちを取り戻そうと楽しいと思えることに絡んでいって、それだけをやっている。なのに、親や現実の友達とは会いたくなくて、ただ顔の見えない誰かと遊んでいる。
奇しくも、自分が一番嫌っていた連中よりもひどい有様になったわけだ。
もし、すぐに死ねたならこんなことを感じずにいられたのに。
痛いのは嫌だから、まだ続きを見たい人がいるから、此処まで迷惑をかけた親を更に悲しませたくはないから……そんな理由をつけて死ねなかった。死ねばそれで終わりなのに、これ以上出来損ないに金をかける必要もないのに、あとの事なんかどうだっていいのに。
考えれば考えるほど、生きている意味がなかった。だけど、それでも死ねなかった一番の理由は、たとえそうだとしても自分の人生を捨てたくないと思ったから。俺の人生はこんなもんじゃないって、そう思っていたから。どれだけ落ちぶれていようと、どれだけ後悔しようと、それでも投げ捨てるには惜しく思ってしまった。
生きるってことが本当は何なのかはわからない。でも、自分にとって生きるということは、成熟することで、大きな人になることで、人を愛して誰かを支えることで、今までを受け入れて歩くことだと思う。だから、それまでは死ねないと思った。
死ぬなら仕方ない、だけど生きるまでは死ねない。そう思った。
どれだけ自分の毎日が無味乾燥なものだとしても、生きるべき人に死んでほしくはないから。幸せになるべき人に悲しんでほしくはないから。そんな誰かの為に自分が出来ることがあるのかもしれないと思ったから。
……たとえ、何もできなくても、そこにいるだけで何かを変えることが出来るかもしれないから。自分が死なずにいる理由と同じように、大切な誰かが死なない理由になれるとしたら。
所詮、これは自己憐憫とか自慰でしかないのだろう。でも、それでいい。
自分の気持ちは自分がわかっている。それを正直に認めることがどれだけ心を楽にするかもわかっている。
スマホが鳴る。
気怠い身体を起こしてみれば、初めて出来た友達で、今でも連絡をくれるたった一人の親友からのメッセージだった。
『生きてるか~?』という一文。返事しようか悩むけど、誤って既読にしてしまったからすぐに返事した。
『生きてるよ』
『おう、よかった。最近連絡つかんかったからお前の母ちゃんに連絡するところだっけ』
『やめろやめろ』
『んで、お前近頃は暇?』
『暇だね、金ねえけど』
『んだら今どさいんだ? 東京か』
『東京。帰ろうと思えば帰れるよ』
『んじゃ帰ってこねえか? みんなで飲みいくべ』
そこで返事に悩んだ。
今の身なりはとてもじゃないけど人に会えるものじゃなかった。服はよれているし、髭も伸びっぱなし。髪も伸びたままで手入れなんかもしてなかった。風呂に入ることさえ億劫になって、掃除もできてない。そんな状態で会っていいのかと心配になった。
結局は自分本位だった。失望されたくなかったし笑われたくなかった。
でも、会いたい気持ちは本当だった。
うだうだと悩んでいるところに、ラインが入る。
『お前いねどつまんねえからよ』
高校の頃のコイツからは聞いたこともない言葉だった。
よく言っていたのは俺の方で、コイツは同意するだけだった。
心がゆっくりと軽くなっていくの、氷が解けていくを感じる。
『わかった。いつ?』
そう返事した。
どれくらい久しぶりかは覚えていなかった。
でも、時計の針が少しだけ動くのを感じた。
日程を教えてもらってスマホを閉じ、そのまま横になる。
夕暮れの朱が、少しだけ色づいてみえた。
溜息が漏れる。でも、それはさっきまでのものとは違った。
誰かに求められたいと願う自分が満たされたようで、誰かに必要とされているんだって思えて嬉しかった。
アイツがこんな俺を今でも気にかけてくれるのがどこまでも嬉しかった。
誰かに求められることがどれほどの力になるのか、それは普段ではあまり気づけない。それがどれだけありがたいことなのか、それがどれだけ活力をくれるのか。たった一言だったとしても、その言葉の力は計り知れない。
この瞬間、死ななくてよかったと心から思えた。
約束の日は1週間後。
秒針はゆっくりと進んでいく。
それまでの何もなかった日々を取り戻すように。
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