向き合い方

カメラアプリで、偶然見かけた猫の、グルーミングの仕草を写真に撮る。ふふ、可愛い。綺麗に撮れたそれを見て、にやけてしまうのは、止められない。本物もいいけれど、写真に収めた猫ちゃんも可愛いな。これは何も、写実にするために撮ったわけじゃあない。そもそも、写真を元に絵を描いたら、それは”写真の絵”になっちゃうし…。本物と写真って、全然違うもんね。ほわほわと風になびく毛、長いヒゲのカール、深く輝く瞳。本物の猫ちゃんと、今しがた自分で撮った写真の猫ちゃん。元は同じその子を何気なく見比べていると、手にしている自分のスマホの画面の上部に、急な着信の表示。ん?と思って見てみれば、それは神野史人の文字で。…わっ。


「わああ、ごめんなさいっ!」


その瞬間、駆け出しながら慌てて電話に出て、第一声にそう謝れば、電話の向こうの神野くんは呆れたように言う。


「…いや、まだ1時間だからいい」


寄り道ばかりで神野くんとの待ち合わせをすっかり忘れ、神野くんからの電話でようやくそれを思い出し、突然慌てた私の声に、そういえば。さっきの猫ちゃんを驚かせたかなと振り返れば、猫ちゃんはやっぱり驚いちゃったのか、先程までその子がいたそこにはもう何の、姿もない。はぁ、しっかりしなくちゃ。にしても、いつも思う。神野くんだってきっと街を行く時、様々なものを見ているはずなのに、私はどうしていつもこうなんだろう?通りがかり目にする何かに、道行く何かに気を取られて、夢中になって、待ち合わせに遅れてしまうんだろう…。そのうち神野くんから、私は愛想を尽かされるんじゃないかと、ちょっと恐れていた。


それは今日も俺が所属する美術部の部室の窓から、見える。作間さん。最近、園芸部に入ったのだという彼女は、小柄な体で懸命に活動していた。…ちなみに、園芸部に入った、という情報は七海経由で手にしたもの。入学のあの日以来、嫌われたままの俺ではとても、作間さんからそんな情報を聞き出すことは出来ず。けれど七海は違う。あの宿泊研修で、作間さんと少しその距離を縮めていて、何か作間さんから好感を持ってもらえたようで。度々、七海は彼女の方から声をかけられていた。そうして自然と話し込む自分の友人と、敬愛の人の姿を見て、俺はいつも思う。…羨ましいなあ。何て、前にしたキャンバスにも、窓の外に見える彼女にも集中出来ず、全く身が入らない状態で活動をこなす、今年の夏の美術部。園芸部の活動なんて過酷なもの、作間さんは大丈夫かな。そもそも俺はどうやったら、作間さんに警戒を解いてもらえるんだろう?…あと、俺は一体、今何描いてたっけ…。全てが上の方でぼんやりと、定まらずにふわふわと浮いて、俺の頭の中はまるでまとまらない。それでもひとつだけ、はっきりしてきたことがある。七海がそっと、探るそれの限り、作間さんはやっぱり覚えていない。ここからほど近くの大学病院。そこにいた俺のことを、まるで。


今日もばっちり頑張った。全力を尽くした。その証拠にやばいくらいの筋肉痛。もう連日感じているそれを抱えながら、私は園芸部の部室を適当に後にする。あー、足痛い、腕も…。帰って湿布貼ろ。でもあれ、高いんだよね…。もしこの心の声を誰かが聞いていたとしたら、あっという間に貧乏性がばれるそんなことを思いながら、向かう昇降口。そこで私は、同じ園芸部の1年女子の子達から、声をかけられた。


「作間さんっ」


呼ばれて振り返れば、いつも部内でも2人一緒に行動している、仲良しの確か…西野さんと五木さん。名前はともかく、苗字は覚えている。そんな自分に微かに安堵をしながら私は、2人へと返事をした。


