第7話 平均的な魔法使いの夜
変化は短く、しかし劇的に起きた。
彼女を食わんと大口を開けていたオーガの体が、突然がくんと動きを止めたのだ――まるで、何かにつなぎ留められたように。
「ガァ!」とオーガの怒声が響く。意図せず自分の行動を妨げられた怒りの滲んだ声だ。
何が起きたのかはわからないが明確に自分に対して敵対的な何らかの力が働いたことをオーガは理解していた、それをどうにかせねば目の前の生き物が食えないことも。
行動は迅速だった、ぐるりと巨体を回転させたオーガは自分の動きを止めた者の正体を見た。
自身の角に向かって伸びていたのは――いかなる奇跡か、岩のロープだったのだ。
――なんだぁ……?――
オーガは明らかに困惑していた。いまだかつて、この迷宮の中でこのような不可思議な物体を見たことはなかった。
なかったが――
――邪魔!――
それを壊すことにためらいはなかった、これが動きを止めているのは明白だ。
大きく手の内のこん棒を振りぬいたオーガは岩のロープを叩き壊した。
地面を揺るがすほどの衝撃を受けた石の綱は、一瞬の拮抗を経て、砕け散った。
ボロボロと崩れる縄を見つめて、しかし、オーガは警戒を解かなかった。解けなかったというほうが正しいのかもしれない。
これは明らかに今まで見たことのない現象で、自分に敵対的な何者かの攻撃であることは明らかだった。
ぐるぐると威嚇するようにオーガの喉が鳴った、そちらに何がいるのか見定めるように目を眇めて石のロープの先、何もないように見える暗闇の中を見る。
――《それ》は距離にして50メートルほど先に居た。
《それ》は夜をそのまま切り抜いたようにそこにたたずんでいた。
いつのまにやら九時を中ほどまですぎた世界に降りた夜の帳の中、闇に溶けた輪郭はひどくぼやけていて、《それ》正しい座標を示さない。
しかし、人ならぬオーガの目には、《それ》がまるで人のそれのように映ってた。
オーガは警戒を強める、夜の中にあってなお獲物の姿を逃さないオーガの目をもってしても、それの正体がつかめないからだ。
――明らかに、自分の領域に存在しない敵だ――
そう考えた角持つ化け物が手に持った武器を持つ力を強めるのと《夜》が動き出したのはちょうど同じタイミングだった。
《夜》の一部が動き、まるでいざなうように手脳に見える部分を招いた。
それをオーガがどうのように受け取ったのか、それは定かではない。
ただ、その後の行動は明白だった。
「ゴァア!」と一声鳴いた角持つ異形は肩を怒らせて、《夜》に向かって突進した。
それを見た《夜》はあざ笑うようにゆったりと体を翻して、地面を蹴って駆け出した。
――そして、その場には
「……助かっ、た?」
目の前で起きた光景を石のように見つめていたヨルガオ――西園花は全身の力を抜き、その場にへたり込んだ。
生きていることがうれしくて仕方がなかった。
「よかったぁ……よかったよぉ……」
涙があふれた。
止まりそうもなくあふれてくるそれは彼女の心がいかほど限界だったのかを示しているようだった。
しゃくりあげて泣いている少女を夜の闇だけが慰めていた。
――木々を薙ぎ倒すのではないかと思うような怒声が、流れるように夜闇を滑る《夜》の背に向けて放たれた。
それは異常な振動を伴う「攻撃」だ、当たれば体がひしゃげ、弾かれ、ひき肉となってその辺の木にへばりつくだろう。
しかし、背筋の冷えるようなその一撃は《夜》の手に握られた、細くしなやかな枝によって打ち据えられて消えた。
――そろそろいいかな……――
《夜》は考える、自分とオーガの移動速度から考えて、彼女からはもう十分離れただろう。
そろそろ、けりをつける頃合いだった。
ピタリ、と足を止めた《夜》にオーガの警戒心は高まった。
これまでの幾らかの激突において、奴の能力が自分の想像の範囲外にあることをオーガはすっかり理解していた。
