ゲームセット

合格発表はWebで行われる。だから、合格発表のその日。私は一緒に受験した楓と、それから私に最後の方、きっちり勉強を教えてくれた文太と、楓の家のリビングに集まり、そのノートパソコンをみんなで覗き込んでいた。


「番号、番号…481…」


楓のは先に見つかった。当たり前だけど受かってた。正直、そこは誰も心配してないと思うんだ。みんなが心配してんのは私にだってわかる。もちろん私。私の受験番号、481を探して、私も楓も文太も、楓のちょっと小さなノートパソコンをじっと、凝視する。ページはもう中程。まさか、ない?1人、何か不安になったそこで、1番に声を上げたのは文太だった。


「あ、ねぇこれ」


文太が指さしたのは、画面の右下の方。462、475…その隣。そこに確かに。


「やったあっ!」


481。私の受験番号を見つけて、思わずその場から立ち上がった楓と、私は2人で抱き合う。嘘、成績オール1だった私がたった1年で、偏差値が平均より少し低めのとことはいえ受かった?嘘でしょ。間違いなく、楓や周りのおかげ。最後の方はちょっと、文太のおかげでもある。ほんとに数日だけど、でも天才のひと押しは大きかった。こんな落ちこぼれでも、頑張れば少しだけ報われることも、あるんだ。知らなかったことを知って、私は楓と笑い合う。


「やったねりっちゃん!これでおんなじ学校だよ!」


「ほんと!ありがとう、楓!」


ここまで、勉強を教えてくれて。そんな意味でそう言えば、楓はふと喜ぶその顔を何か歪ませて、震える声で言う。


「私こそ…」


え。少しずつ俯いていく顔が、泣きそうだからたかが霊峰青海くらいで、と私はつい思ってしまった。そんな私にだけど楓は、明かしていく。


「私が、初めて持てた夢を、叶えてくれてありがとう」


そうだ。そもそもこれは楓が、「自分にやっとできた夢」だと言って、始まったこと。勉強漬けのあまりすっかり、忘れていたわけではないのに、どこかへと大切にしまっていたその思い。言葉、約束。そうか。その夢に私が乗せられて、導かれて希望を見て、「ありがとう」なら。楓もまた「ありがとう」なんだ。涙を堪えて、私へと真っ直ぐに、綺麗な笑顔でお礼を伝えてくれる楓に、私も頷く。


「…うんっ」


強くしっかりと。でも、これは叶えたばかりで、そして何も叶ってなんかいない。これから、「楓と同じ学校生活」を、1日ずつこなして叶えていくんだ。決意と希望を込めて、私達はまた、笑い合った。


こうすると後はもう、卒業を待つだけかあ。あ、でも高校行ったらすぐバイトしなきゃ。母さん達の力に、私は少しでもならないと。合格の報せを土産に家へと帰れば、母さんはそれはもう喜んで。


「やったじゃない律っ!さすが私の娘だわっ!」


目に涙を浮かべながら、私の首を絞めそうなくらいの力で抱きしめて、そう言う。いやだから、たかが偏差値50もないくらいの高校に受かったくらいで…。思うそれはでも、やっぱ嬉しい。


「へへ、ありがと」


だから浮かぶ笑みも隠さずにそう返せば、母さんは私を抱きしめたまま、何か決意を秘めた優しい声で、言った。


「律、お母さんね」


ん?どうしたんだろ。顔を上げれば母さんは私を離してくれて、目が合う。優しく微笑む母さんの顔は、何だろう。歳を重ねたなって、この時何か思った。歳をとったんじゃない、重ねた。老けたんじゃない、どこまでも重ねた、そう感じるそれ。何…?不思議な感覚に吸い込まれそうになって、でも。


「もう、あのスナック辞めるわ」


その言葉に、私は現実に引き戻される。辞めるって、ううんそれはいい。それくらい母さんがつらいなら。でもそしたら生活はどうしたら。言葉も出ずに、1人、瞬時に百面相で悩む私に、母さんは慌てて続ける。


「あ、違うのよ?暗い意味じゃなくて」


「じゃ、じゃあ何?」


色々不安なあまり、食い気味に聞けば、母さんは穏やかな笑顔で応えた。


「普通に、お昼の仕事するの!もう勤め先も決まってるのよ。化粧品の工場なんだけどね、母さん絶対そこで成り上がって、律に贅沢させてあげるから!」


「見てなさい!」。最後は勝気な笑顔でそう、意気込む母に私はやっと、安堵する。やっと…母さんが、スナックで働き始めたその時から、私の中にあった不安が、寂しさが、少しずつ溶けたような。そんな感覚が今、する。よかった、母さんは戻れるんだね。


「贅沢か、楽しみにしてる」


夜職なんてそんなものから、普通のお仕事に、やっと、ちゃんと。楽しみにしてるのは贅沢じゃない。仕事大好きな母が、他の人と同じように昼間、普通に働いて普通に輝くことの出来る、その瞬間だ。スナックで働く母さんも、気高くて好きだった。でもやっぱ。酒のせいで散々体を壊してきたそれを、家で長いこと見てきたから。もうそれをしなくていいことに、私は嬉しさと安心を感じていた。



