第4話、ニーチェはダンジョンに行く。
ダンジョンというからには石造りの薄暗い迷宮や洞窟の中のようなものを予想していたけれど、魔王城の1階はダンジョンというよりも広大な野山そのものだった。
穏やかな小川が流れる平原には、私のひざ下ほどの背の低い草しか生えておらず視界は良好だ。空を見上げれば外の世界と変わりない青さが広がっていて、こんなにも明るいのに太陽が見つからないことだけが外界と異なっていた。
「ここは本当にダンジョンの中なのでしょうか……」
今しがた降りてきたばかりの背後の階段をみながらつぶやくと、私の数歩前を歩いていたベルナがうなづいた。
「すっかり慣れてしまったが、確かに地下にこんな空間があるなんて異様だな……。しかし心配することはない。魔王城の1階は他のダンジョンの1階と比べて難易度が低いとされている」
階段からぞろぞろと降りてきたほかの冒険者たちと一緒に、私たちはダンジョンの中だとは思えないのんきさで街道風の道を進む。
まだ子供といってもいいほど若い冒険者たちが道からそう離れていない安全な場所で草を摘んでいたり、駆け出しらしきパーティが小動物めいたモンスターを狩猟していたりと、じつに牧歌的な光景が続いた。
「七大神の像がある神殿までどれくらいかかるのでしょう?」
「このまま道を1時間ほど進んだ先にある。日が暮れるまでには帰れるだろう」
今の時刻は午後の14時過ぎくらいのはず。何事もなければ17時くらいには宿屋に戻れる計算だ。私は丸一日歩きっぱなしで疲れきった体にあとひとふんばりだぞと鞭打ち、少し前を行くベルナを追いかけた。
そう意気込んだはいいけれど、30分ほど歩いたところで私は早々にうんざりとしてしまった。疲れをごまかそうと景色をながめてみても変わり映えなく退屈だし、演説のときはあれほど雄弁だったベルナもいまは黙々と歩くだけだ。
私はベルナのとなりに並ぶと、気になっていたことを尋ねてみた。
「ベルナさん。もし本当に聖女だったら、私はどうなるのでしょう」
「もし君が何らかの神から加護を授かった聖女なら、私としてはこの町の教会で聖女として活動してもらいたい。この町……自由都市アアルトは大きな町なのだが、とある事情でいまは聖女が不在となっている」
「事情?」
「うむ……。いろいろあるんだ」
気になったけれど、ベルナがお茶を濁すと私は質問を変えることにした。
「聖女はどんなことをするのでしょうか」
「聖女は神にすがる者たちに奇跡をほどこし、その心に寄り添う光となることを求められる」
お、おお……。あまりに崇高すぎてちょっと引いてしまいます。
「ぐ、具体的には?」
「そうだな……。多いのは病や怪我の治療だ。ほかにも町を脅かすような強大なモンスターへの切り札としての役目もある」
病気や怪我を治したり、モンスターを遠ざけたりできるのかな。……うん、そんなすごい力がある聖女なら、信者を集めるのも簡単だろう。
「聖女の立場はどうなるのですか? その、待遇とかは」
「立場としては私のような地方都市の神官よりもはるかに上だ。しかし……金銭的な豊かさは保障できないかもしれない。聖女さまには一日あたり500AUを支給する決まりになっている」
あれ? 500AUって5000円くらいなんだけれど。
「……思ったより安いのですね。もしかして奇跡に応じて歩合給があるのでしょうか」
私が怪訝そうな顔で聞くと、ベルナは申し訳なさそうに言った。
「神の奇跡は富むものにも貧しきものにも等しく与えられる清らかなものである、という教義があるから、対価を求めることは禁止されているんだ」
「たしかに聖女の奇跡がお金しだいなのは何か違うと思いますけれど……。一日500AUではぎりぎりの生活を強いられるのでは?」
聖女の仕事がブラックだなんて笑えない。私が露骨に嫌そうな顔をすると、ベルナは慌てた様子で手を振った。
