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りく。
という人物からのコメントは不定期であり、掲示板にブーストがかかっていた時期であればすぐに埋もれただろうが、最近のスカスカなコメントの中ではやはり目立つ。事件考察サイトで出会いを求めるような、とんでもない変人に見つかってしまったと考えると薄寒いが、今の時点では害はない。
俺はひとまず放っておくことにした。
それより考えなきゃいけない事は山ほどある。
講義終わり、俺は探偵サークルに直行せず図書館に寄った。次に書く未解決事件の資料集め、ではなく。ゼミの課題への取り組みのためだ。小田にはああ言ったが、俺も恋愛小説を書くのは慣れていないので対策のためだった。
恋愛小説コーナーで薄めの本を5冊取って机に持ってきてみた。パラパラとめくって一冊読み終えてみたが…なるほど俺には書けないな。つか恋愛小説、書きたくねーーー。という思いが最高潮に達した。
恋愛小説って、そんなもん俺が書いたヒロインは俺のガチの好み反映されるだろ、性癖をゼミの奴らに晒すことに等しいぞ、それに感想を言い合うんだろ。地獄か?なんに対する刑罰なんだよ。
読み終えた後に犯罪小説を読んで心の均衡を保った。若干気分が悪くなるくらいの緩急だったが、俺は一息つくことができた。
(恋愛小説作家ってすげえんやな…)
恋愛小説と言えば、附家の誰かが書いた小説も置いてあると小田が言っていたか、と思い出す。
小田が借りた小説は今は椰代が持っているはずだから、いまその本は図書館に置いてないだろう。図書館にはどんな有名な本でも、1冊づつしか置いてない。だが、同じ作家の他の本は置いてあるかもしれない、と俺は思いついた。
情緒どうなってんだよ、と思われそうな恋愛と犯罪の入り混じった本たちを置き、席を立つ。一般小説の棚で、つ、の作家の棚を探すと、割とすぐに”附“とめづらしい名字の作家の本を見つけ、これだろうと手に取った。
薄かったので、その場で読み進めていく。附さんの小説と同様、頭に登場人物が入ってきて、実在する人間が自然に動いてるような感覚がする。恋愛小説でも読み進めるのに抵抗がない。
(文体…違うか、構成の仕方が似てるんか)
「あっ」
静かな図書館に似合わない小さな悲鳴の方を向くと、附さんが立っていた。
「あ」
俺は目線を本に戻した、俺が持ってる本を見て、驚いてるのか。
それは彼女にとってどういう意味を持つのか正確には分からないが、気恥ずかしさとか、バレてるんじゃないかという不安か。ゼミの中でも、附さんが小説家の家系ということは知られていない、附さんは誰にも話していないわけだ。俺が知っているというのも彼女にとっては不本意だろうし、ここで本を戻すのも意識していることを悟られそうだ、と思い、取り繕おうとした。
「次の課題が恋愛小説だろ?読んで勉強してるんだ」
「そう」
附さんは消え入りそうな声でつぶやいた。
「俺、恋愛小説書いたことないから、情緒を描くのって難しいんだよな。人物にうまく入り込めないって言うか。ただの俺になってしまうっていうか。だから、この作家さんの心情描写はすごく」
「そう」
つぶやきが、明らかに相槌のタイミングをずれた。
途切れた俺の言葉にも気にせず、彼女は太く結ばれた三つ編みを揺らして横の本棚に指を沿わせている。
(…何考えてるのか、分かりずらいよなあ)
気にしてるのか、気にしてないのかよく分からない。無表情を貼り付けたような鉄面皮の横顔を眺めていると、チラと、こちらを見て目が合い、慌てたように逸らされた。
(…)
こちらから話しかけた方がなんぼかマシだと思えたが、開いてる本を閉じるのも憚れられ目を本に戻す、つらつらと滑るように文章を追っていると「面白い?」と声をかけられた。
横を見ると、彼女は無表情だった。先ほどから同じ本棚を指でなぞっている。
「あ、面白いよ、全然飽きずに読める。多分文章がいいんやな、プロって文章がうまいよなぁ」
「…そう」
附さんはまた呟くように言った。
「えー、…附さんは何を借りに来たんだ?」
位置関係的に、何かを言わないといけない気がした。
附さんは意外にも、分厚い髪の毛の奥からすぐに答えてくれた。
「わたしも勉強しようと思って、恋愛小説を借りに来たの」
「そうなんや、なんかいいのあった?」
附さんの手には何もない、身軽な状態だ。
「読んだことないものを探してるんだけど、ここにある恋愛小説はほとんど読んでるから、まだ見つかってないわ」
「え」
恋愛小説だけで50はあるぞ、と俺は驚愕した。
なんて勤勉家だ、文才だけでなく、努力を惜しまない才能もあるらしい。ここまで持っているカードが違うと嫉妬も湧いてこない。彼女の小説の語彙の引き出しが多いのはインプットの多さからだろう、俺も文学科でいる以上、読書をもうちょっとしないとな、と思わせられる。
「附さんは恋愛小説書くの上手やけど、むずくないんか…?」
聞くと、附さんは突然上を向いた。
なんだ?と思ったが、俺の耳にもぱらぱらと音が入ってくる。
図書館の高い天井には窓があり、そこに何かが降りつけている音のようだ。
「ヒョウか?」
「…どうかしら」
彼女は上げていた顔を下げた。
「私はそればかり書いてるから、書き慣れているんだと思う。他の小説は苦手。大学の文学科に入って、恋愛小説を書いたことない方がめずらしいと思うけど」
ああそっちか。
「最初だったら好きに書いたほうがいい、無理して書くと不自然になるから」
彼女は、言葉たらずの俺がアドバイスを求めていると分かったらしい。
「それは確かに、…そうやな」
実際には初めてなわけではないのだが、俺はその通りだと思いうなづいた。背伸びした文章ほど見てられないものもない。
「関ヶ咲くんは恋愛小説、嫌いなの?」と今度は附さんが聞いてきた。
「いや…嫌いってわけではないけど、好き好んで読んでこなかっただけで、…こんなこと言うと怒られそうだけど、盛り上がりがないって言うかさ、俺は推理小説のが好きなんや」
「そう」
「附さんが書いてるのは恋愛小説が多いよな」
「ええ、読むのもそればかり。きっと、わたしと関ヶ咲くんの求めているものの違いね」
「はぁ、求めてるものね…」
哲学的な話になってきたな。
「附さんは何を求めてるわけ?」
「私は…情緒を求めてる」
流れで聞いただけのセリフだったが、附さんは答えてくれた。俺も、ないよりはあった方がいいと思うが。