「へぇ、そうなんだ。よかったね、律」


翌日も私を迎えに来てくれた文太と、楓と3人で帰りながら、私は昨日あれから家であったことを2人に話していく。そうすれば、文太からは優しくそう言われて、楓からも。


「よかった…りっちゃんのお母さんずっと、頑張ってきたんだもんね」


私と同じくらい安堵した様子で、私と同じ気持ちを、言葉を言ってくれて。


「…うん」


私は2人に、心からの穏やかな笑顔を、向けた。


それから今日も文太はうちを手伝おうとしてくれたけれど、今日の家事当番は私の姉の美久。私の受験をきっかけに、我が家は家事をなるべく、みんなで平等に回そうというスタイルに、変わっていた。みんなそれぞれ、やりたいこと大事なこと仕事学業、あと恋愛!色々あるんだから、と快活な母さんの提案で。だから私は、以前に比べればだいぶ自由な時間が増えて。楓は楓で、お母さんと和解したことをきっかけに、逆に家のお手伝いが増えていた。「お母さんの負担を減らすんだ!」。楓は屈託のない笑顔で、今日も大きくて綺麗なそのお家へと帰っていく。残された私と文太は、それならと。


「じゃ、受験も成功に終わったし、たまには遊びに行こう?」


文太から提案されたことに、私は笑って頷く。


「お、いーね」


文太と2人なら、悪くないかな。これが謙とだったら、嫌だけれど。何かそう思いながら私は、文太に手を引かれて行先もわからず、だけど文太の「れっつごー!」の声に合わせて、自然と前へ踏み出した。



「さっすが文太!UFOキャッチャー得意!」


「でしょでしょ?律のためなら俺、何でもとってあげられるよ!」


コーギーのぬいぐるみ、白いイルカのデジタル置時計、黒猫のブランケットに、人魚姫のグラス。律が欲しいと言ったものは、全てとった。もちろん最短ルート、最善の手、最安値で。ここはゲーセン。賢さと、自分の感情をコントロール出来る者が勝つ場所。ある意味パチンコの子供向け版。まあでも、コーギーに至っては1発だったな。他も、かけたって300円未満。つまり最大3回で景品を落としている。そう、これくらいなら、俺と律は損はしていないはず。両手いっぱいに景品を抱えて、はしゃぐ律は可愛い笑顔だ。…よかった。受験が上手くいったことも、律の大好きな人がようやく、少しの楽を得られたことも。律が喜ぶから、笑うから、全部よかった。ゲーセンのそんな景品達も、律の笑顔を見るためにある。俺からすればそう。別に、コーギーも黒猫も、何も可愛くはないし。俺が可愛いって思うのは律だけ。いつからかもうずっと、律1人だけだ。


「ねぇ、次あれは?!」


そうこう考えていると、はしゃぐ律はその高いテンションのまま、今度は大きな猫のぬいぐるみを指さす。またぬいぐるみ。律はぬいぐるみが本当に好きだなあ。でも、俺はその理由を知っている。


「いいよ。白猫さんでいいの?」


深くて、暗くて、つらくて。


「うんっ!」


冷たいその、理由を。



「へへ。文太ほんとすごいね。全部とれちゃった」


しかもあっさりと。全くお金をかけずに、私が欲しいと言ったものを文太は全部取ってくれたんだから、もう嬉しくてにやにやが止まらない。しかも文太は、私が欲しいと言ったものを取るためにゲームをしたのに、そのお金さえ私には100円1枚も出させることはなく。休憩に入ったこのカフェさえ、代金は全部文太持ち。…何か。


「律の欲しいものが全部とれてよかったよ」


当たり前にいつもの柔らかい、どこか可愛さのある笑顔でそう応える文太を見ていると、意識してしまう。何かこれ、デートみたいって。おかしいな。私は、そういうことが嫌いで、というか苦手なはずなのに。怖いくらいに、恋愛が無理なはずなのに。なのにこうしてほんの3時間ほど、文太と過ごしてみれば、文太と付き合える女の子は幸せなんだろうなって、すごく思った。ただの友達である私でさえ、何かデートをしてもらっている気分になって。文太から、自分は大事にされてるんじゃないかって、勘違いしそうになるくらい、色々と気遣われて。なのに全部が自然で、嘘がなさそうにさえ思える。…最近の文太はいつも、自分が言った通りに、本当に毎日私のところに来てくれるけれど、これはいつまで続くんだろうか。ずっとなんて、本当にずっとなんて、そんなわけないよね。勘違いしそうなくらい優しい文太の言葉に、そんな暗い可能性はけれど、確かにある。むしろそっちの方が大きくて、現実的だ。それを思って、私は返す言葉を失くし軽く俯いた。そんな私に、文太はまた柔らかく、聞く。


「…どうしたの?」


それ。くすぐったくなるような、本当のことをつい口走ってしまいそうになるような、文太のその声。話し方。多分、これは文太の作戦だ。ここで本当のことを言えば、私は文太の手の内。本当のこと言わせて、文太は私をどうしたいのかはわからない。だけど、文太はいつも私に本当のことを言わせようとしてくる。これも昔からだ。思うのに、わかってるのに。


