嘘のない君

「おはよう、律」


「はよ」


長い夏休み明け。彼女が俺の側を通り過ぎるその時、俺からそう声をかければ、朝に弱いのだという律からは、だるそうな返事が返ってくる。ふふ、眠そうだなぁ。その様子にどうにも癒されて、だけど。ふと目をやった自分の目の前の七海が、俺を見てものすごく目を丸くしていたから、あ、と俺は思った。そうだ、七海にはまだ何も言っていない。


「おま、え。…作間さんと仲良くなったのか?」


どうやって、とでも言いたげな七海のその反応は、けれど当然。七海とは夏休み中、何度か顔を合わせても、作間さんの話はしなかったし。それに俺は嬉しくて、微笑んで自慢するように告げる。


「うん、まあね。いいでしょ」


らしくないことを言えば、七海は色々と察したみたいで、みるみるうちに、自分のことのように嬉しそうに笑ってくれた。けれどそこに、野暮なことで乱入してくるのは、矢谷。


「えっ、何?!ついに付き合ったの?!どうやって?!」


「なわけないでしょ。それに律には、ちゃんと他に彼氏がいるよ」


それを即座に切り捨てながら、思い出すのはいつか自分が律の背を何気なく追いかけ、見てしまった栗色の髪の男。律は彼を「文太」だと教えてくれた。「小学生の頃から知ってて、春から付き合い始めたんだ」と。あんまり律が、その文太という人のこととなると、幸せそうな顔で笑うから、俺は願う。また新たに、欲張りなことを。律が、文太と幸せでいられるといい。それが律にとっての1番の幸せに、今は見えるから。


夏休みが明けるとすぐに始まるのは、体育祭の練習。その最中、私は小百合ちゃん、優花ちゃん、春菜ちゃんと少し声を潜めて言葉を交わしていた。


「ねぇねぇ、楓ちゃんの彼氏ってどんな人?」


「夏休みには彼氏と遊んだりした」と今朝話したから、気になるのだろう。優花ちゃんは内緒事のようにすっごく小声で、なのにすっごく興味深そうに聞いてきて。それが少し可笑しくて、私は微笑みながら返す。


「歳下の、可愛い男の子だよ」


「ええっ。どっちかっていうなら、歳上の方がよくない?」


言えば、でも私の彼氏は優花ちゃんの理想からは遠かったのか、驚いたようにそう言われてしまって。…そう、かな?陸人くんすっごく可愛くて、優しくて、15歳の私とも全然、歳の差が感じないほど、価値観が合うのに。正直、身体的な年齢よりも精神的な年齢、それまでに積んできた経験、価値観の方が大事だと思う私は、優花ちゃんへとそっと言葉を返す。


「そうかな?私は楽しいよ、歳下の子と付き合ってるの」


「えぇ~…やっぱり楓ちゃんって大人…」


優花ちゃんの考えを傷つけないようそう言えば、けれど応えたのは小百合ちゃんで。何かを納得する様子の小百合ちゃんを、一方の春菜ちゃんは何か困ったように、けれど微笑んで見ていた。


謙のとこも宙のとこも文太のとこも、みんな体育祭は5月開催。うちだけ10月。あーもー。10月なんて暑いじゃん。多分、5月の方がまだ暑さはましだ。なのに何で霊峰青海高校は10月開催なの?内心で、学校側へと文句をたらたら垂らしながら、私はひたすら体育祭の練習と、それから放課後になれば今度は、園芸部の活動に明け暮れる。夏休みの過酷な部活も乗り越え、その先では新たに、体育祭の練習なんてものが加われば、さすがの私にもちょっとは体力がついてきた、ような。証拠に体育祭練習、からの部活を終えてもまだ、私はぴんぴんしている。それを見て、木藤先輩が嬉しそうに笑って言った。


「これなら私も昴も、安心して引退できるわね」


ああ、そうか。その言葉に、今月いっぱいでもう、木藤先輩も栗原先輩も、園芸部の3年生部員はみんな、部からいなくなってしまうのだと今更実感する。…わかってたはずなのに、少し寂しくなって。僅かに俯いたその時、自分を優しくからかう声がしたから、私は慌てて顔を上げる。


