第2章 34話 鏡の中の少女

「おばあさま、帰ったわ」


 クロエは玄関に入ると小さな声でつぶやいた。やはりキッチンのキャロラインには聞こえなかった。クロエはキッチンまでのそのそ歩いて、ドアを開けるとまた小声で「おはあさま、帰ったわ」と祖母に声をかけた。


「ああ、お帰りクロエ。今日も門限を守ってくれたわね。いい子だわ。もうすぐ夕飯ができるのよ」


 キャロラインは、孫が幽霊のような足取りで近づいてきたので一瞬驚いたが、冷静にスープの味見をしながら答えた。


「まあ、良い香りだわ!今日のシチューにはお肉が入っているのね?」


 クロエは自分の声が暗いことに気づいて、意識してボリュームを上げた。


「ええ、今月はアルバートが多く仕送りしてくれたから、クロエにちょっとは良いものを食べさせてあげないとね」


「あ……、お父さまへのお手紙が途中だったわ」


 クロエは父のことを思い出し、さらに気分が落ち込んで沈んだ声になった。


「どうしたのクロエ?何か悪いことがあったの?」


 キャロラインはクロエがいつもより元気がないことを心配した。


「ううん、なんでもないの!わ、私お父さまにお手紙を書かなきゃ!素敵な素敵なお手紙を書いている途中だったの!部屋に戻って急いで続きを書いてくるわ。夕飯ができたら呼んでちょうだい!」


 クロエは慌てて取り繕った。キャロラインは背中越しにクロエの思いを受け取って、


「もうできるんだけど……もっと煮込んでさらに美味しくすることにするわね」


と、答えた。クロエは「おばあさまありがとう」と告げ、逃げるように2階に上がった。





 部屋に戻ったクロエの心臓の音は重かった。キャロラインに何かを勘づかれた気がしたからだ。祖母は孫の気持ちを汲んで気を利かせた。


 クロエは何故かシャルロットとの一連の出来事をキャロラインに話したくないと思った。半年ほど前にシャルロットと大げんかをしたときは泣きながら祖母の膝に抱きついて気が済むまでしゃべり続けたのに、今回はそんな気分になれない。


 今回の悩みは悲しみよりも痛みのほうが強かった。そしてその痛みを誰かに話すのは自分がとても情けないように思えた。


 クロエは小さな悩みを心の奥に押し込んで、頭を切り換えランプをつけて机に向かった。机の上の小さな鏡には、ぶっちょうずらをした少女が映しだされた。


「まあ、あなたは誰なの?偽物さん、シャルロットやお父さまに嫌われることなんて考えちゃいけないわ。早く鏡の世界にお帰り」


 鏡の中の少女はそう言うと、口元を不自然にニヤっとつり上げ、その後ふふふと笑って、最後は無表情になった。バタンと鏡は机に伏せられた。


「さあ、クロエ、お手紙お手紙!」と少女は大きな独り言を呟いてから書きかけの便せんを広げた。




「親愛なるお父さまへ


 お父さまはいつもいつも頑張っていらして素敵だわ。進水式のことあんなに楽しみにしてたのに帰省できないなんて、さぞかし辛いと思うわ。


 でも私やおばあさまのことを思って出稼ぎしてくれているんだものね。私決めたわ!進水式の翌日は聖書くらい分厚いレポートを送ってあげる。だってセントアントニオ号の素晴らしさを伝えるにはそれでも足りないくらいよ。


 もう船はあらかた完成しているみたい。船首のブロンズ像はオリュンポスの12神のアフロディーテらしいわ。美の女神が船首なのもわかるわ、さすがは世紀の彫り師ガライさんね。美しいという単語ではこの美しさは到底説明できないわね!


 カシオペア座だって恥じらう美しさだわ。白い船体の船首から伸びる2つの群青のラインは、海と孤独な夜の色を表しているんですって。


 雄大にそびえるマストはミュラングで1番の船を物語るほど立派なものだわ。まあ、全部想像だけれど!私、まだ港に行ったことがないから、セントアントニオ号とは進水式の日に初めてご対面するのよ。お父さまと一緒に観ることを2年前からずっと夢見て……」


 自分の手紙を読んで満足したクロエは前半部分をそのまま採用することにして、羽根ペンで続きを書き足していった。最後の「お父さまと一緒に観ることを2年前からずっと夢見て」の部分に2本線を引いて消して、そこにリチャードのことを挟みこんだ。


「そうそうお父さまにはまだ報告していなかったけど私に新しい親友ができたのよ!とても新しくて創造的な友達よ!お父さまに話したことあるでしょ?


 私の理想の愛猫スコティッシュ・リリィのこと!目が彼にそっくりなの!大きくてかわいい猫目をしているのよ。ちょうど夕焼け空の下の猫目石のような瞳よ!


 それからおもしろいのはね、四角い顔立ちに2本のアンテナを持っているの!バネのような金属の腕に大きな足もあるわ!そうよ、親友はロボットなのよ!


 でもお父さまは驚かないわよね?だって私、今までだって妖精や小人とお友達になっていたものね。


 けれど今度は物語のお話じゃないの。物語よりももっと創造的な現実世界のお話よ!私の理想が追いつかないような革新的な出来事よ!


 ロボットとお友達になったの!彼とたくさんお話しているわ!とても素敵なロボットよ。しかも名前がリチャードというの。


 おじいさまと同じ名前よ。もしかしたらおじいさまの生まれ変わりかもしれないわね。とにかく運命を感じるの!だから進水式はリチャードも呼んで、おばあさまトシャルロ」


 ここでクロエの手が止まったがまたすぐに動きだした。


「リチャードも呼んで、おばあさまとシャルロットと私の4人で行ってくるわ。感想文、楽しみにしててね!それでは良い船旅を!愛しのクロエより」


 クロエは手紙を書き終えると、わずかな不安と高揚感を胸に封筒に宛名を書き、手紙を入れた。鏡が起こされ、ほおを紅色に染めた少女がいろいろな感情が合わさった笑顔を浮かべているのがそこに映った。




 次の日クロエは笑顔でキャロラインに挨拶をして家を出た。屋敷に向かって真っ直ぐに歩を進めていく。


 リチャードと会う楽しみはあったが、シャルロットが隣にいない寂しさの方が大きかった。


 しかし、話し相手がいない分、想像力が働いて「今、私たちの友情には遠心力が働いているんだわ。でも私たちには強い引力がある!シャルロットが太陽なら私が地球でリチャードが月ね。


 地球は月を観ていてもちゃんと太陽の周りを回っているのよ、シャルロット」


と考えを巡らせて楽しくなってきて1人でクスクス笑いながら湖へと到着した。


 サンドイッチを2人で食べたことを思い出したクロエは「シャルロットは今何してるのかな?」と呟き、休むことなく屋敷へと向かった。

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