静寂の貴方

3月13日。卒業した3年はみんなもう、春休み。受験に受かった私達は、それはまあこれまで死に物狂いで勉強していた分の休暇みたいにして、この春休みを過ごす。「明日はホワイトデーだから、楽しみにしててね!」。文太からそう、可愛いスタンプつきで送られてきたメッセージを手に、私は人生で初めて彼氏と過ごすホワイトデーというものを、柄にもなくちょっと楽しみにしていた。…少し、ドキドキとさえして。


…あ。13日の放課後。私はその人の姿を目にする。遠くから、だけど確かに。吉野先輩。この春、私と同じ中学校を、けれど2年も先に卒業してしまった、その方。…かっこいいな。どうしても、吉野先輩を見る度に、そう思ってしまう。静寂を身に纏い、音無しに微笑むそれは夜のよう。…ううん、違う。もっと何か、吉野先輩に相応しい言葉は、響きがあるはず…。なのに私はまだ、それを見つけられない。中学に入学し、その図書室で1人、読書に浸る吉野先輩を目にするその瞬間まで、私は「自分はそれなりに本を読んできた」と思い込んでいた。けれど、吉野先輩。目にした彼の、その姿。長い足を組んで、手にした本へと静かに目を落とすそれを、私は。これまで自分が目にしたどの本の、どんな表現のどんな言葉を参考にしたって、未だに上手く言い表すことが出来ない。形にできない。吉野先輩という方が纏うその、静かな雰囲気。夜のような感覚。冬のようなしんとした冷たさ。なのに優しく浮かべる微笑み。私は、未熟だ。著名な小説家なら、私のこの感覚を、吉野宙さんという人を、言葉という形にし、文字に起こせたのだろうか。でも、それも何か違う気がする。彼を言葉にするのは私だから、私じゃなきゃ、いけないような。物思いに耽っていると、吉野先輩の隣にはよく見れば、とても美しい女の人が寄り添っていることが、わかった。瞬間痛むこの胸以上に、けれどお2人は、とてもお似合いで。吉野先輩が夜のようなら、隣に並ぶあの女性は、地毛…なのだろうか。ブロンドのような薄茶の髪が綺麗で、肌は白くて、たおやかな微笑みがまるで月のよう。それも、満月のように煌々と眼下のものを照らすのではなく、三日月のようにひっそりと控えめに、限りなく優しく照らすような。吉野先輩の恋人の方、だろうか。そうとしか思えない。あまりに美しいお2人を表現する言葉が、やはりこの時も私は、また上手く出てこなかった。



「ごめんね、楓、付き合わせちゃって」


「ううん、大丈夫だよ。気にしないで?」


後輩の女の子からバレンタインにチョコを貰ったけれど、何を返すか悩んでいるという宙くんからの相談を受けて、私はホワイトデー前日、宙くんと2人で街に繰り出す。街はホワイトデーを明日に控えて、もうその一色。お返しの品は様々…というか目移りするくらい、街中のあちこちに売られていて。まるで張り巡らされているよう。お菓子が好きな私からすれば、お菓子ばかりのこのホワイトデー商戦は、幸せな迷宮だ。それを見ていると、宙くんが迷ったような声を出す。


「どんなのがいいかな。何せ2つ下だから、わからなくて」


「う~ん…」


聞かれて、でも私もわからない。同じくらい、どころかそれ以上に、迷ったような声を出す。私の後輩の女の子達はみんな、ホワイトデーに欲しいものといえば、お菓子や化粧品、文房具にぬいぐるみ、アクセサリーに…と零していたから。それらは全くまとまりがなくて、だから私も返答に困る。というか、ホワイトデーって普通、何かちょっとしたお菓子がお返しにかえってくるものだと、私は思っていた。だからみんな、化粧品やアクセサリーといったものを欲しがるなんて、何だかそれはまるでもう、ホワイトデーではなく何かの記念日のようで。む、難しいなあ。私だって女の子なのに、だけど「女の子がホワイトデーに欲しがるものは」といざ聞かれたら、よくわからない。ホワイトデー、こんなに女の子達が欲しがるものがバラバラな日なら、宙くんもお相手の女の子が欲しがるものをあげるしかないかも。思って、ありきたりだけれど確かなアドバイスを、私は宙くんへとしてみる。


「えと、その女の子が好きそうなものとか、は?わかれば、なんだけど…」


聞けば宙くんは案外すんなりと、「ああ、それなら」と応える。


「本だね。俺と同じで、よく図書室に来ては、読書をしていたから」


何だ、その子の好きなもの、はっきりしてるんだ。なら。明るく「それなら本にしよう」と言おうとした私に、反して宙くんはどこか不安げに、続ける。


「…でも、チョコレートのお返しが本って、そんなつまらないものでいいのかな?」


…う、確かに。本が好きなその子からしたら、決してそれはつまらない、くはないんだろうけど、ちょっと色気?はないかも…。何というか、可愛さというか…。う、うう、じゃあ。


「じゃ、じゃあ!美味しいインスタントの珈琲や紅茶のパックをセットにするのはどう?ほら、読書する時って、何か飲み物がほしくなるでしょ?」


それは、私のことなんだけれど、でも悪くはないかなと思って捻り出した案。それでも宙くんは、まだ少し不安げな顔をする。


「…とはいえ、どちらか好みがあるだろうし…」


「どちらも付けちゃえばいいんだよ~!そしたら、好きな方飲めるでしょ?」


「ああ、確かに」


だけど、その不安には即座にそう返せば、宙くんもようやく納得したような顔をしてくれた。女の子に珈琲や紅茶を贈るなら、絶対にカフェインレスにしないとなあ。あとは、ハーブはそれこそ好みが分かれるし、定番のフルーツフレーバーか、それか…。考え込む私に、ふと宙くんは言う。


