壊れた夜

夏休み頭。夏休みは、バドミントンをする俺としては、練習と大会に打ち込む絶好の機会。成長の時。だから遊んでる暇なんてない。例年、夏休みとなれば俺は全力でバドミントン。今年もそうだ。レギュラー枠、今年もきちんと勝ち取ったし、つまり俺にはこの後すぐに大会が控えている。それも団体。まだ1年なのに、何でか。「常勝、皆川謙に期待してる!」。部長から言われたそれは、どっちかって言うと期待というよりかは、俺からすればまたいつもの、重責…。練習の合間、ほんの数分の休憩。体育館の床に座り込み、そんなことを思い出しては、つい天を仰いで黄昏ていると、そんな俺の視界に誰かがひょっと、入ってくる。


「よっ」


「…あ?」


誰だっけ。あんま覚えてない。ん?必死に頭を回して、ここ最近の自分の記憶を辿っても、この、俺の視界に突然に入ってきた女子の名前、というのは思い出せず。そんな俺を察したか、やつは言う。


「何だよ、忘れちゃった?この前だって、ちゃんと挨拶したのに。井上遥です」


「…あー…」


言われて、でもやっぱ思い出せない。井上遥?誰だっけ、それ。井上いわく、こいつはこの前も俺に会ったらしく、だからか慣れたように話しかけてくる。


「へばってるの?」


「うるせぇな」


悪意なく言われても、でも何か、うざい。相手は悪意がないってわかってるのに、でもやっぱ、うざい。俺はそう、感じてしまう。…律と比べてしまう。きっと同じように「へばってるの?」とあいつに言われれば、俺は何かが面白くて。律へと怒るふりをしながらそれでも、内には「腐ってられない」と、やる気が満ちてくるのに。なーんで律とそれ以外の女とでは、こんなにも、同じ言葉ひとつとったって、俺の受け取り方感じ方は違うんだ。わかってる。それは俺がまだ律のことが好きで。いつまでも、律を自分の心の支えにしていて。しかもあいつは俺の心の真ん中にある、きっと大黒柱だ。


「はぁぁ…」


「え、何。何か悩んでる?」


つらい失恋。それも文太っていう身近すぎる友人に、どっか何かで自分より下だと思っていたような感じの友人に、好きになったその人をいつの間にかとられていた、なんて。情けなくて、未だに自分の心が痛すぎて、俺の口からは長いため息が出てくる。頭を抱えて、思い出した。そういえばこいつ、1年のマネージャーだ。だけど思い出した瞬間に、すっごくどうでもいい情報だと思ってしまったから、俺は多分またすぐにこいつのことを忘れるだろう。どうでもいいやつなんて、自分の世界には存在しないもんだ。多分みんなそうだ。何かを納得しながら、自分へと言い聞かせながら俺は今日も、律のことを思い出して肩を落とす。ゲームは終了したまま。始まりは次、いつだろう?わっかんねー…。くそ、文太のやつ、腹立つ。今はもう理不尽に文太にこの苛立ちを、内心でぶつけることでしか、俺は自分の心のバランスを、上手くとれなかった。


言われた通り、夏の園芸部はめちゃくちゃハードだった。先輩達が私を含め、新入部員の子達を気にかけ、サポートしてくれるけれど、もうとにかく体力勝負、腕力勝負。う、死ぬ。まじでハード。手にしたプランターは、両手で持ったって私には、重い。でも、私はこれを求めてここに来たんだ。自分の駄目なところ、成長できそうなところを、改善したり伸ばすために。だから絶対くず折れたりしない。たかが園芸部だけど、これまで家事ばっかりで何もしてこなかった私には、やっぱりこういうことはきつい。みんな、こういうことを経験してしたのかな。私が、家事に費やしてきた時間、無駄にぼーっとした時間。その全てを他のみんなは。思うとより、負けたくなんかない。普通って難しい。これは私の知らない、普通の世界だった。


