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 講義までの空き時間。今の時間は椰代も小田も講義でいないため、俺は狭い部屋でヒーターを独り占めしている。探偵サークルなんてなんのために入っているのか自分でも分からないが、人がいないなら都合のいい執筆場所として使わない手はない。図書館は便利とは言っても、他人が後ろを通り過ぎたり知り合いに話しかけられたり、どうしても雑念が入ってくるのは難点だ。

 パソコンを開きブログをチェックする。

(記事を更新していないんやから、来るわけないわな)

 りくさんからのコメントは来ていないと確認して、新規記事の作成をクリックする。

 カタカタと、課題のために更新が遅れますという内容の記事を入力していく。

 禁じ手に近いが今までもその理由で更新を停滞させたことはある。ゼミの担当教授は河原教授とは違い毒気がない人物なのだが、毎週あるゼミの2ヶ月に1度小説課題を用意するのはマジで勘弁してくれないだろうか。

 義務的なブログ更新だが、言うか言わないかで全然違うものだと思う。画面越しだが誠意みたいなものは伝わる、自分が見る側でしかなかった時はそう感じていたので、できる限りなにかあれば報告するようにしている。ポイントは次回の更新時期を明言しないことだ、まだ題材も決まってないしな。

 反映された記事に誤字脱字はないか確認して、ワードを開いた。

「…」

 読み込んだ書き途中の小説に目を滑らせる。

 恋愛小説はなんとか佳境に入っている、よくある起承転結の転、ハプニングが2人の愛を確かなものにする場面だ。彼女との約束を忘れてしまった主人公が怒った彼女を追いかけるシーン。箸にも棒にも引っかからないような無難な展開で想像力の無さに呆れるが、自然ではあるんじゃないかと思うのでそのまま突き進むことにした。

(…ベタすぎるか?)

 書いてる時はあるある!ドラマで見たことある!ってな感じで導線を見つけたりとはしゃいでいたが、見返すとど素人感が拭えない。月曜の1限に行われるゼミまで3日しか残されてないわけだが、もう少しひねるべきだろうか、せめて雨の中を走るのを止めるとか(やっぱ臭すぎるだろうか、でもクライマックスには走りたくなるのはサガだろう)

 腕を組んでパソコンから視線を逸らすと、ヒーターを挟んだ対角線の机上の雑誌に目が止まった。

「……」

 俺は立ち上がり、雑誌を手に取った。

(6月号、よく見つけたなこれ)

 椰代が不用心にここに置いてるのだからサークルの共有財産ということでいいだろう。

 開かれたままのページには、附さんの受賞した例の小説が載っている。

(…また、見ることができるとはなぁ)

 椰代が持ってきた雑誌の中を見た時、俺は驚いた。

 無くなったと思っていた歴史的価値のある原稿が世界に戻ってきたような心地になった。

 6月号ということは、小説の募集は6月より以前だろう。ペラペラとめくり、締切が5月初旬だと書いてあった。講評会、水浸しになった日よりも前に応募していたのか。

 文字を目で辿る。比喩表現に丁寧に丸がつけられていて、強調されたことで、その美しさが際立って感じる。情景が自然と頭で再生される、白黒であるのに色づいた文章だと思う。

 何を食えばこんな文章が書けるのか。

 本を読む量がそもそも違うから、何ていうのは土俵が違うと言い訳する逃げだ。いくら本を読んでも美しい言葉を紡ぎ出せない人間はいくらでもいるだろう、俺も含めて。蓄えた語彙を選択する才能というものは、多分あるのだ。

 こんなに雄弁な言葉の数々を使いこなせるのに、彼女は何も俺に言わない、それはなぜか?

 …何度考えても同じ答えに辿り着く。

 俺は雑誌を置いた。

「…はぁ」

 過去が自分を責め立てるとは、こういうことを言うのか、ひどい感情。これは罪悪感だ。

 罪悪感を解消するには謝罪しかないが、謝罪はあの日にすでにしている。

 謝って済むなら警察はいらないって話なんだろうか?

(それ以上どうしろって言うねん)

 椅子に戻る。ノートパソコンのキーボードを触り画面に表示される文を読む。

『ひどい男ね』

『わざとじゃない、聞いてくれよ』

『私のこと、本気で好きじゃないんでしょう。だから忘れるんだ?』

『そんなことない、てっきり、君は平気そうだったから…』

 彼女の小説を読んだ後に読むと死にたくなってきた。

 なんだこの、ベタベタな展開とセリフは。

 才能がない。

 後半になり、やけに主人公が罪の意識に苛まれているが、心象が反映されたんだろう。痛いほど気持ちは分かったので、芸術としては成功だと言い聞かせた。やっぱ、自分の心が動く小説を書かないとな。うん。

『いいわ。こんなことで悩んでちゃ人生もったいないものね』

 明るい彼女は、無理に作った笑顔で、画面の中で許してくれた。

 言い表しが難しいが、俺にとって明るい女性というのはこんな感じに何でも許してくれるイメージだ。自分の人生を無駄にしたくない、というのを信条か、人生の命題に掲げているような、自分の決めたルールからはみ出そうとはしない、ような。天然モノの底抜けの明るさとは違う間違った認識なのかもしれないが、そういう人を俺は正しいと思える。要は、人とのコミュニケーションにおいてバランスが取れる人というのは、相手と自分との線引きがはっきりしている。

 附さんは一度罪を犯した人間を許しはしないのだろうか、だからあんな暗号を…

 …いかん、ネガティブになっている。しかも変な方向に。

 俺が一度作品を台無しにしたのは、変えようもない事実だ。

 モヤモヤしたまま彼女と接するよりも、すっぱりと謝罪をした方がいいとは分かっている。改めて謝罪はするつもりだ、でも、そのやり方を俺は計りかねている。

(てか、こんな意味わからんことするほど怒ってたとは思わんやろ。表情が分かりづらいんやもんなぁ)

「…どうすっかなー」

 つぶやいた後、突然、ガラ、と響き渡る音がした。

 俺は慌てて扉側を振り返った。

(げ)

 扉の前に立つ河原教授と目が合い、ただでさえ下がっているテンションがまた急降下する。

 河原教授は怪訝な顔を浮かべたが、一転、いつものキリリとしたいかつい顔に変化した。鋭い目で部屋の中を不躾に見渡される。

「ここで何をしている」

 …開口一番それかよ。

 俺は嫌になりながら、なんとなくの要件は想像できていた。

「ここはもう使い勝手のいい物置じゃないですよ。俺たちのサークルの部室です、学校に許可も取ってます」

 このサークルができて一年は経っていると思うが、まだ把握していない人は多い。河原教授がここにある用というのは、処分に困っている物の置き場としての利用以外、他は考えづらい。河原教授も物置としていまだに認知していると思うと、もっと探偵サークルの存在を精力的に広めるべきなのかもしれないと思える。