「…文太は、いつまで私と一緒にいてくれる?」


やっぱり素直に、馬鹿みたいに素直に、私はこの胸にうずまく不安を、今もまた口にしてしまって。どこを見つめていいかわからない私のこの目は、迷ってとりあえず、手元のアイスココアへと向ける。意識したわけじゃない、何か自然に。そんな私に文太はそっと、教えるように応えてくれた。


「ずっといるよ?ずっと」


だけど告げられたそれは、そんなの。


「嘘だよ」


「どうして?」


そう、嘘。なのに、どうして?すぐに返された、のは、どうして…。何か、心臓が変に脈打つ。うるさくなる。動悸なのかなってくらい、強くしつこく。私は文太の方を、何故か見られない。俯かせた顔をもうすっかり、前へと上げられない。何、この感じ。わからない、知らない。なのに文太はその答えを知っているみたいに、私を導くんだ。


「ねぇ律、俺達付き合おう?」


どこまでも優しく。テーブルの上に何気なく置いていた私の手を、文太はその両手でそっと、とる。他のやつにやられたら怖くて、振り払うこれはだけどいつも、文太なら平気だった。昔から。何も、考えなかったわけじゃない。…特に、中2のあの日、12月の25日。やけに謙が、私にくっつく文太を引き剥がそうと、「歳を考えろ」とか言ってたその時。考えて、でも。やっぱり文太なら、私は怖くなかったんだ。どっちかっていうと嫌だったのは、そんなこと言う謙の方で。そんな謙が嫌で。全てを見透かしているように、文太は言う。


「俺なら、怖くないでしょ?」


だけどそれは誰にも、明かしたことがない。明確には、誰にも何も。勘づいてておかしくないのは、それこそそう、いつも私の側にいた楓だけ。の、それを、やっぱり文太は見透かしていたのか。どうしてと疑問に思うだけ、何か無駄だ。この天才は昔から、人を見る目というのか、そんなのがあって。そしてそれで知られる度、私は何か安心する。文太が私の、恋愛恐怖症のようなこれを知っていることはもちろん、あまり他の誰かが見ていないような私を、文太だけはひとつでも多く、見てくれていると思うと。察してくれていると思うと、互いが小学生だったあの頃から少し、安心するんだ。…あ、そっか私。そこでようやく気づいた。私がどうしてこんなに、ほとんど皆無な文太からの連絡、それにこだわったのか。中学に入ってからすっぱりと途切れた文太との繋がり、それを求めたのか。私は文太との間に、確かな精神の結び付きと、安心を感じていたんだ。唯一、弱い自分を見てくれて、認めてくれる文太との、それがなくなるのが嫌だった。文太から一方的に解かれてしまったのかと思うと、恐ろしくなった。私は文太をもうずっと、求めている。それが恋なのかは、まだ上手くわからないけれど。でも、私が文太の彼女になれば、少なくともただの友達でいるより、ずっと一緒の可能性はこの先、上がることになる、し。色々気づいて、少し迷って、私は。


「…うん」


日暮れのカフェの喧騒の中。その賑やかさに吸い込まれそうなくらい、小さな声で頷いた。文太には、私の返事が聞こえたかな…?不安になって、そっと顔を上げる。目の前にいるはずの文太の顔を窺えば、そこには。


「よかった」


私を見て嬉しそうに、なのにどこか安心したように微笑む、文太がいて。何。文太って言えばいつも愛想良く、何か可愛く、朗らかに笑うのに。何か違う表情を見てしまった気がして、私は文太を見つめたまま、そこから目を逸らせない。


「俺、ずっと律が好きで…ずっと、頑張ってきたんだ。だからやっと、律に振り向いてもらえて、本当に嬉しいな」


なのに文太は純粋に私への思いを語る。明かすから。私は何も言えないまま、ただ不自然なくらいに自分の頬が、熱いのを感じていた。


文太と付き合い始めたことは、翌日学校で顔を合わせた楓には、何かすぐには言い出せず。でも文太って、愛情表現がストレートだし、その頻度も多い。「いっぱい連絡するね」。昨日、文太に家まで送ってもらい、別れ際そう言われたけれど、それは確かにほんとだった。


「りっちゃん、またスマホ光ってるよ?」


私が手にするスマホ。その画面がまた明るく光って、それを目にした楓が不思議そうに、でも変わらずの柔らかな声音でそう言う。


「あ、うん」


付き合うって、そんなの初めてだからわかんない。でも、文太から連絡がないと寂しいから、こうしてまめにメッセージがくるそれは、私としてはちょっと何か、嬉しいと共に安心で。今度は何だろ…。さっきは、2限の授業がつまらなかったけど、寝なかったから褒めてって、そんな内容だった。今度は。