あの子、頑張るなぁ。さすが、あんだけ華奢なのに自ら、園芸部に志願しただけある。私は自分の作業の傍ら、真面目にせっせと頑張って働くりっちゃんの姿を見ながら、微笑ましくそう思っていた。…むしろ、感心していた。あの子なら、部の活動がきつくても挫折することはない、そんな気がしていたけれど、それどころかここまで、がっつり食らいついてくるとは。予想に反することに、私はちょっと驚きつつ、けれどやっぱり感心する。根性あるのねー、りっちゃんて。園芸部の活動、夏場は男だってきつい。普通にきつい。まだ体は男の私が言うんだから、間違いない。なのにあの子は最初から真剣に、まるでその手を止めない。動きを。真摯なその目は何か、野菜や花、抜くべき雑草へと向けられているようで、けれど全く違う何かを見ているように、私には思えて。りっちゃんに感心するついでに、私はぼーっと、彼女を眺める昴へと、すれ違いざま声をかける。


「心配なら手伝ってきなさい?」


「は…?」


言えば昴は自覚がないのか、私を見て大きく目を見開いて、そんな変な声を小さく1度だけ、零した。


明けても暮れてもバドミントン、寝ても醒めてもバドミントン。なんて、いつか謙が言っていたっけ。そこに倣うなら、今の私は明けても暮れても園芸、それだ。明日も明後日もその先も。夏休みのほとんどは本当、植えた野菜や花の世話。ついでに校庭全体の雑草抜き。真夏の炎天下、日焼け対策はもちろんばっちりだけど、それでも肌に当たる陽の光は、熱い。そのうち熱中症で誰か倒れるんじゃない?日を追う事にそう感じてきた。でもそれが自分かも、なんて、不測の事態に備えはすれど、変に恐れたり自信をなくしたりはしない。目に見えない人間の気持ちまで負けたら、この暑さに何か、本当に殺られそうで。はぁ、頑張ろ。今日も朝から野菜と花と雑草と。でも夏休みも半ばに入ってくれば、少し私はこの過酷な園芸部の活動に、慣れてきていた。



「りっちゃんは本当頑張り屋さんね~!」


部活終わり。部室で木藤先輩から、感心したような笑顔でそう、声をかけられる。


「ありがとうございます」


それに私はほぼ適当。素っ気なくそう返しつつ、手早く帰宅の準備を終えた。さて、帰ろ。疲れたし、今日も暑かったし、後は何もしたくない。思うのに。


「ね、ね。この後私と昴と、カフェでも寄ってかない?」


そう誘われて、思わず木藤先輩の前からさっさと去ろうとした自分の足を、私は止める。自分より目上の人から誘われては、さすがの私もまあ、余程嫌じゃなければ一応付き合いっていうのもする…いや、しなくちゃいけないなって思っているし。私は木藤先輩の方を振り返ると、短く「わかりました」とだけ頷いた。


何で俺まで。そんな不満は一応、この後輩の前ではしまっておいてやる。「何でも頼んでいいのよ!奢るから」。木藤が気前よくそう言って、作間へと手渡したメニュー表。図々しく何を頼むのかと思えば、作間が頼んだのはアイスココアのひとつだけ。「あら、それだけでいいの?」。ほんとだよ。それには俺も同意する。もちろん、心の中だけでだが。せっかく他人の奢りなら、もっとずかずかと値の高いものや、好きなものを頼めばいいのに。何故安価なアイスココア。最早怪訝にすら思う俺、ではなく作間はあくまで自分に聞いた木藤へと、応える。


「ココア、好きなので」


ああ、そんな安い上に甘ったるいものが好きなんだ?少なくとも俺達が入ったこのカフェのメニューの中で、作間が頼んだアイスココアは、一番安価なオレンジジュースの次くらいに安い。その程度の値段。1年のくせに、「奢る」と言った木藤へと気を回したのか。それとも本当に作間はココアが好きなのか。変に深読みする俺を前に、2人の話は続いていく。