「ああ、あの変なサークルはここを拠点にしていたのか。椰代はいないのか」

「いませんね」

 見たらわかんだろ、と心の中で毒づく。

 教授は自分の間違いを認めたくないのか、椰代の名前を出した後に咳払いをした。タンが絡まったようなガラついた音には虫酸が走る。

「先生、どうしました?」

「いや」

 台車を引く音と共に、後ろには何人かついてきた。台車にはこの前の椰代と俺がしていたように、何十枚かの畳まれた段ボールがそれには乗せられている。

「あれ?関ヶ咲じゃん」

「え、あほんとだー久しぶり」

「お、おー」

「ここってなに?物置なんじゃなかったの?」

 最悪の掛け合わせだ。連れられてきた奴らは見知った顔で、何事もなかったように気軽に声をかけられる。俺は逃げたくなったが、ひとまず訂正した。

「ここはもう俺たちのサークルのもんや、見てみぃ、部屋が綺麗になっとるやろ」

「サークル?なんの」

「以前の状態知らないんだけどー」

 能天気な声の横で、河原教授は眉を深く顰めている。

 こんなに連れて来ていれば引き下がるのも締まりが悪いだろうが、こちらから助け舟を出すつもりはない。せっかく片付けたというのに、目の前の大量の段ボールをまた積み込まれるのは勘弁だ。あれは結構な労働だった。

 俺は何やら言っているオーディエンスを一旦無視して、教授に向き直る。

 他の生徒に全ての荷物を持たせ、身軽な河原教授は腕を組んでいる、すぐに引き下がる気はないらしい。

(…自分は持たないのに来る意味あんのか?まあ、人を信用してなさそうやもんな。サボっていないかチェックのために来てんのかもしれん)

 河原教授が細かいことは、関わりのある生徒なら誰でも知っているだろう。担当授業で携帯を使ったり私語をしようものなら、他の教授なら目を瞑る程度のものでも目くじらを立てる。確認癖があるのかもしれない。それが人間不信なのだか几帳面なのだかは知らないが、基本的に生徒を信用していないのだと、接していればびしびし感じてくるものだ。

 生徒達は入り口の壁を指差して「探偵サークル?ええ?」と若干馬鹿にした笑いも混じったような雑談を呑気にしている。気にしていては言い負ける気がしたので、俺は気丈に振る舞った。

「依頼があるなら入り口に設置してるポストに入れてください。今も多分、依頼料取ってないですよ」

「くだらん」

 俺の言葉は吐き捨てるように一蹴された。

「知られていないということは大した成果も出せていないということだろう。活動というのは努力をしているだけでは駄目なんだ、成果があってこそ組織は存在価値を認められる。俺は組織のために行動をして成果を出しているが、お前達はどうなんだ。何か一つでもそれらしい成果を提示できると言えるのか」

「…」

「言えないだろう、そうだろうな。これでは努力しているかどうかも怪しいものだ。日影者が集まって体のいい雑談場所に使っているんじゃないか?物置の方がまだ場所の有効活用と言える」

 捲し立てるように言った河原教授は言葉を区切り、軽蔑するような顔でふん、と鼻を鳴らす。

「椰代も、こんなところで無駄に時間を浪費せずに制作に打ち込めばいいものを。中途半端なやつだ」

「……とにかく、ここはもう物置じゃないんです。せっかく片付けたのにまた散らかされちゃ困りますよ」

 意識せず、言葉に棘が含まれていたと思う。

 一つ前の言葉ならおっしゃる通りと思えたが、この場面で無意味に椰代を貶められれば俺だってあいつと付き合いが長い分、癪に触った。いちいち言い方がイラつくんだよ、こいつは。

 河原教授はタンタンと、足を地面に叩きはじめた。

 俺には見慣れている教授の怒り始めの癖だが、日和見主義の人間にはそうではないか、もしくは知っている分、厄介なことになりそうだ、と言う顔なのか。数人の生徒は困惑気味に俺と教授を交互に見た。

 ピリついた空気が場に張り詰めるのを感じる。

 態度に出し過ぎたか。

 一瞬後悔がちらつくがどうせ嫌われているのだ、どうとでもなれと言う気分だった。

「偉そうに、モノが言える立場なのかお前は。サークル活動に精を出す前にだな」

「河原先生、引き返した方がいいかと思います」

 教授の怒りが爆発するかと思えた空気の中、割って入ってきたのは意外な声だった。

「え…」

 小さいけど通る高い声は、全員の視線を発信源に向けさせた。

 開いたままの扉から見える広くもない廊下。

 河原教授、数人の顔見知り、その奥に、いつからかひょこりと顔をし出していたのは附さんだった。

「大学の部屋を物置にするのは危険です。火事が起きた時に燃え広がる要因になります」

 乱入者の百里ある理屈に空気は気を抜いたように弛緩した。

 俺には、別の意味で緊張が走っていたのだが。

「ふん」

 河原教授は不機嫌さを隠さない声で「身内に小説家がいるといえども、こんなものだな」と捨て台詞を吐いて、呆気なく去っていった。





 ぞろぞろと、小さくなっていく後ろ姿を見送る。

 附さんは一度壁に隠れ、そのまま一行についていくのかと思ったらまた入り口に戻ってきた。

 附さんは河原教授の一派として来たわけではないようだ。

(…)

 附さんは彼らとは別の目的があってここに来たことになるが、何をしに来たのかと聞くのも躊躇われる、素直に言えば、聞きづらい。

 去る際の一行の、附さんを見る目はどことなく冷たかった。贔屓をされていい印象を持たれていない、という林の言っていた噂はおよそ真実であるようだ。附さんの前髪が長いので表情は分かりづらいが、ストレートの髪の毛の奥の顔が寂しそうに見えてしまうのは、俺の思い違いなのか、どうなのか、俺には分からないが。

 今の問題は、附さんが入り口でじっと立ったまま動かないことだ。

(えーと…)

 空気に、河原教授とは違う威圧感がある。

 ついに直接俺に言いにきたのか、…ここまでくればもう、言ってくれた方がいい。拷問をされて「いっそ殺してくれ!」と叫ぶ罪人の気持ちが分かる。はっきりと断罪をしてくれた方が、俺もこれからの日々を過ごしやすいというものだ。

「…附さん、あのー…」

「探偵サークルって、普段は何をしているの?」

 切り出そうとすると、附さんは小さな唇をかすかに震わせた。先制攻撃を受けたように思わず「ひえっ…」と過剰に身構えてしまう。

 お、落ち着け、俺。

 ゆっくりと附さんの言葉を反芻すれば、話題といいトーンといい世間話のそれだった。

 入り口に佇む附さんは少し顔を下げて、暗い雰囲気だがそれはいつも通りだ。

(…そうか、考えてみれば、まだ俺が謎を解けたとは思ってないのかもしれんのか)