「そんなに誰とメッセージしてんの?りっちゃん」


「えと、彼氏…」


叶恵に聞かれて、文太からのメッセージに意識がいっていた私は、うっかり応えてしまう。言えば叶恵も、楓も、この場にいたこやたも絶句して。やば。口が滑った。ていうか何。私に彼氏って、そんなにイメージない?失礼しちゃう。思うけれど何か、みんなが考えていることは違う…のか?それぞれ驚いたような、ショックを受けたような顔で固まる3人を、私は文太からきたばかりの、「律、無理してない?大好きだよ」のメッセージを片手に、見つめていた。


り、りっちゃんに、彼氏…。まさか、まさかとは思うけれど心当たりなんて1人だけしか、私の頭には浮かばなくて、私はその日の夜何か恐る恐るの手つきで、りっちゃんへと電話をかけてみる。スマホを持つ手さえ震えて、でもこんな話、スピーカーじゃできない。だから、取り落としそうな手でそれをしっかり耳に当てて、至って普通に私の電話に出てくれたりっちゃんへと、私は聞く。


「楓?どうしたの?」


声は本当、いつも通りだ。いつも通りじゃないのは、当然私。


「り、りっちゃん、その、今日言ってた彼氏って…」


聞きたいことの全てを、口にすることさえできない。それくらい不自然な私に、りっちゃんは何か察したように、「ああ」と小さく呟く。それから、教えてくれた。


「文太だけど」


「やっぱり!」


あ。大変。色んな意味で驚くあまりに、食い気味に言葉が出てしまった。そうだよね、2人って2月の…バレンタインの終わり頃から、何だか急にすごく、恋人みたいな感じだったもん。りっちゃんの彼氏、その相手が文太くんであることには、正直驚かない。むしろ見る限り2人はとても仲良さそうだから。今日の帰りだってそうだった。仲良く手を繋いで、楽しそうに話をしていた。むしろ私が、邪魔者かな?っていうくらいに。だから、そこはいいとして。肝心なのはどうして、りっちゃんが彼氏を作る気になったのか、だ。…あんなに、あんなに恋愛の意味での男の人や、恋愛感情そのものすら恐れていたりっちゃんが、どうして。思い出すのは今年度の初めの方。小夜太くんに好かれているのではと、そう考えただけで、小夜太くんを酷く恐れていたりっちゃんの姿。なのに。ええと、どう聞いたらいいかな。悩みながら私は、言葉を探していく。


「そ、その、文太くんとりっちゃんは、仲良いもんね!」


「そう?最近まで全然、通話すらしてなかったけどね」


あ、あれ?上手いこと、りっちゃんの核心に迫るために、私が何となく選んだ言葉に返されたものは、だけど2人の関係が何か薄いものなのかとさえ、疑ってしまいそうなもので。…まさか適当に付き合ったとか?そんなの、その先には幸せはないって、私がよく知ってる。何せ私自身がこれまでずっと、そんなお付き合いしかしてこなかったから。こんなものは馬鹿だ、無意味だとようやく理解して、だから私はもうこの1年以上彼氏は作らず…。自分が本当に好きになった人と、そうなりたいって、みんなが当たり前にわかっていることにようやく、私も気づけたんだ。だけどりっちゃんもいつかの私と同じなら。傷ついてほしくなくて、私は慌ててこの口を開こうとして、だけど。


「でもさ、めちゃくちゃ楽しいんだよね。ていうか、連絡くらい最初から寄越せって、話だよね」


…あ。電話口から聞こえたりっちゃんの声。楽しそう、ではなく、ううん楽しそうだけどそれ以上に、すごく優しい。それに、すごく嬉しそう。…そっか。どうして、りっちゃんが文太くんとお付き合いする気になったのかは、わからない。多分今の私には、まだ。大人になったって、りっちゃんのこの感覚は、私にはわからないかも。


「…そっか!でもほんとだよね、連絡くらい、いつでもくれていいのにね」


でも、大好きな親友のりっちゃんが幸せなら、私もすごく幸せ。好きな人と付き合うって、その人と一緒にいて安心するって、こんなにあたたかい気持ちになるものなのかな?私はりっちゃんから、このスマホを通してお裾分けしてもらった、とてもあたたかい気持ちを、目を閉じてぐっと確かめていた。


卒業式は何か、ぼーっとしていたらいつの間にか、終わった。どーせ大したこと何もないだろうと思って入った中学、その3年間。蓋を開けてみれば、楓と離れて寂しかった1年目、万理華達から虐められて過ごした2年目、受験で埋め尽くされた3年目。残ったものはというと。


「りっちゃん、私と写真撮ろ~っ!」


「ずるい、私が先」


いつも通り、梨々花と愛のそのやりとりに、私は潰されるか裂けるかの2択になりそうだ。そこに叶恵が上手いこと仲裁に入ろうとして、でも。


「はいはい!ここはみんなで撮ろう、みんなで!」


「るるもりっちゃんと2人がいい~!」


「るー?!」


ルミカが悪ノリするんだから、そうすると収拾がつかなくなる。私を囲んではしゃぐ梨々花達を前に、その隙間から覗き見えた楓と天音は相変わらず、和やかな雰囲気。


「りっちゃん、人気者だなあ」


「ほんとだねぇ」


いや和んでないで助けてよ。潰れる。もしくは裂ける。本格的にそれが見えてきた中で私は考える。残ったものってなんだろう。この3年で、私に残ったもの。…なくない?それは別に暗い意味じゃあない。入学当初の幼い私が手にしていたものよりも、今の私が手にしているものの方が、遥かに質は良いし量も多いし。だから、決して優しいとは言えなかった3年間、残ったものは何もない。私は全てを更新して、新たなものばかりを手にしてしまったから、概念がそもそも違う。回し車をその場でガラガラ回し続けるのではなく、確かに1ミリずつ、1ミリでも多く前へと進んだと、言える結果じゃないのかな、これは。私は私のこの中学校生活に、そう、静かに評価を下した。


