つけない嘘

来る修学旅行の行先は、北海道だ。


「やった、りっちゃんの生まれ故郷だ!」


つっても私、生まれた札幌を1歳になる手前で出ているから、そこで育った記憶は1ミリもない。だけど楓は、私が生まれた北海道に行けることが、嬉しいみたいで。


「班もりっちゃんと一緒だし、すっごくラッキー!今年はついてるなあ」


そう。そこは私も同意。でも北海道かあ。育った記憶はなくても、祖父母の家に行くのに、親が離婚するまでは毎夏、毎冬行っていたから、私からすれば面白みはない。


「そーねー」


だから気のない返事がつい、口から漏れる。楓はそんな私に気がつきながらも、「楽しみだね!」ととにかく、明るかった。


修学旅行の班、楓と一緒なのはいいけど、叶恵と別になってしまったのはすごく残念。だから、今回の班は決して最高とは言えない。…こやたも別だし。あれからすっかり、主にお菓子談義で仲良くなったこやたと、私は帰る前にまた軽く、それに関する話をする。


「きのこの村のさ、クラッカーだけってあれ、タルトに使えそうじゃない?生地の部分」


「あー確かに!さすが律。砕いて固めれば、お手頃簡単タルトだね」


「へへ、やっぱそうだよね」


市販のお菓子って、何でそれ売り出した?みたいなのが結構多い。一目見ただけでは、それらはただ面白くて、誰が買うのこんなのって思うけど。私が口にしたクラッカーは、きのこの村のそれに限らず、砕いて固めれば大抵何でもお手頃お手軽なタルト生地になる。タルト大好きな私の、ちょっとした雑学だ。ほんとに何処にも、何の需要もないけど。楓と帰るその前に、こやたと話にふけっていると。そこに叶恵がやって来て、言った。


「2人って本当いっつも、お菓子の話ばっかじゃね?」


「あーうん」


間違いないからそれにはすぐに、私が頷く。楓は何か、今は同じクラスの男子に呼び出されて、ここにはいなかった。また告白でもされてんのかなー。楓と同じクラスになってから、楓のモテっぷりっていうのはそれはもう、前よりもよくわかるようになった。確か先週も呼び出されて、告白されて断ったとか言ってたような。大変ね、本物の美人って。私がそう考える間も相変わらず、叶恵にはちょっと引き気味、押され気味のこやたを見て、私はふと思い出す。そういえばこいつは、楓目当てかと思ったら違かったんだっけ。じゃあ、何でこいつは、楓や私、叶恵に関わったんだろう。この5組のクラスの割振り表の前、「やった!」なんて笑顔で、でかい声さえ出して。…何だろう、もやる。


「ね、今度2人でお菓子作ったら、私にも寄越しなさいよ。いい?」


「は、はい」


叶恵に迫られて、ぎこちなく笑うこやたを見て、自分の中の変な感覚を確かめる。…この感じ、やだ。ずっと逃げていたい。この間隔からは、ずっと。


呼び出されたのは、何だろう。また、「見た目が可愛いから」の告白かな?男の子からのそれっていうのは、贅沢なことだけれど同時に困ったことに、絶えない。辟易するくらいには。今度のはそれじゃないといいなあ…。ちょっと、暗くなりがちな顔でそう思う私に、彼は言う。


「あの、宮寺さんって作間さんと仲良いよね?」


「え?」


それは、もちろん。


「う、うん」


その通りだから、動揺しながらも頷く。りっちゃんに何か、あるの?自分のこと以上に、りっちゃんの名前が出てくると私は、相手を警戒してしまう。他でもなくりっちゃんに、もうこれ以上傷ついて欲しくないから。相手が何か、りっちゃんにするんじゃないかって、必要以上に考えて。密かに構える私に、彼は続けた。


「だ、だよね。それでその…俺、作間さんのことが好きなんだけど」


え?