「関ヶ咲くんには、子供の頃にむしゃくしゃして、でもなんでこんな気持ちなのか分からないから、そんな気持ちを抱いてる自分が嫌になること、なかった?」
変な問いかけだった、答えに迷っていると「ないのかしら」とつぶやかれた。
「…あるかも」
嘘だったが、なんとなく、ないと突き放すことが躊躇われた。
「そう」
パラパラと窓を叩く音が図書館に響いている。
「本を読んでいて、自分と似たような境遇の登場人物がそんな気持ちを言語化してくれた時、自分の感情が消化されていく感覚がする。
小説に限らず、…言葉だって同じ。自分の曖昧な心を誰かに形にして欲しいと、みんな思ってる」
「…なるほどー」
いや、感覚としては俺には理解できないものだと思ったが、なんだかやけに納得した気分にさせられた。附さんにはその感覚があると言う話だ、俺にはない、と言うかそもそも、俺は小説を読んで、登場人物に気持ちの代弁を求めている、なんてことを意識したことがなかった。
流石だな、と思った、彼女の心情描写が段違いに繊細で、美しいはずだ、と。そして、やっぱりこの大学にいるのは勿体無いと思った。
これは椰代に抱いている感覚に近い。
あいつだって附さんだって、こんなところで無駄に時間を過ごさず、才能をすり潰さずに、遠くに羽ばたけばいいのに。
「じゃあ」
といい、附さんは太い三つ編みを揺らして去って行った。奥の本棚の前まで歩き、同じように探しはじめる。
彼女の探す見たことのない小説があればいいな、と思いながら、俺も元いた席に戻った。散りばめられた犯罪と恋愛の本を軽くまとめて、恋愛の方の小説をパラパラと見る。
恋愛小説執筆が得意な附さんのアドバイスをまとめると…。
(自分を主人公に投影して書いた方がいいってことやな、その方が無理なく、自然やと)
嫌やなーーー。
それが嫌だから聞いたのだが、彼女がそういうなら近道や楽を考えるなということか。文学は苦しみの中で生まれる結晶だと、いやそこまでは附さんは言ってなかったけど、かなり嫌になってきた。
俺は彼女のように小説に情緒を求めていない、物語はドラマチックであればいいと思うが、感情に浸るのは煩わしいと思う自分もいる。
そんな俺がなぜ文学科に入ったのか、それは俺が整合性の取れた物語とそれを作り出せる作者の頭脳に惹かれているからだ。
(俺は何を小説に求めているのか、か。そんなこと、考えたことなかったな)
「附さん、こんにちは」
聞き覚えのある声がして、その方向を見ると白いパーカーを着た黒髪の、高校生のような身なりの男が、三つ編みの後ろ姿に声をかけていた。
(げ、小田!)
俺は即座に頭を下げた。
二人は俺の座る席より10mほど離れた本棚の前で鉢合わせた。
小田は挨拶を終えるなり「よかったらおすすめの恋愛小説教えてくれない?」なんて、彼女に変なナンパみたいな声かけをしている。そこまで離れているわけでもないので、静かな図書館では会話の内容が聞こえてくる。附さんはノータイムでいくつかの本の名前をあげ、小田はそれをうなづいて聞いていた。
「ありがとう、附さんのおすすめなら間違いないね、読むのが楽しみだな」
ナンパみたいと表現したが、やっぱり狙ってるんじゃないか?
「そういえばさ」と小田は普段より優しい口調で切り出している。
「なに?」
「図書館に関ヶ咲が入って行ったの見たんだけど、附さんは知らない?」
「あ、えっと」
こちらを見た附さんと目が合い、俺はブンブンと片手を振った。
「…あの、知らな」
小田が附さんが言い切る前にこちらに振り返った。
彼女がこちらを見た時点でこうなることは分かっていたが、俺は片手で恋愛小説をかき集め、机の下に隠した。
ほどなく、小田がこちらにやってきた。
「何してんですか?」
「…別に?お前こそ」
「俺はまた小説を借りにきたんですよ」
「へえー、勤勉な勉強家やなぁ、小田は」
「関ヶ咲もいい心がけだと思いますよ、恋愛小説の勉強なんて」
小田は幼い顔を少しも歪めず、机の上の一つを手に取った。表紙には真っ赤な背景に切り取られたような白い丸が描いてある。
「これ、表紙じゃ分かりづらいですけど恋愛小説ですよね」
そうだったか。5冊づつ適当に引っ張ってきたから、どれが恋愛小説かごっちゃになってしまっていた。表紙で判断して恋愛小説をいくつか下に隠したが、本を読む数が俺より何倍も多い小田がいうのであれば、それは俺の手を逃れた恋愛小説なのだろう。
裏返してあらすじを読んでる小田を前に、俺は体勢を戻した。隠していた本を持ち上げ、机に出す。
「…勘違いすんな」
遠くの方で附さんが頭を下げ、別の本棚に移って行くのが見えた。
「エグい犯罪小説も読みよったわ!」
「別にカッコよくないですよ、自分の読む本は他と違うって異端アピールする中学生ですか」
小田は本を机に置いた。
「隠さなくても、恋愛小説を読んでることは何も恥ずかしいことじゃないですよ。文学ですから。昨日俺が恋愛小説を読んでることを馬鹿にした手前、俺に見られたことは不本意で恥で死にたくなることかもしれませんが、どう考えても、隠れて恋愛小説読んでる方が恥ずかしいでしょう」
「……………」
黙る俺に、幼い顔はわずかに苦笑したように見えた。
「このあと、一緒にサークル行きます?」
小説を借りて、図書館を後にした。
ドアを開けた瞬間隙間から入り込んでくる寒さに、ダウンのポケットに手を突っ込む。
「うわ、積もってますよ。今年初めてじゃないですか」
図書館出口の軒先の側面には小さな花壇がある。小田は近づき、花壇に薄く雪が積もっているのを見た。
「そこ、寄りかかると跳ね返ってくるぞ」
花壇の近くには屋根の水を下に逃す配管が伸びているのだが、素材が柔らかいため、間違えて寄りかかると跳ね返ってくるという厄介な性質を持っている。
「そんなヘマしませんよ」
経験から注意すると、生意気に言い、小田は前に歩き始めた。
ぎゅ、ぎゅ、と靴の底が薄い雪をふむ音がする。
図書館から本校舎に続く足跡は少ないが、人に踏まれすぎてアスファルトが黒くなってる箇所は雪が凝縮されて通ると滑りそうだ。
図書館の横には湖くらいでかい池があり、その横を通っているとより寒くなってくる気がした。
「さっき校内を歩いていたら河原先生に会いました。また変な実験やってないかって、釘を刺されましたよ」
「ん?ああ、またか」
小田は池を見て思い出したのだろう。歩きながら寒そうにマフラーに顔を埋めて、池に目線を向けている。
