怖いハイキング
入学早々行われるのは多分どこも同じ、宿泊研修だ。名称は宿泊学習だの、いくつかあるだろうが、にしたって何でこいつと同じ。
「よろしく、作間さん」
宍戸陽真。あんまり嫌なイメージを受けたものだから、ばっちり覚えてる。それこそ、最近やっと覚えてきた早川さんなんかより、ずっと。印象って、悪くても良くても強烈ならば何でも、残るんだ。知らなかったそれに何か感心しながら、私は宍戸のにこやかな挨拶には顔も向けない。
「そ」
その一言、むしろ一音だけで、後は何も。それを見て、同じ班となった男子が言う。
「めっちゃ振られてんじゃん、宍戸。ここまでのイケメンでも厳しいの」
何が?何かよくわかんないけど、ちらりと盗み見た宍戸は何か困ったような笑みを、私の隣で浮かべていた。
「私、作間さんの隣がいい!」
バスの座席順決め。好きにしていいと担任から言われたそれは、何かよくわかんない展開になる。
「えー、私も作間さんの隣がいいなあっ」
同じ班の女子2人は、何故か私の隣を賭けて言い争っていた。何、私の隣なら何も話さなくていいから、楽だって?まあ、そりゃそうか。私この子達の名前すら、知らないし。顔も多分まだ、きちんと覚えていない。この校内の廊下で2人のどちらかとすれ違い、声をかけられたところで、私はどちらのこともわからないだろう。それくらいの自信がある。つまりそれくらい、私からすれば2人はどうでもいい存在。なのに。
「まあここは平等に、みんなでじゃんけんで!」
班の中でも仕切りの上手い男子がそう言うと、女子2人は変に意気込んで。みんな、とはつまり班員全員での意味だから、男子3人女子3人、計6人みんなでじゃんけんしていって、勝ち抜けたやつから好きな席をとる。とはいえ6人でやると中々その道のりは長いから、とりあえず男子と女子のそれぞれに分かれた。女子3人でのじゃんけん1戦目。上手いこと1人が勝ち抜いて、こんな面倒なことさっさと終わればいい。思う私が出したのはグー。適当なそれに対して、2人は仲良くチョキ。
「負けた~!」
そんな残念な声出したって、勝ち抜けで自分の好きな席を選べるこのじゃんけんは、正直負け残った方がまだ良くない?最初の座席表はまっさら。つまり、最初に勝ったやつは自分の好きな席は選べても、その隣に座る好きな相手は選べないんだ。どこでもいいわ。だから私は1番前窓側を適当にとる。まるでオセロみたいに。後は興味がないから、みんなが終わるまで私は自分の席につき、適当に待っていた。
「よし、じゃあこれでいいな?」
そのうちさっきの、みんなにじゃんけんを提案したやつがそう言い、それぞれの名前で埋まった座席表を手に、席につく。みんなもそれぞれ自分の席について、どうなったかなと何となく覗き込んだ、座席表。木村、桃井、矢谷、日野。あー、この班の人達の苗字ってこんなだったの?全然誰が誰だかわからない。でも唯一わかる宍戸は、私の隣じゃなかった。やった、ラッキー。そう思ってでも、私の隣に綺麗な字で書いてある、日野とは誰。私の”作間”が私の直筆なように、これはその日野の直筆だから、こんなに綺麗な文字ってことは女子か?女子にしても、どっちの子だろう。思わず女子2人を見つめて考えたけれど、正解はわからず。そうこうする間にやつは言った。
「…まあ、不満はしまっといて、な?」
困ったように、人が良さそうに。面倒見の良いその感じを見て、私はふと思い出す。あ、この仕切るの上手い男子、そういえば班長だ。すっかり忘れていたそんなことを、ぽっと、不意に。
で、日野って誰なのよ。
「いや知るか、俺に聞くな」
恒例、バドミントン馬鹿謙との夜の暇電の時に、今日あったことを話し、「日野って誰」と聞けばこの返し。反応が当然すぎてつまんねぇよ。思うけどそういや、謙んとこは宿泊研修どこ行くのかな。気になって、私は謙へと聞いてみる。
「で?謙んとこはどこ行くの?宿泊研修」
そうすれば、謙はその行き先を思い出しているのか、だいぶ長い唸り声を出した後。
「…ん~~~…え~~…どっかの……山?」
「どこのだよ」