「何、寂しいの」


「なわけ」


先輩に対して全く無礼にそう返す私に、栗原先輩も木藤先輩も、可笑しそうに笑う。最初の頃よりずっと遠慮がなくて、ずっと私の保護者っぽくなった2人と、こうして部活が出来なくなるのは、どんなに言葉で否定したってやっぱり、寂しかった。



「あ、律、今帰り?」


園芸部に所属して、陽真と仲良くなって…というか再会して?楓と帰れない日はもうめっきり、私の下校の友はこいつだ。


「そ。陽真もでしょ、帰ろ」


「うん。今日もお疲れ様」


さり気ない気遣いと共に、綺麗に微笑むその様は、さすが「学校1のイケメン」。美術部と園芸部は、何故か終わる時間が同じなことが多くて、別に待ち合わせているわけではないのに、大概こう。もうすっかり、私は部活がない日は楓と、部活がある日は陽真と。部活があっても、タイミング悪く陽真と出くわさなかった時は、1人で帰るかの3択が習慣になっていた。当然、こんなイケメンと堂々と仲良く週に何度も下校していれば、「宍戸と作間は付き合っている」なんて噂がそれはもう、元気に立つもので。けれどそんなものは陽真自身が、「律には他校に彼氏がいる」と、度々はっきり否定してくれるから、すぐに誰も信じなくなった。有難い。私自身も自分で、陽真との仲を誰かに聞かれる度、「他校に彼氏がいる」と明言していたけれど、私が言っても何故かみんなは信じてくれなかったから。陽真の言葉はまるで鶴の一声。何が違うのかな、これって。未熟な私にはまだわからないけれど、でも恋愛のいざこざなんて御免だから、まあその陽真の一声に、今回は助けられたってことで。別に陽真の存在は、文太にだって隠すものじゃあないから、文太だって陽真のことを知っている。名前だけ、だけれど、でも確かに、「昔私の親が入院していた先で、知り合った友達」だと。偶然同じ高校に進学し、再会できたそれに、文太は興味深そうに「へぇ、よかったね」と言ってくれた。そこにはまるで、それ以上の他の意味なんてなく。文太は嘘をつかないから好きだ。何かを変に隠すこともしないし。「彼氏の好きなところって、どこ?」。少し前に陽真から、興味深そうに聞かれたそれが、私の頭の中に何か不意に今、思い出される。…まあ、そういう、とこ?聞かれた時には上手く答えられなかったそれを、私は今も脳内で、上手く答えられず。けれどそんなこと言うんだったら、自分こそどうなんだ。私は自分の隣を歩く陽真を見上げて、聞いた。


「てかさ、陽真は学校1のイケメンなのに、好きな子とかいないの?」


下校。それをする時の私達の間に、無駄な言葉はない。沈黙を嫌って出す無理な話題や、背伸びしすぎた気遣いなんかも、何も。1日を終えて疲れた私達が口にするのは、互いに今日あったくだらないこととか、こんなふうに、お互いのことでその時に興味のあるそれ、だけで。聞けば陽真は、微笑みを崩さずに応える。


「いないな。残念なことに」


訂正。崩さ…なかったように見えたのは、私の勘違い。陽真はちょっと困ったような笑みで、私を見ていた。微笑は微笑。だけどさっきまでと違って、機嫌良く柔らかで綺麗なそれじゃない。何か自分に困ったような、呆れたような、そんなそれ。何、その反応。気になって、私はそこをちょっと掘り下げてみる。


「何、振られたばっかとか?」


「それは違うよ」


ありそうでなさそうなことを聞いてみれば、あー、やっぱなかった。自分の予想を外したことがちょっと悔しい。次は当ててやる。まるでダーツみたいに、密かに意気込む私に、陽真は益々苦笑を深めて言った。


