第2章 30話 過去

「ガタン」とクロエの部屋のドアが閉まった。夕食を済ませ、皿洗いもして両親の写真に今日1日の報告もした。それでも寝るまでにまだゆとりがあることをクロエは幸せに感じていた。


「ねえクロエ、リチャードの絵ってば本当に素敵だったわね。角のあるものたちを角のないものが包み込んでいたのよ。この部屋のベッドも丸形だったら、あなたももっとよく眠れたのかしら」


 クロエは自分とおしゃべりするのも好きだ。自分に向かって放った言葉に返事はしても、しなくてもいい。


 そのときの気分による。自分の声が部屋中に染み渡ってなじんでいく感覚が好きなのだ。


「そうだわ、お父様に手紙を書かなくちゃ」


 静かな部屋では、クロエの声はスピーカーの音のように膨張ぼうちょうして聞こえた。クロエは部屋の灯りをつけて机の引き出しを開けた。


 中には父親やシャルロットからの手紙や、草花で作った髪飾り(しおれている)や、去年の誕生日に父親が送ってくれた豪華客船の描かれた便せんなどが入っていた。


 クロエは散らかった引き出しの中のものを掻き出すように机の上に出していった。そして、


「クロエ、あなたお父さまの最後の手紙をどこにやったの?」と呟いた。


 彼女は引き出しがすべてカラになると、お手上げとばかりに両手を上げてそのまま後ろ向きにベッドに倒れ込み「いったーい」と目測を誤って後頭部を壁にぶつけた。


「あーあ、また物を無くしちゃった!あなたって物を無くす天才ね!……でもいいわ!前回の手紙にはなーんにも面白いこと書いてなかったんですもの!私がもっと素敵な手紙の書き方をお父さまに伝授してあげなくちゃ!」


 クロエは机の上にある鏡に目をやり白い歯を見せた。「うん、そうね!」鏡に向かって笑顔でうなずき、羽根ペンを手に持って、お気に入りの便せんに一気に文字を書き綴った。


「親愛なるお父さまへ


 お父さまはいつもいつも頑張っていらして素敵だわ。進水式のことあんなに楽しみにしてたのに帰省できないなんて、さぞかし辛いと思うわ。


 でも私やおばあさまのことを思って出稼ぎしてくれているんだものね。私決めたわ!進水式の翌日は聖書くらい分厚いレポートを送ってあげる。だってセントアントニオ号の素晴らしさを伝えるにはそれでも足りないくらいよ。


 もう船はあらかた完成しているみたい。船首のブロンズ像はオリュンポスの12神のアフロディーテらしいわ。美の女神が船首なのもわかるわ、さすがは世紀の彫り師ガライさんね。美しいという単語ではこの美しさは到底説明できないわね!


 カシオペア座だって恥じらう美しさだわ。白い船体の船首から伸びる2つの群青のラインは、海と孤独な夜の色を表しているんですって。


 雄大にそびえるマストはミュラングで1番の船を物語るほど立派なものだわ。まあ、全部想像だけれど!私、まだ港に行ったことがないから、セントアントニオ号とは進水式の日に初めてご対面するのよ。お父さまと一緒に観ることを2年前からずっと夢見て……」


 ここでクロエの手の動きが止まった。もう一度鏡を見ると少女の口元は固く閉じられていた。


「お父さま……私この約束をかてに生きてきたのよ……」


 クロエは羽根ペンを手放して両手で目を覆った。小さな肩ががくがく震えた。やがて、部屋にすすり泣きが響いた。


 音の無い部屋では、小さな声はとても強調された。しばらくすると、クロエは勢いよくベッドに潜り込んで、布団を頭から被った。





 あの日の空は忘れがたいほど高かった。深い青がクロエの脳裏に焼き付いた。彼女はお気に入りの花柄のワンピースを着ていて、萎れつつある草花の束を持って歩いていた。


 彼女の家の庭先によく咲いている花たちだ。丘に続く道の途中で1匹の野ウサギが横切った。クロエは思わず「……あっ」と叫んで、野ウサギの消えた方向を目で追ったが、すぐに無表情に戻って口元を引き締めた。