宮寺さん達に囲まれて、もう軽く姿も見えなくなってきている律を見ながら、思う。よかったなって。悔しく、ないわけじゃないけれど、何か不思議とすっきりとした気分だった。いつか律は、俺の気持ちに鋭く勘づいた時に、あんなに怯えていた。律らしくない、そんな言葉が似合うくらい、下を向いて立ち止まってしまった。なのに、今律が付き合っている人は、律を怯えさせることも、立ち止まらせることもない。きちんと律を、律らしいまま、そこに立たせて前へと押していて。俺には、無理だな。きっとできない。あの時できなかったんだから、きっとこの先何度試したって、俺には恐らく。


「なあ、作間に告白してこなくていいの?」


何も知らない友達は聞く。それは気遣いだ、からかいでも何でもない。だから俺は笑顔で返した。


「うん、大丈夫」


まだちょっと、無理があるかもしれない。自分でもわかる、そんな笑顔で。


今日はさすがに文太には、「迎えに来なくていい」と言っておいた。せっかく卒業式の後だし、みんなでどこかに行こうと、そうなると予想したからだ。案の定そうなって、私達はみんなでの写真撮影の後、近場の適当なカフェを目指す。て言っても、そりゃまあ卒業式の後だし、同じような考えの人多いだろうな。混んでそう。そこに向かおうと、いつものように校門から出ようとしたその時、万理華が私へと声をかけてきた。


「律子」


いつぶりか、普通に名前で。


「ん?」


それに私も普通に返せば、万理華は…2年の、私を虐めてた時とは違って、今は1人だ。卒業式なんて、友達とわいわいやるイベントの時に、その友達が多い万理華が1人?何か腑に落ちなくて、私は自分の頭の中に疑問符を浮かべる。万理華は、私から少し離れたそこで、でも。


「あ、ねぇ」


万理華が口を開くよりも、私が先に口を開いてしまった。私としては無意識にやったそれ。しかし、対して出鼻をくじかれた万理華は、開きかけた口をまたそっと、閉じる。私はそんな万理華の髪、それを見て、失礼にも軽く指さえさして言った。


「高校、髪染めていいとこならさ、万理華は何かバイオレットアッシュ似合いそうな気がする」


唐突な私の言葉に、言われた万理華はもちろん、私と一緒にいる楓達さえも、私を見て目を丸くする。唐突なことは私も理解しているけれど、だって万理華に今の、地毛の黒って似合わない。この子、容姿が大人っぽいお嬢様なんだから。ていうか中身も高飛車そのものなんだから、もうプライドの高いお嬢様丸出しの方が、むしろ好感が持てる。だからそう言えば、万理華は丸くしていた目を面白そうに、なのにやっぱ気の強さが窺えるように細めて、笑った。


「あんたは今のままが1番よ」


へへ、そっか。この紺藍の髪、私は別に好きでも嫌いでもないけれど、万理華が言うなら私にはこれが1番な、気がした。


その後、楓や梨々花達とカフェで行った打ち上げは、それはもう楽しく終わった。もちろんその行先は、カラオケとかもいいねってなっていたんだけど、私達が揃えば歌より話。いっつもそう。他の何かなんてまるで余計で、みんなそんなのわかりきってるから、迷わずカフェでの打ち上げにする。楽しかったな。卒業式は正直ちょっと眠かった。あれに楽しさはない。来ていた母さんは、泣いていたらしいが。でも参加する生徒はまあ、「早く終わんねぇかな」って、式の最中みんな思ってるよね、うん絶対。自分基準で物事を定める悪いことをしつつ、風呂上がり、私は自室で、来ていたこやたからのメッセージに返す。こやたとは本当話が合うから、連絡はいつもお互いまめだった。別に「早く返さなきゃ」とか、「何か話さなきゃ」とか意識してるわけでも何でもない。ただ楽しいから、それだけ。


打ち上げと言えばこっちもだ。忘れちゃいけない、謙達。私を含めて、みんな幸い第一志望に受かり、未来は明るい。明るいからこそ、久しぶりに全員で顔を合わせた、中学卒業の打ち上げも明るい。こっちもこっちでカラオケとかより話メイン。だからやっぱり、適当な安めのカフェに集合。私はそこに、文太と2人で向かった。楓の方がずっと家が近いけど、「邪魔しちゃ悪いし…!」と何か気を遣われて。…まあ、楓としても気まずいか。どちらも自分の友達とはいえ、カップルと一緒に歩くのって。ていうか遠回りになるのに、わざわざうちまで来る文太も、毎度の事ながらすごい。色々思いながら、文太と一緒にみんなとの待ち合わせ、兼会場であるここに来て。とりあえずみんな飲み物だけ頼んだ。あとは自由に食べたいものあればって感じで、私達が集まると自由度が高い。そんな中文太は。


