複雑なケーキ

「さっすが謙つえー!勝てねー!」


同じ部の友人が、その辺の体育館の床に、どかっと倒れ込む。お互い1年の時にこのバドミントン部に入部して、それから早3年目。今年も去年に続いて、少ないレギュラー枠を互いに勝ち取り、こいつはこの部における俺の最大の好敵手。ライバル、凍也だ。今となっては唯一、この部内で俺が本気でぶつかっても、耐えてくれる相手で。


「大丈夫かよ、死んだか?」


転がり込んだまま「ああ~」と情けない声を上げる凍也に、体力切れかとそう声をかければ、やつは元気に飛び起き、立ち上がって言う。


「まさか、全然っ!」


「お、さっすが体力馬鹿」


からかいの中に、多大な賞賛の意味を込めて拍手を送れば、けど凍也は「うるせー!」と拗ねてしまった。


「バドミントンばっかでつまらない、寂しい」。人生初、ようやくできた彼女にSNSのメッセージで言われたのはそれだ。ついでに「別れて欲しい」とも。まじかよ。いや、酷くね?そんなのわかりきってただろ。何せ俺はスポーツ推薦でここに来た。この、バドミントン強豪と言われるここへ。んで高校も、去年の全国大会を見ていた人からスカウトを受けて、そこにスポーツ推薦で行く予定。だからまさか、「バドミントン以外」なんてない。常にバドミントン1番。別に彼女が嫌いだとか、そうじゃなく。わざとじゃないけれど、どうしたって他は疎かになる。それでも大事にしてるんだ、俺としては。大事にしてる…つもり。つもりってことは、あくまでそれは、俺の中でそうしているつもりなだけであって、周りからすれば違うんだろうか。俺はこの、とっくに振られてしまった彼女に限らず、友人達を、家族を大切にできてるんだろうか?考え出せばキリがなくて。


「あーくそっ!」


俺は頭を抱えて声を上げる。別れを告げる彼女からのメッセージには、何か今はまだ、上手く返せる気がしなかった。何か、彼女へと返事をする前に、変なことを口走る前に、このもやもやとした自分の気持ちを解消したい。でももうとっくに家だし、夜だし。バドミントンしてくへる相手はいない。このむしゃくしゃした気持ちを乗せたシャトルを、全力で潰すくらいに打ち合ってくれる相手は。…なら。こんな時俺には最大の友人がいる。えーと、つい先週電話したからこの辺か?ちょっと、履歴を遡って。そこにはちびロリの表示。あいつの好きな苺のアイコン。よし!こんな遅くだろうが俺は迷わず、そいつへと電話をかけた。そうすれば少しのコールの後、ちびロリはやっぱり電話に出る。


「えーもー今何時だと思ってんの?」


「23時!」


「まじ眠いんだけど、謙も寝ろよ」


聞かれたことに元気よく答えれば、言う通り眠たいのか、気だるげなちびロリの声。あーちょっと悪いことしてる?まあいいじゃん!律が相手なら、俺は遠慮がない。だからそのまま、自分の用を俺はちびロリへと押し通す。


「まーそう言うなって!ちょっと俺の話聞けよ!」


「無理ー…」


ちびロリはだるそうに、呟いた。


けどさっくりと事情を話せば、律のやつはこうだ。


「はは、振られたんだ、人生初彼女。ご愁傷さま~」


あーわかるぞ、こいつ。このスマホの向こう側で、絶対性格の悪い半笑い浮かべてやがるだろ、いつもの!心にもない「ご愁傷さま」なんているかよ!でも問題はそこじゃない。だから俺は律のそのからかいを、今回だけは軽く流してやる。


「うるせえっ!んでな、こっからが問題なんだ」


「ん?」


俺が改めてそう言えば、律は不思議そうに短い声を上げる。そんな律に、俺は続けた。


「自分がバドミントンばっかなのは、自覚してる。でもさ、周りからの期待とか、そこにかけてる親の労力とか金とか…考えたら俺個人の何かで、手ぇ抜くわけいかないじゃん?」


言いながら俺は思い返す。始まりは確かに、何気ない子供の遊びからだった。幼稚園の頃に、父親としたバドミントン。俺はすぐにそれを、当時プロのテニス選手だった父親よりも早く会得して、父親を負かした。4歳の俺に負けた父親は、本気で悔しがりながら言う。「謙、お前バドミントン選手になれ!」。懐かしい記憶、始まりはそんなとこ。でも始まったが最後だ。止まれない。