が、負けるわけにもいかない、ここは自分の縄張りだ。好き勝手にされては種族として、何よりも自分自身に言い訳が立たない。
手に握るこん棒に力を籠めて、オーガは気勢をあげた。
「……――」
それに答えたのか、あるいは、何かしらの準備が終わったのか、《夜》が動き始めたのは同じころ合いだった。
オーガは裂ぱくの気合でもって、今まで以上の脚力を生み出し三歩で距離を詰めた――こん棒は瞬き一つ分の間もなくこの生き物の頭を砕けるだろうとオーガは笑った。
《夜》は手に握った枝――杖を差し向けて、彼は自身が唱えていた呪文を解き放った。
――〈稲妻の打擲/
倒れ伏した角を持つ異形の人型――オーガを見下ろして、《夜》は無事に終わったことに安堵する。
ひとまず、彼女は死なずに済んだ。
決して無事ではないだろうが――それでも、とりあえず今日という日を最悪の体験で終えなかったことは確かだ。
――これが、配信者が下層から姿を消す理由だ。
怖いのだ。
別段下層に限った話ではない、死というのはたとえ復活できるという前提の上でも怖くて仕方ないのだ。
そして、上中層と下層の差は「単純に与えられる力を使っている人間では対処できない神秘的生物が出てくるかどうか」であり、彼女はそう言った部分において修練が足りなかったのだろう。
もう一度彼女がこの層に顔を出すのかはわからないが……ひとまず、今はこれでいいのだ。《夜》は――魔法使いの少年はそう信じた。
『配信、やめないといいけどな……』
そう考えながら顔をしかめていた彼――
――東雲伊織、鴻之台高校2年2組出席番号18番。
曰く名の由来は「
中肉中背と言うにはいささか腹が出ていて――あいにく、名前の通り
体系のせいか、生来の物か汗っかきで暑がり、冬に半そでで過ごせるのが少し自慢だ。
顔は印象に残らない程度に平凡であり、よく昔の知り合いに「いのり」だの「いろり」だのと名前を間違われる。
俗にいう陰キャであり、人と付き合うよりも本を読んでいるか趣味に興じている方が幸せな趣味人……もしくはオタクだった。
両親は健在、母はパート父も仕事の共働きだ、愛情は――そこそこ受けていると思う、少なくとも顔が見えないと心配される程度には。
得意教科は国語と理科、数学のテストは常に赤点であり、英語のもそれほどできない、体育も決して出来がいいほうではない、走る系統の競技は軒並みダメだ。
諸般の事情から帰宅部であり、電車通学も相まって基本一人での登下校であり、毎朝、不愉快な満員電車に揺られるのが非常に憤懣やるかたない。
そのためもあって交友関係はほぼない、クラスメイトとも話すが親しくはない程度の関係だ。
見た目のせいか、女子からの受けは悪く、少し前に消しゴムを拾ったら舌打ちされて、その消しゴムを洗われたことがある。
これが彼のすべてだ、どこからどう見てもやや平凡以下の男。
しいて普通でない点あげるなら――一人暮らしをしている事。バイトの代わりにダンジョンに潜っている事、過去に一月だけ失踪していたことがあることぐらいだ。
そんな、彼の自慢できることと言えば――ネズミの魔法使いに師事して魔法を学んだこと、その魔法で二つの王国と五つの種族を救ったことがあることぐらいだ。
『まあ、自慢しても誰にも信じてもらえんのだが。』
オーガの首をはねた剣を大きく振りぬいてその緑の血を払った――神秘学の大家にして象形学の名手である『黒毛の魔法使い』は不満げに鼻を鳴らす何かに気が付いたようにその場を後にした、急いで彼女を地上に送ってやるべきだと気が付いたのだ。
歩きながら頬を掻きながら、彼は独り言ちる――今日も結局最後は特に代わり映えのしない日だったなぁ。と。
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