「そうだったのね!美味しいものね、ココアって」


「はい」


「でも、他にもケーキとかあるわよ?いいの?」


「大丈夫です」


にしたってずっと思っていることだが、作間というのは愛想がない。周りから「怖い」と言われる俺に、そう思われているのも中々可哀想な話だが、本当に無。普段の表情が無。騒がしい木藤に色々と話しかけられても、というかそもそも木藤という、言ってしまえば様々な意味で異質な存在と共にいても、気に入られてもまるで無。だから作間も作間で、変なやつ。普通、木藤という存在をここまでの早さで受け入れることができたやつは、いない。これまでに1人も見たことがない。なのに作間は当たり前のように、木藤を受け入れている。何にも恐れず、まるで変な目で見ず。ただ、自分の横を通り過ぎていく大多数のうちの1人と同じように、木藤の異質さになんてまるで気がついていないように。いつか木藤は言っていた。「街を歩いても、私は”すれ違いざまのどうでもいい誰か”にはなれない」と。その言葉は俺には難しくて、最初から木藤という存在を知っている俺には、よくわからなくて。でも作間が俺と木藤の2人の前に現れてから、何かわかった気がする。楽しげ…なのは木藤だけか。作間は変わらずの無表情で、木藤に聞かれたこと、話しかけられたことに応えているだけ。そんな2人の様子を見ながら、思う。園芸部の中に、木藤を明らかに嫌ったり、差別したりするやつはいない。でも皆が木藤へと向ける目、視線。そういったものはいつもいつだって、少し変わっている。他の”普通”の人達に向けられるそれとは、少し、そして大きく。だけど作間は違う。そもそもこいつの中に、男女という性別の概念があるのか。それさえ、俺が傍から見ている限りにはわからないくらいに、作間は木藤に限らず部の誰のことも、特別視しない。良くも悪くも。だから作間の周りには無理せずとも人が集まるし、同じくらいそういう目で見られるし、同じほど妬まれ、恨まれる。もう、入部から3週間近くか。作間という人間をひたすら見て、俺はそう思った。ていうかこれを、木藤には謎に「りっちゃんを心配してる」だの言われたが、決して。


「じゃーショートケーキいきましょ!どーせ昴の奢りだもの」


「はあ?!」


そこまで考えて、木藤が作間へと笑顔で言い放ったそれに、俺は思考がようやく遮られて、つい声を荒らげる。それに、作間は軽く微笑んで、頷いた。


「いいですね」


良くねぇよ。勝手に決めつけんな。くそ、ちょっとは周りへと気を回せるやつかと思ったのに、訂正。木藤と揃うと多少は図々しい。けどまあ、どうせすぐめげるだろうと思っていた作間は、根性が一級品だな。少し前に、「どうせこんなやつ」なんて、内心でも思ってしまったそれの贖罪。作間の分は出してやる。決めて口を開けば、しかし仲間外れにされた木藤が今度はぶうたれて。


「…仕方ねぇ、作間の分だけな」


「何で私は駄目なの?!」


誰がお前なんかに払うか。思う言葉は作間の前では、我慢。こいつは何か穢れがなさそうに見えるから、あんまり醜い腐れ縁同士のやり取りを見せるのは、気が引けていた。


りっちゃんは私からすればもう、妹のようで可愛かった。可愛くて、小柄で、頑張り屋さんなところはまるでシンデレラ。そういえば3年の、色恋にうるさい男子がはしゃいでたかしら。4月頃、「今年の1年には美人な子と可愛い子がいる!」って、それはもう鼻の下伸ばして下心丸出しで。私としては、「超イケメン1年男子」の方が気になったのだけれど。昴は当然噂の女の子2人の方が気になったわよね?こいつは男だし。思って、りっちゃんと楽しくカフェで話し込み、別れて昴と2人になってしまった帰り道。退屈なそこに華を挿す。


