母の思い出
青木雅
母の思い出
母は大変正直な人物でありまして、冗談や嘘のひとつさえ言わない、有言実行の人なのでした。出先で子どもを叱る際の常套句に、置いていくぞとかいって脅すものがありますが、私はわずか六、七歳の頃に実際に置いていかれました。それも山道で! 何の装備もなく、着の身着のままですから、本能がどうとかという以前に斜面を転げ落ちて死にました。過保護な親に対して、多少放っておいてもそう簡単には死なないぞ、とか案外親がいなくても子は立派に育つなんて言ったりしますが、自然界は厳しいものです。しかし私が今こうして言葉を発しているのはひとえに今も生きているからでしょう。このお話には続きがあるのでした。
私(死体)が母に再会したのは、父親が捜索願を出したことによって山に派遣された捜索隊に発見された後でした。母は大変泣いたそうですが、後悔や懺悔ではなく子を失ったそのものにのみ注がれていたと、後から聞きました。そんな母は、目の前のわが子の遺体に「お願いだから、生き返って」と一言言ったわけです。そして私は意識をどこからか取り戻してむくりと起き上がったのでした。
これが一体どういうことを意味するか、分かりますでしょうか。つまり、母は嘘をつかないだけではなく、つけないのでした。道徳的な規範によって、と言う意味でもあり、口にしたことがすべて実現してしまうという意味でもあります。
母は大変驚いている様子でした。自分自身でもそのことには気が付いていなかったようです。冗談も嘘も何一つ言わなかったのですから、当たり前といえば当たり前ですが。
さて、母はそれから錯乱状態に陥ります。おかしなことを言って、世界をおかしくしました。電車を行きも帰りも下りにしたり、二角形を実現したりしました。そしてついには自らの存在を跡形もなく消し去りました。私は姉の年齢を飛び越えて姉になっていました。
母親の自殺。それは何よりも痛ましいものです。私と、父と妹(姉)の三人の目の前で、小さくごめんと言って煙のように。母は、辛かったのでしょうか、自らの性質が。それとも私に生き返って欲しくなどなかったとか。いや、それはありえませんね。それなら私をよみがえらせた母の言葉が嘘だったことになります。とにかく、母の中にただならぬ感情があったのは確かなのです。私たちは結局わからずじまいでこのような結果を迎えてしまったことを激しく悔やみました。
私たちは母の残したおかしくなってしまった世界に取り残されました。三人肩を寄せ合い、しくしくと泣きました。でもあまりの不条理さに思考が感情に追いつきません。ぐちゃぐちゃになりながら涙を流すのみです。
そんな気持ちを少しでも落ち着けようと父の突き出た腹を三人分の涙が濡らしてゆくのをじっと見つめていたら、こんどは父が母と同じように消え去りました。次に妹が間髪開けずに、母に続く父の消失に困惑する表情を浮かべたままでこれまた煙のように。続けて下り電車も、二角形も消えました。母が実現させたものたちが次々姿を消してゆきます。これはおそらく真っ先に消えた父と妹(姉)も母の言葉から生まれたものであったということでしょう。その際、どうして私は健在なのかと慄いたものですが、私は実は母とは血がつながっていなかったということを後から聞かされました。後からです。ええ、そうです。まだお話は続きます。
ここからのことはより詳しく説明しなければならないでしょう。つまるところ、私たちが信じて疑わなかったかつての世界そのものが母の例の性質によって実現されていたものだったというのです。原初に存在したものと言えば母一人で、創造神としてこの世界を形づくっていたということになります。ということは、世界は五十二歳の母が世界を作り上げた時、それがいつなのかはわかりませんが、案外最近のことなのかもしれません。それこそ、ついさっきということも。中高生の頃に散々歴史の勉強に励んだ私の努力や先人の知恵をどうとかこうとかという教えは一体何だったのでしょう! 嘘も冗談も言わない母というパーソナリティは世界が大方出来上がってからのことということになるのでしょうかね。そのあたりは私も理解が追い付いていません。