「こういったことは慣れてないから、楓が協力してくれて、助かるよ」


「え…?」


慣れてないって、え、宙くんが?そんな、宙くん、だってかっこいいのに。小学生の時だって、同級生の女の子何人かから、宙くんはチョコを貰っていたはず。だから、これまでにバレンタインを貰ったことがない、なんてことは有り得ない。ということは、単にお返しをしてこなかったとか?何でだろう。その理由はわからないけれど、でも、宙くんって結構ドライなところがあるからなあ。


「あ、律もいるのかな」


ほら、こんな感じで。


「義理でもお返ししてあげて」


宙くんのちょっとドライな呟きに、冗談っぽく笑ってそう言えば、宙くんも軽く微笑む。


「そう。楓が言うなら仕方がないね」


その言葉に、やっぱり宙くんこれまでは、お返しをしてこなかったんだなって、何か確信を持った。


だけど、そんな宙くんがちゃんとお返しをしようと思った、その後輩の女の子って、どんな子なんだろう。何か気になって、私は宙くんへとそれとなく、その子に関することを聞いてみる。


「ねぇねぇ、その女の子って、どんな感じの子?ラッピングとか、どんなの好きかなぁー」


あくまでラッピングの好みを読むために知りたい。そんな感じで言えば、宙くんも疑うことなく、その子について教えてくれる。


「とても物静かな子だね。礼儀正しくて、そうだな…堅実というか」


へぇ。つまり真面目、なのかな?名前も知らないその子を、頭の中でイメージする私に、宙くんは続ける。


「だけど中身は違うね、夢に生きているというか」


「ゆ、夢?」


に生きてる?それはどういう。宙くんは本をたくさん読んでいるせいか、表現が独特で時に難しい。私では理解が、追いつかない。夢に生きる?ん、と?謙くんみたいに大きな夢があるとか?もしくは梨々花ちゃんみたいに前向きとか…?けれど、私の考える「夢に生きる」はどれも違うようで。多分、考え込むあまりに、1人で百面相をする私を見た宙くんは、可笑しいんだろう。宙くんは軽く口元にその拳をやって、静かに笑う。


「そう、夢」


ヒントは、そこまでだった。


俺が彼女のことを「夢」と言ったからか。楓が選んだラッピングは、淡い紫に銀色の星柄の、確かに夢のようなものになった。


「可愛い~!喜んでくれるかなあ」


それを見て、楽しそうにはしゃぐ楓を見ていると、楓は本当日毎に、月から太陽へと変わってきている気がするな、と思う。少なくとも俺が楓に会う毎に、そうだ。楓はいつか、三日月のようにひっそりとさせていたその明るさを強めて、すぐに半月、やがては満月。今は何か、弱い日差しの冬明けの太陽にさえ、生まれ変わったようで。覗うその横顔は、昔から変わらず三日月のまま、優しいのに。


「ね、これにどんな本、つけるの?」


不意にその笑顔がこちらへと向いて、無邪気に聞かれる。ああそういえば。彼女へと本を贈ることを決めてから、どれにしようかと頭の中で考えていたけれど、正確にはまだ決めかねていた。けれど太陽のような楓の、月のような笑顔を見ていたら、やはりこれかなと俺は頭の中で、ひとつの作品を手に取る。


「夢かな」


「へ?夢?」


答えれば楓は心底、不思議そうな顔をした。


こいつのアイコンって、犬とのツーショットだったんだ。私からすれば、いつも中身に値するやり取りの方が大事で、相手のアイコンなんてこやたに限らず見ないものだから、気づかなかった。歩きながらこやたのアカウントのアイコンを何気なく見て、その犬へと、気がつく。何て犬かなこれ。この、白と茶色と焦げ茶の大きいやつ…。そういえばこやたの家にお菓子作りしに行くと、いつもでかい犬小屋が、庭にあったっけ?犬本体は、1度も目にしたことがないけど。飼ってんのかな。だとしたら、それがこのアイコンの、こやたと一緒に写ってる犬だったり?何となく考えながら、歩く。「のんびり来て」と言われたから、遠慮なくのんびり向かう、呼び出された先。もうすっかり卒業した、あの中学の最寄り駅でそいつは、確かに私を待っていた。けど。


「こや」


「わんっ!」


そこに待つこやたに声をかけようとして、でもそれよりもその足下に寄り添うようにしていた、大きな犬の方が先に返事をする。どころか、私に飛びついてくる。ひ…っ。食われる。小柄な私に大型犬とは、飛びかかられたら自然とそう、感じてしまう。私が驚いてその場に固まった時、こやたが慌てたように、けれど鋭くその犬を叱りつけた。


「こらっ!」


「駄目でしょ、もう!」。言葉は柔らかくこやたらしいのに、声はいつになく鋭くて、さすが大型犬の飼い主。しかもリードを引っ張って、こやたは軽くそいつの動きを止めてしまった。手馴れてる。ん?てかこの犬。今しがたまで、自分がこやたんちの犬かななんて見ていた、それっぽい?確認しようと私はまた、こやたのアイコンの犬を、見る。ずっと手にしたままのスマホ、こやたのアイコン。タップして見てみれば、確かに。


