第32話酔っ払いベニート②

 馬の鼻息が届く所まで来ると、カルロがもう一度アデリーに挨拶をする。今度はきちんと声を伝えるための挨拶だ。


「アデリー、ただいま! 変わりはないかい?」


 馬は歩調を緩め歩みを止めた。


「ええ。いえ、人が増えたのよ」

「こんな短期間で?」

「そうなの。もう近づいても構わない?」


 カルロが手を広げどうぞと仕草で示した。それから馬車を飛び降りてアデリーに並ぶ。


「収穫を聞きたいかい?」


 カルロがアデリーにそういうのを聞いたかのように、荷馬車から「カルロ! この人なんとかしてちょうだいよ!」と、ロセの声がした。二人は顔を見合わせる。


「連れてこられたみたいね」

「ああ、酔っ払いベニートだ。ふにゃふにゃででろでろなんだよ。アデリーはタコって知っているかい?」


 昔、本で読んだことがある。遠洋を航海していると現れる船を襲う化け物だったはずだ。


「巨体で骨がない化け物でしょ?」

「本物は小さくて食べられる海の生物なんだ。だけど、骨がなくて液体みたいにトロトロした生き物だから怖がられてる」

「小さいの?」


 船を襲うと読んだからそれはそれは大きいものをイメージしていたのに、カルロは両手で大きさを表してみせた。どうやらウサギサイズらしい。

 それにしてもどうして急にタコの話など出したのかと思っていたら、荷台から飛び出した足がゆらゆらと揺れていた。


「彼は人間だけどね。酒に骨抜きにされてるんだ。ってことで、鍛冶師のベニートだよ」


 そこに荷馬車から飛び降りて仁王立ちになったロセが「人間じゃないわよ! 言葉も通じないもの!」と、プリプリ怒っている。


「おかえりなさい。それとお疲れ様でした」


 アデリーは自分の声が上擦っているのを感じ、恥ずかしくなった。ロセが苦手なのがこれではバレバレだ。それに苦手意識を持ってると相手に伝わったらますます良くない方向にいってしまうのではないだろうか。


「あなた、まだ居たのね」


 とにかくロセは通常運転で、辛辣だった。数日廃城を離れていたからといって、態度が変化することはないらしい。ちょっとアデリーはガッカリしたが、カルロが二人の間に入って「さて、みんなで協力して下ろそう!」と掛け声をかけた。


「嫌よ! 私は十分頑張ったもの」


 ロセは即座に逃げ出そうとしたので「私が代わりにやるからいいわ。ロセは疲れたでしょうから休んでいて」とつい援護してしまった。ロセは冷たい視線を投げて、アデリーにフンと鼻を鳴らした。


「じゃあ、そうするわ。あなたがそうしてって言ったのよ。みんなに私が責められたらそう言いなさいよね!」


 言い捨てるとまるで女王様のようにゆったり階段をこれ見よがしに上がっていった。


「そういう態度は良くないよ、アデリー。甘やかしたってロセはアデリーを好きにはならないし、ただ付け上がらせるだけだよ」


 カルロの言いたいことはもっともだ。アデリーもそう思う。でも、とっさに言ってしまったことを取り消すことも出来なかった。


「気をつけるわ……人に好かれるってこんなに難しいなんて」


 自己嫌悪に気落ちして涙が込み上げたが、カルロがトンと肩を叩いて必要以上に慰めないでくれたので泣かずにすんだ。


「さ、とにかく下ろさなきゃ」


 カルロの明るい声はカリーナのアクセントの付け方そっくりだ。


「そうね、やることをやらなきゃ」


 努めて元気に答えると、ジワリと体の底から力が湧いてくるのだった。しかし、いざ二人でそのふにゃふにゃに力の抜けた老人を下ろそうとするも、脱力仕切った人間を抱えるのはやたらと難しい作業だった。


「やっぱり板に乗せて担ぎ出すのがいいか」


 寝ている呼気すら酒に染まっていて、同じ空気を吸ったらアデリーまで酔いそうだ。しかも小柄な老人から放たれる悪臭もなかなかで、近くに居るだけで息絶え絶えだった。


「この方──」

「ベニートな」

「ベニートさんは睡眠薬で目を覚まさないの? それともお酒で?」

「さあね。どっちもかも」


 荷馬車から下ろすために体を揺さぶられたり、時々腕を荷馬車の板にぶつけたりしてしまっても、まるで起きる気配がない。


「もうベニートはここに寝かせておいて、荷物を先に下ろそう。人が増えたと言っていたけど男? 女? どっち?」

「男性よ。ダグマさんは狩りに行っていて居ないけど、今なら二人も男性が居るからカルロと三人なら下ろせるかもしれないわね」

「そりゃ助かるな。あ、そうそう」


 そう言ってカルロは木箱を出してきた。アデリーに向けて箱の中身を見せる。そこにはまだ小さな黒一色の子猫が精一杯威嚇して毛を逆立てていた。


「わぁ、かわいいわ」

「やっと親から離せる子猫が居たから貰ってきたんだ。街には猫が必要だろ? ネズミは厄介だからさ」


 アデリーは威嚇してシャーと鳴く子猫に触れたくて堪らなかった。でも、今は触らず優しく「ごめん、ごめん。驚かせたわね。アデリーよ。仲良くしましょう」と語りかけた。


「母さんに渡してきてくれるかい? 母さんは無類の猫好きだし、これまでも猫を飼ってきたから世話の仕方もわかるはずなんだ」

「箱ごと運んだらいいのよね?」

「そうそう。母さんは厨房係りだし、丁度いいからね。食べ物のところにはネズミが来るし、ネズミが出るところに猫が必要だ」


 再び木箱に蓋をしたカルロが箱をアデリーに抱えさせた。始めこそ中で猫が暴れたり鳴いたりしたが、直ぐに静かになった。


「じゃあ、厨房にこの子を連れて行ったらまた直ぐに戻るわね」

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