「好きになるってどんな感じなのかな?わからないんだよね」


は?いや、でも…。


「…確かに」


「え?」


私は、文太が好きなんだろうか。文太の好きなところは確かにあるのに、そういう意味で私は文太をちゃんと好きなんだろうか。考えればより深みに嵌ってしまうそれに、私はまた新たに、捕らわれた。


悩めば、せっかくきつくても楽しい体育祭の時期、私の気分はどんどんと落ち込んでいく。


「りっちゃん、どうしたの?」


登校。変わらず楓と2人でするそれ。朝に弱いそれに、自分が本当に文太を好きなのか、わからなくなってしまったなんてそんな深い悩みが加われば、もう、憂鬱は避けられなくて。軽く俯いて、口数の少ない私の顔を、楓は心配そうにそっと覗き込んでくる。落ち込んでる顔を、他人に見られるのはちょっと嫌だ。くだらないプライドで、私はこの時もまた、楓から自分の顔を逸らしてしまった。


りっちゃん、また元気ない。今度はどうしたんだろう?何か、今回ばかりは深刻そうに…ううん、いつもりっちゃんが悩んでいる時は深刻そうなんだけど。でも何か、今回は何かその雰囲気が今までとは違っていて。形容し難いそれを、何と言えばいいんだろう。て、違う。形容なんて、そんなくだらないことで悩んでいる暇はない。りっちゃんが悩んでいるなら、私はその力になりたい。何度でも。体育祭の練習も、ピアノコンクール課題曲の練習も、どちらも大変だけど、でも。家族や、友達、恋人。何人も頭に浮かぶ、大切な人達。自分の実力や才能で残す、自分本位な成績よりも、私はそちらをずっとずっと大事にしていたいから。


悩んだらやっぱ、こうだ。


「んだよ、何か用かー?」


謙。いつものだるそうで、面倒くさそうで、私には無遠慮なその声を聞くだけでもう、何か落ち着く。恋人でも、友達でも、家族でも補えない何か。代わることの出来ない何かを、謙は確かに私へと、いつもしてくれていた。…でも、どうしよう…。いつもの癖でかけてしまったのはいい。けれどこの先、何を話すべきか。謙と文太は友達だし、こんなの謙には話すべきじゃあ。悩んでいるうちにさっさと、スマホの向こうの謙は私へ、適当に言葉を投げてくる。


「どーした、また死体か?」


死体。からないながら、いつだって心配混じりのその言葉を、今だけは否定出来ないかもしれない。強がれないかもしれない。私は文太を、好きでもないのにここまで付き合って、利用したのか。昔から文太はいつだって、私を見てくれるから。弱い私を、強がれない私を知っていてくれるから。何も言わなくたってわかってくれるから。一緒にいると安心して、確かな繋がりがあるそれだけで強くなれて。でもそれって。…私、文太を自分の都合良く、どこまでも自分の都合の良い方に、利用してるんじゃないの。証拠に私は文太にいつも、何もしてあげられていない。勉強を教わるばかりで、遊びに連れて行ってもらうばかりで、励ましてもらうばかりで。私から文太にしてあげられること、これまでにしてあげられたことって、何?わからなくて、目に浮かぶ涙を全てから隠すように、私は自分の勉強机に突っ伏す。どこまでも、黙ったままの私に、謙はふと言った。


