snow holiday
𝚊𝚒𝚗𝚊
目が覚めるとギターが鳴っていた。それはけして大きな音ではなく、ぎりぎり聴こえてくるくらいのボリューム。そのわりにはやけに頭に響く。ギターは同じフレーズをずっと繰り返しているようだった。速弾きのディストーション。CDがかかっているのだろうか。部屋の中を見渡すと、薄明かりの中にプレイヤーの電源ランプが灯っていた。眠る前に聴いていたCDは、最後の曲を流して停止しているはずだ。こんなに小さい音では音楽を聴かないし、それにこんなギターの曲は持っていない。
電源ランプを見ていると、ふいにギターの音が消えた。水が勢いよく水道管を流れる音が続いている。二階の住人が水道を使っている。
そうだ。さっきのギターも、左耳にだけ聞こえていた。
水道管の音は鬱々と続いた。数分で止まったけれど、しばらくの間起き上がれない。水が流れる音は両耳から聞こえていた。現実の音に違いない。左耳にだけ音が聞こえたのは去年の夏以来、久しぶりだった。男の声の幻聴が聞こえることが多い。たまに女の声。人の声ではない音が聞こえたのは初めてかもしれない。
いや。一度、あのディストーションギターを聞いたことがある。十年以上前だ。あの時、私はベッドの上で目を閉じていた。目を開けることも起き上がることもできなかった。幻聴だったのか夢だったのかわからない。大音量のギターが鳴り響き、何か怖しいものに足を摑まれていた。見えないけれど怖しい何かが、私を引っ張っている。ベッドから引き摺り下ろされたら終わりだ。直感が叫んでいるのに、手には少しも力が入らない。皮膚の感覚すらなくて、意思だけがベッドの上に留まっていた。
プレイヤーの再生ボタンを押す。二階からの音が聞こえないくらいのボリューム。
きっと、私の部屋もうるさい。
洗面所の扉を開閉する。がらがらというこの音も二階に響いているだろう。
歯を磨いて顔を洗った。二月の午前六時。部屋に戻ってカーテンを開けても、窓の明かりは弱々しいままだった。雪が、降っている。
この町で今年はじめての雪が舞っている。粉雪というには湿っていて、ぼた雪といえないくらい細かい雪がゆっくりと。
ベランダに出て雲から舞い降りる雪を見上げた。
「窓、閉めてくれる? 雪の音が聞こえないじゃん」
男の声。両耳から聞こえる。二階のベランダで男が煙草を吸っていた。
「雪の音がするの?」
「いまは聞こえないよ」
部屋に戻ってCDを消した。
「聞こえる?」
「うん、聞こえる。ありがとね」
私には何も聞こえない。バス停に近づいたバスが立てるチャイムが、通りから響く。
「そこに雪の音を聞きにいっていい?」
男は何も言わずに空を見上げている。
「ここだと聞こえないんだけど」
「何が?」
やっと男がこっちを向いた。
「雪の音」
焦茶色の髪に少し雪がついている。
「そこに行っていい?」
「ああ。さっきの、また幻聴だと思った」
部屋着の上にN−3Bを羽織って外の階段を上る。本当に来たの、という男は石鹸のにおい。
「雪の音がするの?」
「聞こえない?」
「きっと、幻聴だよ」
男にマルボロメンソールをもらって、久しぶりに吸った。
「君の声は幻聴じゃなかったのか。そういえば左からも聞こえてたかもね」
「左利き?」
男が右手に持つ煙草を見て気がつく。
「そうだけど」
私は右利きで、右手で火を点けるから、左手に煙草を持っている。
「左利きの人は右から。右利きの人は左から」
「なに、それ」
「私も雪の音が聞きたい」
「ねえ、さっきのなに?」
「さっきのって?」
男はいらついたみたいに煙草を消して、部屋に入った。戻ってきた男は二本のビールを持っていた。
「飲むでしょ」
「ビールきらい」
「えー」
「うちからお酒もってくる」
「待って。俺、飲み屋やってるんだ。君が飲みたい酒もうちにあると思うよ」
「じゃあフローズンストロベリーダイキリ」
「ストロベリーダイキリでいいかな」
男が作ったイチゴ色のカクテルを、ベランダから空に掲げた。雪が少しずつ、グラスの中に溶ける。
snow holiday 𝚊𝚒𝚗𝚊 @aina
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