俺たち、と言っても椰代はおらず小田と俺だけだったのだが、ジェーンドゥ(探偵サークルの壁にある等身大人形)を使って、高所から落ちた際の人体の打ち付け箇所を知りたいために、図書館の上から人形を落としたことがあった。その時のアップデートする前のジェーンドゥは素材に反発性を持っており、跳ね返って池に落ちた。
やべ、と思っていた、ちょうどその現場を文学科の河原教授に目撃されてしまい、俺たちは2人で怒られた。それ以来、何かと目をつけられている。
「過激なゲームをしている子供は犯罪を犯すかもしれない、みたいなことを考えてるんですかね」
「あの教授もしつこいな。こんな寒いのに、池に人形突っ込む実験なんかするかって。あれは事故やし」
C棟に入りサークルの扉を開けると、布団にくるまった椰代が部屋の中心であくびをしていた。
「やぁ、今日は遅かったね、2人とも」
爽やかに言うが、ヒーターの前に座り手をかざしている見た目は雪山の遭難者だ。
「部屋を温めておいたよ」
部屋の中は外よりも、廊下よりもずいぶん暖かかった。マフラーとダウンを脱ぎ、ヒーターを囲むように設置されている椅子に座った。
俺が覚えている限り、ジョンドゥを使った実験に出不精の椰代が立ち会ったことはない。
椰代はこのサークルか物置かよくわからない汚い部屋で本を読んでいることが常で、俺たちが持ち帰ってきた実験の成果を聞き「なるほど、じゃあこう言う可能性もあり得るな」と偉そうに推理を展開することが多かった。
まあ、そんな椰代に対して何か言う資格は俺にはないのだが。
俺の未解決事件サイトの考察のための実験であり、椰代に報告をするのはキレた意見を取り入れたいと言う俺の100%自分本位の行動であるので、ここにずっといることに関しては好きにしてもらえばいい。
「ありがとうございます。図書館で本を借りてて、遅くなりました」
椅子に座った小田が、椰代に説明した。
「へー、恋愛小説?」
「はい」
「小田は勤勉家だね」
椰代は優しくそう言い、布団から伸びた手で机に置かれたカップを掴んだ、カップを傾け、一息をついた。
「俺も小田から借りた恋愛小説を読み終わったよ」
カップを戻し、布団を被ったまま屈んだ。
椅子の下にあるカバンから本を取り出そうとしているんだろうが、頭を下げたことでモゾモゾと動くでかい布団になった椰代を見ていると、動きづらそうやなー、という純粋な感想が湧いてくる。
椰代は息をするように顔を上げた、小説を小田に渡し、乱れた布団をかぶり直した。
(居心地の概念あるんかな)
いそいそと、いつもの雪ん子スタイルになる椰代を見てそう思った。別に聞いてみたいとは思わない。
「読んでみて驚いたよ、附さんの書いた小説と流れがそっくりだ」
「?なんで椰代さんが附さんの小説を知ってるんですか?」
「附さんの小説が文芸誌に載ってたんだよ」
「は?文芸誌?なんの」
俺は進んでいく会話を聞き流せず、問いかけで止めた。
椰代は机の上の雑誌を手に取り、俺たちに広げて見せてきた。
「ネットで取り扱ってないような目立たない雑誌の、小さな短編の賞に応募していたらしい。さっそく手に入れてみた」
広げられた見開きページには、彼女の書いた見覚えのある小説が5ページに渡り載っているのが見てとれた。30000文字ほどの短編は載せるのにちょうどいいのだろう。
「すごいですね、このままとんとんとプロになるんじゃないですか?」
「どうかな。この雑誌は廃刊寸前らしいから」
「後で俺も読ませていただいてもいいですか?」
「いいよ、小田は見てないんだ、これ」
「ゼミの班が違ったんですよね」
「……」
この小説を読んだのはゼミの発表会の時、5ヶ月前になる。
これに応募するために書いたのか。
「なぜ附さんがこれに応募してるって知ってたんですか?」
椰代は中心に位置するヒーターの上にぶら下げていた雑誌を閉じた。そのまま小田に渡し、手をヒーターに翳した。
「この雑誌に載ってるって河原教授が教えてくれたんだ。椰代、お前も頑張れよ、と言葉を添えてね」
「へえ」
「……そうか」
椰代の言葉に、思考から引き戻される。
「相変わらず嫌な言い方するやつやな、あいつ」
「教えてもらったことについては良かったよ。色々考えて暇が潰れた。わざわざ、同じような話を書かなければいけないと思った理由があるんだろうか、と読みながら考えていたんだ。想像にはなるけど、決別、とか、憧憬、とか、もしくは同一化?」
「お前、ほんとに暇なんやなぁ」
そう言うと、椰代の猫みたいな目と目があった。
「才能があるんだから、何も先祖が書いた本と似たような話を書かなくてもと思うじゃないか。これだけの文才があるなら、もっと別の話も見てみたいと思うのは普通だろ?」
「まあ、…それはな。他にも書いとるみたいやけど、その中からそれを選んで応募したのは、よく分からんな」
窓の外にはパラパラとまた音がした。
パラパラと、雨よりも硬い音。
ヒョウだ。
「寒いわけですね」と、小説を鞄にしまった小田がつぶやいた。
小説と入れ替わるようにノートパソコンが出てくる。腕を伸ばして掴んだ机を近くまで寄せて(意外と行儀が悪いことをするやつだ)その上にパソコンを乗せた。
高そうな超薄型のパソコンを扱いながら、小田は椰代を見た。
「椰代さん、恋愛小説をちょっと書いてみたんですけど、読んでもらってもいいですか?」
「えっ!」
「どうしました?」
俺の驚きに対し、小田はケロリとしている。
「いいんか」
「いいんか、というか。自分で書いててこれでいいのか分からなくなってきたんで、今日、椰代さんに見てもらおうと思ってたんです」
(こいつ、恥ずかしさとかないんか…)
そりゃもちろん、俺だって小説を他人に見せることには慣れている。ゼミでは読み合いもするし、作品の講評会なんかも文学科ではある。だが書き途中のものを俺は人に見せたことはない。ましてや恋愛小説を。
「見たい、見たい!」
椰代は急に元気になったように、そう言った。
小田がパソコンを椰代の方に裏返し、近づいた椰代が黙って読み始める。ノートパソコンを指でタッチしながら、高速で文字を追っているのが目の動きで分かる。椰代は文章を読むスピードが速い、時間にして1分もかからなかったと思う。
「へー、小田ってこういうシチュエーションが好きなんだ」
と、まるで新種の深海魚でも見てるように興味深そうにうなづいた。
「自分がいいと思うものを書いた方がいいみたいなので、自分に正直に書いてみました。関ヶ咲も読みますか?」
こちらを見る小田にうなづいて、机をこっち側に持ってきてもらい、読んだ。
(……)