「何?」


問えば2人は、思いがけないことを口にしてくる。


「作間さんって、部長と仲良かったよね」


「そうだけど…」


部長、それはつまり木藤先輩。木藤先輩と仲良い…というか、確かによく気にかけてもらっているから素直に頷けば、けれど。


「きもくないの?」


続いた彼女達の質問に、心が冷えた。


「正直、嫌じゃない?あんなの」


「ちょっとさ、色々困るっていうか…」


「黙りなよ」


でも私って我ながら瞬間湯沸かし器。冷えた瞬間次にはもう、苛立ちで心が一杯になって、今度はその温度が急激に上昇する。多分高温のオーブンと同じくらいにまで。だから気がつけばそんな言葉が出て、勝手に動く自分の口。軽く唱えるように出てくるそれさえ、止まらない。


「私、差別や偏見がいっちばん嫌い。そんなこと言ってるお前らの方がきもいって。受け入れられないならせめて黙っとけ、低俗」


別に受け入れられないことが問題なわけじゃない。受け入れられないことも正しい反応だ、わかる。けれど、それならせめて余計な言葉は黙って、自分の中に押し込んでおくべきだと思うし、どうしてそれをわざわざ私に言ってきたのか?わからない。問題はどこまでも、彼女達が木藤先輩という人を受け入れられないことじゃない。受け入れられなくていいと思う。なのにどうして、わざわざそんな言葉を口にするの?言える低俗さがあるの。腹が立つそのまま、口悪く言った私も悪い。だから。


「いや、ごめん、言い過ぎた」


そう謝れば、さっきの私の言葉に、まるで瞳の色を失ったかのように目を見開き、怯え驚いていた彼女達は、今度は困惑したような雰囲気を出す。そんな2人に、私は続けた。


「正確には、受け入れられないことが問題なんじゃなく、どうしてそんなことを言ってしまうのか、が問題。不満とか、何かそういうのを言いたいなら、もっと違うとこでやった方が安全なんじゃない?」


さすがに同じ部の、それも木藤先輩に気にかけて頂いている私に言うのはどうなのか。そんな意味で言えば、目の前の2人はそれぞれ顔を見合せて、それからゆっくりと私を見て、言う。


「…そうだね、ごめん」


「私達、作間さんが何か、我慢してるんじゃないかと思って」


そうして明かされた気遣いには、私はもうとりあえず少し冷めてきたオーブンくらいの気持ちで、適当にさっと応える。


「私は、私と合わない人間とは関わらないから」


この2人もきっとそうだな、なんてそんなそれも余計そのものだから、私は自分の内にこの声を閉じ込めた。


冷めてきたオーブンくらいまで気持ちが落ち着いてきても、この日の帰りは憂鬱。それから、まだ少し残るあの苛立ちが、私の心に長く燻っている。「きもい」とか。そんなの、どこの小学生が使う言葉よ…。それもよく知れた仲のからかいとかじゃなく、本心からの、なんて。だからって、彼女達と同じ土俵に立ってしまった自分は、深く反省するべき。言ってはいけないことを、私は他人へと言ってしまった。明日また、タイミングを見計らって、あの2人に謝罪をしないと。こんなことが、自分が取り仕切る園芸部の中で起きていたら、木藤先輩が1番に悲しむだろうし。木藤先輩が周りからの何かを、気にしないようにしているのは、出会ってすぐにわかった。でもそれをどうしても気にしてしまって、1人で静かに傷ついている木藤先輩がいるのは、最近やっと、わかったことだから。