「共通点がなかなか見つからなくてさ。何か、作間さんの好きなこととかって、知らない?」


…忘れてた。すっかり、中学に入ってからずっと、私はりっちゃんと別々のクラスだった上に、しばらくりっちゃんと、噛み合っているようでほんの少しだけすれ違っていたから。りっちゃんは、すごくモテるんだった。「小さくて可愛い」って。「なのにかっこよくて可愛い」って。小学生の頃も高学年になるとよく、周りから「律子と仲良くなりたいから協力して」と言われたことを思い出す。でもね、そんなこと私に言う時点でりっちゃんは、その人になんて振り向かないんだ。私はそれを知っている。だから悪いけれど、はっきりと、私は今目の前にいる彼にも、伝えた。


「りっちゃんは、あなたのことは好きにはならないと思う」


「え…何で?」


言えば、彼は少し不満そうに。けれどそれを懸命に抑えて、私へと聞き返す。何でかなんてとっても簡単。りっちゃんの周りにいる男の子を見ていれば、すぐにわかる。謙くんも宙くんも文太くんも、小夜太くんだってみんな、りっちゃんと関わる時に、”余計な遠回り”なんてしないんだ。それにりっちゃん自身、いつか「小賢しいやつってうざい」と零していたのを、よく覚えている。だから。


「りっちゃんは、真っ直ぐな人が好きなんだよ」


たったひとつのそれだけを伝えれば、彼はもう察したのか、俯きがちに黙ってしまった。



「お待たせ!」


それからすぐに教室に戻れば、けれど声をかけたりっちゃんは、小夜太くんの隣で何か、暗い顔を少し俯かせていた。小夜太くんも小夜太くんで困った顔で、りっちゃんを心配そうに見つめている。


「宮寺さん、おかえり」


それでも私を迎えてくれる小夜太くんに、私は1度目をやると、だけどすぐにりっちゃんへと視線を移して、聞いた。


「りっちゃん…どうしたの?」


私よりも小柄なりっちゃんの、その俯く顔を、ほんの少し身を屈ませて窺えば、りっちゃんは嫌なのか私から顔を逸らしてしまった。どうしたんだろう。りっちゃんは明らかに何かを、嫌がっている。目の前にいる私じゃない。小夜太くんもそれに気がついているようで、とにかく心配そうに、私へと教えてくれた。


「わからないんだ、急にこうなってしまって。和木さんも心配してたんだけど、先生に呼び出されて、また指導だとかで行ってしまって…」


叶恵はいつも通りだなぁ…。こんな状況下でも、叶恵の話は何か場に少しの、呆れという名の和みを残していく。姿勢を正した私はだけど、小夜太くんの話を聞いて、思う。多分今のりっちゃんは現実を、見ているけれど見ていない。りっちゃんって、すごく考えるから。頭を回すその分、どこかで現実を見られなくなる時がある。考えすぎて深みにはまるって、言えばいいのかな?りっちゃん、今度は何にはまっちゃったのかなぁ…。多分、きっかけがあったはずだ。何もなしでりっちゃんが何かにはまることは、まずない。小夜太くんにはそれが”急に”に見えた。その瞬間、私もりっちゃんの側にいたなら、何かわかったかもしれないのに。だけど、こうだったらって考えたって仕方がない。私は小夜太くんに、「そっか。そしたらりっちゃんは私がお家まで送るから、後は任せて」と微笑むと、心配する小夜太くんを置いて、りっちゃんと共にこの教室を後にした。


帰り道、私はりっちゃんに聞いてみる。


「りっちゃん、りっちゃんは何を考えちゃったの?」


素直に、そう。聞けばりっちゃんは困ったように、変わらず俯きがちに、小さく口を開いた。


「…いや…わかんない。ただ何か、何か…」


いつになく、歯切れ悪く迷うりっちゃんの言葉には、苦悩が滲んでいる。本当にどうしたんだろう。りっちゃんがここまで悩むなんて。そっと、続きを待つ私に、りっちゃんは自分でも戸惑いを隠せない顔で、続けた。


「…こやたはどうして、私達に関わってきたの?」


「え…?」


小夜太くん?りっちゃんが何かを悩むきっかけを作ったのは、彼?意外な単語に、私は目を丸くする。だって小夜太くんはりっちゃんが「友達」と言っていた人で。昔から同性異性関係なく、友達を作れるりっちゃんに何かそんな、「男子なのにどうして女子に」みたいな概念があるとは思えず。…私が知らなかっただけ?新たにそんな意識がりっちゃんに、芽生えた?混乱する。頭の中が、私が知ってるりっちゃんと、今目の前で少し差別的ともとれる、りっちゃんが嫌いなことをするりっちゃんで混ざって、ミキサーのようにぐるぐると。


