June Minority Graduation

June Minority Graduation

現実は結局多数が決めた常識に則って動いているし、それから弾かれてしまったら何も出来なくなってしまうの。だからわたしはあの子のために、幸せにならなければいけないのよ。そんな言葉をぼくに語っていた彼女が今度結婚するらしい、という話を友人から聞いた。ひどい雨の降る日のことだ。


ぼくはその話をしてくれた友人と一緒に珈琲を飲んでいた。ガラス張りの向こう側では強い雨が昨晩から降り続いていて当分は止みそうになかったし、店内には静かなジャズのBGMが延々と流れ続けていて、そろそろ青臭いポップスが聞きたくなるくらいだった。もしかしたら、と友人は口を開き、新しく頼んだ珈琲に角砂糖を落とす。彼女は幸せにしてくれる人を見つけたのかもしれない、と友人は寂しそうに言った。

自分が好きな人が幸せになることこそが第一条件だとあの時の友人は言って、短い期間だけ彼女と恋人関係を持っていたことをぼくは知っていた。それは密やかに始まり密やかに終わった。ぼく以外には誰もそれを気づいていなかったし、彼女達もそれを表立って公言してはいなかった。卒業まで、という条件を出して付き合っていたのはきっと彼女のほうだったのだろう。ぼくは三度だけ彼女達の経緯に関わった。友人として知り合った時と、始まる前と、終わったあとに。

変な話だよね、と友人は軽い声で言った。辛い時もそうでないときも友人の言葉は濁ることがなかった。実はね、ずっと続いて行くような気がしてたんだ、あの頃は。でも結局のところ、最初から期限付きの恋だったんだよ、と。確かにその通りだった。珈琲の味がやけに苦く感じた。

結婚相手はどんな人なんだい、とぼくは問う。きっといい人だよ、と友人は答えた。彼女と別れたあの日以来、友人はどんな気持ちで過ごして、そしてその報せを聞いたのだろう。ぼくは少しだけ友人のことを考える。彼女といた時の、期限付きの恋に没頭していた時の声を思い出す。あの時の声とどれだけの違いがあるのかを思い出す。

彼女が幸せならいいんだと君は言ったけれど、とぼくは話しだした。それは本当に本心なのかい。それで本当に君は救われているのかい。

いつだって彼女のことを一番に考えているし、それは今でもそうだよ、と友人は言った。彼女は美しかったし、優しくて聡明だった。だから今でもあの子のことが好きで好きでたまらないんだ。でも、それは表にだしちゃいけない恋心なんだよ。ぼくは静かに俯いた友人の顔をそっと覗き込んだ。どこにも傷のついていない盾を持ち上げているのに、身体はボロボロに傷ついた愚かな騎士みたいな顔だった。どうして、とぼくは言う。だったらどうして、君はそんなに悔やんでいるような顔をしているんだい。

辛いなら吐き出してしまえばいい、と言葉をかけるか迷った末に、それをぼくは飲み込んだ。友人にとってそれが救いとなっても、それが彼女にとっての救いになるかはわからなかったからだ。ぼくは苦し紛れにただ、彼女が幸せになったと言うのなら、それでいいじゃないか、としか言えなかった。そんな言葉しか出せない自分がひどく嫌な人間に感じたまま、しばらく珈琲カップの横に転がって死んでしまった言葉を見つめていた。友人はいいんだよ、と言った。これでいいんだ。何もかも大団円で終わるんだ。これが一番、幸せな道なんだよ。


ただ、わたしが女でなければよかったのにな、と。

友人はぽつりと、今まで聞いたことのないような声で言った。

珈琲に音を立てて落ちた雫は、外を降りしきる雨よりも海に近かった。


ぼくに関わった全ての人が幸せになる方法をずっと昔から探し続けてきたし、それが叶わぬ願いであることをぼくはとうの昔に自覚していた。人々は常に何かに思い悩んでいるし、それらを全て解決出来ると思えるほどぼくは傲慢ではなかった。誰かが幸せになっただけ、誰かの幸せが潰えることだってあるのだ。そのことをぼくは何度もその目で見てきたし、そうなった以上ぼくが出来ることは何もなかった。だからぼくはそれ以上のことを望むことを我儘だと呼んだ。

必ずしも利口でなくたっていいと思うんだ、と、そうやってぼくは我儘を言った。それは幻想にも似た慰めかもしれなかった。ぼくは幼い頃全ての人の幸せを願ったけれど、そこに自分が入らないなんて考えもしなかったんだ。君が彼女の幸せを願ったとしても、君が自分の幸せを願ってはいけない道理なんてどこにもないんだ。

でも、と友人は言った。わたしの幸せは、彼女以外には達成出来ないもの。どうしようもないよ。ぼくは鞄の中から財布を引き摺り出して、友人と自分の分の料金を喫茶店のマスターに支払った。多分君は、きっとあの期限付きの恋を終わらせることができていないだけなんだ。

終わりがやってきて、それを受け入れられないことなんていくらでもあるんだ、とぼくは友人の隣で傘をさして言った。手許の携帯電話には彼女の電話番号が表示されていて、ボタンを一つ押すだけで彼女の声が聞ける状態にあった。それを差し出しながら、ぼくは言う。利口でなくていい。我儘でいい。ただ、恋はいつか終わるものだよ。


少しだけ弱くなった雨の降る中で、緩やかなスピードで歩きながら、ぼくらはあの頃と同じ時間を過ごす。

大好きだよ、と友人は電話越しに彼女に言い、

わたしも、あなたのことが大好きだったよ、と彼女は電話越しに答えた。

そうして友人の恋はようやく終わりを告げたのだった。


なんだかとてもスッキリした気分だよ、と友人は電話を切った後に、そう言って笑った。雨はいつのまにか優しく傘を流れるだけになっていて、あたりは少しだけ明るくなっていた。そうかい、とぼくは言って、携帯電話を受け取った。恋のぬくもりが少しだけ残っているようなそれを鞄に入れて、ぼくは聞く。彼女の結婚式は、いつになるんだい。

ジューンブライドだよ、と友人は言った。いつも通りの声で、雲間から覗くお日様みたいな顔で笑いながら言う。

──彼女から、ブーケを貰いに行くことに決めたんだ。

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