何であれ、全存在の核たる母を失った世界は当然崩壊を迎えます。正確には崩壊ではなく消失の方がニュアンス的に近いようですが、使用不可能になるのですから崩壊と言って差し支えないでしょう。消え去った世界は、驚くべきことに裏返りまして、反転しただけの全く同じ世界となり、そうして私は父や妹に再会できたのでした。
一応、裏返るという説明に納得がいかない方もありましょうから砕いた説明をさせていただきますと、これはちょうど、裏返った靴下を元の状態に戻すのと同じ原理なのです。母を中心に世界は裏返ったという事になります。どちらが裏か表かというのは母のみぞ知るところですが。
話を戻しましょう。裏返った世界で父と妹と再会し、私たちは母を探すことにしました。私は言われるまで分かりませんでしたが、真っ先に消えた父と妹は消えた先の世界が何らかの別世界であることに気が付いていたようでした。ちなみに、世界が裏返っているといっても私たちの網膜なんかもまた裏返っているので文字を読んだりすることに困ったりもしません。
私たちは母の行きそうな場所を手分けして探しました。一番初めに母を発見したのは私でした。母は私たちが小さいころよく遊んでいた公園のベンチに座って、元気に走り回る子どもたちを眺めていました。私が無言のまま母の隣に座ると、母はゆっくりと口を開いて言いました。
「覚えてる? あなたが小さいころにここで遊んでて、転んだ先に尖った石があって顔に大けがしたの」
私にはそんな記憶はありませんでした。ぽかんとしている私の方には見向きもせず、母は話し続けます。
「お父さんとはお見合いだったの。私たちくらいの世代だともうお見合いなんてのも珍しいものになってたからすっごい不安だったけど、落ち着いていていい人そうだったから……」
「お姉ちゃん、あなたの妹が生まれた時にはね、あのお転婆っぷり見ればわかると思うけどお腹の中でもすっごく元気が良くて難産だったなあ」
「あなたがうちに来たのは、たまたま訪れた施設にいたあなたが小さいころの私にそっくりだったから」
「小さい頃、洋服はお姉ちゃんのおさがりばかりで、ずっと嫌だったからあなたをうちに迎えた時、ちゃんと下の子にも買ってあげるようにしようねってお父さんと決めたんだよ」
母はうっとりしながら、私の知らない過去の話をまるで少女のように語ります。こころなしか若返ったような気もしました。私はここでこの世界と元の世界の仕組みを説明されたのでした。
母の額には古い傷跡が覗いています。私は尋ねました。どうして核があなたなのか、こちらとあちらで実際どんな違いがあるのか。母はやはり少女のようににこにこしながらこれに答えました。
「あなたからは私が核に見えているかもしれないけれど、私からすればあなただって核なのよ。それはあなたのお父さんだろうが妹だろうが一緒。それだけ。それと、こっちとあっちがどう違うかっていうのはあんまり意味がないこと。どっちにしたって全く同じものなの。それ以上でもそれ以下でもなく、ね」
私がわかりかねて首をかしげていたら、父と妹も公園にやって来ました。母は二人にも同じ話をしました。二人はそれを聞いてそりゃそうだと言わんばかりに何度もうなずいて、それから母と私の手を取って言いました。
「帰ろうか」
四人で手をつないで歩くなんていつぶりの事だったでしょう。私と妹が両親に挟まれて。夕日が差してきていて、子どもたちも続々と公園を出てそれぞれの家に帰ってゆきます。
妹が唐突にふるさとを歌い出したので、みんなで一緒に口ずさみました。
さて、物語らしい物語はこれで終わります。この後に続くのはこれまでと何ら変わらない日常で、語るほどのものではありません。私が姉のままなことはちょっと気がかりですが、でもむしろこれでいいような気がします。いつまでも妹のままではいられないと、ずっと思っていましたから。
母の思い出 青木雅 @marchillect
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