主人公は退屈な日々に嫌気が差しているティーンエイジ。ある日喫茶店で見るからに犯罪の匂いがする男と出会い、跡をつけると強盗現場を目撃してしまう。犯罪現場を目撃してしまったことで、脅され、一緒に行動することを余儀なくされた女子高生は、逃げ出さないよう刃物を体に向けられながら行動する中で犯罪を手伝うようになり、刺激的な彼に惹かれていく…
※要約
「どんな気持ちで書いたんや、これ…」
おそらく5分ほどで読み終わり、そう口からこぼれ落ちた。
20000文字くらい書かれていたが、ほとんど銀行強盗の犯罪描写で終わった。この描写は見事なもので、銀行員と男の駆け引きの中で、男が犯罪を犯さなければいけなくなった理由を同時に描写している。
強盗の際、拳銃で男が右手を負傷したため女子高生が次の犯罪を手伝う羽目になる…のだが、手に汗握り、唐突に終わる最後まで読んで、これが恋愛小説だということを完全に忘れていた。
「え?そうですね。物語である以上、俺は刺激を求めます。ラブストーリーとは言え、ドメスティックでバイオレンスである方が読んでいて面白いですから、その中に、ほんの少しのラブがあれば恋愛小説ということでいいでしょうと考えました」
「情緒大丈夫かお前……これ恋愛小説っていうか、犯罪小説に恋愛のエッセンスがあるだけやろ」
「やっぱりそう思います?」
自覚ありか。
小田はふぅ、と息を吐いた。パソコンを裏返し、幼い顔が画面と向き合っている。
「純粋な恋愛小説というと難しいものですね、恋愛に発展した動悸よりも、犯罪を犯した動機のほうが思いつきやすいです」
「いや、うまくねーよ。…情緒は大切らしいぞ、恋愛小説では特に」
「へぇ、まるで何かを掴んでいるような、そう言う関ヶ咲はどうなの?」
端正な顔をニヤニヤとさせている椰代と目を合わせずに、俺は答えた。
「ちょっとは書いたけど、なかなか進まんな」
「関ヶ咲もちゃんと書いてるんですね」
「気になるなぁー、見せてよ」
「いやだ」
流れるような言葉にNOを突きつける。
椰代は布団の厚みのせいでどこにあるのか分かりづらいが、体を動かしたので肩でもすくめたんだろう。
「そう言うと思った、関ヶ咲も小田みたいに素直に気持ちよく割り切ればいいのに。恋愛を想像することは素敵なことさ、黒歴史にはなってもゴミにはならない」
「いやだ」
「どうせ発表するんだから。隠してあとで見られるよりも、いま見せてしまった方が傷は浅いよ?」
「おい、傷って言っとるやないか」
「黒歴史になるなら、傷にならないとは言えないからね」
椰代はさきほどの図書館での出来事を知らないはずだ、なのに、まるで知っているような言い方に背筋が寒くなるような心地がする。
いや、マジでたまたまなんだろうが。
…たまたまだよな?
「俺は小田の恋愛小説、新鮮でいいと思うけどな。何事も多様性だ。出会いなんて、それこそ今流行っているアプリでもいいわけだし。小田は入ってるんだっけ?」
椰代は優しい声でそう言った。
「タッチなら、俺は入ってますよ?」
小田は、平坦な顔でそう言い、椰代は打って変わって布団の奥で「へぇ」と興味深そうに言った。
「小田が入ってるなんて、タッチって本当に流行ってるんだ」
「ずっと放置してますけどね。ゼミでみんなで入れようって流れになった時があったんですよ。普通の出会い系アプリと違って、SNSみたいな使い方もできるからということで、手軽さが流行ってるみたいですね」
タッチでは自己紹介ページに公開した記事や写真を載せる事ができる。
これはユーザーから賛否両論あるらしいが、純粋な出会い系アプリとして使いたい人は使わなければいい。逆に、友達を探すアプリとして使っている人はSNS機能を使う傾向にあるらしい。以前林に聞いてみれば、会話の話題にしやすくちょうどいいのだということだった。
「ふーん」
椰代はさながら探偵のように顎に手を当てた。
「ん?てことは、当然、同じゼミの関ヶ咲も入ってるってことになるな」
(分かっとるくせに…)
白々しい。
「俺はもう辞めてるわ、アプリは消した」
「あ、そうなの、なるほどね」
妙に納得したような、含みのある言い方だった。
「言いたいことがあるなら面と向かって言ってみぃ」
「いや?ロマンチストな関ヶ咲らしいなと思って」
「やめろ、俺はリアリズムなニヒリストや」
窓にパラパラと、ヒョウが降りつけている。
冷えている外と、中の絶対的な差を感じる。
小田はパソコンを見つめたまま、腕を組んで、思いついたように声を上げた。
「それ、自分で言ってて恥ずかしくないんですか?」
何もしなくても時間は経つ。
河原教授の授業を受けた、あの腹立つ顔が俺をめざとく見つけ、見ている気がするのは、たとえ勘違いであっても嫌な気分になる。
(もうスマホ、見ねーーっつーの)
講義終わり、吐き出されるように廊下に出るとよく知る茶髪の後ろ姿を見つけた。声をかけると、一言目で「ちょうどいいや、さっきの講義途中で寝ててさ、ノート見せてくれよ」と宣う林は、生きるのに必要な鈍感さを備えていると感心する。
机と椅子が設置された休憩スペースに座り、自販機で奢ってもらったジュースの代わりにノートを渡す。受け取ると、林は「すぐに終わるから!」とかぶりつくように写し始めた。
林に会うと思い出すのは、この間目にした附さんへの反応だった。附さんも「林くんから何か聞いてない?」と俺に聞いてきた。その件について林に聞いておきたいと言う気持ちは、ここ最近ずっと持っていた。
「なあ」
「んー?」
「附さんのことなんやが」
「えっ」
飲んでいた缶を置いて切り出すと、露骨に林は驚いた。
「…附さん、小説の賞に応募して賞とってたって知ってたか?」
「い、いや?そうなの?へ、へー!すげえなぁやっぱり」
林は急に安心したようにうんうん、とうなづいた。チャラい見た目と合わない気の弱そうに変化していた顔が、貼り付けたような笑顔に変わる。
「やっぱ違うんだなあと思うよなあ、うん。俺は実際、天才って本当にいるのか半信半疑やったんやけど、会ってみると圧倒されるもんだよな。否応なく天才の存在を分からせられる、って言うかさぁ」
「附さんとなんかあったんか?」
林は捲し立てていた口と、ノートを写していた手を止め、顔を上げた。
「附さんから、なんか聞いたんか」
「いや…」
聞いたといえば聞いたが、具体的なものは何も分からない。俺は説明を省き、ただ首を振った。
やはり何かあるのか。
林の反応を見て、本格的におかしいぞと確信できた、おいおい、もしかして本当に色恋沙汰の痴話喧嘩か?