「…こやたの犬?」


「あ、うん!そう。律とは初めましてだね」


「ごめんね、犬付きで」。困ったような笑顔で謝られて、そんなこやたから自然とその側にいる犬へと目をやれば、白と茶色と焦げ茶の、やっぱり何て言うかわからないその犬。


「いいけど。何て言うの?この犬種」


「あ、ボーダーコリーだよ、中型犬の」


さらっと聞いたことに、さらっと答えられたそれは、え、これで中型犬なの。私には十分大型犬に見えたから、ずっと大型犬だと思っていて、しかしその真実に驚いた。中型犬。そんなこやたの犬は私を見て、何かつぶらな目で首を軽く傾げるように、していた。


それからあんまり犬がじっとしないので、「ごめんね、歩いてもいいかな?」とこやたに提案され、私はこやたと、犬の散歩をすることになる。何で、急に呼び出されたと思ったらこやたんちの犬の散歩…。謎の展開、よくわからない。そもそも何の用なんだろう?そう思い、聞こうと私は口を開く。


「ねぇ、今日はどうしたの?」


聞けばこやたは前を向いたまま、やっぱり何か困ったような顔で、笑った。


「ええと、ほら、バレンタインにお菓子をくれたでしょ?チョコチップマフィン。だから俺も何か返したくて」


ああ、そういうこと。わざわざ律儀に。まあでも、こやたらしいか。でも、それをするホワイトデーは明日なのに。思う私にこやたは1つ、犬のリードを引いていない方の手で、小さな紙袋を差し出し、言う。


「明日だと申し訳ないから、今日で。突然ごめんね」


「あ…」


そっか。私には、文太が…彼氏がいるから。だからこやたは、気を遣ってくれたのか。


「…ありがと」


納得して静かにひとつ礼を言い、差し出された紙袋を受け取る私に、こやたは尚も言う。


「あ、あでも、その、もし何かあれだったら捨てておいてね…っ?」


何か変にすっごく慌てながら。その様が如何にもこやたって感じで、私は面白くて笑い声を漏らす。


「…っふ、へへ。捨てないし、文太そんなことで怒んないよ」


つい、文太の名前さえ出して私がそう言えば、こやたは安堵したように、微笑んだ。


彼氏がいるって色々気を遣われてしまうんだ。こやたと別れた帰り道、私は何かそう思う。きっとこれ、こやたの手作りなんだろうな。紙袋を覗いたその中身。このラッピングの感じ、市販じゃない。まあこやたは私が、こやたの作るお菓子が好きなことをよく知っているから、市販の可能性というのは、お返しがある時点で薄いけれど。でも、このラッピングの感じを見る限り、手作りであるそれが高まって、私は食べるのがより一層楽しみになる。でも、彼氏持ちって意外と大変なんだな。色んなとこで、色んな人に気を遣われたり何だりで、大変なんだな。最早私もそちら側の人間だというのに、何か他人事のように、そう思った。


そうして迎えた3月14日。文太はやっぱり私と待ち合わせ、なんてことはせずに、うちまでいつも通りに迎えに来てくれる。


「律~、彼氏彼氏!」


姉の美久が、鳴ったピンポンに私より先に出て、わざとらしく私へとそう、言った。その顔はどこまでも面白そう。いや、あんた「彼氏」って単語を言って、妹の私をからかいたいだけでしょ。全く見え見えの魂胆に、私は呆れて据わった目で美久を見る。


「はいはい」


「あ~もう、駄目じゃん律子!そんなんじゃ、彼氏くんに振られちゃうよ?」


そうすれば、美久は私の冷めた反応と目付きが気に入らなかったんだろう。ぶりぶりといった感じに怒って、両の頬を大きく膨らませた。…私の姉は私より背があるし、胸もお尻もあるけれど、でもあるのはそれだけ。中身は私以上に子供で、まあ実に幼い。こんなくだらないからかいに、一々構ってなんかいられなくて、私はまた呆れながら姉の横を通り過ぎていく。


「あーはいはい…」


「もうっ!」


言えば姉は、私の様子にまた、律儀に怒ってみせた。


そんなふうに、姉から人生初の彼氏とのホワイトデーをからかわれつつ家を出れば、その先には当たり前だけど文太。


「あ、律っ。会いたかったよ!」


顔を合わせれば1番に、相変わらず嬉しそうにそう言われて。でも、普段は中々見ることのない文太の私服につい、私は目を奪われる。…何て言うか、ゆるって、だるってしたカジュアルなそれは、文太らしい。私はどうだろ。これまでは気にも留めたことがないことを、この時ばかりは何か気にしつつ、私は言葉を返す。


