人違いで求婚された令嬢は、円満離縁を待ち望む
渡波 みずき
01
「──だれだ、おまえは」
新婚初夜の寝台のうえに
部屋の燭台の灯りに照らされた伯爵の肌は、記憶のなかのとおりの茶褐色をしている。意志の強そうな黒い眉はひそめられ、あの夜あれほど優しげだった青い目には、隠しきれない嫌悪が
──やはり、わたくしのことなど、覚えておいでではないのだわ。
コルネリアは、実家を出るときに固めた決意を鈍らせまいと、必死に声を取りつくろった。
「わたくしは、前ワレリア男爵の娘、コルネリア・センプロニウス=バローでございます。叔父である現ワレリア男爵に命じられて嫁いでまいりました」
はっきりと名乗り、深く頭を下げる。この婚姻は
「私が求婚したのは、現男爵の令嬢、ディアナだ。おまえではない。ただちに出ていけ」
「できかねます」
「男爵家への馬車は出してやる」
「お気遣いは無用でございます。わたくしは閣下の妻ですもの」
淡々と返して、コルネリアはにっこりと笑った。
「閣下が求婚状とともに男爵家にお届けになった婚姻証明書には、すでに夫の欄に署名がされていました。わたくしがディアナの代わりに妻として署名いたしましたが、署名の際には公証人も立ち会わせました。この婚姻に、法的には何の
「……何?」
「婚姻証明書は、わたくしが18歳になるまで凍結されている個人資産とともに保管するよう、こちらへの道中で財産管理人に預けてまいりました。
伯爵は、こちらに背を向けて寝台の端に腰を下ろすと、かがみこんで頭を抱えた。しばらくして届いたのは、苛立たしそうな
「……何が目的だ」
「こちらのお屋敷にある本ですわ」
「そんなもの、好きなだけ持っていけばいい。二度と顔を見せるな」
言い捨てた彼に、コルネリアは楽しげに返す。
「あら、お優しいこと。でも、一度読めばじゅうぶんですわ。閣下の祖父君は、貴重書の
うふふ、と笑って膝を崩し、コルネリアは伯爵のほうに身を乗り出した。
「いかがですか? わたくしをここに置いてくださるの? それとも、公証人の立ち会った婚姻の無効を申し立てますか? 何代遡っても、わたくしと閣下には血縁はございませんから、近親婚を主張することは不可能でしょうし、一年どころか一週間も経たないうちから妻の不妊を理由にはできませんわね」
「女狐が」
怒りのこもった低い声の主は、しかし、こちらを見返りもしない。その背にむけて、見えもしないと知りながら、こてんと首を傾げて、コルネリアは嘲り笑った。
「閣下ともあろうかたが、署名済みの婚姻証明書を送るような失敗をなさるだなんて、思いもよりませんでしたわ。悪用してくださいと言わんばかりです。おかげさまでわたくしは助かりましたけれど。ましてあなたさまは、あのディアナに求婚なさるようなうわついたかたには見えませんでしたのに」
「ディアナを悪く言うな。それに、私はおまえに会った覚えはない」
「あら。建国記念日の夜会で、お目にかかりましたのよ?」
そっけなく言って、コルネリアは寝間着のあわせに手をかけた。するりと細い肩から布地を脱ぎ落とすと、薄手の肌着と真っ白な胸元が露わになる。あられもない姿で、意を決して、うしろから伯爵の肩に手を置き、からだを寄せ、耳元でささやく。
「観念なさいませ。初夜に新妻を放っておかれては、たとえ人違いとて、閣下は妻に恥をかかせた男だと、
「この
むこうを向いたまま、苦々しげに言われても、いまさら引き下がる気はない。コルネリアは伯爵の両肩から手を前に滑らせ、首にしがみつくように彼を抱きすくめた。
意に反して、からだが震えた。男にここまで肌を密着させたのは、初めてだ。震える手の甲に、伯爵の大きな手が重なった。
「──心意気は気に入った。だが、かならずやこの婚姻を無効にしてやるからな」
強い口調で言って、振り返ろうとする彼から、コルネリアは顔をそむけた。
泣きそうだった。
あれだけの減らず口を叩きながら、伯爵がディアナをかばい、この婚姻を無効にすると息巻くのを耳にすると、きりきりと胸が痛んだ。
伯爵に寝台のうえに押し倒され、白金の髪が広がる。コルネリアは顔を両手で覆った。
──男のひとって、好きでもない女でも、平気で触れられるのね。
知識としては持っていた。だが、いざ目の当たりにすると、落胆が胸のうちに広がっていく。
「ディアナはその名のとおり、女神のようにうつくしい女性だ。あれほど心根が清らかで話の弾む相手は、後にも先にも彼女のほかに出会ったことがない。おまえなど、きっと足元にも及ばない」
伯爵のつぶやきに、とどめとばかりにこころをえぐられて、からだから、ふっと力が抜ける。顔を覆う手が緩み、視界が明るくなる。
いつか夜会で目にしたとおりの精悍な顔立ちが、すぐ近くにあった。視線が交わったとたんに、彼の紺碧の双眸が驚愕に見開かれた。だが、そのくちびるが刻むのは、自分の名ではない。
「ディアナ……」
──違う。わたくしは、ディアナなんかじゃない。
歓喜にあふれた顔で、伯爵はコルネリアのからだをかき抱くと、確かめるように頬に手を添え、ゆっくりと顔を近づけてくる。くちづけられて、目を合わせたまま、愛を囁かれる。
「ああ、愛している。あなたが欲しかったんだ、ディアナ」
そうか。伯爵は、仮初めの妻に好きな女を重ねることにしたのか。そちらがそうやってコルネリアを抱くつもりならば、あくまでも妻自身を見ないつもりなのならば、しかたがない。
諦めて、コルネリアは彼に身を任せた。そもそも、書物には書かれていないような具体的な知識は、持ち合わせがない。夜の営みの流れは、相手に委ねるほかない。そのような現実以上に、身のうちの恋情が、彼を求めていた。
自分だって、ディアナの容姿に群がる男たちのことは笑えない。なぜなら、コルネリアは、このドミティウス伯爵と初めて出会い、ことばを交わした夜会の日、彼にひとめで魅入られてしまったのだから。
伯爵に愛おしげにやさしく触れられて、とろけた目で見つめられているのは、みっともない本狂いのコルネリアではない。彼がコルネリアを通して見ているのは、うつくしいディアナだ。頭ではわかっていても、気持ちは裏腹に浮かれ、からだは彼の愛撫に従順に応えていく。
「ディアナ、どうか私のものになってくれ……ッ」
熱に浮かされた調子で、新婚の夫は、従姉ディアナの愛を乞う。好いた男との共寝に夢を見ることはできずに、コルネリアのこころは、完全に閉じた。
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