 太陽は彼女の頭上にあったが、冷たい風が彼女の肌を刺した。森の木々が穏やかに枝を揺らしていた。丘の上まで来ると木々は少ない。


 代わりに10数個の墓石が佇んでいた。その中のひとつの前でクロエは立ち止まりひざまずいた。


 枯れかけの草花の束の横に、そっと新しい草花の束を捧げて、手を組み祈り始めた。クロエは落ち着いた笑みを浮かべていたが、口元が小刻みに震えていた。


「おかあさま、今日は素敵な1日になるかしら……?」


 小さな声は大きな自然の中にのみ込まれた。クロエは目をつぶったまま手を組んで、少し震えた。


 そのまま時間だけが経過していく。しばらくすると、背後から人の気配が近づいてきた。クロエが振り返ると、父親のアルバートが丘を登ってくるところだった。


「お母さま!お父さまが遊びにきてくれたわ!」


 しかしクロエの弾んだ声を聞いて、アルバートは渋い表情のまま、首を横に振った。


「今日はミッシェルとクロエに報告があってきたんだよ」


 アルバートは厳格な表情を崩さずに、クロエの横にしゃがんで、手を組んだ。クロエはは嫌な予感を打ち消すように明るい声で言った。


「そうなの?嬉しい報告?」


 クロエの澄んだ瞳を一瞥いちべつして、アルバートは視線を落とした。


「ああ、嬉しい報告だ。おとうさんの仕事が決まったんだ」


「まあ!良いギルドが見つかったの?」


 クロエの家はミッシェルとキャロラインが織物やアクセサリーなどの伝統工芸を作り、アルバートが売りに歩くという形で生計がなされていた。


 特にミッシェルの宝石加工技術は相当なもので、街の外からも評判を呼び、制作が追いつかないほどだった。


 しかし1つ1つが手作りなこともあり、まとまった数を作ることができずに、いつでも大忙しなわりに生活は貧しかった。


 そしてミッシェルが亡くなった今、新しい形態が必要となり、アルバートは職探しをしていた。


「ああ、町工場ではなく漁師の仕事だけどね。ここから馬車で20日ほど行ったところにマッキャロウという港町があるだろう?そこにお父さんを雇ってもいいという魚場があるんだ。僕はしばらくの間、そこで働こうと思う」


 アルバートは覚悟を決めてクロエの顔をじっと見据えた。クロエの表情が一瞬固まった。それから彼女は目をガラス玉のように見開いた。


「お父さま!それどういうこと!?」


 アルバートはクロエの瞳を見つめたまま、自らを落ち着かせて答えた。


「クロエ、ミッシェルの治療費が莫大だったのは知っているね?きみは家にそんな大金がなかったのも知っている。キャロラインが近隣の家々に頭を下げてお金をかき集めたことも、ミッシェルの病気が治ったら、まとめてお金を返す約束をしていたことも、知っているよね?それから……」


 アルバートの言葉を遮ってクロエが叫んだ。


「でもお母さまは治らなかったじゃない!!そのお金はぜんぶ無意味だったわ!!」


 アルバートはクロエのほおに涙がこぼれたのを見て、娘を抱きしめた。


「……クロエ、辛い思いばかりさせてごめんな。現実っていうのは貧しい人間にほど厳しいものだ。だが、借りたものは返さなければならない。約束は守らなければならないんだ」


 クロエは父親の胸の中で大きく震え、しゃくり上げて泣いた。


「お、お父さまが幼い頃から海に憧れていたのは知ってるわ。けれど!どうして……マッキャロウなんて遠くの町に行くの?お父さまは、お父さまも!私を置いて遠くへ行ってしまうの?私は……いらない子なの?」


 クロエの声は突然大きくなったり、急に小さくなったりした。彼女は肩で大きく息をしていた。


 アルバートは娘を強く抱きしめたまま苦い表情をしていたが、クロエのその反応は覚悟していたというように歯を食いしばって次の言葉を放った。


「クロエ、きみはもう幼い少女ではないはずだ。わかるだろう?この町は小さい。そして貧しい。特別な技術も持たない僕に大した仕事が回ってくるはずもない」


 クロエは何も言わずに泣きじゃくった。アルバートはクロエの肩を撫でて、どうにか落ち着かせようとした。


「クロエ……わかっておくれ……」


「……わかるけど……わからない……わたし、さみしい」


 クロエは1番言いたかったことを言った後で、自分の気持ちをはっきりと理解してしまった。


「もう、大切な人がそばから離れていくのはいや……」


それだけ言うと、動物の子どもが振り落とされないよう、親に必死にしがみつくように、父親の服の袖にしがみついた。アルバートはいたたまれない気持ちになって、瞳に涙を浮かべた。


「クロエ……きみのことを大切に思わないわけないじゃないか。僕が出稼ぎに行くのはきみとおばあちゃんのためなんだ。


 きみに仕事をさせるには若すぎるし、きみのおばあちゃんは寝る間も惜しんで機織りをしているだろう?今度はおばあちゃんが倒れてしまう。僕はきみたちをそんな目にはあわせたくないんだ」


「私、いくらでも機織りをするわ!」


 クロエは顔を上げて涙混じりに答えた。アルバートは苦笑いした。そして、思いついたように話を変えた。


「クロエ、セントアントニオ号の進水式が2年後に決まったんだ。情報通のきみもこれは知らなかっただろ?」


 アルバートはクロエの顔を見て、にんまりと笑顔を作った。クロエは急に話が飛んだので、頭の整理がつかずにぼんやりした。


 やっと「知らないわ」とだけ答えた。アルバートは間髪入れずに続けた。


「よし!セントアントニオ号の進水式を一緒に観よう。クロエも興味あるだろう?」


 クロエはまだ状況についていけずに無表情だった。涙だけは止まっていた。


「ええ、興味あるわ」


「そうか、じゃあ約束だ。僕はマッキャロウでお金を稼いで2年で戻ってくる。必ずだ。2年後の進水式は一緒に観よう、絶対だ!」


 アルバートは力強い確信的な視線をクロエに向けた。クロエはまだ頭にもやのようなものがかかって晴れなかったが、父親がとても頼もしい表情をしていたので、自然とうなずいてしまった。


 アルバートはそれを確認するともう一度クロエの頭を抱き寄せ「いい子だ」と肩を叩いた。


「絶対の約束だ」





 思い出してしまった。思い出す必要のない心の奥にしまっていたことを。


「お父さまの嘘つき!!」


 クロエはベッドの中で嗚咽おえつ混じりに泣きじゃくった。

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