「…あー、うん」


「そんなんじゃ振られる」って、美久から言われそうなくらいの気のない返事を、自分の足元を見ながら。


とりあえずうちを出て、でも。


「ねぇねぇ、律は今日、どこ行きたい?」


2人で並んで歩きながらそう聞かれても、こういう経験が皆無な私には、わからない。


「え…んー…」


だから、私の口からはつい、そんな迷ったような声ばかりが出る。そんな私を見て文太はにこっと微笑むと、「じゃあ」と明るく声を上げた。


「俺、行きたいところあるんだ~!一緒に行こ?」


文太の行きたいところ?どこかはわかんないけど、でも他に私の行きたいところ、と聞かれても、困るし。戸惑いながらも私は頷く。


「うん」


口数が多くて、良く笑って愛嬌のある文太と。文太といるとすっかり受け身で、無愛想な私。これじゃどっちが彼氏か彼女かなんて、よくわからなかった。


そうして連れられた先は、小さなテディベアショップで。けれど古っぽくアンティークな外観通りに、中もすごい。


「…すご…」


つい、馬鹿みたいにそんな正直な言葉しか出てこないくらいには、本当。最近の、なのか。カラフルなテディベアがいるかと思えば、もういつのやつなの?ってくらい、くたっと座り込むその足下に、昔の年代が表記されたテディベアまで。それはもう様々なクマが、この店内を埋めつくし、店へと入った私と文太を迎える。中には子供向け、家族向け、だな。比較的安価で手触りが良く、細かな部品が使われていない、ファーストベアも多く置かれていて。そびえ立つような硝子のショーケースの中には、サンプルとして作られた非売品だとかがそれはもう、パレードのように横並び。各々こっちを向いて、それぞれの個性と雰囲気をよく出している。本当、すごいな。何度も、同じそればかりしか、内心での言葉すら出てこない。都内にテディベアのお店がいくつかあるのは知っていたけれど、何せうちは貧乏。こんなところとは縁遠くて。


「すごいよね~」


きっと丸くなってる目で、じーっと店内のあらゆる展示を見つめる私に、文太は言う。共感してくれる。まあでも、文太もテディベア見たかった、んだから、共感してくれるっていうのはおかしい…?何か引っ掛かりを覚えつつ、でも。


「見て見て、律の生まれ年のテディベアもあるよっ」


「え?」


不意に言われて、文太が軽く指さした先を見てみれば、そこには確かに2007年に作られたらしい1体のテディベア。その子は偶然にも私の髪と同じような、深い藍色の毛で。なのに私とは違って、可愛いピンクのリボンを首につけては、その癖それがとてもよく似合っている。へぇ。


「ほんとだ、可愛いね」


て、素直に言ってから気づいた。


「…高いけど」


その子が行儀よく座る足元の値札には、29800円の数字。…はは。さすが、テディベア…。でもこれってテディベアの中では安い方だ。と、知っていてもやっぱり私には高い。


「テディベアって、いいお値段するよね」


テディベアの現実を見て、少し乾いた笑みを浮かべる私に、文太はいつも通り朗らかに、微笑んだ。


テディベアショップを出て、「じゃあ次こっち~」と、優しく手を引かれたのはキャラクターカフェ。それも私が好きな、猫のぴょん吉のキャラクターカフェだ。ぴょん吉はコミックエッセイで、ぴょん吉の飼い主である犬飼との日常が、とにかく面白い。てか、猫飼ってるのにペンネーム犬飼って…。そこから最早、つっこみどころだった。


「ぴょん吉だ!最高!」


それのキャラクターカフェともなれば、その辺には売られていないようなグッズも、店内では販売していて。店員さんに席に案内されつつ、横目に見えたグッズに、私は興奮のあまりそう零す。それに私の少し前を行く文太が、可笑しそうに笑みを零した。笑われたことに気がつき、私はやばいと、変なところを見られたかと、何か気まずさとともに恥ずかしくなる。いや、別によくない?だって文太だし…。思うのに、何か文太には知られたくなくて。あんまり変な人間だとは思われたくなくて、ぴょん吉ぴょん吉とはしゃいで唱えるこの声は、堅く自分の中へ押し込めていた。そうして店員さんの案内の下、席についてメニュー表を開いてみる。だけどもうこうなれば駄目。抑えたって私のぴょん吉愛は止まらなくなる。


「わ~可愛い!ラテアートもカレーも全部ぴょん吉だ!」


もう、子供か?ってくらいはしゃげば、だけど文太も笑って。


「パンケーキも美味しそうだよ~!」


やっぱり私と同じくらいに、はしゃいでくれるんだから。…本当、文太って女の子に優しいんだな。さすがにここまでくれば私でもわかる。文太が私に、合わせてくれてることに。いつもはあれだけマイペースな癖にな。付き合ってから…ううん、思い返せば。文太は昔から、私にはこうだったかもしれない。それは、いつからだった?メニュー表のパンケーキ。焼印のぴょん吉が目付き悪く、私を見ている。


「でもクリームすごすぎて、胃もたれしそう」


「あはは、確かにっ」


お前の目付きの悪さに、この生クリームの量は似つかわしくないよ。いつからなのかわからない。その答えを、私はぴょん吉へとはぐらかした。



「猫なのにぴょん吉って、名付けおかしいよね」


頼んだ料理を待ちながら、そんな話をする。言えば文太は、「確かに」と微笑んだ。


「ぴょんってついたら、兎のイメージ強いよね」


「そうそう!犬飼、馬鹿なのかな」


どっかの誰か、どころか有名コミックエッセイ作家。それを私は不躾にも馬鹿にして、そんな私を見た文太が苦笑を浮かべる。


「ほんとだね」


本当はわかってる。私も、多分文太も。そんなつまらない概念、イメージにはまってる方が、世の中損だって。だからこれはただの冗談だ。犬に”猫”と名付けたって、極論構わないんだ。それを「おかしい」とか、「頭が変」だとか言うのは、それこそ多分、くだらない人間のすることだから。