この日の律は何か落ち込み気味だった。「暇だから」という理由で、それでも律が夜、俺へとかけてきてくれた電話に出れば、律は何かちょっと、俺が何を話しかけてみても上の空。どうしたんだろう?ん~…。今日は部活あるって言ってたから、そこで何かあったかな。それにそこには確か、個性的な部長さんがいたはずで。その人は聞く限り随分面白くて、多分相当いい人。律から、彼女の話を又聞きする限りは、そう俺は彼女へとイメージを持っていた。ついでに、その女性と仲が良いという先輩も、根はいい人なんだろう。律も「よくわかんないけど」と言いつつ、結局は「お世話になってる」と零すんだから。最近の律の話の中、律がいる園芸部の中で出てくる中心人物は、この2人。なら、律がこうもわかりやすく落ち込むことも、きっとこの2人、特に個性的な彼女のことなんだろうな。個性的にしてその彼女は、見る人によっては、受け入れられないものを持っていたから。けれどそんなの気にしない律は、わかっていてもきちんと、解せないんだろう。頭では、理解していても、気持ちの方が追いつかない。つまり。


「ねー律っ。律は俺がその辺の野良猫になっちゃっても、好きでいてくれる?」


唐突に聞けば、律は戸惑ったような声で、早めに言葉を返す。


「は?何で野良猫…いやまあ、そっちのがむしろ可愛くていいかも」


「あはは」


可愛くて、か。確かに猫は可愛いもんな。現実の俺には絶対に再現できない、得られない可愛さが猫にはある。それに笑って、けれど。


「じゃあ、俺は幸せ者だね」


言えば律は黙ってしまった。きっと何かを色々と、感じたんだと思う。誰からも認められて、誰からも愛されて、誰からも支持をされる人間なんていない。律が「可愛い」と言った野良猫さえ、万人受けは決してしないのだから。


「じゃあね、おやすみー!」。元気よく切れた文太との電話。通話終了。その画面を閉じられずに、何か私は手元の、自分のスマホを見る。「猫になっても律がいてくれるなら、俺は幸せ」。それは。…文太ってほんと、洞察力、観察力、そういう類が鋭い。ああもう。それなら木藤先輩は、栗原先輩や理解ある友人、家族。あとはおまけ程度に私がいる時点で、幸せってことになっちゃう。あの子達にまで無理に理解してもらわなくても、受け入れてもらえなくても、木藤先輩はそれでいいってことに、なってしまう。明日、しようと思っていた彼女達への謝罪の先。私はきっと理想を見ていた。だけどそんなの、私の独りよがりなんだって、文太から遠回しに言われて気がつく。木藤先輩は心無い言葉や視線に傷つきつつ、それでも多くを求めてはいない、のかもしれない。私は木藤先輩じゃないからわからないけれど、みんなからなんてそんなの、綺麗事が過ぎるなって。きっと自分が、木藤先輩だったらそう思う。自分を認めてくれる誰かが1人、いる時点で、もうそれだけでいいなって、そう。



「ねぇ」


活動終わりの部室。今度は昨日とは違って、私と友達の灯里ちゃんは、2人でいるところを作間さんに話しかけられる。何…?昨日のことがあって、互いに謝りあったとはいえ、少なくとも私と灯里ちゃんから作間さんに対する印象は、良くない。心配してあげたのに、と言えば聞こえはいいが、それも余計なお世話だったことはわかってる。だけど、彼女が私達へと言ったことは最早、暴言で。互いに、悪いことをした。程度の差はあれど、類の差はあれど確かにした。だから私達の間に流れる空気はぎこちないまま、気まずいまま。その中で、何も応えない私と灯里ちゃんに、作間さんはしっかりと頭を下げて言う。


