ビブリアを見た男たち

小石原淳

第1話 些細な賭け

 今度入った喫茶店には、十余りのテーブルがあった。中央の席に座った山口やまぐち川島かわしまの二人は、注文したコーヒーが来ると、辺りを一瞥してタイミングを窺う。口火を切ったのは、学生にしては老け顔の方、山口だ。

「するってえと、何か。寺の下んとこで、下痢っ腹になったから自転車を停めて便所借りようと階段を昇り始めたら、後ろでどんがらがっしゃんて音がした。振り返ってみると、自転車に高校生ぐらいの若い女がぶつかって、転倒してたと。直しといてくれよと声を掛けて、便所に行って戻って来たら、自転車の籠に入れていた本が一冊、消えちまってたってことか」

 これに川島が呼応する。同年齢・同学年だが、こちらは小柄な上に童顔で、下手をすると中学生に間違われかねない。

「そうだよ。若い女が持って行ってしまったんだと思うんだが、何でだか分からん。どこの古本屋にもありそうな安い文庫本を持って行く理由が」

「そうと分かっていたら、すれ違ったときに鋏なんて貸してやらねえで、問い詰めてやったんだがな。あのとき、持っていた大きな紙袋を地べたに置いて、その中でこそごそやってたから、ひょっとしたら本を刻んでいたのかもしれん」

「でも確か、鋏は返してもらったとき、濡れてたんだろ? 水滴が付く程度に」

「ああ、本を切っただけじゃ、あんな風にはなんねえか。あの女、バス停に急いでいたが、手提げ袋の中身は溶けるような物だったのかねえ。しかし、それにしちゃ、バスには乗らずにいたんだが」

「え、そうなのか。てっきり、乗ったんだとばかり」

「いやいや。バス停のベンチに腰掛けていた、若い男は姿が見えなくなったが、女の方は立ち竦んでいたぜ。本を盗った直後とは、とても思えねえ」

 山口は話を区切ると、改めて周囲の反応を待った。

 この二人、お喋りの内容とは全く関係なく、賭けの真っ直中にある。

 つい先日テレビで見たドラマとそっくりの内容を、さも実際に体験したかのように語り、周囲の人間が首を突っ込んでくるかどうかを賭けているのだ。制限時間は三時間、店は最大で三つまで回ってよいと決めた。ちなみに山口は元のドラマがそこそこ話題であることから、少なくとも一人くらい、話し掛けてくる輩がいるだろうと踏んだ。川島はその逆、呆れるか気味悪がるかして誰も話し掛けては来まいと読んでいた。

 現在の状況は、すでに二軒の店でおよそ一時間ずつ試して、声を掛けられることはなしという結果になっている。店を選択する権利は山口にあり、これまでの二軒はともに広く、客が大勢いて賑わっているところを選んだ。その方がドラマを知っている人が多く、声を掛けられる可能性も高まると考えたからだが、実際は裏目に出たようだ。人が大勢集まればそれだけやかましく、他人のお喋りなんて耳に入らなくなるものらしい。

「その女の名前でも分かれば、探しようもあるんだがな」

 声のボリュームを、常識の範囲内で最大にしつつ、山口はまた喋り出した。小遣い程度の金とは言え、景気がよいとは言えないご時世だ。最後のチャンスに、気合いも入ろう。

 と、そこへ、一念が通じたのか、山口の背後から女性の涼やかな声が。

「お話中のところを失礼。よろしいでしょうか。」

 彼女に先に視線を合わせたのは、川島の方だった。

「はい?」

 すらりとした全身に、長い黒髪は富士額をなしている。目は大きくないが、色白で整った顔立ちをしており、控えめに言っても美人の範疇に入るだろう。

「何でしょうか」

 山口も肩越しに振り返った。喜色を隠したらしく、無表情を通り越してこわばった顔付きになっている。

「不作法をご容赦ください。お二人は何の話をされていたのです?」

「それは」

 答えようとした山口を、川島が手で制する。こう尋ねられただけでドラマのことだと説明するのは、ルール違反だ。あくまでも、話し掛けてきた相手が口にするか否かが勝敗の鍵である。

 しかし、何の話をしていたのかと率直に聞かれるとは、想定していなかった。

 山口と川島は顔を見合わせ、アイコンタクトを取った。そして決める。ここはやはり、川島がアドリブで応対するのがフェアというもの。

「僕らの間で、ちょっと話題になった事件について、話し合っていたところです」

 うまい言い回しだ。嘘をついてはいない。

 くだんの女性は聞きながら、隣のテーブルに一瞥をくれた。背の高い逆三角のグラスが一つ。中は、白い液体で満たされている。ストローに氷が涼しげだ。

「あ、よろしかったら、こちらの席に」

「ええ」

 山口が誘うと、相手は警戒することなく応じた。グラスを手に取り、空いている席に収まる。

 落ち着いてから、山口と川島は改めて“事件”の話をした。ドラマの内容を、さも自分達が体験したかのように。場所は自分達に馴染みのある、大学の近くのバス停と寺の周辺をモデルにした。

 この時点で川島は負けを覚悟していた。外見から判断すれば、いかにも流行りのドラマを好みそうな女性だからだ。仮にそうでなくとも、ドラマ原作の小説を読んでいそうなタイプに見える。いや、こんな印象を抱くのは、川島が弱気になっているせいだけなのか。

「分かりました。もしかすると、私の知っている――」

 川島達の話が終わると、女性は口を開き、静かに語り出した。当然、「私の知っているドラマ」云々と続くかと思いきや。

「――私の知っている事件と関係しているのかもしれません」

「え?」

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