2人がそうであることなんて考えもしなかったが、これは俺の想像力が不足しているだけだろうか。
俺から見れば、林と附さんは正反対なタイプに見える、趣味も性格もインドアとアウトドアでは何もかも違うので、端から見て話が合いそうだと思ったことはない。いやもしかしたら、だからこそ、という可能性もあるのか。2人をモデルにした恋愛小説というのも、逆に月9ドラマ的な王道なのかもしれない。
林は見たことのない神妙な顔であたりを見渡した。知り合いがいないことを確認したのか、俺に近づき小さな声で話し始める。
「タッチって知ってるだろ、出会い系アプリ」
「ああ、…知っとるけど」
(…またか)
その名前を、俺は最近何度聞いてるんだ、と若干嫌になった。
恋愛かなんかの神様に呪われてるのか俺は。
入れば解除されるんなら、また入っても良いとさえ思い始めている。
「あ、そうだよな、関ヶ咲も一緒に入れたよな」
「俺はもうとっくに消した」
「あ、そうなんや」
林のいう通り、椰代にもばれている通り、俺も一度だけ“タッチ”をスマホにインストールしたことがある。
もうずいぶん前のことだ。ゼミ室で、始まる前の空いた時間を持て余していた時、なんのアプリをインストールしているか、と言う話からスマホの見せ合いになった。1人の女子生徒が「えっタッチみんな入れてないんだ」と言い出し、その子がゼミの中で一番可愛く人気もあった子だったからか、その場の男子がこぞって入れ始めた。(めちゃくちゃ嫌な流れや…)と感じ、空気になりきろうとした俺に関ヶ咲さんも入れないんですか?と隣の別の女子が追い込むように聞いてきて、なんとなく(これはもう意地や名誉のためなのかもしれない)いれてしまった、で、帰ってすぐ消した。
自分を客観視して、あまりの居た堪れなさに嫌になってしまったのだ。
いや、別に誰かが出会い系アプリを使ってどこで出逢おうが勝手にしてくれと思うが、俺も一度は文学を志したもの。俺には、強烈な違和感が拭えないのだ。
「タッチにさ、附さんが登録してたんだよ」
林はノートを見つめながらそう言った。
俺は記憶を探った、その場に、たしか附さんはいなかった。
その場にいた、開始時間より早く集まっていたゼミ生は十人くらいだ。ゼミは総員20人はいる、常に15分前には教室についている真面目な小田はその場にいて、まだ来ていない方に附さんは入っていた。
いたとしても彼女が入ったとは思えなかったが、林が言うには、彼女は機会がなくともタッチに登録をしていたということだ。
「…名前ってりく?」
「え?なんそれ?」
さすがに全部は繋がらないか。
「いや、なんでわかったんや」
「大したことじゃねえよ、本名で検索したら出てきたんだ。関ヶ咲がいない時にさ、ゼミのやつみんな入ってるか検索かけてみようぜって流れになって、附さんの名前を検索したらヒットした。写真とかまんまだからすぐ分かったわ」
「それで?」
林は口を止めた、への字に曲がり、言いづらそうに目を逸らす。
犯罪を犯したのに自首していない逃亡犯のような相貌を見ていれば、それだけではないことは推測できる。
「なんかしたんか?」
「……でさ、メッセ送ったんだよ。おーい、俺同じゼミの林だけどーって」
俺は、うわぁ、と思った。
「なんで」
「いや、流れで……だって、周りが送れって言うからさぁ!」
「本人が真面目に出会いを求めてるなら、さぞ、嫌だったやろうな」
「…俺はSNSみたいな使い方しかしてないから、出会い系で使ってるとは考えなかったんだよ」
そういう考えもあるのか、と俺は思った。俺はほとんど使用してないので、その空気感は掴みにくい。
「それでさ、…メッセが帰ってきて、変な画像送られてきたんだ」
「画像?」
林はスマホを扱い、また俺に向けてきた。
白黒の版画のような絵だ。親指で横にスライドし、もう一枚似たような絵を見せてくる。
「なんだ、これ?」
率直に意味が分からないので問いかけると、林はどこか怯えを滲ませる顔をした。
「関ヶ咲は探偵サークルの一員なんだろ?この画像ってどんな意味なんだと思う?実は俺、ずっと、聞きたかったんだよな」
「どんな意味って、言われてもなぁ」
これを推理してほしい、というのか。
突っぱねても良かったが、林とは割と仲良くさせてもらってる。見た目通りチャラいが根はいいやつだ。過失事故のようなもので故意ではない、その分罪は軽いだろう。
(……椰代に見せればいいか)
探偵サークルが立ち上がったのは今年の春からの話だ。それから今まで、こんなふうに外部から依頼が来たことは一度くらいで、ほとんどないも同然だった。だからこそ探偵サークルの部屋はあんなにもダンボールに塗れた物置の様相をしている訳だが。
「分かった、考えてみる」
「あ、ありがとうございますー!関ヶ咲様!」
「ベタベタするな、こんな時だけ敬語使うな」
救われたように破笑し、ガバリと抱きついてきた林を腕で押しのける。にへら、といつもの能天気な笑顔を取り戻した後、らしくなく顔を伏せた。
「俺もフルネームじゃないけど名字で登録して、顔写真ものっけてるから附さんも俺だって分かったはずだぜ、だからメッセ送ったんだ。なのにこの画像だけ送られてきて、直接会っても何も言わないんだぜ?…それって怒ってるってことだよな?」
「そらそうやろ、お前の無神経さに呆れてんねん」
林は、はー、と息を吐いた。
「軽率だったって反省してる。正直、話しづらいから困ってるんだ、集まりの時とかスッキリした気分で楽しみたいじゃん?」
それは自業自得だろう。この問題が解けたとしても林はしばらく悩んでいるべきだ。
「探偵サークルってなんなんだよって思ってたけど、こういう時のためにあったんやなぁ」
言い終わると、自分の言葉が腑に落ちたのか、林はうんうん、と納得したように腕を組んだ。
「調子いいやつやな…、ま、すぐに解けると思うから待ってろよ」
「おー!頼りになる〜」
調子に乗る林を抑え、さっそくラインで画像を送ってもらった。
奇妙なその後2枚の画像は見るからに暗号めいていて、感謝してくれる林には悪いが、俺自身はこれをあいつに渡すだけの簡単な仕事だ。
「こう言うのが大好きなやつが、偶然身近におるからな」
送られてきた画像の絵はシンプルだ。
黒い背景に、記号が白抜きになったものが2枚。
一枚目 二枚目
大魚 小魚
﹅
逆音符 逆音符
※逆音符は左右反転した音符記号(♪)である。
(訳わからんな)
なんだこれ、附さんは版画制作の元絵でも考えてたのか?