「…あー、あのさ」


少し、躊躇いがちに始まったそれを。


「今度は何で悩んでんのか知らないけど」


適当に、いつものBGMのように、私は聞き流すようにするけれど。


「お前が悩んでる時、俺とか楓とかみんな、お前の力になりたいって思ってるから!」


なのに、柄にもなく謙が真面目なことを言うから、正解がわからない私は、静かに泣く。


「当たり前に文太だって!」


その名前に、申し訳なくて。だけど続く言葉に私は、はっとさせられた。


「お前だって、好きなやつが苦しんでたらその時は、全力で支えたいと思うだろ!」


好きなやつが、苦しんでたらその時は。…それは、すごく単純なのに、すんなりと私の腑に、だけど少しだけ落ちる。好きだから、支えたい。そうだ、私は楓や謙達にはそう思っている。支えたい。”常勝”の名に悩む謙なんてらしくない。”仮面”をつけた楓なんて本物じゃない。余裕ばかりの宙は宙じゃないし、きっとどこかで周りを気にしていた弱い万理華は絶対、本質とは違う。みんなが何かに悩む度、何かの壁にぶつかっていそうな度、私はみんなを、支えたいと思ってきた。じゃあ、文太は?私は文太と付き合う時、何を思った?何を願った。支えたいと思った?…答えは違った。一緒にいたいだった。自分が、もう独りにならないように。精神的にそうならないように、文太に私を独りにしてほしくなかった。ずっと一緒にいられるならそれでいいって。文太なら何か、唯一怖くないからそうできそうって。好きは好き。なのにどこかで妥協してきたから、文太が私にあまりにも弱みを見せないから、私のこの悩みは生まれたのかもしれない。文太のせいだと言っているわけじゃなく、守られて支えられるだけのお付き合いって、それって付き合ってるって言えるの?好きってなんだろう?謙が私を支えるように、私も謙を何度だって支えてきた。その、自覚がある。自信と言ってもいいくらいの、それが。私は。文太の全てに甘えるばかりで、与えられるのが当たり前になっていて、何も文太には、してこなかった。してあげられることが、今でさえ何も浮かばない。文太には隙が無さすぎて、私はいつかそれを、「贅沢」だと思ったっけ。単純に「好き」を説明されて、だけどそんな気のない謙は、少し声を漏らして泣く私に慌てた声を上げる。


「えっ、何で泣くんだよ!」


「うるさい…」


それにはいつも通り、強がっておく。文太にはもっと、もっと別に、他の相応しい女の子がいるんじゃないかな。それこそ文太が自分の弱いところを素直に、見せられるような相手が。…あんまり自分が情けなくて、私はついに、そう思い始めてきてしまっていた。


30分程で切れた電話。律が泣くそれなんて、いつぶりに見たか。…いや、電話で声だけだから、聞いた?になるのか?そんなことはどうでもいいか。でも律は何をあんなに泣いていたのか。俺が何を言っても、律は「うるさい」と強がりつつ、泣くばかりで。…「うるさい」の声さえ、涙で震えるから、言われる度心配が増して。自分の胸さえ締め付けられるように、痛い。あーくそ、文太に。「律を慰めろ」と伝えようとして、でも気がつく。律は、彼氏の文太じゃなく、友人である俺を頼ってきた。多分、今日の電話はいつもの暇の、ではなく、そういう意味だ。助けてくれって、悩みの一欠片さえいつも上手く、自分からは口にすることが出来ないほど不器用な律からの、そういう電話で。なら…。迷った末、俺は文太に送ろうとしたメッセージの、全てを消す。文太に頼れない時点で、何か文太と律は瓦解していないか。律もきっとそれに気づいている。あの時のゲームセットは本当なのか。なあ文太、お前ちゃんと、律の味方できてる?聞きたくてもそれは、さすがに聞くことがはばかられた。


律からの返事が、最近は少し素っ気ない。やりとりの頻度さえ、日毎に減って。律の学校は、この時期体育祭のそれだからかなぁ。考えるけれど、何か他に理由があるような気がして。律はいつも、どんなに忙しくても、身近な人との付き合いを第一に優先する方だ。だからこんなことは、今までの律を見る限りでは、有り得ない。…何かあった…?不安になる、けど。大丈夫、うん。全ては律のため、頑張らないと。気を取り直しても、引き締めてもだけど。この時だけは何か、上手くいかなかった。



「律、顔色悪いよ、大丈夫?」


陽真に気遣われて、でも何か、よくわからない。よくわからないうちに、よくわからないまま体育祭は終わり、10月の終わりが、見えてきていた。教室の自分の机。そこでただぼーっとする私に、陽真だけじゃない。あれからすっかり仲良くなった七海も、秋歩もこのも千鶴も、みんな集まって心配をくれて。


