928号室の患者

澄風一成

928号室の患者

「ねえ、起きてよ。目を覚ましてよ」

 私は朝から今まで泣き続けた。どれだけの涙をこぼしただろうか。もう日が暮れて、窓の向こうの空は赤くなっている。こんなに長く泣き続けたのに彼はその涙を動かない体で全て受け止めてくれた。幾分かは蒸発したのか、彼の肌にしみ込んで消えたのか、私の顔はそれほど濡れていない。童話の世界なら、某夢の国の物語の世界なら、私の一粒の涙で目覚めてくれるはずなのに彼は一向に目覚めない。それとも、魔法のような甘いキスが必要なのだろうか。いいや、あれは眠っているお姫様に王子様や騎士がするものだ。女の私からだと効果がないと思う。あくまで、そういう世界ならばの話だが。

 私の嗚咽に紛れるかのように、コンコンコンとやわらかいノックの音がする。

「入りますね」

 いつもの声だ。別に返事はしない。返事をせずとも入ってくるのは分かっている。ワンピースのような白衣を着て、髪をポニーテールにし、その上にちょこんと意味があるのかないのかわからない帽子のような被り物を乗せた女性。現代にしてはなんだか古めかしい姿の看護師が部屋に入ってきた。でも涙が止まらないし、彼のことを呼ばずにはいられない。看護師など構わず泣き続ける私に看護師が言う。

「汐音さん、大丈夫ですよ。落ち着いてください。何も怖くありませんからね」

「怖くないわけありません! 今この瞬間だって彼は、彼は……」

「少し泣きすぎましたね。泣いた時にはしっかりと水分をとらなきゃ駄目ですよ」

「要らないわ。彼が飲まないなら私だって飲まないわ」

「そうはいきませんよ。彼は飲めないの。でも、あなたは飲めるでしょ。朝から何も飲んでないじゃない。10月とは言えまだ暑いのですからしっかりと水分を取らなければ駄目ですよ」

 どうやら今回ばかりは意地でも水分を取らせるつもりらしい。いくら抵抗したとて無駄なのだろう。その看護師から渋々コップを受け取ると、もうぬるくなってしまった水を一気に飲み干した。自分でも驚いたが、水を飲むと人間はやけに落ち着きを取り戻すらしい。さっきまで泣いていたことが、さっきまで叫んでいたことが、急に無駄だったかのように感じ少し恥ずかしくなる。

「汐音さん、偉いわ。それじゃあ、またしばらくしたら来るわね。何かあったら呼んでくださいね」

「ね、待って」

 さっきまであんなに反抗していたのになぜ呼び止めたのだろう。自分でもわからないが口が勝手に動く。

「ねえ、彼は、彼はいつ目を覚ますの? 私、ずっと待っているのにピクリともしてくれない。私の声は聞こえているのかしら」

「彼にはきっと聞こえているわ。汐音さん、あなたがそう信じるならばきっと届いているわ」

「じゃあいつ返事をしてくれるの。聞こえているのなら応えて欲しいわ」

 看護師は少し口籠った。が、何かを決めたかのように言い放った。

「汐音さん。あのね、彼は動かないの。今までもこれからもあなたの言葉に応答することはないわ」

 その看護師の言葉あまりに冷たく聞こえた。

「ひどいわ。余りにひどすぎるわ。どうしてそんなことを平然と言えるの! それでも人の命を預かる者なの!?」

 看護師は顔色を変えない。

「ねえ、何とか言ってちょうだい。彼はどうなるの? ねえ、ねえってば」

 再び泣き崩れる私にコツコツという足音を鳴らしながら看護師が歩み寄り、軽く肩に手を置き、優しく語りかける。

「あなたの彼は半年前に亡くなっているのよ。あなたが語り掛けているがあなたに返事をしてくれることなんてないのよ。あなただって分かっているのでしょ」

 そう言った看護師は、汐音の涙やら汗やらが染み込み色が変わってしまった白いクマのぬいぐるみをひと撫でし、病室を後にする。

 部屋の中にはまた汐音のすすり泣く声が響く。

 看護師は部屋番号の書かれたプレートを一瞥し、「抗不安剤」と書かれた欄にチェックを入れる。看護師は何事もなかったかのように、薄暗くなった廊下の奥へと消えていった。


精神科病棟

928号室

遠藤 汐音 様

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928号室の患者 澄風一成 @y-motizuki

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