食べたらなくなるぴょん吉よりも、買ったら永遠のぴょん吉だよね!食事を終えると、私はグッズ売り場にまっしぐら。貴重品さえ手に持てば、2人で席を立っていいと店員さんが言うから、もちろん文太を巻き込んで。そうして覗くグッズ売り場は、あ、このぴょん吉のぬいぐるみ、うちにないやつだ…。こっちのラバーストラップも、こっちのブランケットも…!うちにない、つまり私が持っていないものばかりで、私はもうわくわくが止まらない。ていうか、この店舗限定くじまでやってるの?!色々目移りする私に、文太は言う。


「これ、律にぴったり~」


私が最初に見ては、何度もつい、目をやってしまうぴょん吉のルームウェア。それを手にして、柔らかく。やっぱり文太も、それが1番可愛いと思う?なら買うのはそれにしようと思って。


「ほんとに?じゃあ」


「うん、だから待っててね」


当たり前に、私は「買ってくる」の言葉も、買ってこようとした行動も、文太の笑顔に遮られた。…え、えまっ。さすがに、それは悪くて。しかもそれちょっといい値段するし…!慌てて追いかけようとするけれど、こういう時の文太って早い。声をかける暇も、その背を追う暇もなく、文太はレジへと向かってしまった。


結局。


「見られないのが残念だなぁ」


ぴょん吉のキャラクターカフェを出て、文太は私の代わりに、私へと買ってくれたそのルームウェアが入った袋を持ち、ぼんやりとそう呟く。ぴょん吉のルームウェア代はもちろん、カフェでの飲食代まで奢られ、荷物まで持ってもらうとか、私どんなお姫様だよ。自分で自分につっこみながら、でも。


「…み、見れるわけないでしょ」


恥ずかしさと嬉しさで戸惑いながら、そう返すのが、この時の私には精一杯だった。軽く俯きながら、気恥しげに言葉を零す私に、対して文太は慣れたように言う。


「えー、残念」


慣れたような返しとは反面に、横目でちらりと窺った微笑みも、声も変に優しいから。それがより一層何か、私にはくすぐったかった。


「あ、でね!肝心のお返し!」


そうしていると不意に文太が明るくそう言って、私へと何かそのポケットからとりだし、差し出す。


「はいどうぞ!」


すごく明るく言われるそのまま受け取れば、私の手には何やら髪留め…。白いお花が散りばめられた、コーム?え、何で。意外なお返しに私は惑って、手元のコームから文太へと顔を上げる。


「何で髪留め?あ、いや、嬉しいけど…」


素直な疑問と、素直な喜びと、素直な戸惑い。全てを言葉と声に織り交ぜながら聞いた私に、文太は微笑んだ。


「だって、見たいから」


見たいって。ぴょん吉のルームウェア?あれ、でもそれはさっきの話だ。こんがらがる私を見て、文太は可笑しそうに笑う。それから。


「律が髪まとめてるところ、一度も見たことがない」


「あ…」


一度も、確かに。本当に小さな頃。それこそ文太と出会う前は、母さんが私の長い髪を色々アレンジしてくれたけれど、それも。…両親が離婚して、父さんがいなくなって、父親も母親も母さんがやることになってからは、なくなったんだ。まるで、ぱったりと。だから文太は、知らない。渡されたコーム。私は母さんと違って不器用だけれど、ならばやるしかないなと、何かそれを見て意気込む。そこにいてくれる、それだけでとても幸せで、安堵できる。そんないい彼氏を持ってしまったのだから、そいつのために。


「…まあ、やってみる」


こんなの私の柄にはないから、ちょっと斜に構えながら、だけど。


りっちゃんや梨々花、叶恵、その他にも彼氏のいる女の子のお友達…。みんなはホワイトデーのこの日、きっとそれぞれの彼と楽しく過ごしているんだろうなあ。そう思うと、みんなの幸せをお裾分けしてもらったみたいで、1人、嬉しくなる。そういえば、私は私で確か今日、連絡が来ていたな。改めて確認してみればそれは、私達の卒業間近。緊張した様子で、かつての3年5組へと足を運び、連絡先の交換をぎこちなく私へとお願いしてきた男の子、からだった。その子は私と同じクラスでもなければ、同じ学年でもない。同じ学校、ではもちろんある。だけど、全然知らない子で。他学年の子かな?その子はまだ何か幼い感じがしたから、そうなのかも。SNSの表示を見る限り、橘陸人という名前のその子は、ホワイトデーのこの日、私にあの中学の最寄り駅へ17時に来るよう、確かなメッセージをくれていた。