そう言うんだから、私は思わず据わった目つきでそうつっこんだ。そうすると今度は、反対に私が謙から聞かれて、けれど。
「そういうお前はどこ行くんだよ」
「どっかの高原」
「どこのだよ!」
ほぼ同じ返しをしたから、謙がそれに思い切りつっこむのは無理もなかった。
「お土産、楽しみにしてます!」なんて無邪気なメッセージに、私は1人、自室でふふっと笑いを零す。お土産って。そんなのあるかなあ。私ですらわからない未来のそれに、もうすっかり可笑しくて。ホワイトデーに、私へと告白をしてくれた橘陸人くん。かつて私が通っていた中学校に、今2年生として通う彼とは、あれ以来まめに連絡を取りあっては、出かけてもいた。行き先は色々。ショッピングだったり、カフェだったり、陸人くんの好きなバスケだったり。本当色々を巡って、日々、お互いくだらないことをメッセージで飛ばし合って。こういうのって、何かいいなあ。恋人みたいで。付き合った経験はあれど、らしいことや、きちんとのそれなんてまるで未経験の私は、夢を見る。陸人くんの彼女になれる子は、幸せだろうな。約束の3ヶ月。迫るそれに私は、どう応えるんだろうか。どう答えをだすんだろうか。わからないけど。…けど。言いようのない感じ。これまで勉強ばかりだったからかな、上手く言葉が見つからないや。こういう時りっちゃんだったら、この気持ちをどうするんだろう?何だと感じて、何だと捉えて、どう踏み出すかな。りっちゃんは文太くんに「好き」と言われた時、何を思ったんだろう。目を閉じて考えてみても、私にはりっちゃんの恋愛観は、わからなかった。
「今日は~、美久おねーちゃんの特性カレーですっ!」
「市販のルウじゃん」
「わあ、そういうこと言う!」
「りつのいじわる!」。正論を言えばぶりぶりと怒ってみせる姉の美久と、遅めの夕飯をとる。「ごめーん!今日急にめっちゃ残業だから、美久にカレーでも作らせてー!」とのメッセージが母から私へと来ていて、姉妹2人で慌てて夕飯支度をすれば、時刻は21時。まあすっかり遅い。でも。
「たまには律の作るご飯も食べたいなあ」
素直に言う美久に、私はさっと言葉を返す。
「今度の日曜日ね」
「やった!」
今年の4月。そこからうちは、母が昼間に普通に働きに出て、同じくどんな仕事だったかは忘れたけれど、正社員を上手いこと勝ち取った姉の美久が、母と分担して仕事と料理を両立。残る家事、洗濯やら掃除やらは憎まれっ子世に憚る。全く元気なばあちゃんが、それはもうぶつくさと日常への文句という呪文を唱えながら、元気にこなし。残る私は。「律は、8年ぶりの子供楽しんで!」と、家事もバイトも基本全てを、みんなから禁止されている。意味わかんないけど、でもわかってる。これが母達の、8年分の罪滅ぼしだってことに。私がその罪滅ぼしを黙って受け取ることが、母や祖母、姉の心の傷を癒すことに、唯一繋がっていることにも。
で結局日野って誰だ?思いつつ、翌日もやっぱり答えは出ない。宿泊研修の班員全員の顔は覚えた。でも名前がな。まさか、「あんた誰だっけ?」て聞くわけにもいかないし。さすがの私もそれはさすがにちょっと、気が引けるし。あー、でもこのままじゃあ、宿泊研修当日まで、バスにおける私の隣の席の、日野とやらが誰なのかはまるで、迷宮入り。…聞いてみるか?とりあえずあの、同じ班の女子2人にでも。同性ならまだ何か、聞きやすいし。思って最初に声をかけてみたのは、何かぽやーってしてて、無垢な感じのするセミロングの髪の女の子。
「ねぇ」
「わあ、作間さんだあっ」
声をかければその子は何か喜んで、私を見て無邪気に笑う。梨々花とはちょっと違う無邪気さ。まるで穢れのないこの感じは、何か私には眩しい。彼女は私へと「どうしたの?」と、可愛く小首を傾げながら聞くから、あざといってこういうことかと、私は変に思った。
「いやその、宿泊研修の班員の名前覚えられなくてさ。誰が誰だかわかる?特に日野ってやつ」
あざとさについて考えながら素直にそう聞けば、その子は「ああ!」と納得したように声を上げる。感情のまま、表情をころころと変えながら。そうして彼女は教えてくれた、日野とやらの正体を。
「日野くんはほら、班長の子だよ!宍戸くんのお友達のー」