「…それは、ええと」


聞き返そうとしても、何も上手い言葉が出てこない。りっちゃんは小夜太くんが嫌いになっちゃったの?それとも何かされたの…?どちらだとも思えない。どちらも有り得ない。無性にそう思う。だってどっちも、りっちゃんらしくないし、小夜太くんっぽくもない。りっちゃんは混乱する私に言うんだ。


「どうしてこやたは、5組になってあんなに喜んでたの?」


もう十分混乱してる私に、尚更混乱するようなエッセンスを。


「すぐ、楓に声をかけてきたの?」


そっと、差して。そっと言われて。何で?不思議なところを並べられて、問われれば確かに、小夜太くんの行動には引っ掛かりを感じてしまう。それからりっちゃんは言った。何かに怯える目で、私を見上げて。


「なのにあいつは、楓が好きじゃないって言ったんだ」


その瞬間、心臓が痛いくらいに何かを、感じとった。思考よりも早く感覚で悟った。さっきの男の子と同じ。小夜太くんはりっちゃんが好きだから、りっちゃんと同じ5組になってあれほど喜んだ。替わったクラス。そこですぐに彼が声をかけたのは私じゃない。りっちゃん。私が応えてしまっただけで、本当は私の目の前にいたりっちゃんに、小夜太くんは。別にそれは悪いことじゃない。むしろさっきの男の子と違って、気持ちもやり方も真っ直ぐで、好印象を持てると思う。少なくとも、私は。…だけど…。問題は、小夜太くんじゃなくてりっちゃんなんだ。りっちゃんは怖いんだ。りっちゃんは、小夜太くんの行動の本当の理由をわかっている。だけどりっちゃんは、同時にそれに気がつきたくない。どうしても、そこから逃げたい。男の子から女の子として好かれるそれから。


「りっちゃん…」


わかってしまえば尚更上手く、言葉が出てこなくて。私はりっちゃんの名前を呼ぶだけになる。「男なんて」。差別や偏見が嫌いなりっちゃんが、本当にたまに口にしてしまうそれは、いつも恋愛に関することだった。それはいつも、私や他の女の子の友達が、付き合ってる人に振られると明るく告げられる。「男なんて、そんなもん」。明るいのに、すごく冷たく、全ての終わりを見てきたかのように。りっちゃんは、絶望している。男女の愛情なんてそんなもの、無意味だとでも軽く、言いそうなくらいに。


…楓は結局、何も言わなかった。ただ悲しそうな顔をして、俯くだけだった。楓は、多分気づいてるんだと思う。こんな私を。考えなきゃよかったな。そういえばって。どうして、こやたはって…。そうしたら、ずっと友達でいられたのに。もう、友達じゃない。苗字さえ、呼びたくない。この日は勉強をする気になんてなれなくて、心配する楓に家まで送られた私はぼーっと家事をしながら、考える。どうしたらいいかな、明日から。こやたはこんな私を、それでも心配していた。なのに私はこやたを、もう。好きじゃないと言いたいのに、内心ですらそれを呟けない。嫌いなわけがないのに、もう、これまでみたいに好きだなんてそれも、言えなくなった。ここ最近は姉やばあちゃんが、受験勉強に勤しむ私のため、なるべく多く家事を代わってくれていたから、台所に立つのなんか久しぶりだ。家事をするのは嫌いじゃない。むしろ好きな方。なのに。久しぶりに立った台所で、私の目には情けなく、涙が滲んだ。