「ねぇ、昴は1年の美人さんと可愛い子、どっちが好き?」


「どっちも嫌い」


「あら」


けれど、私が聞いたそれに昴はそっぽを向くと、雑にそう答えてしまう。「どっちも嫌い」って、すごい嘘。だって昴はさっきのカフェ、言った通りに本当に奢ってしまった。りっちゃんの飲食代だけを、私の分は「別会計で」と素早く店員に伝えて、まるでその辺に投げ捨てるかのようにして。あんまりな嘘に零れた私の「あら」は、ちょっと気がないようでいて、きっと昴は気づいている。腐れ縁って嫌ね。つまらなさすぎる私達の縁は、りっちゃんの降臨で最近は何か、逆行していた。


ピアノのコンクール。地区大会は今年も突破できたから、次に来るブロック大会に向けて、私は課題曲の練習に取り組む。今年のブロック大会、東京は10月終わり頃に行われる。課題曲は、私はハイドンのソナタを選んだ。というより、私は昔からハイドンの楽曲ばかりを弾いてきていて、これが得意分野。だから。ちょっと話は逸れるけど、ハイドンさんはいい人。私の中ではそんな認識。ハイドンという人物を理解したくて、子供の頃色々と本を読み漁ったけれど、彼の話は様々。悪いところもあれば、良いところもあり、どれがどれなのか?虚実、正解は結局わからないままだった。だけど総評して私は思う。ちょっとりっちゃんみたいな人。頑固なのに周りを大事にする、そんなエピソードを見たことがあって、そこから私のハイドンさんへのイメージは、”ちょっとりっちゃん”。もしくはりっちゃんが”ちょっとハイドンさん”?思うと楽しくて、ハイドンさんの弾き方は守りつつ、防音性の高いこの部屋へと満ちる音は、跳ねる。グランドピアノから飛び出た音は跳ねて、壁にぶつかり、遊ぶようにしていく。あ、駄目だ。こんな音じゃあ、コンクールは勝ち抜けないな。遊ぶ音と、私。それは少し今だけにして、もう3分これを楽しんだら、そろそろ真面目に練習しないと。つい楽しくなると、跳ねてしまう私の音は、いつもこんな調子。違う世界を、創り出してしまう。いつかりっちゃんに、「いっそピアニストじゃなくて、作曲家になればいいのに」なんて言われたけれど、そんなの。…夢のまた夢、だよね。「弾き方が違う」。それで毎年、全国大会に行けても、肝心のコンクール優勝を逃してしまう私には、りっちゃんが見せてくれたその世界は、到底無理そうなもの、だった。


夏休み、といってもやることは普段と変わらない。とにかく読書。俺はそればかりで。家にはもう、それは蔵書が溢れ返り、母や姉からは「こんなにどうすんの」と、聳え立つ多くの本棚を見上げ、呆れられる日々。それでも、これじゃあ足りない。過去を遡り、それでも今が進んで行く。どれだけの時間があっても、これまでに綴られた本の全てと、これから生まれてくる本の全てを、俺はきっと読むことができない。それでも。手にした先、小さな中身は広くて知らない世界だ。いつかの誰かが体験し、どこかの誰かが「こうだったら」と見た、世界。今日も、俺は昨日とはまた違う図書館へと足を運び、そこでその世界を覗き見ては、暗くなる頃に帰る。自宅の最寄り駅、いつものそこ。少し前まで、自分が通っていた中学の最寄りでもあるそこで、俺は。


「おっ!」


偶然にも、聞き慣れた声を耳にした。声、というよりもほぼ音。たった1音のそれは、でもどこから。この声の彼女は、よく探さないと見つけられる自信がない。正直、失礼だけれど。目の前で口にしたら確実に怒られるな。思いながら俺は、普段の自分よりも下へとこの目線を落として、その人を探す。けれど少し人の多いこの時間。見つけられる自信はなくたって、彼女のその特徴的な紺藍の髪はよく目立つから、結果すぐに見つかった。