吉野先輩に呼び出されて、私は待ち合わせのカフェを訪れる。そこは私の通う中学から程近い、隠れ家のようなブックカフェ。…吉野先輩も少し前までは通っていた、私が通う、中学校。今でも私は、図書室に行けばその方に会える気がして。扉を開けば、そこにはまた、静かに本の世界を見る吉野先輩が、いるような気がして。私は今日も図書室の扉を開いた。でもそこには当然もう、吉野先輩の姿は、ない。どこにも、吉野先輩が少し多く手にしていた、きっとお気に入りの図書室の本を手にしてみても、どこにも。吉野先輩があの中学に在籍していた頃、私はいつも読書をするふりをして、自分から少し離れたところの席に腰かけ、読書をする吉野先輩ばかりを見つめていた。吉野先輩を前にすれば、それまでの私を唯一魅了し続けた本達なんて、ただ彼を見つめるための言い訳にしかならないくらい、無価値なものになり。この扉の向こうに、吉野先輩はいる。待ち合わせたから、きっといる。例え私の方が早くついたとしても、吉野先輩は来てくれる。扉を開けば。何か、願うように私はこのブックカフェの扉を開けた。何人かの、潜めた話し声くらいしかしない、静かな店内。それを軽く見回して、私はそこにようやく、求め続けたその姿を見つけることが、叶う。私が吉野先輩の姿を、図書室に見つけられなくなって、まだ少しなのに。ほんの少しなのに。昨日、吉野先輩がお連れになっていた三日月の彼女の方がずっと、吉野先輩にはお似合いだとわかっているのに。気持ちが追いつかず、切なさに胸が痛む。それを私は、昨日は平気だったのにと嘆き。…吉野先輩は変わらず、そこにいた。1人、落ち着いた静寂を身に纏って、私物の本を片手に。手元には、私をお気遣いくださったのか、注文はまだのようでお水だけ。声をおかけしなければ。歩み寄る中私は思う。やっぱり思う。ああ、私はこの方の何をどこまで、言語にできるだろう?思って、涙すら、浮かびそう。何故こんなに、私は吉野先輩を前にすると、全てが吉野先輩に染まってしまうのだろう。


「吉野先輩」


お呼びすれば、吉野先輩はその手元の本から顔を上げて。


「ああ、小笠原さん」


表情のひとつも変えずに、返される言葉のそれは、けれど決して冷たくはなく。優しく儚い、夏の夜のようだから、尚更私はそれが苦しい。


「お待たせしてしまい、申し訳ございません」


それでもこの気持ちを悟られるわけにはいかない。吉野先輩の足枷となるものは、全て、排除しなければならない。消せないのならせめて、吉野先輩の世界からは、見えないように隠さないと。頭を下げる私に、吉野先輩は言う。


「全然。それよりどうぞ、掛けて。わざわざ呼び出してごめんね」


私のような、2つも歳下の未熟な人間にも、吉野先輩は優しかった。…この気持ちを隠しきれず、抑えきれずに、バレンタインのあの日、チョコレートなんてくだらないものを、渡してしまった私にも、平等に。わかってる。吉野先輩にこんなの、こんな、もの。そう思いながら最低限、「日頃お世話になっておりますので」と嘘をつき、渡したそれの。…お返し、が今日渡されるんじゃないかって。期待してしまう私は本当に、愚かで、高慢だ。


「はい」


言われて吉野先輩の向かいの席に、私はそっと腰掛ける。なるべく音を立てずに、そうしながら、私は吉野先輩の目線の行方を追っていた。また、吉野先輩の目線は僅かに左斜め下。いつも、そう。出会った頃から、知り合えたその瞬間から、吉野先輩を覗えば先輩はふと、その視線の動きをする。何かを考えている、その目を。どこかを見ているような、その動きで。それに私はいつも、見ているだけで吸い込まれる。ずっと見ていたい、ずっと見ていられる。本当に。


「何か頼む?」


「はい」


言われて咄嗟に、私は頷く。ほとんど無意識に、不自然にならないように、きちんと。いけない。内心ですらその言葉は、呟きたくなかった。言えばきっと私は抑えられなくなる。自分で、自分を、止められなくなる。理性的でいなければ。人間とは、理性があるからこその、人間なのだから。私へと自然にメニュー表を広げ、見せてくれる吉野先輩の優しさに気がつきながら、私はそれに気がつかないふりをする。自惚れてはいけない、自惚れることでもない。


「何にしようか」


「…私は、ショコララテにします」


必死に、自分の気持ちと頭を戦わせているうちに、私はその時1番に目についた、好みでも何でもないものを口にしていた。まるで本当に、それがいいかのように。


ショコララテ。意外と甘いものが好きなのかな。だとしたら、バレンタインのお返しに選んだあれは、どうだろう。昨日、贈物選びに付き合ってくれた楓に、薦められるがままに選んだそれらを頭に思い浮かべ、俺はつい微かな不安を感じてしまう。けれど。彼女、ショコララテを頼んだわりに、その手があまり進んでいない。…猫舌だとか?頼んで、ショコララテが小笠原さんの元にきてから、時間はもう結構経ったけれど。せっかくブックカフェに来たのだから、俺はいつかのように、いつものように、小笠原さんと2人、それぞれ気になる本を手にし、読書に没頭して。…これじゃあ、あの図書室で過ごしていた日々と、何一つ変わらないか。せっかくここは校外、だというのに。その上小笠原さんは学校終わり。何か、気分転換になるようなことでも。手にした本の世界を目で追いつつ、俺は頭の片隅で、そう考える。けれど、小笠原さんと俺は本当に、本で繋がれた仲だから。他の何かが、そう簡単に浮かぶはずもなくて。そうこうしていると、先に口を開いたのは意外にも、小笠原さんの方だった。


「吉野先輩」


彼女特有の拙い声で呼ばれて、俺は本から目の前の小笠原さんへと、顔を上げる。目にした彼女は華奢も華奢で、初めて会った時にはこの子、細すぎではないかと余計なことを思ったんだったか。何か、その時のことを思い出しつつ、自分を見る俺に、小笠原さんは真っ直ぐに続ける。