「待て。たしかに給金は少ないが、聖女の生活は完全に保証されている。住居から食事、衣類に身の回りの品に至るまで、すべての費用は教団が負担するしきたりだ。必要なものはできる限り用意しよう。装飾品のようなぜいたく品は難しいとは思うが……」
なるほどぉ。お給料は少ないけれど、経費でなんでも落とせるってことか。悪くない条件かも。でも兼業は認められなさそう……。
「もし私が本当に聖女だったとして、教団に身を置くことを拒否したら……?」
ベルナはまさか私がそんなことを言うとは思ってなかったようで、不意を突かれてきょとんとしてから、すぐに眉にしわを寄せてうなるように言った。
「私は君の選択を尊重したいが……本部はあの手この手で勧誘しようとするだろう」
あの手この手……。なんだか嫌な予感がする。どうか聖女じゃありませんように……。
背筋に薄ら寒いものを感じたとき、ふいにベルナが立ち止まった。道の先では大勢の冒険者たちが足を止めてどこかを見ながらざわざわとしている。
「どうしたんですか?」
「あれだ。どうやらモンスターに追われているようなんだが……」
ここから少し離れた場所にある小高い丘の急斜面に、冒険者らしき男女の姿が見えた。勾配の激しい斜面を文字通り転がるように降りてくる。
そしてその彼らを追いかけるのは、犬というには大きすぎる無数のシルエット。
「狼……!?」
2頭や3頭じゃない。大規模な群れだ。ざっと数えただけで20頭はいる。
「アッシュウルフがあんなに群れるなんて……!? どうする、逃げるか!?」
近くにいた冒険者パーティの一人が緊迫した声で言うと、メンバーたちはお互いにうなづきあって狼とは反対の方向へと駆けだす。
「――引けっ! まだ逃げ切れるはずだっ!」
それを見ていたほかのパーティたちも、一組、また一組と撤退してしまう。気が付けばあれほどまでいた野次馬たちは姿を消して、残るは私たちと四人組のパーティひとつだけになってしまった。
「ベルナさん、私たちも―—」
早く逃げましょう! そう言おうとしたとき、四人組パーティのリーダーらしき剣士の男がパーティに大きな声で指示を出した。
「あいつらを助けるぞ! 俺が前に出るからレニとガトー爺は援護してくれ。エッダはいつも通り中衛だ。二人に狼を近づかせるな!」
「あいよ。いつも通りやるさ」
すぐに返事をしたのはエッダと呼ばれた赤髪の女性だった。筋骨隆々とした太い腕とは対照的な、繊細なまでに華奢で長い十字槍を構えて、緊張した面持ちながらにやりと笑っている。
「レニも頑張る」
続いて長弓を構えたのは、絹を思わせる銀髪を腰まで伸ばした少女だ。ロッティと同じくらいの年齢だろうか。
剣士は仲間からの返事に「よし」とうなづいたけれど、緊張感なく頬をぽりぽりと搔いている老魔法使いに気づくとうんざりとした顔になった。
「おいガトー爺……。聞いてるのか?」
ガトーと呼ばれた老人は骨ばった顎でかくかくとうなづき、悠長すぎるゆっくりとした動作で古びた杖をくるりと回した。
「ラフィン。おかしいと思わんか?」
名前を呼ばれた剣士は少しいらだった様子で聞き返した。
「なんだよ?」
「アッシュウルフは勝算のない相手を襲ったりはしない。なのに狼たちはこちらへと近づいてくる。お前はそれをどう考える」
ラフィンは量産品ながらも丁寧に手入れされた剣を狼たちへと向けて、吐き捨てるように言った。
「ふん。数にものをいわせりゃ俺たちに勝てると思ってるんだろうさ」
ガトーはちらりと私を……ううん、そうじゃない、私のとなりで事態を静観しているベルナをちらりと見てから肩をすくめた。
「俺はそうは思わんがね……。ラフィン、お前には確かに剣の
「……わかったって、ガトー爺」
やれやれとラフィンが首をふったとき、
「――っ!?」
レニが唐突に矢を放った。アーチの頂点できらめいた矢は空高くから猛禽のように狼を襲い、前足の付け根を深く穿つ。