「りっちゃん、最近ずうっとぼーっとしてる…。何かあったの?」


このの言葉も。


「悩んでいるのならぜひ、私達にご相談くださいませんか?」


秋歩の上品な高い声も。


「ていうかりっちゃん、最近全然笑顔ないじゃん…心配だよ」


千鶴のストレートな気持ちも、何も上手く、自分の世界に入ってこない。私は文太に支えられてきた。いつもそうだ。小学生の頃からいつも、どこに行くにも2人一緒で、私にずーっとべたべたしてひっついてくる文太が、何かもう自分のお守り代わりのようで。すごく、すごく支えられてきた、のに。何かが違うんだ。これは何か、そう。中2のクリスマスマーケット、みんなで行ったそれ。あの時私にスノードームをくれた謙達とは違い、文太は別に私へ大きなクマのぬいぐるみを、くれた。それはとても嬉しくて、けど。今でも大事で、私の心を支えてくれていて、寂しい時には寄り添ってくれるぬいぐるみなのに。文太は、ぬいぐるみだ。私にとって、ぬいぐるみだ。どこまでも、私を支えるためだけにあって。私が壊れないよう、世の中を強く生きるために必要な依存先であって。つまり、一方的だ。「好きなやつのことは支えたい」。あの夜の電話で、謙に言われた言葉。私もそう思う。確かにそう思う。友達でも、恋人でも、家族でも。好きなやつのことは支えたい。思うのに。文太はそれさえ私に、させてくれないんだ。文太は嘘がない。隠し事がない。真っ直ぐに色々表現してくれて、私を支えてくれて何だって完璧で。なのにひとつだけおかしい。弱さがない。文太が私に見せている文太には、欠点が何もない。気づけば私は文太に「好き」と言ったことがない。こんなに愛されているのに、次第に何かがどこかで不安になっていくこれは。虚しさが私へと取り慿いてきたこれは。


「て、わー、泣くなほらっ」


気がつけば私の目からは勝手に涙が落ちていて、七海が慌ててそのポケットからハンカチを取り出し、私へと差し出してくれる。私はそれを受け取ることも出来ず、自分でもわからないどこかを見つめていた。好きって、何。その答えが出て、私の世界は途端にクリアになる。反して滲む視界が、本当に、つらかった。


ピアノのコンクール。りっちゃんがまるで元気のないそのままに、迎えてしまった今日。私は両親の他にりっちゃんと、それから別に彼氏の陸人くんをこのコンクールに、誘っていた。りっちゃんにはもちろん、私のピアノを聴いて元気になってほしくて。…陸人くんには。りっちゃんのことで実は少し、相談にのってもらっていた。「親友がとても悩んでいて、すごく苦しそうなのに、私には何もわからないし、何もしてあげられない」と暗く零した私に、陸人くんは教えてくれる。「何もって、もうしてるじゃないですか!先輩、めちゃくちゃその人のこと、心配してて、思ってるじゃないですか。それ以上に出来ることって、何かありますか?それがあれば、ていうかそれがないと、人間って何も出来なくないですか?」。はっとさせられた。私より2つも歳下で、でも私よりずっと、周りの人を大切にするそれに長けている陸人くんの言葉は、いつも私の手を引き、上へと上げてくれる。気持ちがあれば。…私。陸人くんがくれた勇気を胸に、私は緊張のステージへと立った。