「は?あー…」
だけど彼女が発した「宍戸」の名前に私は、一瞬機嫌の悪い声を発して。慌てて「あー」と濁したけれど、何か変な風に思われたかな。けど目の前の彼女は良くも悪くも鈍いみたい。そんな私には気づかず、続ける。
「それで、矢谷くんがちょっとおちゃらけた感じの眼鏡かけた男の子で」
あー、いた、ような?何か、宍戸に絡んでたやつ?のような?何かそう、1人でもうるさいやつ…だっけ。あってるか、これ…。私の頭の中に浮かぶ矢谷と、彼女の言う矢谷があってるかと考え込む私に、彼女は丁寧に先を説明をしてくれる。
「宍戸くんはわかるよね?明るい茶髪のかっこいい人!それで、木村さんはほら、もう1人の女の子で、副班で…だから、桃井は私です~」
「ああ」
それに何か納得した。確かにこの子、桃っぽい。果物の方じゃなくて、ピンク。桃色が似合う雰囲気、してる。ていうかこの桃井さんとやらは、ちょっと丸顔で小柄で雰囲気柔らかくて可愛い。…もちろん私より背が高いのは、言うまでもないけれど。なるほどね、確か宍戸と矢谷が隣で、桃井さんと木村さんが隣だった。昨日見た座席表、私の記憶が正しいなら席順はそれのはず。私と日野の後ろは宍戸と矢谷で、その後ろが…てか待って。そもそも桃井さんと木村さんは、最初私の隣が楽だって、それで私の隣を狙ってなかった?何がどうしてこんな変な組み合わせになったの。座席が全て決まるまでのみんなのやりとりを、何も見ていなかった私のせいだと思いつつ、私は自分の頭の中が混乱してくる。とはいえ名前、なんてそんな失礼なことを聞いた上に、「あんた私の隣がいいって言ってなかった?」なんて。
「ええと、ありがと」
言えるわけがない。何も聞けやしない。それはどこの万理華だ。あの子だったら絶対聞いてるであろうそれは、でも私は私だから無理。さすがに無理。短く礼を述べた私に桃井さんは、「いーえ!」と、また明るく可愛い笑顔で応えた。
そもそも名前、を聞いたというよりかは、苗字を聞いただけに過ぎず。桃井…何て言うんだろう、あの子。何かちょっと無垢さが私には眩しいけれど、仲良く出来そうだななんて、珍しく思えたその子の名前。苗字は判明してもそっちは未だわからず、謎がひとつ解決してまた新たな、謎を呼ぶ。それに、矢谷や木村さん、バスでの隣の席の日野の名前も謎のままだ。フルネームでわかるのなんて、宍戸陽真、そいつだけ。…あー、みんなの苗字と名前、知ってる限り両方教えてって言えばよかった。もう何か、桃井さんにはもちろん、まだ何も聞いていない木村さんにさえ、聞きに行くのが面倒くさい。そんな私に今日もこの人は絡んでくる。
「律子さん、何か悩んでらっしゃいます?」
「悩んでない…」
ようやく私の中で顔見知りにまで昇格したかなっていう間柄の、早川さんが。私はそれに、面倒とだるさを隠せないまま、嘘を答えた。
「宿泊研修楽しみだねー!」
「楓ちゃんと同じ班がよかった!」
「ほんとだよねー」
宿泊研修を前にする頃には、クラスの女の子の全員と、私はお友達になれた。と、私は思っている。向こうからしたら、私なんてただの知り合いかもしれないけれど、私からすればみんなはもうお友達。それは相手を盲信するわけじゃなく、ただ「他人」なんて冷たい言葉を使いたくない、自己満足に近いもので。だけど、ましかな。「きっとみんなは本当の私を知らない、見ていない」と、塞ぎ込んで、何も見えなくなっていた頃に比べれば、全く。少なくとも今の私はみんなと無理な友達付き合いはしていない。はりぼても、過剰な気遣いもない。とはいえやっぱり、自分が相手に都合よく利用されているそれも、この高校でだって当然にある。それでも。
「あーねぇ楓、勉強教えてー」
「うんっ、いいよ?」
騙される側、傷つく側でいいから、私はもう誰かに、意地悪な気持ちを抱いたりなんてしたくないんだ、
よーく見れば高原じゃなかった。私も謙が通う高校と同じで、その行先は山だった。一ノ倉沢、そこをハイキングだって。え、死ぬ無理。てか私は余程興味がないんだな、今回の宿泊研修。まあ、楓と一緒に行動ができるわけじゃなければ、班にはまさかの宍戸陽真。最悪、と言えば最悪。文太はどこ行くんだろ?落ち込む気を紛らわせたくて、その夜、自ら文太に電話をかけてみれば、文太はきちんと出てくれて、教えてくれる。