…どうしたらいいかな。りっちゃん…。りっちゃんを、助けたい。りっちゃんの力になりたい。思うけれど、こんな時私の頭ってものすっごく馬鹿だ。帰宅してから、何にも手が付かない。部屋に引きこもり、机に突っ伏してただ悩み込む。…りっちゃんが、恋愛や男の人を恐れたり、恨むのは、当たり前だ。りっちゃんのお父さんは、りっちゃんが赤ちゃんの頃から不倫していて、その相手との間に子供まで作ったっていうんだから…。おまけにりっちゃんは、お父さんの不倫相手に嫌がらせをされていた。電話で。当時、幼稚園児のりっちゃんは、電話に出ることが好きで、家の電話が鳴るといつも真っ先に出ていたみたい。「さくまです!」。元気に名乗った先はだけど、無言。どこまでいっても無言の、その世界。幼いりっちゃんからすれば、それはとても恐ろしかっただろう。今でもりっちゃんは固定電話がとても苦手で、それを見ることを嫌うし、鳴れば最後。「得体の知れないものがいる」。固定電話から逃げるように距離を取り、りっちゃんは恐怖に震えて、蹲ってそう零すんだ。どこを見てるかもわからない目で。…どうしたら、いいかな。男の人はそんな人ばっかりじゃないって。そんな不幸を招いたり、起こしたりする人ばかりじゃないって、どうしたらりっちゃんにわかってもらえる?正確には、りっちゃんはもうわかってると思うんだ。りっちゃんはとても頭が良いから。でもりっちゃんの心が、それに追いつくにはどうしたら。考えたって、駄目だ。明日、学校に行けば、りっちゃんをあれほど心配していた小夜太くんは当然、りっちゃんの元に1番に来るだろう。小夜太くんは優しくて、思いやり深くて、それから…繊細だから。りっちゃんに拒絶されたら、きっと小夜太くんまで傷ついてしまう。私…。……ん、よし!ひとつ覚悟を決めると、私は意気込んで勉強机に伏せていた上体を起こす。唯一、全部を知る私にできることは、思いついた限りにひとつだけ。


「ええと…」


確か、一応交換した、小夜太くんのSNSは…あ、これだ。アイコン、わんちゃんとのツーショットだ~、可愛い…じゃなくって。…もし、これを知ったらりっちゃんは怒るかな。それでもいい。りっちゃんの気持ちが落ち着くまでの、少しの時間稼ぎにでもなれば。一瞬、りっちゃんとの友情が壊れたらと考え、揺らぎかけた決意を固め直すと、私は小夜太くんへとメッセージを送った。


翌日。憂鬱な気分で学校に行けば、でもこやたは何か、私なんて何も気にしてなかった。よか、った。今、こやたから何か関わってこられたら、私何を口走るか。…それこそ酷いこと、言うと思う。なのに何か、いっつも私に何かしらで関わってこようとするこやたが、こちらをまるで見ないそれは、寂しくて。…寂しいなんて感情、くだらないのに。こんな、あんな父親が抱いたもの。放課後になっても、こやたは私なんてまるでいないみたいに、無関心のまま。こやたとの世界が途切れたように、私は感じていた。


気になるけど、宮寺さんから言われた通りに、俺はそれを意識する。…あ~、駄目っ。律の方は見ない。もう、わざと丸出しでもいい。絶対見ない。そんなことをしていれば、いつも仲良くしている男友達には、すぐにそれがばれて。


「何だお前、作間に振られた?」


からかって、そう言われる。友達は俺がずっと、律のことを好きだってこと、知っているから。


「違う!」


だけど、この時ばかりはそれについ、強くそう返してしまう。友達は何も知らないんだから、こんな言い方では駄目だ。すぐに反省して、でも。…そもそもこれは、振られる以前の問題だったんだ。そんな単純なことじゃあ、なかった。交換するだけ交換して、何もやり取りなんてしていなかった宮寺さんから、昨日の夜メッセージが来て。見てみればそれは律に関すること。律は…複雑な家庭環境から、恋愛が絡むと男性が苦手で、怖いのだと、簡単にそう告げられた。それはつまり、宮寺さんにもあまつさえ律にも、俺の気持ちっていうのは昨日時点で、バレたって意味で。…ついでに、しばらく引っ込んでろって意味で。昨日の放課後、律がああなったのは、間違いなく俺のせいだ。宮寺さんは丁寧に、俺へとメッセージで頼み込む。「りっちゃんの気持ちが落ち着くまで、少し、りっちゃんと関わるのを控えてほしいの。こんなこと言ってごめんなさい」と、優しく謝罪付きで。そんなの、誰かに言われなくたって律の事情を知った瞬間に、自分でもう決めていた。律が、また元気になるまで俺は、律の周りから消えようって。…もしこのまま、卒業まで律の調子が戻らず、俺が律の友達に戻ることができなかったなら。その時は、自分の気持ちごと消してしまおう。全てなかったことにする。それが1番、律にとっては大きな救いなんだから。…きっと。