楓、緊張してる。遠目でもわかるそれは、多分きっと、私と楓が幼なじみだからだ。…でも、ただの幼なじみならこんなこと、わからない。楓と私がこれまでの間に、余程深くお互いと関わってきて、よりお互いを理解しようとして、相手がつらい時には支え合って。そうしてきたから、だと思う。…私と、文太との間に、それはない。つい考えてしまう文太とのことは、教室で情けなく泣いてしまったあの日、あの瞬間。そこでもうとっくに答えが出ているのに、私はずっと、逃げてしまっていた。拍手から始まり、けれど次には一斉に、静まる会場。楓は立派なピアノの前について、長い鍵盤にその手を、置いた。瞬間始まるこれは、何て教えてもらったっけ。………確か…。大分考えて、名前が出てこないその時。明らかに曲調が、変わった。それはこういった音楽にはまるで詳しくない私でさえわかるほどの、明らかすぎる変化。それまでだって明るい感じの曲だったのに、そこから更に急に明るく、まるで音がもう、本当に弾んでいるようで。審査員?すら軽くどよめく。こういう曲?でも何、周りを見る限り何か違う。あと、何だろう、僅かに聴き覚えがある。だけど私にこういう類のそれなんて、それの聴き覚えなんてあるはずが。自分の遠い記憶を辿ろうとした瞬間、会場に満ちた音が、辿らなくたって私の遠すぎた記憶を、引き寄せた。そうだこれ、楓が「いつもつい、弾いちゃうんだ」と話していた、自作の曲…!幼い頃、楓の家に行けばあったグランドピアノ。「将来ピアニストになるの!」。言いながら楓は目の前の楽譜を、でもいつも無視していく。最初はちゃんと弾くのに、次第に、どんどんと、全然違う何かに作り変えてしまう。どんなに悲しそうな曲も、どんなに怖そうな曲も、楓の手にかかればこんな感じ、そう。”幸福”だ。楓はきっと、課題曲のそれを外れて、どんどん自分の作った何かを弾いていくのに、誰もそれを止めない。むしろ、みんなが楽しそうに聴き入っていくから、すごい。ピアノと向き合う楓自身、何も迷いがない。私からはそう見えた。いいな、こんな楓。いつか、楓に憧れたのを思い出す。小さな頃、自分より裕福な楓には、何でもあるように見えた。だから密かに憧れてた。私もこうなれたらって。だけどそれじゃ駄目だってすぐに気がつく。お姫様のようなドレスを着て、ピアノのコンクールに出られなくても。私は私なんだからそれでいいと。何より、楓の純粋な「りっちゃん可愛い」の言葉がいつも、私の背を押してくれた。楓にも私にも、どこの誰にもみんなに平等に、それぞれの良さがあってそれでいいのだと。楓の言う「りっちゃん可愛い」は私へと、そう教えるようで。誰も止めない、楓自身止まらない。ただこの空間にある、見えない輝きを見つめるように、楓はとても楽しそうに、タイトルのないそれを弾く。終わって”幸福”が途切れたその瞬間、静寂が訪れて。けれど1人のおじいちゃんが勢い良く席を立ち、叫んだ。


「ブラボー!」


大きな拍手をしながら、まるで楓は自分の孫とでも言いたげなくらい、誇らしげに。それを皮切りにみんなそれぞれが席を立っては、楓へと賞賛の拍手を送っていく。審査員の反応は、私からは見えない。だけど。席を立ち、客席へと頭を下げる楓が、その瞬間私を見ていたそれには、ちゃんと気がついた。


やりきった。多分、すごく叱られる。こんなこと、やってはいけないことだから。控え室に戻りながら私は、全てを覚悟する。けれどそれでも、私はりっちゃんに伝えたかったんだ。「りっちゃんは可愛い」って。「りっちゃんは、私の最高の親友だよ」って。りっちゃんが私の作ったこの曲を覚えていたかは、わからない。でも何かに迷って、傷ついて、躊躇って。上手く踏み出せないなら、私はりっちゃんにこれを贈りたかった。このステージで。全てを壊す覚悟で。今更手が、ちょっと震える。どんな叱責が、待つかな。少なくとももう勝ち残るそれは有り得ないし、二度とピアノのコンクールには、私が出られることもないだろう。覚悟を決めて開けた扉、その先は。