「ねぇ律、フルーツタルトもあるよ?フルーツタルト~。」


「あ、ほんとだ。」


メニュー表を手に、私の好きなものばっかり、私へと提案してくる。カフェに入る時に、お店の入口に立てかけられたメニュー表にあったケーキを、「美味しそう」って、私がつい零したからかな。文太は飲み物が来るとさっそく、定番のショートケーキや、さっきにはミルフィーユなど、色んなものを私に薦めていて。でも今言われたフルーツタルトもいいな。内心悩んでいると、私の左隣に座る文太の反対、つまり私の右隣に座る楓も、色々薦めてきて。


「りっちゃん~、チョコショートは?」


「あー、それもいいかも」


私は苺が好きだから、苺が使われているものはわりと何でも好き。楓が差し出したメニュー表の写真を見れば、薦められたチョコショートにも、ばっちり苺。だから素直に、「それも」と言ったらこれが地雷だった。文太は楓と言葉を交わす私を見て、言う。


「じゃあ全部頼も?」


「えっ」


当然のように、優しくふんわりと。驚いて私も楓も、この向かいに座る謙も宙も、同じような声を上げる。え、だって文太と楓が私に薦めたケーキは、少なくとも合わせて4つ。どれも別に、写真を見る限り、サイズが小さそうにも見えないし。そう驚く私達に、文太は続けた。


「大丈夫大丈夫。俺と半分こしよう?」


ああ、まあ、それなら…?食べられる、ような気がして、でもそんなに頼んでお金足りるかななんて、私は自分の懐事情をこっそりと心配して。そんな私達を前に、声を上げるどころか荒らげたのは謙。


「いや、何が大丈夫なんだよ!そもそも律にそんな金あんの?!」


「失礼だなおい」


言われたそれには思わずそう、即座に返してしまった。まあでもそりゃそうだ。私といえば貧乏。貧乏といえばこの私、作間律子。わかってる。何でか怒りながらつっこむ謙に、文太は相変わらずマイペースに返す。


「大丈夫だよ、律の分は俺が払うから」


「はあ?!」


え。…また、払ってくれるんだ。マイペースな文太に、驚く謙。2人に反して私は内心思わず、嬉しくなる。前、2人で一緒にゲーセンに行った時。文太から告白されたその日も、そうだった。文太は私に一銭も出させず、それどころか当たり前に奢ってくれて。文太って本当、女の子に優しいんだな。いい彼氏もったなーなんて思っていると、そこに宙がふと。


「…2人って、付き合ってるの?」


そんな鋭いことを零して、それを聞いた私は、そういえば宙と謙には確かにまだ、言ってなかったななんて呑気に思う。それは文太もそうだったみたいで。宙に問われて見せつけるように、文太は私を抱き寄せた。


「うんっ!可愛いでしょ~」


いや、私と、謙、宙は今が初対面じゃないし、もう何度目かわからない何度目かましてだからな?つっこむ、けど、何か文太が相手だから、私はそれを声にはしないでおいてやって。…それより、何か。私の前に座る謙が、変に目を見開いて、いつもみたいに文太に抱きつかれている私を見てるから、何?気になって。


「可愛いって、別に律のことは前から知ってるよ、俺達」


宙が軽く笑い混じりに、私が内心で思ったようなことと同じように文太へと、つっこむ。文太は「いーの!」と、とにかく私が自慢みたいで、離れなくて。謙は黙り込んだまま、私を見たそのまんま。明らかにおかしい謙の反応に、文太に抱きつかれて苦しいながら、どうにか私は謙へと、声をかけてみる。


「…どうかしたの?謙」


私が聞けばみんなも謙を見る。別に悪い意味じゃない、心配で。だけど謙はみんなからのその視線に何か、気まずそうに目を落として。


「…あ…いや…」


ものすごく、気まずそうに言葉を詰まらせて。だけどみんなが、その先を待つ。どうしたんだろう。こんなの、いつも真っ直ぐな謙らしくない。何か悩んでるなら教えて欲しくて、待った言葉は。


「…何で、文太なの?」


聞いた瞬間、私の心に鋭い氷柱でも刺さったように、そこから心が冷えて凍ったような感覚が、した。「何で、文太なの?」。何で、そんなことを聞くの?この感覚、嫌だ。またする。逃げたくなって、そんな時文太は私からその手をそっと離すと、柔らかく微笑んで告げた。


「え~、酷くない?俺だって、かっこいい時はかっこいいもん」


いつも通りのふわふわとしたその話し方、きつくない言葉選び。それに何か、私の心がほんの少し救われる。対して謙は何か戸惑ったまま、目線を下に落としたまま、続けたんだ。


「…や、だって、何で文太…」


同じ言葉を、繰り返し。何でって、何で、何で。何で?


