第2章 41話 裏切り
買い物から帰ってきたキャロラインは大切な食材が入った袋を床に落とした。キッチンの床にあるはずのない手紙が落ちていたからだ。彼女は2、3歩後ろによろけた後で慌てて手紙を拾って引き出しに入れた。そして天を仰いだ。そのまま椅子に座って頭を抱えた。
2階からクロエの叫び声が聞こえてきた。キャロラインは抱えた頭を左右に振って状況を整理しようとした。思わず「ううっ」と声がもれた。
立ち上がろうとして、また椅子に座り込んだ。足に力が入らない。息を整えてから、ようやくきちんと立ち上がると、キャロラインは重い足取りで2階に上がり、クロエの部屋に向かった。
クロエの泣き声が止んで、静まりかえった。キャロラインの足音に気づいたのだろう。キャロラインは少し時間をおいてからドアをノックした。
「クロエ……帰ったわ。入ってもいい?」
返事は遅かったが返ってきた。クロエの声はあきらかに普段と違っていた。鼻声で小さく聞き取りにくかった。
「おかえりなさい……ごめんなさい……部屋が散らかってるから……入らないで」
キャロラインは胸が張り裂けるような思いで次の言葉を発した。
「クロエ、ごめんね」
「どうしておばあさまが謝るの!!」
ドアの向こうからクロエの怒声が聞こえた。キャロラインは震え上がった。
「……ご、ごめんなさい……ハグ・バルトンの手紙を読んだのでしょ?」
ドアの反対側からはさらなる怒声が飛び込んできた。
「だからどうしておばあさまが謝るの!!おばあさまは何か知っているのね!!」
キャロラインのほおから涙が流れた。それでも彼女は気丈に振る舞おうとした。
「クロエ……黙っていてごめんなさい」
怒声が止んだ。その代わりに部屋の中からすすり泣きが聞こえた。
「何を?……何を黙っていたの……?」
キャロラインはしばらく声がだせなかったが、大粒の涙を流しながら言葉にした。
「……アルバートは半年前に船の事故で亡くなったのよ……」
家の中がシーンと静まりかえった。物音1つしない中でキャロラインは音もなく涙を流しつづけた。クロエの反応をこわごわ待ったが、いつまで経ってもなんの反応もなかった。それが逆に怖かった。沈黙に耐えかねたキャロラインは次の言葉を続けた。
「本当にごめんなさい……アルバートが死んだことを言い出せなくて……私が代筆で手紙を書いていたんだよ……」
彼女は床に涙を落としながら半年間言えなかった秘密を明かした。肩を震わせ、唇を震わせ、背中を丸めた。そして泣き声が漏れないように口元を手で押さえつけた。
それでもドアの向こう側には聞こえていただろう。それ以上はどうしようもなかった。すると、静かだったクロエの部屋から何か硬い物が壁にぶつかる音が聞こえた。そして、
「いやあああああああああ!!っわああああああああああ!!」
抑制のないヒステリックな叫び声が響いた。キャロラインは何も言えずにただドアの外側で震えていた。
「やああああいあやあややあああ!!やだやだやだああああ!!」
クロエの叫び声は止めどなく続いた。まるで、今までずっと心にため込んでいた苦しみをすべて吐き出すかのような悲鳴だった。それと同時に足音と物が投げつけられる音も聞こえた。
キャロラインは部屋に入ることも立ち去ることもできずに立ち尽くしていた。すると、向こうからドアが開き、クロエが絶望と狂気の入り混じった恐ろしい形相で顔を出し、キャロラインに向かって怒鳴った。
「どっか行って!!どっか行ってよ嘘つき!!ねえ聞こえないの!?どっか行ってって言ってるでしょ!!?……お父さまは……生きているわ!!」
クロエはそう言うと部屋の前にいたキャロラインを突き飛ばしてドアを閉めた。キャロラインはよろよろと壁にぶつかってそのまま座り込んだ。
「クロエ……聞いておくれ……」
キャロラインは這いずってドアにしがみつき
「あなたの話は何も聞きたくない!!1人にして!!」