 俺は冷静に考えて、附さんに気づかれないくらいに薄く息を吸った。

「そう、やな。教授の言うとおり、大したことはしてないよ。題材が決まったら実験とか推理とか。あとは推理小説読んで書評とか」

「そう、…河原教授のいうような成果を上げるなんて推理小説の同人誌を出す、くらいしか思いつかない、難しいわね。文化祭では何もしなかったの?」

「あー…」

 俺は、附さんなりにどうしたら認知が増えるか考えてくれてるのか、と理解できた。いつからあそこにいたのか、結構俺と教授の会話を聞いていたようである。

「してないな。ここが正式に認められたのは文化祭くらいの話でさ、それまでは言っちゃなんやが無断でここを使用しとった」

「でも、春頃に掲示板でポスターを見たわよ?」

「あー、春先のポスターは無断で貼ってたやつやねん。三雲さ、立ち上げた人色々無茶やってたっぽくて、最近まで、そもそも立ち上げに必要な5人に全然達してなかった。いまは残りの2人分の幽霊部員を確保できたからサークルになれたんや」

「今年の秋からなら、知らない人が多いわけね」

 附さんの上品な、はんなりとした声に対して、俺は無理してテンションを上げてハキハキと喋る。

「そ、そうそう。むしろ、ここを知っとる附さんのほうがめずらしいんやないか?」

「そうかしら。わたしはポスターを見ていたから…」

 途中で、不意打ちのように見上げた附さんの視線がカチあい、黒い目はすぐにフイ、と逸らされた。

「その、サークルとして認められたなら、また掲示板にポスターを貼ったらどう?地道でもやらないよりいいと思う」

 …若干傷ついたが、俺は普段通りを装って返事した。

「金言やな。部長はやる気あるんやけど美術センス持ってるやつがおらんねん。前のポスターも立ち上げた人が持っていっとるしなぁ…」

「そう、どんなポスターでも伝わればいいと思うけど」

「そうかな、てか別に、あんな奴に認められんでもいいねんけど」

 そう言うと、フ、と沈黙が場に訪れた。

「あ、いや」

 突き放したような言葉になってしまっただろうか。

 訂正する言葉もすぐに浮かばず、沈黙は深くなっていく。

 やってしまった、と思う俺と、無理もないだろと、思う自分もいる。自分のことを嫌いなのかもしれない人間と話すのは、割とストレスだ。自然と一言一言の息が多くなるし、するなと言われてもぎこちなく意識してしまう。

 視線は彼女の見えづらい表情の色を伺っている。怒っているかどうか、目つきに嫌悪や糾弾の意思はないか、このあと俺を糾弾するつもりなのか、いまの時間はそのジャブなのかと、脳が勝手にぐるぐると考えてしまう。

 早く1人きりになれた方が楽ではあるだろうし、無意識に帰ってほしい気持ちが言葉に出てしまったのかもしれない。

「…はぁ」

 やべ、ため息漏れてた。

 俺は慌てて「えと、…ごめん」と謝る。

「なぜ謝るの?」

 附さんはさらりと質問してきた。変わらないトーン。しかし、なんだ気にしてないのか、と安心することも今の俺には難しい。

「えー、…」

 色々な意味で…。とは言えず、俺は少し考えて、口を開いた。

「教授の附さんへの心象下げたかもしれん。あの人むだに権力持っとるから、目をつけられたら厄介やろ」

 俺は謝罪に、先ほどの出来事をあてはめた。

 俯瞰的に見れば、俺はさっき彼女に助けられた状況だっただろう。

 附さんが河原教授に対して物おじせずに言い切ってくれたことは意外だった。イメージ的には言葉数の少ない印象なのだが、控えめな印象と、内面は実際には違うのかもしれない。

 附さんは軽くうなづいた。

「気にしないわ、教授に恩は売ってるもの」

 恩、と聞いて、後方の机の上の雑誌に意識がいく。

(賞のことか)

 附さんは河原教授に、俺とは違う意味で目をつけられていて、賞に推薦してもらっていると言う噂から判断するに、あれは河原教授が言うところの立派な”成果”だ。

 河原教授があっけなく引き下がったことからも、附さんの価値は教授の中でそれなりに高いようだと推察できる。そうでなければ、プライドの高い教授が言い負かされたと判断されかねないあのタイミングで引き下がりはしないだろう。

 附さんがあの雑誌がなんなのか気づいてしまうと、なぜ持っているのかと不審に思われるだろうか。

 もう遅いかもしれないが、移動して角度的に彼女から見えないように体で隠す。

「つ、附さんは課題はもう書き終わったんか?あ、図書館で見たことない小説は借りれた?」

 不自然に思われないように間を持たせないと、と思って一文で二つも聞いてしまったが、彼女は「ええ」と返事をした。

「まだ終わってはないけど、原稿用紙が無くなって書けてないだけだから、後で買いに行かないと」

「そうなんや。あ!原稿用紙、俺持っとるけど」

「え、…パソコンで書いていなかった?」

「アナログで挑戦してみたんやけど性に合わんかったわ、待ってて」

 俺はこれ幸いに小走りで机に向かった。

 体で隠していた机の上の雑誌を手に取り、カバンに入れ込む替わりに原稿用紙を取り出す。ほとんど使わなかった原稿用紙は白紙のものが30枚は入っており、同じものか確認するとうなづいたので附さんに渡した(大学内のコンビニで買ったものだが、附さんも同じところで仕入れてるようだ)

「ありがとう、いいの?」

「附さんが使ってくれるなら紙も嬉しいやろ」

 これで罪がチャラになったとは思えないが、彼女の戸惑ったような人間らしい顔を見ると少しだけ安心する気がする。

「…やっぱり、間違えてなかった」

「ん?」

 ぽそりと呟いた言葉の意味がよく分からずに聞き返すと、顔を上げた附さんと再び目が合った。今度は目を逸らされない、意外なほどに強い瞳だと感じ、たじろぐ。

「な、なに?」

「林くんから、私について何か聞いた?」

 ぎく、と体が硬直する。

「あ、ああ、なんか、画像もらったな」

「…そう」

 つい馬鹿正直に答えてしまった俺に、附さんは俯いて。

「それじゃあ」

 と、それだけ言って帰って行った。

(もしかして、それを確認しにしたんか?)

「なんやねん…」

 どっと気が抜け、椅子に座り込む。

 ため息が大量に漏れる、元来人とのコミュニケーションが得意な方ではないが、彼女は出会ってきた人の中でも特別掴みづらい。

 俺から切り出して謝るべきだったろうか、タイミングとしてはベストだった?