「律」


呼べば、律は軽く駆け足で俺の元へと来る。久しぶりに会うな。確か、今年のホワイトデー以来?文太の前で少し気が引けつつも、律からバレンタインに貰ったそれを返した、あの時以来。そんな気がして少し考える俺に律は、変わらない様子で応えた。


「久しぶり、元気?」


聞かれて見やった律の髪、左側。見慣れない白い花の髪留めが控えめに飾られていて、つい自分の目がいく。「ああ、元気だよ」。応えつつ、誰から貰ったんだろう?律がこういったアクセサリーを、自ら買うとは思えなくて。律は、小学生の頃から何かにつけて、身軽さや利便性を物に求めがちだから。なんて言ったらこれも怒られるかな。色々と頭を回す俺には気がつかずに、律は言った。


「何かの、帰り?」


変わらない無表情で聞かれるそれは、けれど決して律が無表情なわけじゃあない。律は、これが普通。つまり通常運転。いつでもにこにこと愛想が良いのは律じゃない、それは文太や楓の方だ。…ああ、それでも文太は腹黒いからな…。何か余計なことを思い出して、それで。


「そう、図書館の帰り。律は?」


「園芸の帰り」


「えっ」


何気なく聞いたことに、さらっと「園芸の帰り」と返されて、俺は驚く。園芸?どうして。最近はメッセージのやりとりはすれど、通話はしていなかったから、その間に律に何かあった?不思議と心配になって、けれどそんな俺へと、律は続ける。


「部活始めたの、園芸部。体力作りにも丁度いいし、植物とかにも癒されるし。…虫は…嫌だけど」


体力作り。癒しと虫は置いておいて、体力作り。そんな、昔から運動が苦手で大嫌い。とにかく無駄に体を動かすことは、できれば避けたい律が、自ら部活を?それも、園芸部なんて名前だけ穏やかで、活動内容は恐らくハードなはず。その様は容易に想像ができる。またどうして。ああでも、ちょっと前に謙から、「あいつハイキング行って死んで帰ってきたらしい」と、電話で聞いたっけ。もしやそれがきっかけ?本当律って、向こう見ずかと思えば、時にこうして論理的で建設的なところがあるな。堅実、というか。だから、面白いのだけれど。でもまさか、ハイキングで自分が体力的に死にかけたからって、園芸部に入ろうなんて。本当発想が可笑しくて、俺はつい、笑ってしまう。