修学旅行の準備は進んでいく。修学旅行で北海道となれば、五稜郭だとか、行先はやっぱそんなとこで。…こやたとの関わりは絶ったのに。何故か勝手に途絶えたのに。それがすごく寂しくて、私はあれからずっと憂鬱だ。お菓子作りっていう趣味相手が、1人減っただけじゃない。他なんて代わりに、いくらでもいる。言い聞かせたって、私の中の私は首を横に振る。すぐに、大きく、何度も。何で。関わったってそんなの、いいことない。だってあいつは私のことを、そういう目で見てるかもしれないのよ?班での自由行動、どこに行くかなんてそんなくだらないことより、私には自分の内にあるこの問題の方が、よっぽど大きかった。…苦しさのあまりすぐに、解決しなければならないような気がして、焦っていた。


りっちゃんはあれからすっかり元気がない。時折りっちゃんが小夜太くんをそっと、じっと見つめているのを、目にする。それはいつものりっちゃんの無表情なのに、なのに何か寂しそうで。…どうしよう、私、余計なことをしてしまったのかな。私は私の行いのせいで、りっちゃんから大切なお友達を1人、奪ってしまったのではないかと、そう悩む。叶恵も様子のおかしいりっちゃんを見て何かを察して、あれから小夜太くんと関わることはなるべく、控えていた。私だって…。みんな、大事なお友達が1人減ってしまったことが、寂しい。それが例え一時的なことだったとしても。でも、でもりっちゃんは。私達以上につらくて、しんどくて悩んでいて。…寂しい、のかもしれない。小夜太くんとりっちゃんは、とても仲良しだったから。こんな短期間で、それでもとても。


謙の学校は、つい先日にもう修学旅行を終えたらしい。こっちとは真反対に沖縄に行ったとかで、この日の夜ははしゃぐ謙からそれはもう、うるさい電話がかかってきていた。私はそれに適当に相槌を打ちながら、手元の勉強を心なんて無にしてこなす。こやたのことなんて考えないように。スマホは相変わらずスピーカー。賑やかな謙の声が、室内の隅にまで届く。何か今はそれが、救いだった。こんな私の、こんな気持ちの。


「でさ、でさ!お前にお土産買ってきてやったぞ!偉いだろ!」


褒めてほしそうなその声は、でも同時に、「だからお前も俺に買ってこい」って意味。何それ。無にしていたはずの心がちょっと、上へと跳ねる。北と南で物々交換?狙ったのかよ。そうだとしか思えなくて、でも謙なんかにかける金はないから、私はさっさと言葉を返した。


「は、やだ」


「何で!」


不満そうに言う謙の様子はもう、人生初彼女に振られたそれからは吹っ切れたみたい。普通に元気そうだ。…対して私は。元気そうな謙に安心したそこから、嫌なことを連想し、私はせっかく謙のおかげで上向いた心を、また地へと落とす。深く深く、そこへ。その間も謙は何かよくわかんないことを、一方的にずーっと喋ってる。私の相槌があろうがなかろうが、こいつは喋る。いつものことだ。BGMにして、もう無視しよう…。えーと、ここは確か、こないだ間違えた問題だから。そんなふうに手元の練習問題へと意識を向けたその時。


「てかさ律、お前どうした?」


謙から当然のように、そう聞かれるから、私は固まる。どうしたって…。電話越しにわかるくらい、今の私は落ち込んでるのか。楓や叶恵、クラスの外でいっつも会う梨々花、ルミカ、愛、その他の友達…。みんなが私に気を遣ってるのは、わかってた。でもまさか、今の私の顔なんて見ていないほどの謙にまで、私は心配されるなんて。そんなに、酷いのか私。思うと応えられなくて、言葉どころかそもそもの声が喉に詰まってしまう。そんな私に謙は心配そうに、言った。