「何で、そんなこと聞くの」


聞いちゃ駄目だ。必死に押さえつけたのに、その言葉は私の口から止まらずに出てきた。酷く冷たく、重たい声音で。誰の顔も見られずに俯いて聞いて、それで。


「何で、何でそんなことを聞くの」


私も繰り返した。同じ言葉を続けた。変わらず戸惑ったままの様子の謙を、今度は真っ直ぐ睨むように見て。詰め寄るように見て。これじゃ今の私がしてるのは詰問だ。なのにどうして。


「わる」


「思ってないこと言わないで」


私は、止まれないんだろう?続く言葉なんて想像に容易い。こんな時に何て返すか。そんなこともわからないくらい、私は謙を知らないわけじゃない。だけど私はそれを許さなかった。私が、私だけがおかしくなったこの場で、みんなが私を異質なものを見る目で、射抜く。耐えられなくて、また俯いた。私が悪い。わかってる。逃げ場もないから、情けなく逃げることも出来ない。私。


「大丈夫だよ」


思わず自分を必要以上に責めようとした時、私の隣からその声は上がる。やっぱり柔らかくて、ふわふわしてて、全然厳しさも鋭さも何にもない声が、馬鹿な私にだってわかるように、優しい言葉で。文太は言った。


「こういうのは謙が悪いんだから、許さなくておっけー」


掴みどころがどこかない。文太のそんな笑顔を見ていると、本当にそんな気がしてくる。謙が悪い、のか?でも私だって。それでも私の中で考えがまた一周巡ってきた時、反対からも声が上がった。


「そうだよ。謙くんてば、失礼しちゃう。それに、文太くんとっても優しいよ~?」


楓。楓が他人を、誰かをこんなふうに軽くでも批判するところなんて、見たことがないのに。なのに今私の隣にいる楓は、ちょっとむっとした可愛い顔で、それでも謙に文句を言っている。


「本当だね。野暮ってやつじゃないかな」


その上宙まで、謙に呆れたようにそう言うんだから、味方のいなくなった謙はどこか申し訳なさそうに、それから気恥しそうに笑って、いつもの明るい声音で言った。


「だよな!ごめんごめん!」


私が、1度は押さえつけてしまった謙のその言葉を、みんなが代わりに引き出してくれた。


少し、出だしが転けてしまった謙達との打ち上げは、それでもその後は楽しいばかりだった。全国大会で優勝したという謙は、もう本当天才バドミントン選手。昔からそうだったけど、今回のその優勝で、それに拍車がかかった。ついでにその自惚れにも拍車がかかった。だからか謙は胸を張って高らかに、その夢を口にする。


「俺、いつかオリンピックとかで金メダルとってたりして!」


「ないない」


「なーい」


「ないでーす」


「あはは…」


「何でだよっ!」


私にも宙にも文太にも、あまつさえ楓にも苦笑いを返されて、謙は怒る。私達は謙のその反応に声を上げて笑って、でも多分みんな信じてんじゃないかな。謙がいつか、そんなでっかいことさえ、成し遂げるんじゃないかって。何せ謙はラケットとお友達だもんね。嫌味半分、本音半分で、それをまた私は口にする。


「まーラケットとは永遠にお友達でいらして?」


「るっせ言われなくても!」


それに謙は食い気味にそう、返した。



「で?その文太さんとやらは、将来何になるんですかねぇ」


文太のくせに彼女なんか、て嫌味の続きだろうか。さっき感じてしまったあの感覚は、とりあえず謙の中での僻みだと、私はそれを鋭く受信してしまったのだと考えて、もう軽くそうまとめていた。そうじゃないと、あの感覚を突き詰めれば、私はまたおかしくなりそうな気がして。嫌味たっぷりに聞く謙に、対して文太はのんびりと、応える。


「俺~?医学部かな!」


「…天才は天才ルートを行くのか…」


その答えに謙は何か、明らかに肩を落としてそう呟いた。まあ、確かに。スポーツの天才が謙なら、勉強の天才は文太で、医者なんて典型的…かもしれないけど天才らしいルート。そんな気がする。それに純粋に、尊敬の声を上げたのはやっぱり楓。


「へぇ、すごいね!どんなお医者さんになりたいの?」


尊敬ついでに楓が聞いたそれには興味がある。みんなもそうみたいで、この時誰もが文太へと一瞬目をやった。文太はそんなことさえ気にせず、相変わらずの調子で応える。


「外科医かな~。細かいとこはまだちょっと悩み中」


決めてないとくるのかと思ったら、もう大体は決めていて、しかも詳細は「ちょっと悩み中」。文太って、雰囲気とは違ってやっぱりしっかりしてるんだな。そんな文太は私を見て笑顔で言う。


「あ、異論は認めるよ!」


「は?」


異論?医者じゃなくて、例えば普通にサラリーマンとかはどうですかって、文太に誰かが提案するそれのこと?でもそれを何で私を見て言うの?わからず、目を白黒させて文太を見ていると、謙はつまらなさそうに「何で異論」と、そもそも天才な文太には、天才らしく医者でいいだろう的な言葉を零していた。


