第2章 52話 扉

「1匹でも魚が釣れてきたことがあったかしら?」


「まだないけど」


「リチャードが釣り糸に針をつけてないことをご存じ?」


「え……?そんなはずはないよ。釣り針のつけ方は最初に教えたんだから」


「つけてないのよ。本人にはっきり聞いたし、実際にそれを見たわ」


「……本当に?」


 ジャミールはロボットが針をつけずに釣りをしていたという事実を知って心底驚いた。釣りのやり方を教えたときに何度も実践したのだ。実際に納屋でロボットが釣り竿を組み立てたときは自分で釣り針を付けるのを確認した。50回くらいは失敗したが。


「本当よ。リチャードは釣り針をつけられないと言っていたわ。魚を傷つけてしまうからって。魚を釣ることは魚の命を奪うことだわ。あなたはリチャードの基本プログラムに生き物を傷つけたり、命を奪うことは禁忌だと盛り込んだそうね。それなのにあなたに釣りを命じられたことで彼は悩んでいたわ。魚を傷つけることは許されないとプログラムされているのに魚釣りを命じられている矛盾でね。そこでリチャードは命令通り釣りに行き、魚を傷つけない方法を編み出したのよ。それが釣り竿に針を付けないことだったの。素晴らしいひらめきだわ!でも、彼はまだ悩んでいるわ!魚を釣って帰るという使命を果たせないことをずっとね!」


 クロエは自然に強い口調になっていた。ジャミールはロボットの知らなかった一面を知って驚愕した。


「……そんな……!話してくれれば良かったのに……!」


「ミスタードレスタ。なぜリチャードがそれをあなたに話さなかったのか想像がつくかしら?簡単なことよ。話せなかったのよ。あなたがそれを話しても大丈夫な環境をリチャードに与えなかったからだわ。良い友達とは何でも話し合える関係であるべきなんじゃないかしら?釣り竿は氷山の一角にすぎないと思うわ。自分のバッテリーを充電することにもあなたの許可を取っていたし、他にもリチャードはいろいろ我慢しているんじゃないかしら?」


 クロエはジャミールを真っ直ぐに見据えた。ジャミールは大きなショックを受けて何も答えられずに口をぽかんと開いた。


「あなたは自分も対等に我慢していると言うけれど、お互い腹のうちに一物を抱えてるような関係が本当にいいのかしら?そのままじゃ、いつまで経っても相手を理解できないし、自分も理解されないわ」


「……知らなかった……針がついていなかったなんて」


 ジャミールはまだ釣り針の件がショックで前に進めないようだ。クロエがたたみかける。


「リチャードは友情を相手に尽くすことだと思っているわ。1人と1人が集まって2人になるというけど、友情はもっと偉大だわ。1+1を3にも4にもするもの!」


「あっ……」


 ジャミールの体がブルッと震えた。1+1の話はジャミールの敬愛するリチャード先生が初めて家にやってきたときに話していたことだ。


「君……それ、誰に聞いたの!?」


 自然と尋ねていた。


「誰かに聞いたわけじゃないわ。自分でそう思ったのよ」


 クロエはジャミールが食いついてきたので嬉しくなって笑顔になった。その顔がジャミールにはどことなくリチャード先生に似ているようにも思えた。それからジャミールは何も言えなくなった。クロエはジャミールの態度が少し変わったことを見逃さなかった。さらに追求することにした。


「私こうも考えたことがあるわ。1+1は希望かもしれないって。素敵じゃない?1人のときは孤独も絶望も感じることがあるけれど誰かが隣にいることで希望にだって変わるのよ。あなたはリチャードが隣にいてそう感じたことはない?」


 ジャミールは今度は真面目に話を聞いているようだ。


「つまり1+1は可能性でもあると思うの。ミスタードレスタとリチャードの2人だからこそ未来に可能性があるわ」


 クロエは上目使いでジャミールを見た。ジャミールはやはり何も言わずに話を聞いている。


「あなたにとっての1+1の答えはなに?」


 話を振られてジャミールはうろたえたが、声音からは攻撃色が消えていた。


「僕、普通の計算は得意なんだけど、そういう哲学的な質問は苦手なんだ……だから、君のような発想ができるのは、正直うらやましい。ちょっと変わり者だけど……でもちょっと……」


 ジャミールはその続きの言葉は照れくさくなって言えなかった。クロエの瞳がエメラルドのように輝いた。


「うれしいわ。私、変わり者って言われるの大好きなの!」


 ジャミールはまた驚いた。彼は変わり者だと言われて社会に溶け込めなかったので、その言葉を良い意味で捉えたことがなかったのだ。しかし目の前の少女はそれをプラスに捉えてコミュニケーションを円滑にしている。