 今考えてももう遅い。パタパタと歩いていく足音はもうすでに聞こえなくなってしまった。

 背中にじんわりと広がるヒーターの熱が、忙しかった思考を落ち着かせてくれる。

(…考えんとな)

 俺はポケットからスマホを取り出して、タッチのアプリを入れた。

 前の登録した時のパスワードを忘れてしまったので(よほど適当に会員登録したようだ)新しく作り直し、りく、を検索する。が、ヒット数が多くてスクロールするのも大変だったので、椰代に教えられたURLを検索するとすぐに出た。

 りくさんの自己紹介欄は、白い背景に1つ、傘の絵文字が打たれていた。




 

「な、分かった?」

 講義の開始前。林に軽く肩を叩かれた。

 林は俺の横に着席し、俺は忌々しくも答えてやった。

「分からんかった、だから附さんに俺から直接聞いたんやが、別に林に怒ってはないらしいぞ」

「うそっ」

「ほんと」

 嘘だ、附さんに直接聞いてはいない。別に林に対するメッセージでは無いのだから、これで林からの依頼は完了でいいはずだ。

「あれはなんなのかは俺にも教えてはくれんかったけどな。多分、版画にでもするんやないか?コンセプトアートかコンテンポラリーアートか知らんけど」

「そっか、探偵サークルでも分かんねえのか。暗号解読ってやっぱ、スペシャリストの仕事なんかなあ」

「またなんかあったら依頼してくれ」

「んー、もう無いやろ、また頼んでも解けないんやないか?」

 ケラケラと笑われて若干イラッとしたが、掘り下げる気もない。

 暗号の答えは極めてプライベートだ、附さんの出会い系アカウントの別垢なんか、こいつに教えたら無闇に広まりそうで怖い。

「怒ってないなら、いいかー…」

 林はほっとしているように見える。

「ありがとな、関ヶ咲から聞いてくれて」

 スッキリした顔しやがって。

 代わりに俺に全ての重みがのっかかっているわけだが、林が知る由もない。

「いや、こっちも、林の気持ちが嫌ってほど分かったわ」

 林はキョトンとして「そうか?」と能天気に言った。

「そういやさ、附さんが小説の賞に受賞したって、なんで知っているんだ?」

「ん?」

 林は机にルーズリーフを出しながら、さっぱりした顔でそんなことを言った。

「俺、結構噂に詳しい方だけど全く知らんかったからさ。他のやつらも知らんかったって、あ、これ、あんま言いふらしたらまずいことやったかな」

「え?ああ」

 林に伝えたんだったか。てか、口軽いな、こいつ。反省してねーじゃねえか。

「俺も又聞きやけど、河原教授が言ってたらしいぞ」

「ふーん?ならいいんかな」

 河原教授が講義室に入ってくると、ざわざわとしていた空間が一気に静まった。俺だけでなく、スマホを扱った生徒は問答無用で怒られているため、誰もが教授に注目し真剣に話を聞いている。

(なんで、か)

 林の言葉を思い出しながら、俺は後ろを振り向いた。

 二列ほど斜め後ろ、目を丸くする彼女に、こちらから小さく手を振った。彼女は前を気にする素振りを見せた後、振りかえした。

 俺は前を向いて、同じような位置感覚にある人の膝元を見た、ちょうど見える。目の良さにもよるだろうが、例えばそいつが授業中に膝元でスマホをいじっていれば、俺には画面が見えるだろう。

 附さんが覗き見ることができた機会はある。

 附さんが俺のブログを知り、コメントを打ち込むことはできる。

(理解不能や)

 彼女の名前をルーズリーフに書き込んだ。


 


 いい加減、全ての謎をスッキリ理解するフェーズに入ったのだと思う。

 推理小説で言うなら解決編だ。

「小田、なんで附さんが小説家の家系だって知ったんや」

 河原教授のピリピリとした空気の5限講義が終わり、廊下を歩いていたら小田に声をかけられ、一緒にサークルに向かっている。道中、問いかけてみると小田はマフラーに埋めた平坦な顔で「図書館で河原教授から聞きましたよ」と答えた。

「ああ」

 俺はまあそうなるか、とうなづいた。

 文学科の生徒に小説家一家の人間がいればもっと騒ぎそうなものだ。噂に詳しいと豪語する林もあの感じなら、生徒の誰も彼女の家系については知らない。知ることができるとすれば、大学の運営側、教授なら知っていてもおかしくないと思える。

 河原教授は権威主義的なところがある人だ。

 探偵サークルとかいう大した価値もないサークルの場所には興味がなくとも、生徒の誰々が小説家の血筋で〜といった教師間の噂話にはめざとい。

「河原教授はなんて言いよった?」

「恋愛小説を探してるなら教えてやるって話しかけられました。その流れでですね」

「なんで教授が、小田が恋愛小説を探してるって知ってたんや?」

「課題が恋愛小説だと知っていたんではないですか?教授達の間で話していたなら、おかしいとは思いませんが」

 たしかに、そう説明できる。

 俺は切り口を変えた。

「椰代にはなんか言われたか?河原教授のこととか」

「変な質問ですね、特に言われてませんよ。関ヶ咲もですが、椰代さんも河原教授のことは好きじゃないでしょう?」

「じゃあ附さんのことは?」

 俺のしつこい問いかけに、C棟の扉を開けた小田は白い息を漏らす。

「附さんって椰代さんと関係ないんじゃ」と言いかけ「ああ、そう言えば」と思い出したように声を上げた。

「一度椰代さんから附さんについて聞かれたことはありましたね。たしか、…6月の話です」

「……それ、早く言えよ」

「早く言えって、関ヶ咲には関係のない話でしょう。どんな人か聞かれたくらいですし、世間話の一話ですよ」

 その程度の話なら、俺なら覚えていないかもしれない。小田の記憶力だから覚えていたのかも。

 C棟の中は外よりは比較的暖かい。マフラーを脱ぎながら階段を上がり、頭の中で組み立っていく流れを整理する。

 サークルの前に着くと、小田は扉の横のポストを開けた。なにもはいってないことを確認し、閉じる。

 俺がガラ、と扉を開けると、椰代はいつもの如くすでに来ていた。

「お疲れ様です」

 小田の挨拶に、椰代は手を上げた。

 ヒーターの前でいつものようにコーヒーを飲んで、頭から布団をかぶっている。ダンボールは燃え移るから危ないと言ったが、毛布の存在も十分危ないのではないかと思う。

「土日を挟んだら月曜に講評会だと思うけど、書き終わった?」

「はい」

「ああ、傑作がな」

「へぇ、読むのが楽しみだな」

「なんで読むの確定してんねん、見せんわ」

「えー」

「俺は見せますよ?」

「ありがとう、関ヶ咲も小田を見習うべきだな」

「ふん」

 たわいのない話をし、ヒーターを囲んだ椅子に座る。

 椰代に変わった様子はない。こいつはいつだっておんなじテンションを維持しているが、俺はその顔の裏に何かがあるのではないかと思わずにはいられない。

 

 附さんには俺のサイトを知るチャンスがあった、附さんは単独犯でも今回の暗号騒動を行えたことになる。

 でも、本当にそうか?