小説を書くのが上手い彼女が絵を描くのが上手くたって俺は驚かないが(天は二物を与えると俺は知っている)絵にしては無機質な配列で魚と音符は並んでいる。規則性があるのに、意味不明であることしか分からない。
あの林の怯えを含んだ表情。俺が林の立場でもこれが送られてくれば怖いと感じるかもしれない。なんか知らないけどすごく怒っているんじゃ、と。
附さんはこんなことを言ってはなんだが、少し不気味な雰囲気もある。そう感じるのは、あの分厚い髪の毛からか。ゼミの中にいても、卓越した文章力を持って一目置かれているが、普段の彼女は自分から空気になろうとしている、と感じる。目立って仕舞えば、その異様さが目についてしまうことを恐れているような、表現が難しいが、そういう隙間的な存在が、俺から見た彼女だ。
(出会い系ね…)
遅れた偏見だろう、それでもやはり、彼女がそれに登録しているのは意外ではあった。
サークル室に行くと、椰代はいないと一目で分かった。主人のいない布団は折り畳まれて椅子の上に置かれていた。部屋の隅にはしゃがんだ小田がいた。パーカーの後ろ姿が、ジョンドゥの前に座り、持ち上げるように頭のウサギの両耳の付け根を掴んでいる。
「さっそく切ろうとしてるやん」
「こんにちは」
今気づいたわけでもないんだろうに、声をかけると小田は振り返り、ウサギの耳をパ、と離した。
「どうも俺は装飾品が苦手なんですかね、次来る時に鋏持ってこようかと思ってます。その日までの耳ですから、未練があるなら今のうちに見てください」
「んな未練ないわ。切らんでも、耳の付け根の糸を解けばいいんやないか?」
「さすがはプロの仕事なんですよ。それはもう綺麗に仕上げられて、糸の縫い目も見えません。切った方が楽です。応急処置用の裁縫セットも持ってこないとですね」
小田は昨日と同じ椅子に座った、同じように机にパソコンを置き、機械みたいな目が画面をじーと見つめている。
「椰代は?」
「俺がきた時からいませんでしたよ」
「どっか行ってるんやろうか」
「知りませんが、俺には行きそうなところなんて想像できませんね。椰代さんって、寝てるか本読んでるくらいしかしない人だと思ってました」
(さすがにそんなことないやろ)
と、堂々とツッコめない雰囲気が椰代にはある。
カタカタと、小田が薄いキーボードを叩く音がする。執筆活動の最中に、知らないと言うなら、これ以上話しかけることも野暮だろう。
俺は椅子に座り、ヒーターの熱を浴びながら電話をかけた。
「今どこや?」
椰代はすぐに出た。
声の奥で誰かの話声がする、大学内だろうか。
『外にいる、もう少しでサークル棟に行くよ。関ヶ咲から電話なんて珍しいね』
わざわざ電話したのは、今日来るつもりかどうか確認したかったのだ。
「椰代に見せたい、いいネタがある」
『言い返されちゃったな、なに?面白い事件でも見つけた?』
「そんな感じやな」
『楽しみだな、大切に取っておいて待っててくれ』
椰代の言うもう少しとは20分ほどだった。待ちくたびれた俺の前に「お待たせ」と爽やかに現れた椰代は、サークルで布団の妖怪にならなければ随分見れる容姿をしていると、眠気で思考力が鈍った頭で思う。椰代の右手にはコンビニの袋が握られていた。
布団をむんず、と掴んで座り、いつもの格好になったあたりで、俺は事のあらましを話した。
「見せてよ」
物分かりのいい椰代からの返事はそれだけだった。
俺は椰代が来るまでに時間があったので、大学に近い場所にあるコンビニで画像を印刷していた。A4サイズの2枚の紙を渡し、椰代は両手でそれぞれ掴み、透かすようにじっと見た。
「わかるか?俺は全くわからん」
聞くと、椰代は2枚の紙をまとめて返してきた。
「わからん、じゃなくて、考えてないの間違いだろう」
腹立つ言い方だった。受け取ると「2枚の画像の順番は決まっているんだろ?」と聞いてきた。
「いや、送られてきた順で重ねてただけやが」
「ああ、そうなの?」
「なんか分かったんか?」
言い振りから、さっそく何かを掴んでいそうだ、と思う。林への報告は明日にでもできるかもしれない。
「お釈迦さまの遠征の話を覚えてる?」
「お釈迦さま?」
「昨日の講義で、おじいちゃん先生が一生懸命説明してくれてただろ、俺もあの講義取ってるんだ」
「え、そうやったんか、気づかんかった」
あのヨボヨボのおじいちゃん先生が語っていた話か、と思い出す。
眠気にかき消され、ほとんど内容は覚えていないが、仏教の単位なので仏教の話をしていたと思う。話はつまらないのだが単位認定が優しいと有名で、講義室には人が多い。
講義の後に廊下で椰代と会ったが、同じ授業を受けていたとは知らなかった。
探偵サークル以外では接点があまりないし、この布団スタイルに見慣れているため、大勢の中にいれば呼びかけられないと気づかないのかもしれない。
「仏の顔も三度までっていうことわざは、お釈迦様の遠征の話が由来だと言われているって言ってただろ?あれは仏様は優しくて寛容であるから3回も許してくれるってだけで、一般人はもっと早く見切りをつけるから肝に銘じておけ、という教訓だよ」
言われてみれば、そんなことを言っていたような気もする。
てか急になんの話だ、それがこの画像に関係あるのか。
「俺に頼らず、自分で解いてみるべきだってこと」
返答は意外だった。
「なんやお前、この前はあんなにうきうきで、聞いてもないのにくだらない謎を解説しとったやろ。俺はどっかの誰かが書き込んだコメントより、こっちの謎の方がよっぽど気になるぞ」
「俺も日々色々考えているんだよ。人間は細胞分裂を繰り返していて昔の自分と今の自分は物質的に他人である、とは言うけど、昨日と今日の俺は考え方が変わったんだ」
回りくどい言い方だった、顔を顰める俺に、椰代は一息つく様に言葉を区切った。
「俺は、関ヶ咲を甘やかしすぎたと反省してるわけ」
「だっ!!誰が甘やかされ」
声を荒げて、ふと、思い至った。
「まさか、もう解けたんか。やっぱりこれも暗号なんか?」
態度の変化はそれ以外に考えられない。椰代はあの一瞬で暗号を解けてしまったから、急に興味を無くしたのだ。
「附さんってのは、意味がないことをするような人なのか?」
「…どうやろうな、あんま話したことないねん」
「じゃあ俺が保障するよ、それは意味のある問題で、順番はそれで合ってる。魚が大きいほうが左に来て、小さいほうが右。配置が違えば答えにはならない」
これ以上のヒントはないらしい。
椰代が来るまで割と待ったので、落胆する気持ちがないわけではなかったが、椰代はこれで意志が強い。俺の説得なんかに靡く様な男ではないと知っている。
俺は2枚の紙をもう一度見た。
「…分かった」
椰代は興味を失ったが、俺は興味がある、それだけだ。
「小田はこれ、どう思う?…小田?」
普段は名前をよべばすぐに「なんでしょう」と聞き返してくる真面目な小田から帰ってこない返事に、振り返った。
「あ、はい、なんですか?」
小田はパソコンから目を離した、没頭していたらしい。
「ああ、悪」「関ヶ咲」
椰代は呆れた様な顔をした。
「小田は集中してるんだ、俺たちは邪魔をせず応援してやるべきだろ」
立ち上がり、椅子の横に置いていたレジ袋から何かを取り出して小田の方に歩いて行く。
「小田、さっきコンビニで買ってきたから食べるといい、文章を書くのは頭を使うからな」
「え?ああ、ありがとうございます」
「ヒーターも近づけよう」
「あ、どうも」
小田の前の薄型ノートパソコンの、横に置かれたのはプリンだった。御丁寧に透明のスプーンも添えて、ヒーターを小田の方に近づけて、何食わぬ顔で帰ってきた。
もちろん俺にはないらしい。
「…なんかお前、やけに小田に優しくないか?気持ち悪いぞ」
椰代は昨日持ってきた雑誌を開いて、読み始めている。
「関ヶ咲もさっさと恋愛小説を書き進めなよ、サボっても締切は待ってくれないよ」
「……………」
ぐうの根も出なかった。
個人的にだが、原稿用紙にボールペンで書くと言う行為は気分を上げてくれると思う、パソコンでカタカタやった方が修正も見返しも楽なんだけど、
俺は彼女の黒髪を…ーーーー
…
ぐしゃぐしゃぐしゃ!