「1+1は何だと思う……昔そんな質問を受けたことがあるよ。その人は1+1が2になるとは限らない、同一なものはないと言っていたな……」


 彼は思わず懐かしい昔話をしてしまった。


「まあ!きっとその人は素敵な人だったのね!」


 クロエは瞳を真っ直ぐにジャミールに向けた。彼は小さくうなずいた。


「ふふふ、きっとあなたとリチャードの1+1は無限大だわ」


 クロエはここで今日一番のとびきりの笑顔になった。ジャミールはその自然な笑顔を怖いとは思わなかった。彼の固かった表情が少し緩んでいた。クロエはそれを見て安心した。


「初めて心のドアを開いてくれたわね。私はミスタードレスタのその顔が見たかったの。今日ここで話し合えて本当に良かったわ。大切なのは相手に対する純粋な好奇心よ。友情は使命ではないわ。もっと自由であっていいと思うの。ほら、空だって飛べるのよ!」


 クロエはおどけて空を飛ぶ動きをした。ジャミールの頬がほころんだ。シャルロットは彼のその顔を見て瞳を見開いた。それからジャミールはまぶたを閉じて、思いふけった。


「ミスブラウン……ありがとう。僕、大切な方程式を思い出したよ。君が思い出させてくれた。僕がリチャードを造ろうと思ったときの気持ちを……」


 ジャミールは感慨深そうに御礼を言った。クロエは彼の気持ちがわかるわけではなかったが、なんだかとても嬉しい気分だった。その後は少々雑談した。ジャミールが笑ったのはたったの一度きりで、会話も途切れることが多かったが、ずっと和やかな雰囲気だった。しばらくするとシャルロットが「今日は早く帰らないといけない用事がある」と口にした。彼女は良い雰囲気のままこの場から去りたかったのだ。クロエはもう少し話したい思いを抑え、シャルロットの気持ちを優先して帰ることにした。クロエはまたロボットに会いに来ることを約束して(シャルロットは黙っていた)屋敷をあとにした。




 その帰り道、クロエはすっきりした表情でシャルロットと並んで歩いた。「言いたいことは全部言えた?」と親友が尋ねると、彼女は満足そうに「うん」と一言答えた。2人は言葉少なめに帰路を歩いたが、クロエは夢のように満腹で、これ以上何もシャルロットと話をする必要はないと感じていた。シャルロットも居心地の良い雰囲気を感じ取っていた。もはや2人に言葉は要らなかった。

 別れ際にクロエが言った。


「また明日ね、シャルロット、私あなたが大好きよ!」


 彼女の親友はニカッと笑って答えた。



 

翌朝、ジャミールは「ギギギー」と重苦しく錆びついた2階の隅の部屋の扉を押し開けた。その扉は蝶板が壊れかけていて、今にも外れそうだ。部屋に入ると、案の定、ロボットはまだスリープモードで充電しているところだった。ジャミールは静かにロボットのお腹を開け、充電が満タンに近いことを確認すると、ボタンを押してスリープモードを解除してから、お腹のポッチをしめた。


「……おはようございます。ジャミール博士」


 ロボットはいつも通りの朝の挨拶をした。これはプログラムされた決まり文句だ。


「おはよう。リチャード……」


 ジャミールは挨拶を返して、大きく深呼吸をした。


「はっ!今は任務の途中です!僕は友達失格のクロエとシャルロットとお話をしなければなりません!」


「任務はもう終わったよ……クロエとシャルロットは帰ったよ」


「はっ!僕がいないうちに任務は終了しましたか……役立たずの素敵なロボットでごめんなさい!情報を更新します」


 ロボットは瞳を赤と青に点滅させた。


「役立たずなんかじゃないよ。いつもありがとう……リチャード」


 ジャミールは少し照れながらこれまであまり口にしなかった感謝の言葉を口にした。ロボットが喜んでくれると思ったのだが、彼の瞳は青色になった。


「……ジャミールに御礼を言われました。感謝される理由がわかりません……それがわからない僕は素敵なロボットです。次の任務を教えてください。ジャミールの感謝の気持ちに応えなくてはなりません!」


 ロボットは青い瞳のまま、焦っている様子でずいずいとジャミールに近づいた。ジャミールはロボットを見つめながら、初めて自分の責任について考えた。今まで怖くて重苦しくてずっと逃げてきた責任について。


「リチャード……今日は僕と話をしようか」


 ジャミールはそう言って、頭の中を1人で整理し始めた。ようやく彼は、重い扉を開ける準備を始めるようだ。




     悲しみのロボット第2章〜完〜

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【長編童話】悲しみのロボット 如月信二 @sanrokunokariudo

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