クロエはさらに声を荒げた。キャロラインはドアノブをつかんだまましばらくそこにいたが、今は話せる状況でないと悟り「……ごめんなさいね」とだけ泣きながら呟き、1階に降りていった。ドアの向こうで人の気配がなくなったのを悟ると、クロエは布団に潜り込んで泣きじゃくった。
のしかかってくるのは父親が死んでいたという事実。祖母がそれを隠していたこと。強く感じたのはキャロラインに裏切られたという思いだった。
しかも半年も前から裏切られ続けていた。何も知らないクロエはずっと父親からの手紙が来たと思って浮かれていたのだ。それを横目で見ながらキャロラインは何を考えていたのか。それを考えると息が詰まった。
クロエはキャロラインに軽視されていたのか、信用されていなかったのか、父親の死を受け止めるほどの度量がないと思われてのか、それがとても悔しかった。
何より、嘘の手紙まで仕立て上げてクロエを騙そうとしていたことが1番許せなかった。まんまと騙されて喜んでいる孫を見て満足だったのか、それはクロエには信じられない感覚だった。
また、父親との美しい思い出も走馬灯のように蘇ってきた。おかしなくらい記憶が鮮明に蘇ってくる。そしてなぜ父親の筆跡が変わったことに何の疑問も抱かなかったのかという情けない気持ちも生まれた。
いろいろな感情と記憶がごった返し、クロエの頭は熱を持ってズキズキと痛み始めた。彼女は布団に丸まったまま何時間も過ごした。
「なんで……なんで私はこんなにも不幸なの……?」
クロエはこの言葉をとても久し振りに使った。いつだっただろう。クロエが自分のことを「不幸」だと思うことを止めたのは。できるだけネガティブな言葉を使わないと決めたのは。忘れてしまったくらい前のことだ。けれど、今回はもう無理だった。心に溜めていたネガティブな言葉が滝のようにあふれ出して止まらなかった。
朝方、キャロラインは浮かない顔をしながら焼きたてのパンと野菜スープを持って階段を上がった。予想通りクロエの部屋の前に置かれた昨夜の食事には手をつけたあとがなかった。トレーを床に置いてドアをノックした。
「……クロエ、おはよう……アルバートのことは……本当にごめんなさい……何か食べないと体に悪いわ……朝食を持ってきたの。ここに置いておくから……それから……あなたとゆっくりお話がしたいの……いつでも待っているから」
やはり部屋の中から返事は返ってこなかった。キャロラインは前日の冷たくなった食事のトレーを持って階下へと降りた。
クロエはとてもキャロラインと話ができるような気分ではなかった。昨夜は泣き続けて一睡もできなかった。たった一晩で気持ちの整理がつくはずがない。クロエは苛立って床に落ちていた枕をつかんでドアに投げつけた。
「自分の都合ばかりで話がしたいなんて身勝手だわ。私の胸がつぶれそうなことも知らないくせに!」
しかし、もう部屋の向こうにキャロラインがいる気配は無い。クロエは泣きすぎと寝不足でズキズキと痛む頭を抱えてうめき声を上げた。しばらくすると、疲れが限界にきて彼女はそのまま眠ってしまっていた。次に目覚めたのは、キャロラインの、
「クロエ……今日はサンドイッチいる?」
という弱々しい声だった。ドアの向こうからの呼びかけだ。ようやく眠れたクロエはキャロラインに起こされたことでさらに機嫌を悪くした。相変わらず頭はズキズキと痛み、視界はくらくらと回った。
その日はジャミールの屋敷に行き、3人で話をする約束をしていたが、とてもそんな気分ではない。それを思い出して余計に腹が立った。クロエは声を出す気にもなれず、息を潜めて黙り込んだ。キャロラインはようやく諦めてドアの前から立ち去った。「リチャード……」クロエは小さく呟いてまた瞳を閉じた。
下に降りるとキャロラインはすぐに機織りの仕事にかかった。険しい表情のまま、手を止めることなく、ひたすらに機を織り続けた。
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