「利根川のラフティングだって!」
「ラフティング?何それ?」
けれどアウトドアにはさっぱりな私がそう聞けば、さすがは文太。いつもの通話相手の謙とは違って、嫌な反応のひとつも見せない。
「あ、ほら、川下りだよ、川下り!」
「あー!……死にそう」
へぇ、山でハイキングより楽しそうじゃん。と思ったのも束の間、すぐに自分がそれをやるところを想像して、私の声音は地へと落ちる。やるのは文太なのにね。何か想像しちゃって。最早地どころか、私の声音はその利根川の水の中に沈んだかもしれない。明らかに落ちた私の声に、文太はくすくすと笑う。
「大丈夫、律のことは俺がちゃんと支えてあげるから」
いや私はそっち行かないって。思いつつやっぱちょっと、文太からのその言葉は嬉しかった。…僅かな恥ずかしさとともに。
あっという間に宿泊研修のその日は来て、行きのバスに私は乗り込む。窓側にして正解。ぼーっと外を眺めてればそのうちつくでしょ。いつも学校につけて行っている、文太がくれたあの髪留めは今日明日は、お休み。家で留守番。大事なものだし、一ノ倉沢なんて場所で私の人生初のコームの自殺を見たくない。それに。私が、自分が贈った髪留めをしてることに気がついた時の文太の、嬉しそうな顔。「わあ、律可愛い~」の声。忘れられないから、忘れたくないから。ずっと何かの形にしておきたくて、私のあのコームへの愛着は以降、より増した。はぁ。だからこそ自分の髪に、文太がくれたいつものコームがない。それだけで、私は何か寂しくなる。心細さ、というのか。それにぼーっと黄昏ていると、隣に座った日野が不意に話しかけてきて。
「はい」
はい?それだけ言われて振り向けば、差し出されていたのは小さなチョコレート。いや、え?戸惑って声も出ず、日野の顔と差し出されたお菓子を交互に見て、目を丸くする私に日野は笑顔で言う。
「何か黄昏てたから」
嘘、そんなモロバレなレベルで私今、黄昏てた?てーかお菓子で釣るって、あんた怪しいおっさん?でも笑ったその顔が子供どころか少年みたいで、さり気ないその気遣いにも何か好感が持てて、私はそれを受け取る。
「子供じゃないんだけど」
謙達にするみたいに、可愛くない笑い方をしながら。
「女の子達2人には悪いことしたなあ」
七海がそう、嘆くように呟く。
「ごめんね、やな役やらせたかな」
だからつい、そう謝れば、けれどさすがは七海。嫌な雰囲気などまるで見せずに、らしい顔で彼は笑った。
「え?全然!俺も作間さんと仲良くなれて一石二鳥だし!」
「え?」
だけどその言葉につい、俺は真面目に反応してしまう。驚いて、変な声を上げれば七海は笑って、「嘘だよ!」と告げた。嘘か、何だ。それに安心して、でも。
「でも鳳明のイケメンだっけ?それは確かに噂だと作間さんの彼氏らしいし、何かちょっと悪いことしてる気分だよな」
そう。あの時見かけた栗色の髪の、笑顔に愛嬌のある朗らかな男。あいつにはやはりちょっと、罪悪感が否めなかった。俺だったら、嫌だ。自分の彼女が、意味は違えど何か他の男から目をつけられてる、と知ったら。でも。それでも、長い付き合いのある七海にさえ全てを打ち明けて、情けなく頼っても、俺は作間さんへと近づきたい。何も言えず俯く俺に、七海は言う。
「あーあと、俺への期待は程々にな」
困ったような苦笑で、俺を気遣って。
作間さん、って、意外とよく話すんだな。あんまりバスの外を見ては、何か考えているようだったから、チョコレート片手に話しかけてみれば、彼女は少し意地の悪い笑みを浮かべてそれでも、俺からそのチョコを受け取る。何か、子供みたいで可愛い。「子供じゃない」と本人から言われた直後にもう、俺は作間さんへとそう思う。「遠慮なくどうぞ」と笑って言えば、作間さんは「遠慮なんかしないし」と、普段陽真に見せる尖った冷たい態度とはまるで違って、気なんてまるで遣わず、張ってもいない様子で、俺から貰ったチョコを口にし、言う。