でもやっぱ怖くて。私は楓からあんなにいいものを貰ってしまったのに、やっぱあとちょっとだけ足りなくて、やつのところを連絡もなしに訪れる。


「お、どうした?ちびロリ」


幸い、謙が今日この時間から家にいたことにはもちろん、相変わらず私を「ちびロリ」と呼ぶそれに、何か安心した。謙は突然自分の家を訪れた私を見て、いつも通りに笑う。悪戯っぽいそれ。見る度本当、変わらない。…こんなこと、頼るのはいけないよな。思いつつ、私はそれでも、さっき楓に教わった気がしていた。”幸福”の音に、周囲へと頼るその強さの、必要性を。


律はあんまり深くは話してはくれなかった。それでも、「私は文太を振りに行く」と言うから、「そのために、勇気が足りないから手伝って」と、俺の顔は見なくても、珍しく素直にそう頼ってくるから、俺も素直にそれに力を貸した。つっても本当、ついて行くだけ。…文太を、振りに、か。そんな大事な話のそこへと、俺はついて行っていいんだろうか。多分文太はまだ何も、知らないんだろう。律は、自分に近いやつほど、傷つけることを最後まで躊躇うから。ちょっと前、本当にちょっと前。その時には、文太は俺へと、まるで自分が律のことを1番にわかっているかのように、していたのに。何でこうなったんだろうか。自分の好きな人が、これから彼氏を振るなんてそんな絶好の機会、俺からすれば願ってもないことなのに。…律がそれで泣くなら、もっと別の終わりや、未来があって欲しかったと、俺は願わずにはいられなかった。



「…ここでいい」


ある程度の場所で、謙へとそう告げて、でも。


「ここでいいけど、ちょっと待ってて。先帰ったら、殺すから」


私は振り返り、最大限強がって、いつものように謙を脅してみせる。そうすれば謙は何か優しく「わかった」と応えて、私に軽く微笑んだ。


文太と待ち合わせたのは適当な公園。10月の終わり頃、の日暮れともなれば、それはやっぱり少し寒くて。「寒くない?」と気遣ってくれる文太の優しさが、今は、痛い。私を、最大限甘やかしてくれる人。最大限支えて、最大限優しくしてくれて、でも。…どこまでも、一方通行にそれだけの、人。私は文太が聞いたそれには応えず、文太の方は見ないまま、重たい口を開く。


「…あのさ」


「うん」


でも、やっぱり言いづらくて。とてつもなく言いづらくて。文太を、傷つけたくなくて、私の言葉はそこで1度、途切れる。私の体感では酷く長い沈黙が、そこで流れて。でも文太は何か察したのか、私より先に、その口を開こうとした。でもそれだけは、これだけは文太の察しの良さに任せていたくなくて。私は必死に、文太が言おうとした先を、自分の言葉で伝えていく。


「…俺達」


「私達別れない?」


強く、逃げるように言い切った。


「正直、その、本当の文太がわかんないし」


迷わないよう、頑張った。


「何か…違う、気がするし」


なのに口を開けば開くほど、続く私の言葉は情けなく、どこかをさ迷って行く。違う、伝えなきゃ。最後くらい、私は。意を決して本当のことだけを、ようやく出たその答えを、私は文太に言い放つ。


「私は、こんなふうに一方的に支えられるだけのそれは、頼ってもらえないこんなのは、嫌だ」


そうすれば文太は、最後まで文太を見ることの出来ない私とは違って、きちんと私の顔を見て、いつものように微笑んで。


「…うん、わかったよ、俺は律が1番だから」


最後まで、嘘がなかった。


20分くらいか。それくらいしてから戻ってきた律は俯いていて、律より背の高い俺からは、律のその顔は何も見えはしない。でも見なくてもわかる。きっと酷い顔してる。多分今にも泣きそうな、それ。律が泣くなんて、いつぶりだ。ちょっと前にも思った。今度はちゃんと目の前にしているから、表現は見てるであってるよな。何か変なことを確認しながら俺は、律に明るく、いつもの調子で声をかける。


「帰ろうぜ!」


律があんまりにもどっかに迷って消えそうだから、ちょっと恥ずかしいけどとったその小さな手は、だけど払われなかった。

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