「ごめんなさい」


「え…」


可愛い見た目に反して強気で、昨日のことがあってからは怖いとすら思った、作間さんからの、謝罪。真っ直ぐすぎるそれに、私も灯里ちゃんも困惑して、顔を見合わせる。ふと気になって、見回した部室。木藤先輩は…今はいない。さすがにこんなところを見られたくはなくて。でもそう感じた時私は考えた。部長に、この場面を見られたくないのは、何故?…それは。それは…。わかるのに、認めたくなくて、思う。私はこんな、作間さんのようにはなれない。真っ直ぐ嘘をつかずに、自分が間違えた時に周りの目なんて何も気にせず、相手へと頭を下げることなんてできない。部長がここにいたら、きっと「どうしたの?」と私達は話を聞かれて。部長のことだから贔屓目なんてせず、平等に私達から話を聞いて。それから無理に笑うんだろう。「ごめんなさい、私のせいで」と。私や灯里ちゃんが、何か適当に嘘をついたところで、きっと作間さんは包み隠さず、全てを部長へと伝えてしまうから。私達は、私達の価値観はともかく、昨日の発言、行動が、自分達の見えないところで部長を傷つけると、きっと知っていた。確かに、知っていた。子供じゃないからもう知っていた。私達より幼く見えて、同い歳で、なのに作間さんは私達よりどれだけ先を行ったんだろう。悔しくて認められない。情けなくてかっこ悪い。「ごめんなさい」に意地悪く、「別に」とか返したくなる。でもそこまでいったらそれこそ私は、低俗だ。昨日作間さんが私達へと言ったように、思いきり低俗だ。私は少し考えた末、精一杯強がって、ひとつの言葉を返す。


「私達こそ」


「ごめんなさい」とまでは言えなかった。頭を下げることも、真っ直ぐ自分の中にある罪を認めることも、私は作間さんのように、たった一晩ではできなかった。だけど精一杯背伸びをして、大人を目指して言った「私達こそ」に、作間さんはゆっくりと頭を上げると、薄く微笑んで言う。


「ありがと」


きっと誰もがこう、作間さんのようにいられるわけじゃない。真っ直ぐあることだけが、正しいわけじゃない。真っ直ぐすぎて、走った道から落ちることだって、きっとあるはず。なのに。無性に惹かれるのは、自分にないものだから、なのかな。あんな酷いことを、それも昨日言われたばかりのに。多様性の時代、なんて言うけれど、それをまだ上手いこと受け入れられない私達すら作間さんは、考えてくれたようだった。


何を謝っているのか。わからないが遠巻きに見たって潔い作間のその姿勢は、好感が持てた。何かを間違えた時に、人間の本質ってけっこう見えるもんだと思う。作間は貫き通したのか。そもそも作間が何を間違えたのか、俺にはそれすらわからないが、作間が謝った先の2人の反応。それを見る限り、作間が間違えたことは、あまりくだらない何かだとは思えず。むしろ、大切なことを間違えたように、思える。誰かに頭を下げるなんて、それもただ部活が同じ同学年のやつにそうするなんて、よっぽど。それでも作間はそうすることを、選んだ。迷いなく、人目の多い活動終わりの部室で、何も気にせず頭を下げた。てっきり俺は、作間はプライドが高いやつだと思っていた。自分に対しての理想が高く、それ故プライドも高いばかりの、そんなやつかと。根底にあるのは違う、のか。ただひたむきな面ばかりで、作間の底には何があるのか、俺にはまだよくわからない。それでも。悪いやつじゃないな。自分の間違いに対する向き合い方。作間のそれを見て、俺は素直にそう思えた。


2人に謝って、それからさっさと部室を出る。「私達こそ」と言って、私を真っ直ぐ見つめてくれた彼女達は、優しかった。人間は、誰かの許しで出来ていると思う。私だって…。いくつも間違えて、その度きっと誰かを傷つけてきた。それでも、昨夜文太が言ってくれた言葉が自然と、蘇る。「じゃあ、俺は幸せ者だね」。誰かが思ってくれるなら、どこかからどれだけ強く呪われたって、私達はきっと幸せだ。些細でも、だけど確かに。私はいつもずっと、どこかで1人になりがちで、でも常に独りではなかった。気づけば見えないところで、どれだけ多くの人に思われたことだろう。馬鹿みたいに、それに何も気がつかず過ごしてきた15年の人生が、恥ずかしい。自分のことばかりって、世界が本当に狭い。再び出た、灼熱の校庭。丁度部活終わりかな。私の遠く前を行くあいつは確か美術部だって、日野が言っていた。2人は仲が良いらしいから、それで。…私はあいつがどうしてあの日、入学式のその日にわざわざ、私へと話しかけてきたのか。その真意を、まだ知らない。思いを、何も。このまま知らないのは何か、もったいない気がして。私の世界が狭いままな気がして、私は軽く駆け出す。もしこれで、何か悪いものを知ったなら。その時はでも、私には文太や楓、謙達がいる。何か嫌だと直感で避けたそれに、私の短い人生一度くらい挑まなきゃ。