「これ甘すぎ。あんた砂糖摂りすぎてんじゃない?」
「へ?」
そんなこと言われたのは初で。それもまさか、自分があげたものに、ストレートに文句を言われるのは初めてのことで、俺は素っ頓狂な声を上げる。あ、へ?甘すぎ…?え?うーん…いや、そんな、普通の市販のチョコレートだと思うんだけど、それ?言われて真面目に考えたが、どう考えたって作間さんが今口にしたのは、その辺のスーパーとかで売ってるような、日本製のチョコレート。慣れない味ってわけでもないはずなのに。ああきっと、作間さんの味覚が繊細なんだ。そういうことにして、俺はとりあえずこの場は、謝っておく。
「ああ、ええと、ごめん」
苦笑を浮かべながらそう言う俺に、作間さんはまた軽く意地の悪い笑みをして、言った。
「これなら、私の作るチョコチップマフィンの方が美味しいわ」
チョコチップマフィン。それ。その単語に俺はつい一瞬、固まる。固まってしまう。陽真がいつか、作間さんから受け取り、しかし口にはできなかったというそれは。
「…作間さんお菓子作るの?すごいな」
「まあ。1人で一からデコレーションケーキ作る男には負けるけど」
遠い陽真の忘れ物。それを思えば、「1人で一からデコレーションケーキを作る男」なんていうパワーワードも、俺の中では霞んでしまった。
空気読まないのが矢谷。バスの出発早々、後ろからちょっかいを出される。
「なあーっ、俺と席交換しないっ?」
「しない」
無邪気そうに元気よく聞いたって、駄目だ。走行中は、そもそも席から立ってはいけません。ていうか、途中での席交換はなしって、両者の合意があっても絶対なしだって、この班独自のルールで決めただろう。だから呆れつつそう返せば、矢谷は俺のすぐ後ろの席でぶうたれているのか、「ええ~」と声を漏らす。そんな俺と矢谷のやり取りを見て、作間さんは俺へと聞いた。
「誰だっけ、こいつ」
「あっ、矢谷賢也です、賢也!」
名前で呼んで欲しいのだろう。”賢也”を強調する矢谷に対し、作間さんは。
「あっそ」
すっごいあっさり。反応が素っ気なさすぎて、何か俺まで心が冷えてくる。振られた気分になってくる。作間さんはこの時矢谷の方に顔さえ向けず、また過ぎ行く窓の外を眺めていた。何か、凄まじい反応の差だな…。「ほら矢谷、ちゃんと座って」。「やだ~!」。まるで保護者とその子供のような、陽真と矢谷のやりとりをすぐ後ろに耳にしながら、俺は思う。作間さんって好き嫌いはっきりしてるなあって。まあ、こんだけ可愛ければ、無理して人付き合いをしなくても、常に誰かが寄ってくる…のか?男女問わず。作間さんといえば、7組の宮寺さんとは違って、「可愛い」と愛されるその人。対して宮寺さんは「美人」だと、高嶺の花だ。可愛い子や美人って大変なんだな。何か、そう思った。
「そういえば、あんた名前何て言うの?」
「へ?」
「だから、名前。日野…何」
ぼんやりと作間さんや、姿すらあまり知りもしない宮寺さんのことを考えていると、不意に作間さんからそう話しかけられる。唐突なことに驚いて聞き返した俺に、作間さんは無表情でそう、もう一度聞いた。名前。…お、覚えてなかったんだ。むしろ知らない?作間さんって見る限り、周りに無関心そうだし、同じ班でもまあ、そんなことも有り得るのか…。あまりに周りへの関心が無さすぎる作間さんに、内心で密かに驚きつつ、俺は笑顔で自己紹介を返す。
「七海だよ、日野七海」
「へぇ、可愛い名前」
言えば素直な評価をされて、可愛いか?と俺はちょっと苦笑いを浮かべた。可愛い、て言われても、別に嬉しくはないんだけど。まあでも昔から、「男なのに可愛い名前」とか、「女みたいな名前」とか、散々言われてきたし。慣れてる。少し、何か、自分の内に遠い気待ちを感じた時。
「何か、日野っぽいね」
「え、俺?」
よくわからない評価を、また素直に下されて、俺は驚く。七海という名前が俺っぽい。それはどういう意味なのだろう。考えても、不思議な作間さんのその不思議な思考は、よくわからなかった。