 彼女に暗号を使用して謎解きをさせよう、と吹き込んだ人間がいるんじゃ無いか?という疑惑は晴れない。

 言ってしまえば、俺はずっと椰代を疑っている。

 椰代そのものをというより、椰代の不吉さを、と言った方がいい。小田に探ったのは、椰代と今回の諸々が絡んでいないか、を探るためだった。椰代が何かを吹き込んだんじゃないか、という疑念は途中から常にあった。

(…)

 俺は、椰代が附さんの受賞を知ったのは河原教授から聞いたからだと思っていた。椰代がそう説明していたからだ。

(時系列が違うのか?)

 引っかかっているのは、椰代の横の机に置いてある雑誌の存在だ。

 河原教授が11月になってから6月の受賞の話を椰代にするのは不自然だし、あの雑誌はネットでも取り扱ってない雑誌。それを手に入れた時点で椰代は附さんが受賞していることを知っていた。となると、知った時期は雑誌を手に入れられていることから6月あたりになるだろう。

 そして、小田が言う話は、椰代は附さんについて6月には関心があると示している。

 6月に河原教授から附さんの受賞の話を聞いて気になったから、と言う説明はできるが、…河原教授から聞いた、という前提を崩せば違った見方をすることができる。

 河原教授に聞いたんじゃなく、椰代は他でもない本人の口から聞いていたんじゃないか?

 俺たちの前で河原教授の存在を持ち出したのは、2人の接点を隠したい理由があるとはならないか。

 なぜ、椰代が6月の時点で附さんの賞について知っているのか。

(附さんに、依頼されていたら?)

 探偵サークルの使われていないポスト。

 あれは三雲さんの忘れ片見のようなもので、ここをサークル室として使い始めた春頃から設置していた。

 俺たちより一足先にサークル室に着いていることの多い椰代が、俺の気づかないうちにポストの中の附さんからの依頼を受けている可能性は否定できない。隠しているのは、依頼人と請負人の関係だから、というのはどうだろう。

 俺は想像する。

 附さんは俺に作品を台無しにされた6月、ポストに依頼を投函した。内容は、俺に対する非難のメッセージだった。友人とも呼びづらい腐れ縁の俺に対するそんなご意見が入っていたなら、こいつは面白がって「それならもっと効果的な復讐をしましょう」と投函者に提案しても俺は驚かない。あの遠回しな、陰湿とも思える暗号解読を椰代は提案した。椰代は依頼を受けた後に附さんと会い、小説家の家系であること、小説に応募して賞を取ったことを聞く機会を作ることはできただろう。

 計画を練って実行に移したはいいが、察しの悪い俺がコメント暗号に気づくわけもなく、最近まで平穏に過ごしてしまっていた。

 6月に依頼を受けたなら、もうすでに5ヶ月は経ってるわけで。だから椰代は、俺に附さんを意識させるように動いたんじゃないか?

 事件ど真ん中の小説が印刷された雑誌を持ってきて、机の上に常に置いた状態にした。

 俺は、まんまと附さんの存在を意識した。

 依頼を受けて暗号を作った椰代がそれらを俺に解かせ、俺は暗号を解いていくうちに6月の出来事を思い出した。

 自然な気がする。というよりむしろ、今までが不自然すぎる。

 考えは形になった、あとはこれを、いつ言うか。

 

「にしても、本当に依頼が来ませんね。課題が終わったら次は何を調べましょうか」

 課題を終わらせた小田は余裕ができたのか、ヒーターに手を翳し、そんなことを言った。

「都合よく謎は転がってないってことだろ」

「関ヶ咲が解いていた問題は、結局どうなったんですか」

「あれは…」

 横目で椰代を見る。

 優雅にコーヒーを飲みながら、古びた本を読んでいる顔に変化はない。

「何にもならんかった。それっぽいだけの暗号なら誰でも作れるってことや。てかな、つい最近、探偵サークルって何をするところか分からないって言われたぞ。サークルの認定が取り消されるのも時間の問題かもな」

「簡単なものでもポスターを貼りましょうか?春のことで目をつけられてますが、正当な手続きを踏めばいいだけのことですし」

「大丈夫だろ」

 椰代はパタンと本を閉じた。

 小説を机の上に置き、布団を軽く掛け直しぬくぬくと閉じこもるように丸くなる。「これからだ」と言う、余裕のある顔と目があった。

「これから、なぁ」

 いつまではぐらかすつもりだ。

 俺はだんだんムカついてきた、腹の底からぶちまけたい感情が湧いてくる。

「…そうやな、お前は焦ってない。依頼はもう受け取るんやろ」

 椰代はにこ、と口角を上げた。

 その不敵な笑みに確信する。

「どっから絡んどる」

「途中からだよ、関ヶ咲視点だと最初からか」

「…あっさり認めたな」

「もう隠すタイミングでもないし」

「?なんの話ですか?」

 小田だけがこの場で首を傾げた。

 無表情な顔で俺と椰代を見ている。

 説明しようかと思ったが、椰代はほのかな笑みを浮かべた顔で淡々と白状し始めた。

「1度目はタッチで直接言ってみたらしい。でも関ケ咲はアプリ消していたから気づかなかった。相談されたのはその辺りから、面白そうだから暗号解読させようって提案したんだ。関ヶ咲は暗号解読が好きなんだって伝えたら、彼女はそれなりに時間をかけて、せっせと作ってたみたいでさ。全体を通して俺はそそのかしただけだよ。コメントの暗号は気づいたけど、絵の暗号は関ヶ咲から見せられて初めて知った。

 彼女は作った暗号を使って2度目は関が咲のブログ、3度目は関ヶ咲の友達経由で伝えようとした。きっと、その友達は口が軽いからきっと関ヶ咲に相談するだろうってたかを括ったんだんだな」

 小田はキョトンとしているが、俺も数秒呆けた。

 拍子抜けするほどあっさりとした白状だったので、リズムがガタついた感は否めない。

「あ、あのなぁ、俺は暗号解読が好きなわけやない、嘘ばっかつきやがって」

「俺は関ヶ咲にはウソついてないよ。暗号は最後まで解けたわけ?」

 なんて、悪びれもせずにそう言われる。

「…わかっとる、考えたわ、答えを知ってるなら簡単だって言ったな」

「ああ、言った」

 俺はカバンから、先ほど講義で使ったルーズリーフを出した。

 紙に書かれた解読の跡を見て、椰代はニヤニヤと笑っている。

「りくをローマ字表記に直す。RIKU、英字を数字表記に直す。18、9、11、21。数字をひらがなの”あ”を1、”い”を2とした変換表で日本語に直す。つけさな」

 附 沙奈

 椰代の表情はまるで、一番最後に好きなものを残しておいて、今から手をつけるような顔だ。

「附さん…」

 小田は繋がりに気づいたようだったが、俺は何も言わずに紙をカバンに入れた。小田は表面に出す情緒は乏しい所は難点だが林のような軽率さはなく思慮は深い、バレても問題ないだろう。