「ねぇ」


そうして足の遅い私が、必死に追いつきたくて思わず掴んだ、そいつの制服のワイシャツ。宍戸陽真は不思議そうに、足を止めるとこちらを振り返った。


作間さんから、不意に声をかけられて、制服すらその小さな手で掴まれて、俺は振り返る。自分が適当に前へと進めていた足は、彼女によりここへと確かに、止まった。どうして。作間さんが自分から進んで俺に話しかけるなんて、有り得ない。だって作間さんは俺を、警戒している。それどころか嫌っている、はず、なのに。作間さんは掴んだ俺の制服を慌てた様子で離すと、一度俯き、けれど。また次には真っ直ぐ俺を見て、その口を開いた。


「ねぇ、あんたはどうして、入学式の時に私に話しかけてきたの?しかも、私のことどうして知ってたの」


「普通、ちょっとおかしいでしょ」。真剣な眼差しで聞かれたそれは、確かにそう。入学式のその日に、まだクラスの誰もが、新しい友人作りになど積極的には踏み出さないその時に、俺はよりにもよって異性の、「作間さん」へと声をかけた。聞かれるのは最もだ。これにより警戒されたのも、本当に悪手だったと思う。あんまり人付き合いが得意じゃない自分を、これほど恨んだことなんてないくらいには。変に、上手くやろうとしたって、不器用な俺にはそれはできない。だから素直に、最早投げやりに、どうにでもなってしまえと、俺は作間さんからの質問に応えた。


「…覚えてない?俺のこと」


ずっと聞きたかったことを聞けば、作間さんは訝しげな顔をして、小さく首を傾げる。七海から少し聞いていたとはいえ、こうも目の前に現実を突きつけられると傷つく。覚えて、ないんだ。作間さんは覚えていない。俺はこんなに覚えているのに。その紺藍の色の、真っ直ぐで綺麗な髪を。


「甘いもの、食べないと死んじゃうよ」


いつか幼い彼女はそう言った。車椅子の俺へと、当然にその手にしていた紙袋を、渡して。それはもう渡すというより押し付ける。そういった形でやられて、気弱な俺は慌てて受け取る。


「えっ、でも…」


それでもお菓子の差し入れは当時、あの大学病院の病棟に入院していた俺には、禁止されていたものだから、戸惑ってそんな声が出た。オロオロとする俺に、彼女は最早強くも見える無表情のまま、言い放つ。


「苦いものばっかりだと死んじゃうよ」


苦いもの。それは、今まで自分が口にしてきた数々の薬、のような気がして。…その苦さな気がして。蘇る苦い思いに俺は口をつぐむ。彼女は俯く俺を、何も言わずに真っ直ぐ見ていた。その時、看護師の1人が少し遠くから、誰かを呼ぶ声を上げて。


「律子ちゃーん。作間律子ちゃーん!」


子供?を探しているのだろうか。大胆にもフルネームでその子を呼ぶ看護師に、けれど俺の目の前の彼女は、院内にも関わらず慌ててそこへと駆けて行った。瞬間舞うのは紺藍の髪。少しの距離だからか。まだ看護師に叱られずに済んだ様子の、その背を見て俺は何かに安堵し、何かに許される。「甘さがなければ死ぬ」。その言葉と共に記憶に残るのは、翻る紺藍の彼女、で。