紙を丸めるときに、デリートで消すよりスッキリするのはポイントが高い。
(気分だけ出してもダメなもんはダメやな)
しかし実際、やってる感を出せると思ってコンビニで原稿用紙を買ってみたのだが、慣れないことはするもんじゃないと俺は思い知らされていた。
ボールペンしか持ってないから文の訂正がめんどくさい、無駄な要素に頭を取られて、想像も筆も進まない。昔の文豪は原稿用紙に万年筆で書いていたとか、頭が下がる思いだ。
俺は恋愛小説の執筆のために図書館に来ていた。サークルで書いたらいいじゃないかと言われそうだが、椰代の近くで書いてみろ、絶対に口を挟まれるに決まっている。パソコンでカタカタしていれば、あいつは後ろに立ってその異常な読むスピードによっていつのまにか完読されてしまうだろう。それは嫌だったので、図書館を選んだのは消去法だ。静かな図書館では俺の古いノートパソコンの連打音がうるさいかと考えて、こんな原稿用紙に向き合っている、というのもあるのだが、明確な失敗だった。
俺は丸めた紙以外の原稿用紙を見直した。とりあえず思いつくままに4枚ほど埋め、いよいよヒロインに近づこうとするあたりの描写でたまらず放り投げたが、序盤はまあ、よくあるやつだと思う。
附さんのアドバイス通り、無理をせずに感情移入できるよう主人公は俺に近い人間に変えたのが、4枚目まで筆が進めた理由だろう。俺のように冴えなくて、目立った特技もない普通の男の心境は書きやすい。
問題はヒロインだった。
ヒロインの言動が書けない。
(作ったようなセリフになる、ヒロインの性格がしっかり決まらんからやな…)
俺だって、何も恋愛要素を書いたことがないわけはない。推理小説だって、登場人物の関係性に恋愛を持ち込んだことは何度もある。愛情というのは分かりやすいし、使い勝手がいい、それはあくまでも役割としての恋愛である。俺の場合は、恋愛主体の小説にしたら、どうしたって入り込めずにぎこちなくなる。
だが、今日のうちでも書き進めていたほうがいいだろう、下手でも書き進めた先に掴めるものがあるはずだ。
(椰代が言うことも一理……はあるし)
腹立たしいことに。
林からもらった2枚の画像についてはまた考えるとして、りくさんよりも、暗号よりも、俺が頭を悩まさなければいけないのはこれだ。ゼミで提出する締切日が迫ってきている。また恥をかかないように、それなりの出来には仕上げたい。
(何かモデルがあれば描きやすいんやろうが…)
原稿用紙から目を外す、図書館には恋愛小説が山ほどあるわけで、昨日借りた中にはピンと来るものはなかったが、眠っているだけだろう。俺は探すか、と席を立とうとして、視界の端にパーカーの後ろ姿を見つけた。
小田だ、サークルを出て休憩がてらか、また小説を借りに来たのか。
椰代ほどではないだろうが、小田も読むスピードは早い。昨日借りていた本は3冊ほどあったと思うが、小田なら1日で読み終えていても不思議はない。
俺は浮いた腰を戻した。昨日の反省を生かし、見つかる前に原稿用紙を鞄にしまう。
また附さんも隣にいるというのは、偶然なんだろうがデジャブが強い。
(…ほんとに狙ってんのか?)