「先輩は、こちらのカフェによくお見えになるのですか」


聞かれて、うん、どうだろう。今日ここに来たのはただ、小笠原さんとの待ち合わせに丁度いいと、軽く探して選んだからに過ぎなくて。だから答えはノーだ。けれど、彼女の質問。その意味にはきっと、俺と彼女がいつも顔を合わせていたあの図書室が、あると思う。だから答えはこうなる。


「そうだね、来るかな」


そう言えば小笠原さんは、普段ほとんど変わらないその顔を、ほんの少しだけ綻ばせた。


「…そうですか」


本当に、小笠原さんという人をきちんと知らなければ、わからないくらいの程度に。声さえ堅いままで、小笠原さんはまた手にしたその本へと、意識を向けようとする。本。それを見て思った。そろそろ渡さなくちゃな。すっかり、待ち合わせに選んだこのブックカフェに魅せられて、そこで過ごすことに夢中になっていた。けれど忘れてはいけないのは、今日の主役は本は本でも、こちらだということで。


「小笠原さん」


だから、今度は俺が小笠原さんを呼ぶ。そうすれば小笠原さんは、本へと向きかけていた意識をまた俺へと戻して、俺を見てくれた。そんな彼女に、俺は楓と選んだ珈琲と紅茶の簡単な詰め合わせと、それから贈物の本をテーブルの上へと差し出す。不思議そうにする小笠原さんに、俺は続けた。


「バレンタイン、くれたでしょう?だから、お礼に」


言えば小笠原さんはとても珍しく、その顔をわかりやすい感情で満たして、俺が差し出したそれを見ては、目を丸くする。こんな顔もするのか、彼女。それを見て何かそう、感心に近い感情を抱きながら、俺はそこに更に言葉を付け足した。


「何がいいかわからなかったから、やっぱり本で。もう知っているものだったらごめんね。…珈琲と紅茶はついで」


何だか気恥しい、ような感覚が自分の内からして、さっとそれだけ言えば、けれど小笠原さんはいつになく上擦った声で、俺が差し出した本と、珈琲や紅茶の小さな詰め合わせを手に取り、笑った。


「…いえ、知らないものです。ありがとうございます、吉野先輩」


その顔が、見たことがないくらい綺麗なもので、俺は思わず小笠原さんへと目を奪われる。声さえ、いつになく柔らかく。それらを前に俺は無性に、いいなと、思ってしまった。普段の小笠原さんもいいけれど、こんな彼女はより、いいと。だからか気がつけば。


「…綺麗だね」


「…え?」


無意識にそんな言葉が、俺の口をついて出ていて、それに驚いたように小笠原さんが小さく声を漏らす。と、これじゃあただのナンパか何かだ。いけないと思い、俺は次にはきちんと、先程の自分の言葉を訂正した。


「ああ、ごめんね、つい。小笠原さんがあんまり綺麗に笑うものだから」


もっとその顔を、その声を、隠さずに周りへと見せればいいのに。そんな思いで言った俺の言葉に、小笠原さんは顔を赤くして、軽く俯く。嫌なことを言ったかな。これは嫌味な、意味じゃなかったんだけれど。こういう時の言葉とは難しい。どう伝えるべきか、改めて悩み始めたその時、小笠原さんが消え入りそうな声で言った。


「…先輩が、そう、仰るなら」


その声はすごく小さくて、俺が耳にしたこの言葉は一字一句きちんとあっているのかと、疑問にさえ思う。だから、せめて表情だけでも覗おうとしたって、けれど彼女はもう。赤い顔を見られたくないのか、深く俯いて。その顔は彼女の真っ直ぐで綺麗な、長い黒髪に上手いこと隠れてしまって。俺の方には、向いてはくれなかった。


夕刻にカフェを出れば、今度は。


「あ、律」


律?吉野先輩がそう親しげに、自然に声をかけたのは、今しがたカフェの前を通り過ぎようとした、とても小柄な女性。私よりも長い紺藍の髪がそれこそ深い夜空、ミッドナイトブルーのよう。それは風に優しく舞い、これから来る微睡みの宵闇を知らせるようで。なのにどこか意志を秘めたようなその瞳は、簡単に見ただけで他人を射抜くくらい、強く。女性は吉野先輩に声をかけられて、振り返った。


「あれ、宙」


互いに名前で呼び合う仲。それは2人が親しいという、何よりにして誰からもわかりやすい、証拠。この女性は、吉野先輩の何なのだろうか。お2人はどのような間柄なのだろうか。気になって、けれど女性の隣にはもう1人、優しい栗色の髪の男性がいることに、私は気がついて。吉野先輩のこととなると、私は吉野先輩に近い女性にばかり目がいって、他が見えなくなってしまうことがよくある。こんなふうに、吉野先輩の前に女性と男性が1人ずつ、現れたとしても。私は特別に女性だけを、見てしまう。いけないと思いつつやめられないのは、何より。私が考える間にも、御三方の会話は進んでいく。


「ちょうどよかった、後で律の家に行く手間が省けた」


「ん?何?」


「え~、なになに?」


「文太の前では少し気が引けるな。何もないから、ちょうどいいかもしれないけれど」


何がだろう。私までそう思った時、吉野先輩がその鞄から取り出されたのは、小さなお菓子。中身が何なのかまでは、私からは見えなかったけれど、吉野先輩はそれを確かに紺藍の髪の女性へと、手渡される。渡された女性は何か心当たりがあるようで、受け取ると「あー」と、何か適当にも感じられる声をあげられた。