狼はびくんと体を跳ねさせ、すぐに動かなくなる。見事な急所狙いだったけれど、レニの表情は固いままだ。
「ラフィン! 急いで……!」
がらりと変わった空気に、私はやっと何が起こったのかを理解した。狼に追われていた冒険者たちの歩調ががくんと落ちている。女が足を痛めたようだ。男に肩を借りてなんとか走っているけれど、あっという間に狼たちに取り囲まれてしまった。
駆けだしたラフィンを追うように、レニが再び矢を撃ち込む。窮地に陥った男女も手にした武器で応戦しようとするが、多勢に無勢だ。
速やかに間合いを詰めた狼たちが、喉元を食いちぎらんと跳びかかろうとしたときだ。
「――【威圧Ⅳ】!」
ベルナの全身から不可視の波紋のような何かがほとばしった。びりびりとしたものが瞬時に草原を満たし、私たちのみならず狼たちまでもがぴたりと動きを止めた。
「レベル4のスキルだぁ……!? 何もんだ、あの尼さん!?」
槍使いのエッダが目を白黒させた時には、すでにベルナの姿はそこになかった。
「――【疾駆Ⅲ】」
先行していたラフィンをひと足で追い抜いたベルナは、疾風のごとく狼たちに襲い掛かる。
鉄球がいやらしくぬろんと黒光りすると、狼は甲高い悲鳴を上げて宙を舞った。
「—―次!」
大ぶりの一撃が2匹の狼をまとめて打ちのめし、爆散させんばかりの威力で弾き飛ばす。
「3匹目! 次っ!」
その勢いのまま一回転し、強烈な叩き付け。狼の頭蓋骨がアルミ缶のようにたやすく沈みこみ、悪趣味なスプラッタ映画のように目玉が飛び出た。
「あれじゃまるで神官じゃなくて狂戦士だ……!!」
狼たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げていくベルナの姿をぽかんと見るしかないエッダの隣にガトーが並んだ。
「あの神官はこの町のボロ教会の名物神官だ。『黒鉄神官』と言えば聞いたことがあるだろう」
「は!? まじかよ爺さん!? 黒鉄神官つったら、泣く子も黙るB級冒険者じゃねぇか!?」
そうエッダが驚く間にも狼たちは次々と撃破され生き残りよりも死体の数のほうが多くなる。全滅は時間の問題かと思われたとき、沈黙していたレニがぽつりと言った。
「――なんで、狼たちは引かないの」
私は狼たちを改めて見やった。引いてはいる。最初とくらべたらだいぶ後退しているし、その攻撃は散発的だ。逃げるチャンスをうかがっているようにも見えるけれど――。
と、そのとき、背後から狼の遠吠えが聞こえた。
「この声は……!? そっちだ!!」
負傷した女冒険者を抱えて戻ってきたラフィンが剣先で私の背後を指した。振り返ってみると、明らかにほかの狼よりも一回りは大きい二頭の銀狼が、アイスブルーの瞳をらんらんと輝かせて私たちの背後から迫ってきている。
「やられた……! 雑魚どもは陽動でこっちが本命だ……!」
ラフィンが舌打ちして私の前に出た。その隣にエッダも並んで槍の穂先を持ち上げるけれど、常に張り付いていた笑みはもうどこにもない。
「お前は下がっていなさい」
私の肩を優しく引いて下がらせようとするガトーに、私は震える声で尋ねた。
「あの銀色の狼は……?」
「この魔王城1階の頂点捕食者だ。アッシュウルフの王と王妃」
つまりはこの1階の主ってこと……!? ぞわりとしたものを感じた私は、助けを求めてベルナへと視線を向けた。
けれど、すでに私たちとベルナの距離は開きすぎていた。ベルナもこの状況を察知しているようだけれど、王のもとへは行かせまいと決死の抵抗を続ける狼たちに囲まれて身動きが取れていない。
「俺たちでやるしか……ない……」
震える手で剣を握りしめ、エッダと共に前へと飛び出したラフィンの背中を、私はただガトーの背中ごしに見るしかなかった。
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