「答えが分かってるなら簡単な問題や、寄り道をしなくていい…こんなものも用意して、タチが悪い奴ねん、お前は」

 俺はまたカバンから雑誌を取り出した。立ち上がって、椅子に座る椰代に手渡した。

「無いと思ったら、盗んだのか?」

「人聞き悪いこと言うな、…附さんがここに来たから」

「ここに来たんだ。彼女、これになんて言ってた?」

「その時は、雑誌を見えんように隠してたからな。まあ、体で隠してただけやから見えてたかも知らんけど。なんも言ってなかったぞ」

「ふーん、どこから俺が絡んでるって分かったんだ?」

 俺は座り、こほん、とわざとらしく咳払いする。

 椰代が持つ雑誌を人差し指で指差した。

「これは6月号、この雑誌はネットでも取り扱ってない雑誌っていってたな、手に入れるには11月は遅すぎる。手に入れたのは6月やな。その時点でお前は附さんの受賞を知ってたことになる。でもお前はこれを11月にこれ見よがしに見せてきて、開いたままそこに置いとった」

「自然な流れだと思うけどな。その前に小田が附さんの話題を持ってきたんだから、それに触発されてたまたま家にあった附さんの小説の載った雑誌を持ってくるっていうのは」

「そのたまたまが怪しいねん。お前がわざわざそれを仕入れたって言うのが。入手するの結構大変やったんやないんか?出不精のお前が、河原教授に聞いたからって理由だけで動くとは思えん」

「なるほどね。うん、大変だったよ。全て偶然なわけじゃない、仕組んだ必然だ。河原教授に、小田に附家の小説のことを教えてくれるよう吹き込んだのは俺だし」

「えっ」と驚いたのは隣に座る小田だった。

 椰代は、年長が年少に向けるような慈愛を感じさせる視線を小田に向ける。

「関わりのないはずの俺が突然彼女の名前を出せば不自然だからさ。関ヶ咲があまりにも気づかないから、依頼を遂行するために動かざるをえなかったんだ」

「察しが悪くて悪かったな」

「そうだったんですか…、もっと注意しないとですね」

「小田はそのままがいいよ。関ヶ咲みたいに捻くれても扱いがめんどくさい」

「うるせえよ、…はぁ」

 つまりあれだ、こいつは不自然さを無くすためだけに、小田を利用した。

 河原教授に小田が恋愛小説を探していることを伝え(前日に恋愛小説が課題であることを椰代が知る時間はある、小田が教えたんだろう)図書館で話を聞いた小田が素直に附家の小説を借り、サークルに附さんの話題を持ってきた。

 椰代が言動で人を追い詰める場面を見たことはあったが、自分に向くとここまで不気味だとは思わなかった。

(まぁ、こんな奴だとは分かっとったけど)

 小田も椰代と関わっている時間は長い、考えてはいるようだが、傷付いてはいない。

 俺は驚かない。

 優しいだけの椰代というのは気持ち悪い話だ。

「謎が解けたなら、関ヶ咲はどうするんだ?」

「は?ああ…」

 他人事のような椰代の口調には文句を言いたくなったが、俺は口籠った。解けてスッキリ、と言うわけにはいかないだろう。俺は附さんに行動を求められてる。

「謝るしかないやろな」

「は?なんで」

 椰代は予想外の返答だ、というような顔をした。

「なんでって、こんなの、嫌がらせ以外の何だっていうんや。俺が附さんの原稿用紙を水浸しにしたことに対して、まだ怒りがおさまらんのやろ」

「関ヶ咲は附さんに相当恨まれてるんですね」

 小田もなんとなく話を理解し、着いてきているようだ。言葉にされると心に来るが、間違いないだろう。「ああ」と言う前に、椰代が布団から伸びた手を前に出し口を挟んできた。

「何言ってるんだ、鈍感系主人公か。りくのアカウントまで辿り着けば関ヶ咲は分かるはずだって思ったんだろ、見たんだろ?あの傘マークを」

「見たけど、…あの日のことを忘れてないぞって言う遠回しのメッセージやろ、あれは」

「これも無意識なのかな…」

 椰代は手を下げ、布団の中で変な顔をした。

「もっと以前に立ち返ってみて、彼女の行動を少しもおかしいと思わなかったのか?なぜ小説家の娘がこんな辺鄙な田舎大学に来たのか、なぜ先祖の作品と同じような話を書いたのか、なぜそれを応募したのか」

「…全部繋がるって言うんか、お前は」

 聞くと、椰代は布団さえかぶっていなければ格好がついただろう仕草でカップを掴んだ。

 軽く揺らすと表面が波打ち、椰代はコーヒーを見ながら、とつとつと話し始める。

「関ヶ咲は恋愛を正反対を求め合うことだと定義したな。二分の一✖️一分の二🟰一、とか考えてたんじゃないか?関ヶ咲は理屈的だからね、こんなに簡単な連想ゲームも思いつけない」

 もったいぶった言い回しの後、コーヒーを一口飲んで口を潤した。

「彼女から持ち込まれた依頼は”関ヶ咲にお礼を言いたい”だよ」

 

 


「……お礼?」

 俺にとって、思いもかけない言葉だった。

 思いもかけないと言うより、この場ににつかわしく無い。流れをぶった斬ったように、導線に合わない単語だと思える。

「関ヶ咲の推理は大体合ってる。でもところどころが違う。附さんが小説家の家系なことも、賞を取ったことも、彼女の依頼の少し後に河原教授から教えてもらったんだ」

「…依頼の後?」

「俺は彼女について何も知らなかったと言ってもいいよ。関ヶ咲が彼女の原稿を台無しにしたことは教えてもらったけど、それだけだ。”この前の雨の日、関ヶ咲さんに事故で水をかけられ、原稿用紙が破れてしまいました。その件について、お礼を言いたいのです”。変な依頼だろ」

 なんだそれ。

「お礼っていうのはヤンキーの言うお礼参り的な言い換えじゃなくてですか?」

 小田が、何からツッコんだからいいか計りかねている俺の代わりに聞いてくれた。

 椰代は面白い冗談を聞いたように軽く笑う。

「その方が文脈的に自然な気がするんだけどね、ここでいうお礼は感謝のほうだよ。彼女の文脈じゃ、それで合ってるんだ。飛躍しているように見えるが文脈にあっているっていうのが彼女の書く文章だ。俺もどんな思考をしているのか知りたくて、雑誌を買って読み込んでみたんだけどさ」

 そういえば、この部屋で天才とはなにか、というやり取りをしたことを思い出す。

 あれも椰代が俺に与えたヒントだったのか?