「わざわざ?律儀だね」


こちらの女性も、吉野先輩にバレンタインを贈られたのだろうか。けれど、それはこの様子を見る限り、本命、を贈られたようには思えなくて。それにほっとするのも。


「楓に感謝して」


「は、楓がいなかったらなかったのかよ」


自分の知らぬ女性の名前が、吉野先輩の口から出てくる度、不安になるのも。


「どうせなら、もっといっぱいくれてよかったのに」


「それは文太が食べたいだけでしょう」


「てか文太にはあげないって」


全て、わかってる。わかってるけれど、それが吉野先輩を邪魔してしまうようで。こんなもの、吉野先輩という人には不要なような気がして。なのに私1人ではこの気持ちを押さえつける、それも上手く敵わなくて。半端に、吉野先輩へと私はこの気持ちを渡しながら、そして吉野先輩からは何も返ってこない現実に、悲観する。私もこの、目の前の紺藍の女性のようになれたなら。見る限りお2人からとても愛されている様子の、こんな人のようになれたなら。空白はいつも「こうであれば」で埋まっていく。何も、満たされないまま。



「遅くなってごめんね!」


橘陸人くんとの待ち合わせに、私は数分遅れて到着する。いけない、待たせたかな。私より小柄な彼はもうそこにいて、けれど私の声を聞くと手にしていたスマホから、私へと顔を上げた。


「全然!待ってないっすよ!」


明るく元気なそれには何か、惹かれる。真っ直ぐ明るくハキハキしてる、からかな。大人しい人も素敵だけれど、前向きな人にはやっぱり何か、私は引っ張られるように惹かれがちだ。それはまるで、形は違えどりっちゃんのようで。


「ありがとう」


それに私が笑顔で応えれば、陸人くんはスマホをズボンのポケットにしまいながら、「えーと」と呟く。何だろう?不思議に思って小首を傾げれば、陸人くんは何故か私を見て、その顔を僅かに赤くしてしまった。ん?益々不思議で、なのに。


「あー、あのっ!」


「うん?」


勢いよく、私に向き合うその姿勢が面白くて、失礼にも笑みが零れてしまいそう。堪えきれずちょっと笑う私に、陸人くんは恥ずかしげに、言葉を続けた。


「その、今日ってホワイトデーじゃないですか!」


あ、もしかして。だけど続いたその言葉に、私の顔からは楽しい笑みは、消える。消えたのが自分でもわかる。先に待つのはきっと、告白のそれだ。嬉しいし、有難いのに、私をいつも虚しくさせるそれ。…陸人くんまで…。何か、そんな気持ちに駆られながら、私は陸人くんの気持ちを聞いていく。


「うん、そうだね」


「だからその、先輩に…あの、告白しようと思って」


平静を装う私に、嘘偽りなく真っ直ぐな陸人くん。何か対照的な私達は、少し、いつかの私とりっちゃんのよう。嫌だな。何がかは、正確にはわからない。何か、今から告白されるのも、その目的で陸人くんが私に近づいたのも、こんなこと思って考えてる自分も…何か、全てが嫌で。つい、少し俯いたその時に、言われた。


「俺、ずっと宮寺先輩のこと好きで」


虚しくも、悲しくもなるその台詞を。気持ちを。どうしても微かに、握った自分の両手に力が入る。男の子のアクセサリー。そんな自分を想像して、まただと思ったその時、聞こえた言葉に私は顔を上げた。


「あ、でも!その、先輩が人気者だからーとか、可愛いからとかじゃないですよ?」


「えっ?」


思わず声さえあげて顔を上げた私に、陸人くんはやっぱり真っ直ぐな、照れくさそうな笑顔で続ける。


「何ていうか、かっこいいから!何かよくわかんないんですけど、先輩、優しいのにかっこよく見えたんです」


「俺には!」。私よりも小さな体で胸を張り、何故か堂々と、自信満々にそう言う陸人くんは、変だ。今までに、いないタイプの男の子。私が知らない、男の子。私を、告白する時に「可愛い」じゃなくて「かっこいい」と言った男の子は、これまでいなかったと思う。それが嬉しくて、可笑しくて。


「ふふっ!」


気づけば笑っていた。先程まで抱いていた嫌な気持ちの全てが、疾風に拐われたように、今の私の心には何かの輝きが満ちている。だけど、そうだな。陸人くんはきっと何かで私を知り、中学校での私を見ていてくれたんだと思う。でも私は陸人くんという人を、今日この日までほとんど知らず、今だってまだ何も、知らない。だから私は提案した。


「ありがとう。でも私、陸人くんのことよく知らないから」


これまでのように断るのではなく、提案を。陸人くんがこれまでの人とは違ったから、私もこれまでとは違う対応を。この人と誠実に向き合いたい。そう思ったんだ。


「そうだなあ、3ヶ月…とか。それくらいの間、私は陸人くんとなるべくたくさん関わるようにするから、それで陸人くんって人が、どんな人なのか教えてほしいな。そうしたら、”はい”か”いいえ”か、答えを出すから!」


自然に明るく伝えれば、陸人くんは1度目を丸くして、けれどすぐに挑戦的な笑みをし、意気込むように頷く。


「はいっ!ぜひ!」


ふふ、面白い子。あげていないバレンタインの1月後。告白のホワイトデーを貰ったのは、初めてだった。

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