日野七海。うん、覚えた。多分悪いやつじゃない。むしろ適当に話しかけてみれば、どれもこれも好感が持てる返しが返ってくる。なのに、嘘をついているわけでもなく。きっと他人の立場になってものを考えて、よく言葉を選んでから発しているその感じは、私は好きだ。堅実かつ、なるべく多くの人が、より納得できる何かを見つけ出そうとするところも、わりと。これを「つまらない」とか「偽善」とか言えば、それまでなんだろうけど。こいつならまだ友達になれそうだな。日野と、それから桃井さん。宿泊研修の同じ班に、友達候補を2人見つけて、私はちょっと嬉しくなる。自分から誰かと仲良くなりたいと思えるのは、本当にあまりないことだから。我ながら、やっぱり嬉しかった。
あんま興味なかったから忘れてたけど、そういえば富岡製糸場の見学も含まれてたんだっけ、この宿泊研修。まず訪れたのがつまりその、富岡製糸場。目にして第一に思ったのが。
「わあ~、すごい!何だか可愛いお家みたい!」
そうそれ。可愛いかはともかく、私の隣に並び、富岡製糸場をちょっと口を開けて見上げる桃井さんが口にしたのと同じく、私の感想も「何か家っぽい」。ちょっとドールハウスとかにでもありそうな感じの、建物の見た目をしている。というかそもそもこれって何がすごいの?霊峰青海に入り、楓や文太の手を借りながら何とか勉強についていっているような、そんな馬鹿な私には残念なことに、さっぱりだ。
「作間さん、はぐれないようにね」
「大丈夫大丈夫!私がいるんだから~!」
謎に木村さんに心配され、桃井さんに馴れ馴れしく手を引かれ、私は自分にはその価値がよくわからない富岡製糸場の見学へと、足を踏み入れていく。面白い話は多分、聞けると思う。とはいえ矢谷がうるさいからな。今もまた何か騒いで、日野に「静かに」と注意されている矢谷を尻目に、私はちょっとだけこの先が思いやられた。
富岡製糸場は、口は悪く言ってしまえばただの見学だからいいけれど、その後の一ノ倉沢でのハイキングというのは、中々ハードだ。富岡製糸場を簡単に見学した後の、一ノ倉沢。俺はやっぱりつい彼女を、心配で見やってしまう。女の子の中でも、特に小柄な作間さん。そんな作間さんに、一ノ倉沢でのハイキングはとても、難しいように思えて。予想通り作間さんは、「もう無理、疲れた」と途中からつらそうな言葉を零し始めて、それでも桃井さんや木村さんの手を借りて、進んでいく。
「大丈夫かなあ、これ、中々ハードすぎないか?作間さんには」
作間さんの、その前向きに物事にしがみつく姿勢は良いのだけれど、やはりこのハイキングに対しては無理があるように思えたのは、俺だけじゃないらしい。俺の隣に並んだ七海がこっそりと、俺にそう声をかける。それに、俺を挟んで七海とは反対に並んだ矢谷は、下心丸出しで言った。
「へばったら俺が介抱を」
「殺すよ」
それには俺が即座にそう返す。矢谷というのは、作間さん好きを他に公言している。別に、好きなのは構わないと思うけれど、だけど下心丸出しに傷つけるなら、その時は俺が許さない。だから矢谷が全てを言い切る前に、俺がその言葉をへし折れば、矢谷は「何だよ」と軽く口を尖らせた。矢谷は戦力外だな。それを見て俺は、やっぱり矢谷なんて信用出来ないと思う。しょうがない。真面目に考えて、作間さんが疲れて歩けなくなったりでもしたら、七海に頼ろうか。俺は、やっぱり嫌われているみたいだし。だけど七海は違う。行きのバスの中、作間さんの声が聞こえた。何も気遣わず、警戒せず、隣の席の七海と話す、その声が俺には。
…う、死ぬ、無理…。
「作間さん、大丈夫?」
「駄目なら、先生呼ぼうか?」
「いや、いい…」
ハイキング。行きはよいよい帰りは怖い。本来の意味は違えど、北海道弁なら最早それ。まじ怖い。足痛いし、つら。何とか、何とか私の少し前を行く木村さんと、私に寄り添うようにしてくれる桃井さんと共に帰りのコースを行くけれど、私の体力切れはいよいよだった。あーもー…。やっぱ私、お子様?宿泊研修前日の夜、謙に電話で言われたことを、不意に思い出す。「お子様に高校生がやるハイキングコースなんて、無事にこなせるかなー」。意地悪く笑いながらされたからかいに、私は「できるし!」と返したけれど、できてない。現実、できなかった。くそ、謙に負けた…むしろこの一ノ倉沢に。思うと、腹が立ってくる。絶対自分の足で帰ってやる。意地でも。こんな私を知れば、謙はそこも「おーさすがお子ちゃま!」と言うだろう。くそ馬鹿見てろ。ここにはいない謙に、私は猛烈にイライラしながら、怖い道を行った。