昨日は冗談で考えていたが、小田の方から積極的に話しかけてる様子を見ていると、妄想に真実味が帯びてくる。
陽キャの林と隠キャの附さん、とは別の意味で。どちらかと言えば似てるとさえ考えていたが、情緒を必要としない小田と、情緒を求める附さん、という正反対もあるか。だからなんだという話でもないが、林よりは附さんに合いそうだとは思う。
2人とも落ち着きがあり、趣味も合いそうだ。
なんて余計なおせっかいを考えていたら、振り向いた林と目があった。
「帰ったかと思ってましたけど、ここに居たんですね」と、こちらに歩いて、そう言ってきた。
「まあな、附さんと何を話してたんや?」
サークルを出てくるとき、椰代に付いてこられたくはなかったので「帰る」と告げたのだった。小田に告げ口をされたくはなかったので適当に話題を逸らした。
「附さんは恋愛小説が上手ですから、コツを聞いてたんです」
「へー、附さんはなんて言いよった?」
「自然に書いたほうがいいと言ってました。なんというか、天才っぽいアドバイスをいただきましたよ」
「参考にならんな」
俺へのアドバイスと似たような言葉だった。自然に書ければ苦労しない、と小田の平坦な表情でも雄弁に言っている。
「横に座っても?」
「ああ、いいぞ」
了承すると横の椅子に行儀よく座った。原稿用紙を鞄に直してよかった、と思う。机の下に隠していれば、めざとい小田に見つかっていた可能性は高い。
小田は2冊くらいの小説を持っていて、一冊を開くと「進まないんですよね」と淡々した口調で言った。
「登場人物と舞台を描写し終えたあたりで筆が進まなくなってしまって、ヒントがあるかといろいろ読んでいるんですが、掴めません」
「ああ、分かる分かる、序盤って不思議と筆が進むよな」
「言い換えればそういう言い方もできますが、関ヶ咲って意外とポジティブですか?」
「意外とってなんやねん、俺は割とポジティブや」
「そうですかね」と言う小田は、進まないとは言っているが気にしていないように見える。
会話が途切れた。
俺も小説でも読むか、とカバンに入っている本を取る。
昨日借りた、附家の誰かが書いた小説だ。家では読み進めていなかったのだが、ペラペラと捲るたびに無理せずこんな話だったなと思い出せる。目で追うのが苦痛でない文章の中の、見たことのない目新しい文章表現を見ても、その想像が掴みやすいというのは一体どういうわけなのか。
「身近に圧倒的な人がいると、焦りますね」
声に横を向くと、小田の表情に変化はなかった。
附さんの受賞のことだろう、と俺は直感した。
「なんや、ネガティヴになっとるのはお前やないか?」
「そうですね、自分が恋愛を育む過程が想像できないと自覚しました」
そうキッパリと、本を見ながら断言した。
「割とショックを受けています。ですので、自信がなくなってきました」
「……」
そんな、業務連絡みたいな感じで…。
小田にも可愛いところあんじゃないか、とも思ったが、俺はめずらしい小田の感傷に、何と言えばいいのか迷った。
表情が乏しいため分からなかったが、小田はその揺るぎない太々しい気質から、少しづつ自信をなくしていたのか。
椰代がやけに小田に対して優しくなったと思っていたが、小田の心境の変化を見抜いていたのかもしれない、抜け目のないやつだ、隙がないと言うのだろうか。
(つか、表情変わらんすぎて分かりづらいわ…)
今だってスン、とした、同世代より童顔の横顔を見る。
「あー、あのなぁ」
俺は言葉を選んだ。
「俺も、小田の小説よかったと思うぞ」
「情緒大丈夫かって言ってませんでしたっけ」
言った。
「いや、逆に。逆に新鮮やったってことで」
「逆にってあえて、くらい便利な言葉ですよね」
…根に持ってるのか?
「まぁなんや、いいんやないか?附さんが言うには、恋愛小説は自然に書いたほうがいいんやろ?」
俺は少し考えて、口を開いた。
「主人公が危険な奴に刺激を求めて惹かれるところとか、強盗を一緒にやるところとか、ボニーとクライドみたいでいいやん。そう、世界には犯罪カップルってのもいるんやし多少は血生臭くても、そんな愛の形もあるんやないか?」
「ボニーとクライド、ですか」
アメリカでギャングとして強盗や殺人を繰り返していた犯罪カップルだ。
小田の小説を読んだ時、何だこの犯罪小説はと思うと同時に、俺はその2人組も思い出していた。
13人も殺した歴とした犯罪者ではあるのだが、映画化もしているほどの人気ぶりを博している。当時禁酒法など、警察から市民の暮らしに圧力をかけられていた中で、無邪気に飛び跳ねるように犯罪を犯す彼らは英雄視さえされていたようだ。美男美女カップルであること、金持ちを狙い貧乏人からは金を巻き上げなかったなど義賊的なところも大衆に受けているらしい。
俺は、ボニーがクライドと出会うまでは一般的な犯罪と無縁のお嬢さんだとされているところもウケたのではないかと思う。刺激を求めてクライドと共に犯罪を犯した彼女の人生は一変してしまったのだろうが、それは他人から見ればそう思うだけで、ポニーはそれまでの自分から生まれ変わることができる運命の人に出会ったのではないか。
「俺も思いついた時に似てるとは思っていましたが、それでも」
手を顎に当て、考えるような仕草をしたあと「盲点でした」と、小田は言った。
「ん?」
顔を上げる小田の目が、きらりと光ったように見えた。
「ボニーとクライドは、たしか、ボニーからの一目惚れでしたね。そうか、俺としたことが、こんな抜け穴を見落とすなんて」
「抜け穴って」
俺は呆れた。
「一目惚れなら、好きになる過程を考えなくていいとか思ってないか?」
「一目惚れでも、間違いなく恋愛でしょう」
と、平坦でもどこかスカッとした顔でそう言われた。
俺が2人を持ち出したのはそう言うことが言いたかったんじゃないんだが、と思ったが、言うのはやめた。
「間違いなくな」
元気になったなら何よりだ。
太々しくないこいつは気持ち悪いからな。
聞けば2人をモチーフにした「俺たちに明日はない」を見たことはないと言うのでオススメしておいた。小説は読むが映画は嗜まないらしい。スマホのメモ帳に映画の名前をメモする姿を見ていると、小田を見習うべきだ、という椰代の言葉を思い出した。
確かに、そうかもな。
「小田、俺も…相談したいんやが」
「はい?なんでしょうか」
ここまで素直に悩みを打ち明けられて、あてられたのかもしれない。
「人は恋愛相手に何を求めてるんだ?」
思い切って相談してみた。
少し待ち、返事がない小田を見る。
「小田?」
「…すみません。随分恥ずかしい質問なので、できれば答えたくないんですが」
「な!?う、ううううるさいわ!ハシゴ外しやがって、ひ、人が恥を偲んで!」
視線があって、無表情が微かに笑った。
「人間は自分にないものを相手に求めるみたいですよ、正反対の人ほど好きになるそうです」
「…なるほどな」
小田は、そういう系統の小説を探してみると本棚に向かっていったので(一目惚れから始まる恋愛小説のことだろう)俺は無意味に開いていた本を閉じた。
(…正反対か)
生物学的には人は恋愛対象に自分にないものを求めるらしい、と小田は説明してくれた。人間の遺伝子の性質上、異なる遺伝子の方が、子供には優れた遺伝子が表層化すると言う話だ。…附さんに聞けばそんな小難しい生物学的な話はしなかったと思うが、小田の脳では恋愛はそう整理されて理解しているらしかった。
なるほど、それなら俺は自分にないものを好みの女性に対して抱いていると言うことで、論理的にヒロイン像を組み立てられるかもしれない。
感覚的に理解できないなら、自分が分かるまでに小さく要素を噛み砕いて、積み木のように組み立てるしかない。組み立てる積み木の強度は人によって違おうが、自分が出来るそれなりの形に作り上げるしかない。
(逆に考えればいいんか、俺を考え、反対を探す)
考えるのは、俺はどう言う人間なのか、か。
俺は恋愛小説が好きな人間じゃない。
読むのは大抵、推理小説だ。
なぜ推理小説が好きなのかと聞かれれば、かっこいい探偵がキレる頭で難解な事件の謎を解いていく姿に憧れるのであって、俺は探偵に…。
(…俺も小田と同じか、物語には刺激を求めてる)
結局のところ、俺たちは書けるものを書くしかないのだ。
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