「んだよ、死にかけか?死体か~?」


言葉はいつも通りの軽いものでも、からかってても、声にはやはり心配の色を、少し含ませて。死にかけ。私。…そういえば、こうして友達との電話を好きになったのはいつからかな。私にとって電話とは、それこそ鳴ればパニックを起こすほどの、恐怖の対象。それが固定電話とは全く姿形の違うスマホを手にして、謙達に「どうしても」と誘われ、恐る恐る通話を経験してみて。そうしたら、私はそれを好きになった。あまりに楽しくて、いつでも謙達と、雑に言葉を投げ合えるそれは、いつもどこかで1人になりがちな私にとって、救いのようで。私が電話を好きになったその始まりは、謙達。他の色々も、好きになるきっかけは楓や謙達が多くくれていて。周りが起こす事柄や、見せてくれる可能性で、私の未来はいつも作られている。それなら。


「…別に。生きてるし」


強がった声は少し震えた。謙はそれに気がついたかな、わからない。でも死にかけてる暇はない。死体やってるくらいなら、まだハムスターになって、小さい回し車を永遠にガラガラ回す方がましだ。死にかけの上に死体なんて、そう謙から言われるほど、明らかに落ち込んでる自分はかっこ悪い。気合い入れ直して、そうだ。


「生きてんなら、お前の得意技だな!」


そう、それ。つまりよ。


「猪突猛進!」


呟いた声は合わせたわけじゃあないのに、自然と明るく重なった。


このままなんて絶対嫌だ。怖い、けど。怖いからって、このままの方がもっと嫌。それに、何でだろう?こやたがいないのはすごく寂しい。こやたと、交わらなくなった私の世界は、すごく寂しい。まるで三原色のうちのひとつを失くしたようだ。友達に、戻りたい。こやたとまたその関係に。それは私にとってあまりにも都合の良すぎる選択だとは、わかっている。でも、試す他ない。僅かな可能性でも、確かにあるその可能性にすがって私は、数日ぶりにこやたへと、声をかけた。



「…ねぇ」


あろうことか律から声をかけられて、俺は内心慌てる。わー、どうしようどうしようっ。宮寺さんに言われたのに。それ以上に自分で決めたのに。その決心からまだ数日しか経ってない。なのに、本当あろうことか、律から。相変わらず何にも知らない俺の友達は、俺が律から話しかけられると、にやにやと笑って俺と律を2人にした。授業と授業の間、10分の短い休みに、何か地殻変動並みのことが、これから起こるのかも…?どうしよう。そればかりを考えて、でも俺はなるべくいつも通りを意識して、笑顔で聞き返す。


「な、何かな?」


意識している時点で、それはもうとっくにいつも通りじゃない。久しぶりに自分の視界に入れた律は、もしかしたら今の俺よりよっぽどいつも通りかも。それくらい、いつものクールな無表情。でも、律は次に口を開くその少し前に、顔を僅かに俯かせたから、さすがの俺でもわかった。