 内容を詳細に思い出そうとして、やめた。すでに脳みそは疲れきっている。俺は手を振って思考を放り投げた。

「…分かった。いや、なんでそうなるんかは全く分からんが、お前は原稿用紙が台無しになったことは附さんにとっていいことやったって言うんやな。もう教えろ、考えるのがめんどい」

「関ヶ咲が勝手にややこしく勘違いしてるだけだと思うけど、分かったよ」

 椰代はカップを置いた。

 コトリ、と軽い音が狭い部室内に響く。

「まず、親が小説家であることを生徒は知らなくても、教員は知っていておかしくない。河原先生、毎年有望な一年生には賞の応募に声をかけるようにしてるみたいだけど、関ヶ咲も頼まれたことあるだろ?」

「ああ、それは分かっとる、附さんは河原教授にコンクールに応募するよう頼まれた。それがなんや」

「河原教授は自分が関わることなら自分で確認しないと気が済まないタチだ。当然、彼女単独の郵送なんて様式じゃなかったと推測できる、それは河原教授経由での応募だった。彼女は教授に見られる以上、それなりに仕上げる必要があった。いい加減な執筆はできない」

「…それは、たしかに。…いい加減な執筆?」

「次は、なぜこの作品を書き、これを応募したのか」

 俺の声に止まることなく流れるように説明しながら、椰代は机に置いていた雑誌を手に取った。

「附さんの小説と附さんの先祖が書いた小説、内容と構成が似すぎてると思わないか?」

 俺は、椰代が何を言いたいか分からず小田と目を合わせた。

「似てるとは思いますが」

「だからそれは、オマージュなんやろ」

「どこからがオマージュでどこからがパクリなのかっていう議論は面白そうだけど、ここで重要なのは、ここまで似ている以上附さんは作為的に似せたってことだ」

「…」

 図書館で俺が附家の誰かが書いた小説を読んでる時、附さんは動揺していた。

 俺はあの時の彼女の動揺を、身内の本を読まれて恥ずかしいからだと思っていた。もしくは、小説家の家系だと知られると大学に居づらくなることを恐れてのものだと思っていた。

「作為的って、まさか、、附さんは小説を書けんかったんか?だからパクって…」

「いや、ここまで文章が書けたら、流れをパクっても小手先で悟らせないように書き換えることは可能だと思うよ。それをしてないってことは、彼女は受賞したくなかったんだろ」

「は?」

 受賞したくなかった?

「パクリなんてクリエイターの家系に生まれる彼女はいけないことだと知ってるはずだ。アイデアに著作権は無いと言っても作品を支える根幹。バッシングの元にもなるし、クリエイターには致命的だ。知っていればパクらないし、彼女が知らないとは考えづらい。だから彼女は、知っているからあえて似せた物語を書いた、と考えられる」

 椰代の話を聞いていると、証明問題を解いているような気分になる。椰代は雑誌を机に戻す。俺はひとまず、話の続きを促した。

「…それで?」

「賢明な雑誌の担当者なら他の創作物をパクった物語を弾くと、彼女は買い被っていたんだろう。手を抜いて書けさえすれば問題のクリアは簡単だったんだろうが、教授に見られるとなればそれもできなかった。でも似たような物語なんてこの世にいくらでもある、彼女の中では知れた作品だったろうが、世間的にはそこまで有名な作品でもない」

「…椰代は、附さんはわざと受賞せんようにしたって言うんか」

 話を整理して、俺は複雑な気持ちになった。

「もしそれが当たってるなら、贅沢な悩みやな。本気で書いて応募した奴もおったろうに、そいつらは落ちたことになる」

 才能がある人間は、無意識にしろ意識的にしろそういう残酷なところがある。誰かが一位になるということは、その下には有象無象の人間たちが踏み台にされている。

「そう言うなよ、彼女は葛藤していたと思うよ。こんな片田舎の辺鄙な大学に来たのは家から抜け出したかったんじゃないかな。コネで小説家デビューができるような環境が嫌で逃げてきて、才能はあるけど小説家になりたいのかどうかも悩んでいたかもしれない。教授が声をかけたタイミングは彼女にとって早すぎたんだろう。河原教授だって、コネで推薦するようなやつなんだから彼女の望む形じゃなかった。嫌な形で歯車が噛み合い、似せた小説で受賞して間違えて作家デビュー、なんてことになれば本末転倒だ。こんなことならちゃんと書けばよかったとか、パクリだとバレたら叩かれるんじゃないか、とか、色々考えてたと思うよ。苦しい後悔の日々だった」

 椰代は長々と話した後、最後に断言し、にやり、と笑った。

「その罪の象徴を、能天気な関ヶ咲は水浸しにして、台無しにしてくれた訳だ」

 俺は椰代の言葉を理解し、一瞬固まった。

「あ、アホか、だから感謝したって言いたいんか、お前は」

「象徴的というか、比喩的な出来事だけど。彼女が何も感じないわけがないとこの小説を読んだ俺なんかは思うよ。当事者として、関ヶ咲はどう思う?」

「どうって、言われてもな…」

 そんな心の作用、あり得るのか?

 俺には納得しづらい話だ。理屈はなんとか理解できても、感情的には分からない。

 椰代の説明を聞いている間はそうかもしれない、なんて思えるが、椰代の導きたい結論に丸め込まれているような気がしなくも無い。

 助けを求めるように横を見ると、小田は小田で手を顎に当て考えている。

「別に好きになった理由なんてなんだっていい。きっかけがそれであっても今まで維持できているんだから、次第に確信に変わっていったんだろ」

「そうか?…ん?」

「助けを求めているところにヒーローが現れた、恋愛って補完行為だから、関ヶ咲が理解しやすいなら2分の1✖️1分の2🟰1でもいいよ」

「恋愛って、はぁ?!いやいやいや、そんな話一切してなかったやろ!」

 聞き捨てならない流れに持って行こうとする語り口を慌てて静止する俺に「え?そうかな」と、椰代は淀みなく続けた。

「俺はてっきり、附さんはこの一件で関ヶ咲を好きになったから、5ヶ月間も何にもならないこんな手の込んだことをしたんだと思ってるんだけど」

「っそんなのお前の」

 勝手な思い込みやろ、と言おうとして、附さんのこれまでの俺に対する言動が頭をよぎった。

 この部屋で、附さんは「やっぱり間違いじゃなかった」と言った。

 あれは、あの時の俺には意味の分からない言葉だった。俺が附さんから見えないように雑誌を隠しているのを、彼女を守るための行動だと誤認していたら、もしかしたら、そんな言葉を言うんじゃないか。

