第32話 魔法使いの失念
新たな手掛かりを見つけた伊織は秋葉原ダンジョンの五層にある泉のほとりにいた。
一般に回復の泉だの、聖なる泉だのと呼ばれる澄んだ泉のほとりで彼はその場に片膝をついた。
この秋葉原ダンジョンの中において現状確認されている数少ない『安全地帯』と呼ばれるこの超自然的な場所は飲むことや傷にかける事で外傷や体内の悪影響を消し去ることができる。
あらゆる影響に効果があり、内部外部の傷、毒による影響、呪いと言った超自然の物、はては疾患まである程度の効果を示す万能の泉だ。
疾患に関しては完治まで行くことはまれだが症状の抑制はできるし、呪いを解けるというのがエクスプローラーには大きいウェイトを占めていた。
これだけ聞くとすごい泉であるしエクスプローラーにはそれなりに重宝されているのだが、この泉周辺でしか効果が持続せず離れると二時間足らずで力を失いただの水になる不思議な水だった。
そんな泉のほとりで片膝をついて、目の前の地面にその辺の石ころで何かを彫り込んでいる。
土でできた地面は石の固さにあっけなく負け、彼の思い描いた図形がさらさらと描かれる、それは円だった。
数秒の間に書き終えた伊織はその円の出来栄えに多少の満足を得たらしい、こんなものかとこぼして、立ち上がり、泉の方に歩き出した。
先ほど絨毯を取り出したものと同じ小袋の中から、今度は
これまた跪いた彼は泉の中にその水盆に水を掬った。
両手に持ったその水盆になみなみと水が入ったことを確認した伊織はその水盆をもって先ほどの円に戻る。
その円に水盆を据えて、先ほど手に入れた髪の毛を水盆に沈めた。
ゆっくりと沈んでいく髪の毛に集中しながら、伊織は彼の中に驚くほどある使命感と魔法使いとしての矜持を円の中に流し込んだ。
誰にも見えず聞こえることのない場所でバチンと何かを叩くような音が響き、刻まれた円に沿うようにして見ることも触れることもできない神秘の幕が張られるのを伊織の魔法使いとして感覚が教えていた。
それに反応するように大気の中に満ちている魔法や超自然の力たちが円の中に殺到した。
『Oculi semper mutabiles letales `lucis Holt' speculum aquae reflectunt.《移ろいを見死る目、『軽妙たるホルト』の瞳が水鏡を映す。》』
――〈空からの目/oculos de caelo〉――
天頂に輝く星々の中で最も器用な星の力を導いて使われた呪文は目の前にある水盆にはるかかなた遠く、沈められた髪の毛の「持ち主」に焦点合わせた像を刻んだ。
『……これは……車か?』
水の中に浮かぶのはそれほど広くもない車内の光景だった、おそらくワゴン車だろう。
その社内で明確に焦点が合っているのは――
『おんな……見たことない……ない、か?』
妙な引っ掛かりが頭の中で生まれていた、おそらく見たことのない女だ、黒毛に黒い目、髪の毛の長さは肩より少し長いくらいで、目がはっきりとした――
『――ちょっと待て、黒毛?』
そこで違和感の正体に気が付いた。
彼が見つけた毛は『くすんだ赤』だ、光沢があって美しい髪だったが黒ではない。
この短時間で髪の毛を普通の手順で染めたのならまだなにかしらの痕跡が残るだろうが彼女にその気配はない。
ということは――
『――指輪、配信者かこいつ。』
変化の指輪。配信者御用達のささやかな外見的変化を与える魔法の指輪の効果であの髪色になっていたとすれば、あの髪色の差異も理解できる。
それと同時に彼の中で流れ星のように現れた過去の記憶の波が、脳で点と点を線でつなぎ始めた、この容貌がどこで記憶に残ったのか思い出し始めていた、おそらくこの女性――
『――天王女史の同期、僚氏ルルか。』
そう考えて、彼はいささか落胆した。
なぜならこれが犯人の物でない可能性が出てきたからだ。
これが明らかにそこにいるべきでない人間――極端に言えば総理大臣だの大統領だの――ならばそいつは明らかに襲撃者だっただろう、が、彼女は現場にいて何一つおかしくはない人間だ。
偶然髪の毛が木に絡まった可能性もあるし、何かの拍子に、それこそ逃げるときにあの木にぶつかった可能性だってある。
これが彼女の物だとするなら、自分は無駄な手掛かりで喜んだことになる。
『うーん……警察ってこんなこと繰り返してんのか……?』
激務だとは聞いていたがこの落胆を考えるに想像以上に厳しい任務なのだな……と彼は肩を落とす。
『……いや、待てよ?』
ここで彼は話のつじつまが合わないことに気が付いた。
リズ――天王璃珠が先ほどの無事を知らせる配信で話した概略が正しければ僚氏ルルはアプリ=コットとリズ・レクスの二人を置いてカメラマンを逃がすために先行してあの十七層から逃げ出しているはず。
――――ならばなぜ、自分は彼女に会っていない?――――
そう、自分は上層からリズ一行を太陽が落とす影のように付き従って追いかけた。
彼女達から離れたのは死体になったグリムに襲撃された時だけだし、その後シールドエルゴンの守りが破られ、彼らが死んでからはすぐにあの階層に駆け付けた。
その際、彼女とカメラマンには出会った記憶がない――存在を認識した事すらない。
『……そうだ、なんかおかしいと思った――』
あの層についたときはてっきり先に逃げたのだと思って気にしていなかったが――考えてみれば明らかに妙だ。
自分は最短コースを走った、なのになぜ一直線に階段を目指すだろうカメラマンにも逃げる僚氏ルルにもあっていない?
よしんば直線ルートから外れているなとしても、まったく気づかずに走り抜けたりはしないだろう、だって伊織はどの層で彼女たちが襲われているかわからなかったのだ、それを探すために神経を限界まで研ぎ澄ませていた、その上で『彼は僚氏ルルを見かけていない。』
自分が唯一神経を周囲に向けていなかった瞬間は――『十七層に入り、トレントに襲われている二人を見つけた時』だけだ。
――ゆえに、あの層のどこかに彼女が隠れていても自分は気づけなかった可能性がある。
『……』
伊織の眉間に深いしわが刻まれた。
その視線の先には、誰かに向けて笑顔を向ける少女の花のようにほころぶ笑顔があった。
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