「は?何?」


口元に軽く右の拳をやって笑う。そんな俺を見て律は、目をきょとんと丸くさせていた。


駅近く。ホワイトデーに吉野先輩から、私が贈ったバレンタインのお返しを頂いたそのカフェ。こんな時間だけれど、吉野先輩が今日いらっしゃらないかと、私は淡い期待を抱いて、そのブックカフェを目指す。私の家からそこに行くには、夕暮れの柔らかな空気を抱くこの駅前を、少し通り過ぎるからそうしようとして、でも。歌が、聴こえて私はその場に足を止める。正確には、止めると言うよりこの場に私の足が、釘で打ち付けられたように勝手に、止まった。何故?有り得ない。自然と振り返るその先。ストリートライブなら、色んな人がこの駅前でよく、日が暮れ出すとやっている。誰もが無名。私が知る声なんて、そこにはあるはずがない。なのにこの時に聴こえたのは、いつも私が1番耳を澄まして、集中して探るあの声。吉野先輩。見れば確かに道行く知らぬ何人かに囲まれて、ベースか、ギターか。それを手に少し仕方がなさそうな様子で歌うのは、吉野先輩。いつも静かな吉野先輩が、誰の歌だろう?本にしかまるで興味がなく、他のことには無頓着に生きてきた自分が今だけは、酷く悔しい。なのに、とても吉野先輩のイメージによく合った歌を、歌っている。先輩、歌、こんなにお上手だったんだ。その後ろで楽器を演奏するのは、私や吉野先輩よりずっと大人の男の人達。吉野先輩は何か、巻き込まれたのかな。彼らにはやし立てられながら、それでも自分の世界をひとつも崩さない。先輩の弾く、私にはギターなのかベースなのかもわからない、見分けがつかないその音、でもわかる。上手いこと、後ろの大人達と合っている。後悔した。引き寄せられて昇華し、一気に地へと落とされた。私は吉野先輩に会える、その可能性にすがり、先輩を求めてあのブックカフェへと向かったのに。いつか先輩が、「よく来る」と言ったそこへと向かったのに。現実はこうだ。私はその手前で、自分の知らない吉野先輩の姿を目にし、声を聴いて、尚更。こんな、こんなこれじゃあ、私は尚更、吉野先輩という人を言葉にすることができない。静寂ばかりだと思っていたその人が、それを打ち破るその瞬間を、見てしまったのだから。聴いてしまえばもう、吉野先輩はただの”夜のような”ではなくて。何て言ったらいいの。世界中のありとあらゆる本を、今すぐ冒頭から巻末まで、全て全てひっくり返すように読み漁りたい。どこに、吉野先輩という1人の人を、現すことの出来る素晴らしい言葉は、ありますか。今の私の世界にそれは見つからない。この先の私の生涯に、それは落ちているのか。このまま吉野先輩の歌を聴いていたい。貴重なそれを、この空間を体感していたいのに、逃げたい。多大な矛盾。それに私は結局、ここから走って逃げることを選んだ。



「へへ、いいじゃん」


終わって律が言う。まさか律と立ち話をしている最中、「俺達に足りないのは君のような落ち着きだと思うんだ!」と謎に声をかけられ、「これからストリートライブをするから、代わりに歌って欲しい」と頼まれるとは。さすがに断りつつ、けれど律が俺を後ろから、「歌ってくればいいじゃん。宙、昔から歌上手いんだし」と言うんだから、それを聞いた御相手の方達はもう。「上手いんならぜひ!何だっていいよ、知ってるやつで…あー、できれば僕らが弾けるやつで!ついでに君も弾いて!」。そうして強引に渡されたのはベース。弾けないことはない。とはいえ皆さんのようには上手くもない、趣味程度だから。それでも何とか1曲を終えれば、俺へと最初に声をかけてきたその人は、興奮気味に言う。


「よかったよ!僕らだけじゃあいつも、何歌っても、誰も足を止めてくれないのに」


言われてそういえば、確かに何人かが、先程まで歌う俺の前で足を止めてくれていたような…。あんまり、よく覚えていない。歌っている間は、この歌詞が好きだなとか、そこにどんな意味があるかとか、そんなことばかり考えてしまっていたから。手元のベースの音が転けないよう気にかけても、俺はあとの周りなんて何も目に入っていなかったかも。それに少し反省して、けれど彼は俺へと、どこか晴れやかな笑顔を向ける。


「いっそアーティスト目指しちゃえばいいのに!」


真っ直ぐ放たれたその言葉に、つい面食らう。…そう、言われても。返し方がわからず、僅かに悩んだ俺に変わるように、律が彼へと言葉を返した。


「でしょ。なのに宙ってば、本ばっかなんだから」


「もったいない」。もったいない、のか?俺の生き方は。自覚がなかった。考えもしなかったその可能性を、不意に目の前に提示されて、俺は黙ったまま律を見てしまう。律はそんな俺に気がつくと、くるくると立てた人差し指を回して言った。


「頭回しすぎじゃない?」


「…そう、かな」


考えすぎてるのか。それこそ、考える天才の律には言われたくないな。思う俺に律は笑う、悪戯っぽく。


「チョコチップマフィンあげようか?」


「有難いかも」


律の作るそれは美味しい。だから俺は素直に、これにだけはそう、言葉を返した。

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