 いや、彼女の気持ちは推測でしかない。人の気持ちなんか誰にだって、親にだって分かりやしない複雑なものだ。

 状況にそれらしく当てはまっているだけ。

 椰代の言葉に丸め込まれるな。

「だ、だいたいやり方がおかしいやろ。普通に言えばいいだけやないか」

「かなりの奥手だよな、あれは。もっとも、最近は彼女も煮え切らない関ヶ咲に痺れを切らしてたんだろうね。また反応を伺うような文が送られてきたから、俺も動いてみたってわけ」

「………詐欺師のセミナーにでも迷い込んだ気分や…、頭痛くなってきた。なに探偵の立ち回りしとんねん、お前が附さんに変なこと吹き込まんかったら俺もこんなに悩まんかったんやないか。何が暗号や、まだるっこしい!確かにお前は探偵役やない、フィクサーや!」

 俺はびし!と椰代の横を指差した。

「報酬は本やな」

「正解」

 椰代は綺麗に笑った。古びた本を取り、表紙を俺たちに示した。

「気に入ってる本の初版なんだ、大正時代に発行されたものだよ。彼女が小説家の名家と知って、それなら所蔵もすごいんじゃないかと掛け合ってみたらポンとくれたよ。積み重ねてきた年月が紙に染み込んでるみたいだ、何度でも楽しめる」

 こいつが同じ本を2回読むのはおかしいと思っていたんだ、俺は流れを取り返すように反論した。

「この嘘つき。お前、附さんと会ったことないって言っとったやないか」

「関ヶ咲に嘘はついてないって言ったろ。どんだけ信用ないんだよ、俺」

 椰代は心外だ、とばかりに肩をすくめる。

「実際に会ったことはない、本はポストに入れられてた」

「この期に及んで…だとしても、依頼はポストからやろ?暗号で解かせればっていう返信のために会う必要があるはずや」

 俺の考えは合っているはずだ、と再認識しながら言葉を紡ぐ。

 椰代は「やれやれ」と腹立つことにわざわざ口で言い、布団の中をもそもそと動かした。

「何のために俺がタッチに登録してると思ってるんだ?」 

 椰代は、制服のポケットから取りだしたんだろう。スマホをこちらに示してくる。

 映されたページには見覚えがある、タッチの画面だ。

 ユーザー名には”探偵サークル”と書かれている。自己紹介文にはご丁寧に大学名まで。…言葉がなくても、それが何を意味するのかは分かる。

「俺だって流行ってるアプリを使いこなすことくらい簡単なんだ。大学の掲示板にポスター貼るよりよっぽど宣伝効果があるよ」

「…聞いてないんやけど」

「先に言ったらびっくりしないだろ?次の依頼はもっと難しそうだ、これを題材にしよう」

「……」

 言葉にしても良かったんじゃ無いかと思うが、俺は心の中で叫んだ。

(うぜーーーーー!!)

「スマホ使ってはしゃいでるジジイかお前!」

「ひどいこと言うな」

 眉を下げる表情が笑っているように見えるのは俺の見方が穿っているからか、どこを突いても手のひらで転がされているようで腹が立つ。

「次の題材も決まったところで、そろそろ話に入ってもいいですか?」

 小田は顎に当てていた手を離し、話に入ってきた。 

「ああ、ごめん小田、今から詳しく話すよ」

「いえ、なんとなくですが理解しましたので大丈夫です。附さんが関ヶ咲を好きだという俺の推理は合っていたわけですね。となると、関ヶ咲に求められるのは次の行動です」

 俺かよ。

 小田の介入で流れを変えられないか、と思っていたので嫌になる。

「だからそれは、…次?」

「ここで反応を示すのが筋だと思いますが」

「そうだな、関ヶ咲だって気になってたじゃないか。前に書いてたヒロインも三つ編みの子だった。好みもドンピシャってことだ」

 最悪な流れだ…そうだ、小田は知らないが、椰代は一年前に俺が書いた恋愛小説を知っているのだ。

 俺は言い淀んだ。

「それは、それはなぁ」

「嫌なのか?」

「…嫌っていうか」

 ここで誤魔化しても椰代は追求してくるだろう。俺が椰代からのあの手この手の角度からの追求に耐えられるとは思えない。後でバレるよりも、傷は浅い方がいい。

「………姉に似てんねん」

 三つ編みのセミロング。

 小説家だ。俺は一時期、姉に憧れを抱いていた。

「あっはっはっ!!」

 椰代は豪快に大笑いをした。

「関ヶ咲はやっぱり冷たいやつだよ、安心した。友達を”留年がバレたくないから”って理由で遠ざけようとするくらいだしね」

「……………」

(…根に持ってんじゃねえか)

 今回の件は附さんやなく、椰代からの仕返しやったってことか。

 自業自得、と言う文字が頭に浮かぶ。

 俺は息を吸った。

「だー!!!もう放っておいてくれ!暇人ども!」

「おー、怒った怒った」

 ふわりと布団を纏ったまま、椰代は立ち上がって部屋の隅に移動した。

「毛布に引っかかって転べ!」

「俺がそんなことするわけないだろ」

「仲いいですね」

 呟かれた小田の言葉に「どこがやねん!」と突っ込むと、小田も椅子から立ち上がった。

 カバンから大きなハサミを取り出し「いい加減切りますかね」と椰代の逃げた先に向かう。

 隅にはジョンドゥとジェーンドゥが仲良く座っており、いよいよ邪魔なウサギの耳を切るつもりらしいと分かる。

 俺は椅子から立ち上がる気も起きない。

 今回得た教訓は、椰代は信用するな、だ。

「そうそう、言い忘れてた」

 足元にしゃがんだ小田を見ていた椰代が布団をモゾモゾとさせ、白い封筒を取り出した。

「来た時にポストを覗いたら関ヶ咲宛の手紙が入ってたよ。いい暇つぶしになったって、お礼を言っといてくれ」

 歩いてきた椰代の手からそれを受け取ると、手紙には開けた跡があった。

 嫌な予感がしながらもそれを開け、中のふた折にされた紙を広げる。綺麗な書体の文字には見覚えがある。

『話したいことがあるの』

「え”」

 その下には、場所と日時まで指定してある。

「言わなくても分かると思うけど、これは4度目の彼女からのアタックだ。彼女は3という連鎖を断ち切った。3っていうのは伝統的な数字だからね、ローマ数字でも漢字でも、4(IV、四)からは3(III、三)までとは表記が変わるだろ。ところで、兎も七日なぶれば噛み付くって言葉は知ってるか?」

「うさぎ?」

 小田はウサ耳を一掴みに掴んだまま、切っていたハサミを止めた。

「今回の教訓は、思わせぶりな態度はほどほどにってこと」

「…どんなオチやねん」


 

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