陽真や俺の心配とは裏腹に、作間さんは何か、帰りの道の方が気合いが入っている…ように見えた。疲れた様子はあるのに、何だ?何か…怒ってる?かのような感じをさせて、作間さんは木村さん、桃井さんと共に俺達男3人の少し前を行く。か弱そうに見えるのに、食らいつくとこほんと食らいついて、漬物石並みに頑固なんだな。その背を見ていると、陽真が彼女を好きになる理由も何か、わかる気がした。
「作間さん、寝ちゃった」
「律子さんは本当、マイペースなお方ですね」
夜。昼とはまた違った宿泊班に別れて、食事や入浴などを終えれば律子さんはそこで、電池が切れたように眠ってしまわれた。掛布団も被らず、まるで死んだように眠る姿は最早遺体。本当にそれ、のようで。ふふ、可笑しいです。私にはまだまだ素っ気ない友人の、無防備な寝姿に私は思わず、笑みを漏らす。その時同じ班の女の子は、言った。
「作間さんって、モテるのに自然体だから、何かいいなー。気取ってないって感じで。私もこうなりたい」
ああ、それは確かに。例えば、同学年で有名な宮寺楓さん、は何か完璧が過ぎていて、まるで遠いアイドルやモデルさんのよう。そんな宮寺さんと比べれば律子さんは、本当に身近にいる、愛されキャラで。嘘をつかず、堂々と、1人すらも恐れないそれには確かに、私も憧れた。だけど。
「それ以上に、作間さんって努力家で、私はそこが素敵だと思います」
どうしてそんなに頑張れるのか。余裕そうに見えて、常に何か必死に、その目が違う場所を見ているのは何故なのか。私は律子さんを、今より少しでも多く知りたい。私は彼女の何かに惹かれて、関わるほど幸せを感じるから。とりあえず、布団、掛けて差し上げたいけれど、起きてしまったらどうしましょう。果てたように眠る律子さんを見て、少し悩む私に、同じ部屋のまた違う女の子が言う。
「努力とか、馬鹿馬鹿しい」
その言葉に、私は思わず心が冷えるけれど、律子さんならこう言うだろう。「あっそ」。素っ気なく、良いとも悪いとも言わず、ただそれだけをぽつりと。
作間さん、本当昨日のハイキングきつかったんだろうな。帰りのバス。彼女はずっと眠っていた。充電がなくなって起動しないスマホみたいに。ん~、どうしようか、これじゃあな。さすがに、「あまり期待はするな」とは言ったものの、任された身としてはこう、陽真に顔が立たない。とはいえ起こすのは絶対におかしい、間違ってる。…無理はしないでおこう。ごめん陽真。俺は自分の後ろ、正確には作間さんの席の後ろに掛ける陽真へと、内心で深く謝る。昨日、行きのバスで聞けばよかったな。何か聞きづらくて後回しにしたそれを、俺は今更後悔した。
「作間さんを起こしてあげて、俺じゃあれだろうし」と日野くんから言われて、私はバスが学校についても眠ったままの作間さんを、軽く肩を叩いて起こす。
「作間さん、朝だよ~?」
あ、ええと。
「違う、ええと、お昼…ゆ、夕方?だよ?」
「どれでもいいでしょ、もう」
ついうっかり、「朝」って言ってしまって。より正確なものにどんどんと言い直しているうちに、木村さんにそう笑われてしまう。だけど嫌なものじゃない。木村さんって日野くんと同じで面倒見が良いから、まるで少し歳上のお姉さんに、「仕方ないなあ」って笑われたみたいで、私は恥ずかしさから内心がくすぐったくなる。そうしていると肝心の作間さんは、ゆっくりと目を覚まして。
「…あれ、ついた?」
のんびりとそう言うから、作間さんらしくて何だか、私は笑ってしまった。
「りっちゃーん!帰ろ?」
バスから降りれば宿泊研修はもう解散。だから、3組のバスを目指して行けば、けれど目にしたりっちゃんは明らかに疲れている様子で。
「り、りっちゃん、大丈夫…?」
「…大丈夫」