「…何で、私のこと避けるの?」


律は緊張してる。同時に、不満そうな感じを俺へと出すからきっと。…あー。気がついた瞬間、俺は自分に呆れた。俺も宮寺さんも、全く読み違いの余計なお世話をしたんだ。そうだよね、うん、そうだよ…。1年の頃、俺と同じクラスだった律を思い出す。あの頃は、俺はまだ今より気が弱くて。小さくて可愛くて、自分が一目で好きになった律になんてとてもじゃないけれど、声をかけられなかった。…恥ずかしいし。だから、あの頃の俺と律は、話したこともないただのクラスメイト。そんな関係性で俺はいつもそっと、律を見ていた。わざわざ追いかけたりはしないけれど、でも同じ空間にいるなら、気になってしまって。そこで律は最初、1人だった。でもだからって誰かと無理に仲良くなろうとはせず、どこまでも自然体に1人だった。「作間ってちょっと怖い」。そう囁かれるくらいには1人なのに、俺にはそれが自然体に、律のことなんてまだ何にも知らないくせに、”律らしく”見えて。そのうち律には同じクラスに2人ほどの、同性の友達ができる。作るっていうより、自然体に1人でいた律に、勝手にできたって感じで。でもその子達とも、律は別に無理に仲良くしないんだ。見ていると気が合うところ、意見が合うところ、楽しいところは一緒にいるのに。律が、自分が納得しないところ、彼女達と合わないところは、相変わらず1人。例えそこで困難にぶつかっても、律は1人。1人なのに、1人でもいつもいつの間にか、それを解決していて。もちろん。見えないところできっと、律に対する誰かの支えはあると思う。だけど。…そう。こんな、明らかな気遣い…どころか、律からすれば嫌われたかと勘違いするようなこと、いらないよね。3年になって、再び律と同じクラスになって、律を見ているだけじゃなく、実際に関わってみてわかった。律はずっと止まらずに歩き続けている。だから自ずと答えが出る。つらくても、悩みや恐れを放棄して逃げたりなんてしない。「避けてる」か。うん、そうだ。俺がやったことはそれだ。律のために、律を思ってなんてそんなの、律からしたらいい迷惑。もし律が俺を恐れたまま、中学卒業を迎え、ただの友達にも戻れなかったなら、俺はきっと。律を、責めただろう。綺麗に気持ちを消すなんてそんなことは不可能だ。存在してしまった以上、できるのはせめて、過去にすることくらい。だけどその瞬間、俺は律のように強くないからきっと思ってしまう。”律のせいで”。律のためにやったことは、上手くいかなかった時、簡単に律のせいでに変わってしまう。今正に。でもこれはちゃんと、俺のせいだ。


「ごめんなさい」


「え…」


素直に認めて軽く頭を下げれば、律は驚いたような声を小さく、漏らす。律のため。そんなの言い訳だったんだ。俺はこうすることで、律に自分へといい印象を抱いてもらいたかったし、駄目だった時には”律なんて”と、理不尽に律を貶し、責める未来が見えていた。善人を気取っていた。でも、そんな中でも唯一、律に元気になってほしかった気持ちは本当のもので。


「…俺、その…」


だから上手く、何故謝っているのか。その理由を律へと説明できない。あー、何て言ったらいいかな、このもやもやする感じ…。なのに焦る感じ。はやる?というか?頭を上げて、それから言葉に迷う俺に、律は言う。


「…は、何?」


俺を見て、軽く。その顔はいつぶりか、見る律らしい笑顔だった。



「お、小夜太のやつやっと謝ったの?」


叶恵がそう言う。昼休み。数日ぶりのお菓子談義に話を咲かせる私と、こやたの2人を見て。それにこやたは慌てたように、言葉を返した。


「あ、謝ったって…!そもそも喧嘩してたわけじゃあ」


「は?あんた私に反論すんの?」


「わーごめんなさい…」


あはは、ほんっとこやたって叶恵苦手よね。つーかギャル全部無理。叶恵なんてまだまだソフトなギャルじゃん?…ソフトなギャルってなんだ。自分で思って、でも自分でさえわからないそれに、内心でつっこむ。まだ言い争う…いやこやたが叶恵に一方的に言われてるそれを前に、そんなことを1人で考えつつ、ふと教室の出入口を見やった。するとそこには。


「ねーあれ、叶恵の彼氏じゃない?」


こってこての、正しく不良。金髪ピアスに着崩した制服…典型のそれ。そいつはつまんなさそうに、教室の扉に背をもたれ、多分全く自分に気づかない叶恵を、もう呼ぶのも面倒なんだろう。ただ待っている。仕方ないからそいつを軽く指さして叶恵に言えば、こやたに詰め寄っていた叶恵は「お、ほんとだ」と、その不良へと目を向けた。


「何だろ、頼んでたライブのチケットとれなかったとかかな。ちょい行ってくるわー」


はは、そのネガティブな用だったら、あいつ叶恵にボコされんのね、今から。不良のとこに向かう叶恵に、私は軽く手を振り、こやたは「行ってらっしゃい」と安堵したように声をかける。そりゃ安堵もするか。毎度制服のネクタイで首絞められかけだもんね。こやたは叶恵のせいで今回もまた、きつめに締まってしまったネクタイを軽く緩めると、疲れたように言った。


「…俺、和木さんにいつか殺されるのかな…」


「あーそうかもね」


否定できない。だから認めれば、こやたは益々疲れた顔をした。

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