恵《メグミ》

 元の静寂を取り戻した無機質な部屋で、宏はチョコの消えたサイドテーブルに目をやった。

 ぽっちゃり眼鏡で童顔の妻、メグミが、写真の中から笑いかけていた。


『あなたって、喋らないわよね。それじゃ、誰もあなたのことを理解してくれないわよ』


 遥か昔の独身時代。話があると仕事帰りに誘われた飯屋で、彼女は言った。


『別に理解してくれなくていいさ』


 なかなか本題に入らない恵に、尖った声を返してしまったように記憶している。


『もったいないわね。人は喋る生き物だから、複雑な意思伝達コミュニケーションが出来るのよ』

『言いたいことはそれだけか?』


 恵は視線を逸らせた。皿に残った焼き魚の尻尾を見つめている。

 しばらくして、店員が皿を下げていった。勘定書きだけが残されて、やっと彼女は顔を上げた。


『私、転職することにしたの。PINO社よ。あの研究をやらせてくれるって』

『……そうか。良かったな』


 口先だけで宏はそう言った。口の中が乾いていて、水を下げられてしまったことが悔やまれた。


『だから、残念だけど、これで――』


 恵は再び視線を落として、口ごもる。


『……お前が傍にいないのはつまらねぇな』


 追加注文する気など毛頭ないが、壁のお品書きを眺めながら宏は呟いた。

 見えない左半身のほうから、恵の慌てふためく息遣いが伝わってきた。


『言葉が足りない人ね!』


 横目でちらりと様子を伺うと、彼女はさっき食べた茹蛸のように顔を真っ赤にして頬を膨らませていた。


 そして――。


 転職しても、恵は宏の傍にいた。

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