聞けば「大丈夫」とは返ってくる。でも、ものすごく元気がない。視線を下に落として、りっちゃんは本当にだるそう…。ハイキング、女の子にはしんどいねって、出発前にりっちゃんと話をしていたけれど、そのりっちゃんは運動が苦手な上、体力もない。より、厳しかったか。よし。心配から一転、意気込むと、私はりっちゃんに手を差し出す。
「りっちゃん、荷物貸して?私持つよ」
「え?うん…」
そうすればりっちゃんはやっぱりよっぽどなんだろう。普段は誰にされても、「悪いから」と言うそれを、この時ばかりは相手が私でも素直に受け入れて。りっちゃんの家まで、私がりっちゃんを頑張って送り届けよう。内心、不思議な決意を固めながらりっちゃんの荷物を持とうとした私に、りっちゃんのすぐ側から男の子の手が伸びてきて、私は驚く。その手は私が受け取ろうとしたりっちゃんの荷物を当たり前に取り、それで。
「まあ、こういうのはやっぱ男の役割ってことで」
誰だろう?愛想良く、りっちゃんと私に微笑んだその人。3組の人、かな?それからその側にはもう1人、何だかかっこいい感じの男の子がいる。
「作間さん、大丈夫?」
そのかっこいい感じの男の子は、りっちゃんの荷物を持った男の子よりも先に、小柄なりっちゃんの顔を、軽く自分の身を屈ませて覗き込んで、心配していた。だけどりっちゃんはこの人のことが苦手なのかな、顔を背けて言う。
「…平気」
ちょっと嫌そうに、一言で素っ気なく。
聞けば、りっちゃんの荷物を持つ男の子は日野七海くんというらしい。もう1人の子は宍戸陽真くん。ん?あれ?宍戸くんて…?もしかしてこの男の子が、入学早々、りっちゃんとありもしないことで噂になっていた…?考えつつ、私はりっちゃんの手を引いて、2人と共にりっちゃんを家まで送る。
「ええと、宮寺楓です。りっちゃんとは幼なじみで」
「宮寺さん、よろしく」
言えば、日野くんが軽く、そう返してくれて。宍戸くんは。
「初めまして、よろしくね」
本当に愛想の良い笑顔で、人の良さそうな感じでそう返してくれたから、りっちゃんは宍戸くんの何が苦手なんだろうかと、ちょっと考えてしまう。…でも、宍戸くん男の人だし…。でもでも、りっちゃんはそもそも、他人を第一に性別で見たり、判断したりしないし…。そしたら何故?益々深まっていく謎。どうしていつか、宍戸くんとりっちゃんは付き合っているというような噂が流れたのか、そのからくり。気になることは増えていくばかりで、何も解決はしない。肝心のりっちゃんはやっぱり疲れているみたいで、私に手を引かれたまま俯きがちに、前へと歩くばかり。ん、んー…こんな時、文太くんがいてくれたらなあ。最近はすっかりりっちゃんの元気の源、支えの柱。そんな文太くんの朗らかな笑顔を思い浮かべて、私はりっちゃんが心配になるばかりだった。
「あ、ええと、さすがにここで大丈夫だよ」
「少しでも最寄りまで」と言う俺と陽真に、宮寺さんはひとつの駅につくと、困ったように笑ってそう言う。あー、てことは、ここが2人の家の最寄り駅、とか?宮寺さんの反応を見る限り、そんな感じのこの場所に、俺は陽真と2人で自然と顔を見合せて、それで。
「わかった。じゃあ気をつけてな」
微笑んでそう言うと、俺は自分がずっと持っていた作間さんの荷物を、宮寺さんへと渡す。「ありがとう」。受け取りながら綺麗に笑う実物、の宮寺さんは、やっぱりイメージ通りの高嶺の花。背もそれなりにあって、モデルみたいな人と俺が勝手に思っていたそれは、見た目だけならあながち間違いじゃない。俺が実物の宮寺さんに関心を抱く傍らで、一方陽真は陽真。バスを出てからもうずっと、俯きがちに黙ってそこにいるだけの作間さんを見て、その顔に心配の色が隠せていない。はは、こっちもこっちでフォローしとかないと。支えるものが多すぎる。でも別に嫌じゃないから、多分俺ってこういうキャラだ。…まあ、いいか。何か自分に呆れながら、俺は陽真を連れて宮寺さん、作間さんと別れる。その際。
「またね」
宮寺さんに言われたその「また」は、多分もう来ない気がしていた。
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