第1章 22話 小さな冒険者
「おかあさん。リチャード先生のところに行きたい」
翌日の月曜日、ジャミールが思いがけないことを言った。
「まあ、どうしたの?焦らなくても次の日曜日には先生はいらっしゃるわよ」
ロゼッタの声がうわずった。ジャミールが自発的に外に出たいと言うことはほとんどないからだ。
「うん。でも早く先生に見てもらいたいんだ」
ジャミールは航海日誌をパラパラとロゼッタに見せて言う。少しはにかんでいるようだ。
「うーん。困ったわね。リチャード先生のお家までは少し距離があるのよ……」
ロゼッタは仕込み中のシチューに目を配りながら答えた。
「僕、ひとりで行ってもいい?」
ジャミールは声を弾ませた。
「ダメよ!道に迷って外が暗くなったらどうするの!」
「うーん……人に道をきくよ」
ロゼッタはその答えに目を丸くした。人一倍人見知りのジャミールが自ら人に声をかけると言ったのだ。
「あなたにそんなことができると思えないわ」
「できると思う」
ジャミールは真っ直ぐに母親の目を見た。ロゼッタはひるんだ。
「……リチャード先生のお家に行くには曲がり角を何度も曲がらないといけないのよ。あなたは東と西の区別もつかないでしょう?」
「わかるよ。太陽が登るのが東で、太陽が沈むのが西。今はお昼を過ぎたとこらだから、少しだけ西に傾いてる」
「……!」
「北と南の区別もつくよ。西を向いたときの右手側が北、左手側が南」
「あなた、どこでそんなことを教わったの?」
「教わらなくてもそれくらいわかるよ」
ロゼッタは淡々と語る息子に今までにない感情を抱いた。肩の力が抜ける。
「……負けたわ。気をつけて行ってらっしゃい。地図を書いてあげる」
ロゼッタはため息を吐いたが、その表情は明るかった。ジャミールの大きな成長に気づいたのだ。
ジャミールは地図と航海日誌を持って家をでた。地図によるとリチャードの家は街のはずれにあるようだ。
ジャミールは道なりに歩きながらあることに気づいた。ここは一度通ったことがある。ミフェイズ湖に行くときに馬車で走った道だ。地図を見ながら自分のペースで歩いていると、日誌を渡したときのリチャードの顔が浮かんできて、楽しい気分になった。
歩くことにわくわくを感じたのは初めてだ。リチャードの行きつけであろう酒場にも出くわした。リチャードと一緒ではなかったので誰もジャミールを気にしなかったが、懐かしい店に久しぶりに来店したような気持ちになった。
しばらくして「とんがり帽子店」を右に曲がった。ここからは全く知らない道だった。それでも不安になることなくジャミールは突き進んだ。
「魚屋ギャッツビー」を左に曲がると「スプリングフラワー店」が右手にある。その道をしばらく真っ直ぐ進む。次は大通りを2つまたいだ十字路を右へ曲がった。
その次の目印である「よろず屋工務店」は思いのほか遠かったので道を間違えていないか不安になったがなんとか見つけることができた。
ここからは一本道のようだ。しばらくしてリチャードの家らしきものを発見した。赤い
ジャミールは表札を見てリチャードの家だと確認する。大きく深呼吸してチャイムを鳴らした。
「はーい、どなたですか?」
ジャミールに緊張が走った。玄関から出てきたのはリチャードではなく、穏やかな雰囲気の婦人だったからだ。ジャミールの表情が曇った。
勝手にリチャードが一人暮らしだと思っていたので不意打ちだった。
「えっと……、ここはリチャード先生のお家ですか?」
おどおどして
「あら、かわいいお客さんね。お名前はなんて言うの?あいにく主人は外出しているの。どういったご用件かしら?」
ジャミールはもじもじして言いよどむ。
「……ジャミール・ドレスタです。今日は、その……」
名前を聞くと婦人の顔が明るくなった。
「あら、あなたがあのジャミール君なの?まあ、嬉しい。いつも主人から聞いているの。かわいいお友達だってね」
婦人はジャミールに向かって微笑んだ。不信感と緊張と不安が入り混じり、ジャミールの表情は石のように固まった。
「あ、ごめんなさいね。いきなり知らないおばさんが出てきてびっくりした?私はキャロライン・ブラウン。リチャードの奥さんよ。ジャミール君、はじめまして」
キャロラインはひざを曲げて目線を低くしてあいさつをした。ジャミールは頭の中を必死で整理して答える。
「はじめまして……ブラウンさん。僕、先生に航海日誌を届けたくて……
ジャミールは恥ずかしい気持ちを抑えて航海日誌をキャロラインに差し出した。
「まあ、これが噂の航海日誌ね。ふふ、預かるわ。でもいいの?船長とお呼びしないとあとが怖いかもよ、ふふふ」
キャロラインは笑いながらしゃべる。
「あ、はい。リチャード船長に届けたくてきました」
焦って言い直したジャミールを婦人は優しく見つめる。
「いつもありがとうね。かわいい航海士さん。リチャードはあなたと友達になれて本当に嬉しそうよ」
そう言ってキャロラインは目の前の子どもをいきなり抱きしめた。ジャミールの背筋が伸びた。
リチャードのときもそうだが彼は抱きしめられることに慣れていない。でもリチャードのときとは違い酒の臭いはしなかった。
代わりにジャスミンの香りがジャミールを包みこむ。安心できる香りだった。ジャミールの肩の力が少しずつ抜けていく。それを確認したかのようにキャロラインはもう一度強く抱きしめて手を離した。ジャミールは少しふらついて、顔を上げた。
「受け取っていいかしら?」
キャロラインはそっと手を差し出した。ジャミールはびくっとしながら航海日誌を差し出した。
「よろしくお願いします」
「ありがとう」
ジャミールは言付けるとすぐにその場をあとにした。長居すると心臓が飛び出すかもしれないと思ったからだ。
耳に熱を帯びているのを感じた。きっと顔も赤くなっているのだろう。そそくさと逃げるように去るジャミールの姿が見えなくなるまでキャロラインは手を振っていた。
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