私と宙と楓は凡人…って言っても、2人だって私からすれば天才だけれど、でも謙や文太に比べれば凡人だから、この先のことなんて聞いても誰も、「まだあんまり」だった。まあ、それが普通なんじゃないかな。「オリンピックで金メダル」とか、「医学部出て外科医」とか、そんな具体例、中学卒業直後の15歳で既にある方が、少数だと思う。…ついでにちょっと、恵まれてるとも思った。だけど楓は言う。


「この先の高校生活とか、日常生活で起こることで、それに影響されてこれからの未来を決めてもいいんじゃないかなあ。私達まだ、変身まで時間があるんだから」


あ、その考え。


「ほんと、それ」


そういうの、好き。思って私は笑顔で頷く。何にでもなれるって、そういうの、ほんと好き。迷った時、立ち止まった時、苦しんだ時。答えがなかなか出ない時。それは自分が変われる瞬間だと、そう捉えて頑張れる人って、私は本当に素敵だと思う。楓のように。


帰りは、何故か文太は俺と宙についてきた。


「んだよお前、律んとこ行けよ」


暗に律から振られたそれが悔しくて、文太に負けたそれが死ぬほどつらくて、何とか律の前では耐え抜いたけれど。今のように場に宙とついでに文太だけになると、俺はそれを抑えきれず、見せてしまう。俺にいつも以上に冷たくあしらわれながらも文太は、それでも律のことを楓に「ごめんね」と任せて、俺達と帰ることを選んだ。何だこいつ、嫌味か。何でわざわざ俺達なんかと。悔しいだの悲しいだのつらいだので、とにかく尖りまくる俺に、文太はいつも通り。


「いいじゃん。男同士仲良くしようよー」


「きもい!」


何だこいつ、男子校でホモにでも目覚めたか。何て言ったらホモに失礼か。にしても、なら何で彼女なんか作った。しかも律。何で律。俺だって。バドミントン選手の皆川謙といえば常勝。その称号、言葉が子供の頃からついて回る。でも俺は、勝ちばかりを得られるそんな超人じゃない。時に負けることだって、当たり前にある。でも常勝の皆川謙を信じてる周りからすれば、そんなことは有り得てはいけない。有り得ないんだ。負ける度それがつらい。思い出したくもない色んな人の、その声。負けた俺へと向けられる言葉。常勝が途切れた時、でも律は昔からいつも、俺に言う。「じゃあこっからが常勝だね」。その言葉に、俺は何か違うものを見た。感じた。何かは未だに、正確にはわからない。でも初めて律にその言葉を言われた時から、例え何度負けても俺は律に「もっかい」と言われ、底から這い上がるそれを繰り返す。何度でも頂点へ。ありきたりだが繰り返してきた。律が「こっからが」というから、きつい練習も何もかも、何とかなった。律は俺の精神の支えだった。常勝、皆川謙は律なしでは作れない。だけど、それに気がつくのが遅すぎた。遅すぎて、タイミングまで悪くって。…あーくそ。考えるほどに文太に腹が立つ。俺が、もっと早くに自分の気持ちに気がついていたなら?そんなのは無駄だ、わかってる。考えるだけ大事なエネルギーを無駄に使う、そんなそれだって。なのに。


「俺は律が1番だから」


ふと、自分の考えが文太のそれで途切れる。1番。俺は律をいつも、何番目にしてきた?それこそ、そう。いつか、人生で初めて出来た彼女に振られた時。俺は彼女を大事にできてたのかって悩んだ時。俺は周りを大事にするって決めたのに。


「ずっとそうだったし、今となっては公にそうしていいものだから、謙の味方は悪いけどできない。でも気持ちはわかる。律はとても強いし、時折俺でもわからないくらいの、考える天才だし」


何番目に、してきた。文太の言葉を聞きながら、それがすぐにはわからないくらい、俺はきっと律を後ろへと追いやっていた。自分の中で後ろへと。前に引っ張り出すのは多分、いや確実に、自分の都合の良い時だけだ。話したいとか、愚痴を聞いて欲しいとか、試合で負けた時とか、そんなそれだけ。挙句自分の何かを押し付ける時か。じゃあ俺と文太で何が違った?文太なんて、「あいつ中学入ってから、メッセージのひとつも寄越さない」と、いつか律が零していたのに。だけど何となくわかる、答えは。


「だけど忘れないで。律はいつでも様々、謙を信じているから」


そこに”思う”とすらつかないほど、文太が律のことをわかりきってんのは、間違いなく精神的な繋がりだ。律と、文太との。きっと文太はずっと、律だけを1番に見てきたんだろう。まめな連絡なんて、2人の前ではくだらないものになるくらいに。そんなものなくてもいいくらいに。何も言えない俺に、ここまでをずっと、静かに見ていた宙が言う。


「…負けだね、謙」


常勝なら、やっぱ俺だったと思う。だけどその間に天才は、策略していた。自惚れず僻むことなく、なのに自信に欠けることなく。主審のコールで、1度きりのゲームは終えた。酷く、静かに。

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