ずっと探していた。あまりに特徴的なその髪色は、この日本にそう多くはいない。その上「作間律子」と名前もわかっていたから、ずっとずっと、俺は彼女を探し続けて。


「…作間さんは子供の頃に、どこかの大学病院に来たことがないかな」


覚えてもらえていなかったこと。それに未だ傷つきつつ言えば、作間さんは何かに気がついたように、瞳を揺らす。思い出してもらえた?でも何も、期待なんてしない方が。ただ、そうただ、俺はあの時のことを。


「そこで俺は君に会ったんだ。当時の俺は白血病で入院してた。君は俺に、チョコチップマフィンをくれて」


謝りたくて。白血病の俺に、彼女がくれたチョコチップマフィンを口にすることは到底出来ず。それでも捨てることも出来ず、病室に持ち帰った矢先すぐ、担当看護師へとばれて、それは取り上げられた。行く先は考えなくたってわかる。ゴミ箱だ。捨てられたんだ。俺が捨てたわけじゃない。それでも見る限り、当時の作間さんの手作りのようだった、少し不格好なチョコチップマフィンを、俺は。あの時のつらさのあまり、情けなく微かに声が震える俺の言葉を、作間さんはそれでも静かに、聞いてくれる。


「だけどそれはすぐに捨てられてしまって。病気だから、食べてはいけないと。俺はそれをずっと後悔してた。ずっと、作間律子さんに謝りたかった」


最初はただ、それだけを願った。確かにそうだ。なのに俺はいつから、違うことまで願うようになったんだろう。「甘さがなければ死ぬ」。その言葉に何か勇気づけられ、つらい闘病を何とかこなし、中々辿り着けなかった寛解を迎えて、俺はそれで。あの時のことを作間さんに謝ると共に、作間さんと友達になりたいと、余計なことまで願ってしまったんだ。その上、作間さんが俺を覚えていてくれてたら、なんて。彼女からすればほんの一瞬の出会い、関わり。全く些細なそれが、記憶にあるはずもないのに。悔しくて、下ろしたこの握り拳に自然と、力が入る。それでもずっと伝えたかった、最初の望みを俺は、口にした。


「ごめんね」


叶えた、やっと。


「あの時のチョコチップマフィン、何も…俺は大切に出来なかった」


きっと俺は今、情けない顔をしている。それでもせめて、きちんと作間さんを見て言えば、作間さんは不意に、どこか挑発的な笑みを浮かべて、言った。


「大切に出来てんじゃん、ちゃんと」


「え…?」


今の話で、俺があのチョコチップマフィンのどこを、何を大切に出来たのだろうと、作間さんに言われた瞬間俺は惑う。だって、俺は。「捨てられてしまったんだよ」と言い返そうとした時、作間さんは迷わずにその口を開いた。遠い俺の忘れ物を、今の俺へと届けるように。


「ずっと、覚えててくれたんでしょ。その上で私に、謝ろうとしてくれてたんでしょ。ならあのチョコチップマフィンも、喜んでるよ。あんたがそれくらい元気になってよかったって」


「むしろ私こそ、避けてごめん」と、最後は少し目線を外され、バツが悪そうに謝られる。そんな、それは俺が作間さんへの接し方、最初の声のかけ方を間違えたからで。だから俺のせいで。


「そ、そんな、ええと」


思うのに、言葉が出てこない。慌てる俺に作間さんは、無邪気に笑った。


「てかあんたも背高くなりすぎじゃない?みんな私よりどんどんでかくなってくんだから」


笑顔と共に告げられた、不意なその一言に、救われるどころか舞い上がる。背。確かに俺は昔、作間さんと出会ったあの時。作間さんより背が低かった。しかも車椅子を使用していたから、それはもう、作間さんからすれば自分より歳下の幼子に見えたのかもしれない。背なんて、そんな些細にして意外なことで、作間さんが俺を覚えていてくれたことを知り、嬉しくなる。どうにも、破顔して、それから。


「…ふふっ、作間さんは小さいままだね」


「うるさい」


つい、そう言えば、作間さんからも気の置けない返事が返ってきた。

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