第3話 In amore quoque, falsus in uno, falsus in omnibus.

 私は何でも知っている。だから彼の様子がおかしいことはずっと前からわかっていた。

 けれどそれはどう考えたって信じたくもない結論にしか辿り着かない。

 ならば私は無知でいよう。

 何も知らないふりをして笑っていよう。

 それで世界がうまくいくのなら。


 声をあげるのはあまり好きではない。私が後ろから突かれるのが好きなのは彼の顔を見たいという欲求よりも、単にクッションに顔をうずめて口をふさげるという利点を選んだからでもある。射精する前の苦しそうな彼の顔を見るのはどうしようもなく切なくて、永遠に抱きしめていたくなるくらい愛しかった。足を絡ませ、腰を浮かせ、より深く繋がれるようにする。人間らしさを残した獰猛さが私を乱暴に突き飛ばし、優しく引き寄せる。多分それは恋人関係というもののモチーフに該当する行為なのだろう。恋と愛の違いを考えずにそれを行うほど私は幼くもなかったし、逆に考えないから成り立つ関係があることも知っていた。

 だから、それは明確に私にはわかった。


 私が親友と一緒に会う時に、彼はいつも同じ顔をする。そう、ここのところ私を抱く時にする、罪悪感と取り繕った優しさの顔だ。その笑みにいつも気付かないふりをする。私はいつも通りに笑って、そして彼の手をしっかり握るのだ。少し汗ばんで、ほのかにごつごつと骨ばった手。この手で私を抱いたように彼女の身体を抱いたのだろうか。そう思いながら私は彼の隣で笑う。世界になんの苦しみもないかのように。ただひたすらに甘いカクテルを飲み、目に見える世界の全てがアルコールにノックダウンされるのを望みながら。

 彼は小説を書いていた。それは彼の日課で、そして何故彼がそれを書くのかを話してくれたことはない。けれどいつだって彼は恋の話を書いていることを私は知っている。そのほとんどが完全に夢想の産物ではないこともまた、知っている。彼がそれだけの人生を歩んできたことは付き合っていればわかる。人間性とは話すだけでにじみ出てくるものだということをずっと前に私は教えられた。外面の作り方と、取り繕い方も。だから私は笑う。何も知らないふりをして、笑うのだ。いつかその小説が完成したら、私に一番に見せてね。約束だからね。それが完成することなんてきっとないことを知りながら、私はそう言う。


 多分私は馬鹿でありたいと思っているのだろう。そのほうが何かと都合がいい。何も考えない、何も気付かないふりをして、幸せそうに笑っているだけでそれは壊れることなく永遠に続いてゆく。裏切りも踏み潰して偽りの友情を取り繕うことに慣れたのは彼女に出会うよりずっと前のことだった。本来ならば何故そんなことをしたのかを、親友と言う名の彼女に聞かなければならないだろう。そしてそれは私にとって決して取ってはいけない選択肢だということもわかっている。諦めればいいのだという言葉は至極当然の結論としてそこにあって、今までそれを迷いなく掴んできたことが嘘だったみたいにどうしようもなく悔しくて悲しくて、何故こんな気持ちになるのか自分でもわからないくらいに涙がこぼれた。一人で自室のベッドに座り込んで、私はそんなことをずっと考えている。

 きっと、私はずっと馬鹿であり続けたかったのだ。何も知らずに、世界には自分と彼だけがたった二人だけで生きていて、無駄なことを何ひとつ考えることなく互いの幸せだけを求めあう純粋なそれを享受し続けたかったのだ。

 そしてそれはもう、叶わない。知らなくていいことを知ってしまえば後戻りはできない。アルコールに酔った時計が不思議なくらい秒針をゆっくりと進ませて、けれどやがて朝は必ずやってくる。


 夏が終わりそうな冷気を仄かに宿す朝のそよ風を感じながら、彼女はベランダの柵に身体を持たれかけさせてミルクを飲んでいた。マグカップから立ち昇る薄い湯気が空気に溶けてゆく。私は未だ眠る彼を起こさないように彼女の隣に並んで立ち、黙って彼女と同じ空を見上げた。たとえ話をしましょう、と彼女は言った。それは懺悔をするような声だった。家族から愛されている一匹の犬がいる。彼女は親の顔を知らないほど幼い頃に捨てられてしまって、拾われた人間を見て育った。だから彼女は自分を人間だと思っている。そして彼女は幸せに年老いていき、死ぬまで自分は人間であることを疑わなかった。ねえ、あなたはこの話を聞いてどう思う? 彼女は果たして愚かな犬だったのかしら。一生勘違いをして生きていくことの何が悪いのかしら。波紋が揺れる白濁を覗き込みながら彼女は続けて言う。そうね、もう少し言ってしまえば、彼女を拾った人間たちも、もしかしたら自分を人間だと思っている犬なのかもしれない。いいえ、猿かもしれない。だとするならば、そこになんの意味があるというのかしら。自らを犬だと認めなかった彼女が人間として死んでいくことに、世界はそれら一つ一つの齟齬を正そうとすることはないでしょう。真実を追い求めたとしても、それは自分一人の視点だけでは確かなことを何一つ証明することなんてできないのよ。私は神様というものを信じてはいないけれど、世界で本当に揺るがない確実な真理なんていうものがあるのなら、それは神様だけが持っているに違いないわね。

 ねえ、なんで彼と寝たの。その言葉は、奇妙なほどするりと私の口から零れ落ちた。絶対に言わないと決めたはずのそれはいともたやすく決心の檻を抜け出して空気を震わせた。彼女は黙ったまま一口だけミルクを啜ると、ぽつりと呟くように言った。私が幸せな勘違いをした犬だったからよ。


 馬鹿でいたかったの、と私は彼女に言う。恋とか愛とか、それがどういうものかを何も考えずにただ笑っていられるだけのものだと信じていたかったのよ。ねえ、あなたはどうして私を馬鹿のままでいさせてくれなかったの。彼が優しいことをあなたは知っているし、こうなることだってすぐに考えられたはずでしょう? どうして私を傷付けるの。私はその気になればあなたも彼も、容赦なく切り捨てることだってできるのよ。彼女は伏せ目がちな微笑を浮かべたまま答える。でも、あなたはそれをしたくないのでしょう。私はね、あなたが私と同じ犬であるかどうかを知りたかったのよ。ねえ、私の大切な親友。あなたが彼を愛しているように、私も彼を愛しているのよ。でも、それはきっと同じものではないわ。


 何故彼女が私の親友であるのかを私は理解して、自然と涙が溢れてくる。それは疑念が確信に変わったあの夜の涙とは少し違った熱さを持っていて、私はそれを拭えずにぼろぼろと零した。彼女は優しく私の頭を撫でて、私は耐え切れなかった嗚咽を小さく漏らす。ああ、そうなのだ。私は馬鹿でいたかったのではない。馬鹿だったのだと思う。全てを知ったような気になって、それは結局自分一人で黙々と真っ黒なパズルを組み立てていただけなのだ。

 私が彼女の胸に顔をうずめてひとしきり泣いた後に、彼女は改めて温めたミルクを二つ持ってベランダに戻ってきた。目尻をごしごしとこすってから差し出されたそれを受け取り、二人でそれに口をつける。

 それはとても温かく、柔らかくて甘い、優しさの味がした。


──finis.

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ThreeAngles @seelsorge_theos

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