「まさか、彼女との時間を優先するとか、そんなの…できねぇし、俺自身したくもねぇし」


止まりたいわけじゃないけれど、止まれないんだ。つらい時もしんどい時も、期待が重責になる時も、いつだって。周りが遊んでる中、俺はひたすらバドミントンだ。フォームの見直し、新しいラケットが出る度それを試したり、プロもアマも関係なく、目に付いた選手全員の分析。そこから技を盗んで学んで、メンタル面だって。もちろん全てを1人でやってきたわけじゃない。むしろ1人でやってたなら、彼女が「寂しい」と言った時に、俺は彼女のために止まれたのかもしれない。


「それでも限られた中で俺は彼女を優先してきたし、他だって…大事にしてきたつもりなんだけど。でもできてなかったのかな。どう思う?」


”かもしれない”と思えば、考えれば何だって”かもしれない”さ。あそこでああしてたら、これがこうだったら。可能性は無限大。それは全く未来に活きない過去の、だけど。律の答えなら俺は多分、何言われても納得する。こいつは穿ってて、そんでもって優しいから。ちびロリは「ん~」と小さく唸った後、そっと、俺に言った。


「…その彼女が、謙に大事にされてなかったって思うんなら、大事にされてなかったんでしょ」


求めた律の答えは彼女寄りで、そうか、やっぱり俺が悪いんだと思う。人付き合いを見直さないとなあ。他ならない律に言われるからこそ、納得するし、すっかり落ち込む。でも俺が思わずスマホ片手に頭を垂れたその時、律の言葉はまだ続いた。


「んで謙がその子を大事にしてたって本気で思うんなら、そこに嘘はないよ」


言われた言葉に、頭の中が一瞬真っ白になる。俺は何て言って欲しかったんだ?律に。「彼女が悪いよ」。その言葉をもしかしたら、期待してたのかもしれない。求めてたのは、そういったそれかもしれない。「将来有望な、バドミントン選手である謙を、献身的に支えられない彼女が悪い」って。あー、馬鹿だな、俺。


「周りの人だって、謙が大事にしてるんなら大事にしてるんだし、私は謙に文句なんかないけどな。つーかあったら先にさっさと言うし?」


「…は、そうかよ」


どうにも、笑みが零れる。こいつの世界に、いつだって悪者はいない。都合良いかもしれないが、「どっちもありだよ」と言ってくれるのが律だ。どっちの考えも気持ちも間違いじゃないと。ただ自分が、もっとできたと思うのなら、そこは次への伸び代だと。今の俺に、これ以上彼女へとしてやれることは、なかったんだ。これが全力だった。だからそれでいいんだ。彼女もきちんと、今の自分にできることを尽くしてくれた。俺達は互いに精一杯、やり遂げた。


「そうそ!次に期待しとけ?」


相っ変わらず前に突き進んでやまない律の声は、聞くといつも安心する。最大の友人、相棒。そんな言葉がぴったりで。あーいつかもうちょい大人になったら、俺が出せる全力ゲージは上がるだろうか。周りを大事にできるその器用さは、今よりもっと。


今日の放課後はちょっと、息抜きにお菓子作り。ちょっと前に、私と同じでお菓子作りが好きな尾野と、尾野の家でデコレーションケーキを作る約束をした、それだ。本格的な受験シーズンにはまだ突入していないとはいえ、それでも最近は勉強ばかりだったから、何かちょっと罪悪感が芽生えてくる。勉強の方は、こんなに理解が遅くて、もうどこからわかってないのか、自分でもわからないくらいの頭をしてる私でも、さすが家庭教師はあの宮寺楓。私が自分でさえわからないところを、きちんと探し出し、そこから私がわかるまで、何度だって丁寧に教えてくれた。おかげで難しい壁にぶち当たっても、何とかなってる。楓から言わせれば私は、「りっちゃんは1度覚えたら忘れないから、すごいよ~!」だそうだ。よくわからんが。考えつつ、まずはスポンジケーキを焼いていく。ここは私の得意分野。焼き菓子を作るのは、私は得意。だけどね。


「あーちょっと、砂糖そんな入れないで」


言えば、尾野は事前に計った砂糖をボウルへと入れる手を止めて、驚いた顔で私を見る。


「え?でもレシピでは…」


そうしてたどたどしくレシピなんて言葉、口にするんだから、こいつわかっちゃいない。


「レシピ通りに作ると、私には甘いの。だからせめて半分にして」


「は、半分?」


そう、私は甘いものが好きだけれど、甘すぎるものが苦手。だから、レシピ通りにお菓子を作ったことがない。ちなみに料理もそう。砂糖以外にも醤油や塩なんかは、減らすことがある。だって、レシピ通りって結構味濃いめよ?なのに尾野はいつも、レシピ通りに作っていたのか、動揺しながらそれでも私の言う通りに、「これくらいかな」と小さく呟きながら、砂糖を半分だけボウルへと入れていた。


スポンジを焼く間、先に生クリームを作る。今回は生チョコクリームのデコレーションケーキ。できあがったら、楓に食べて欲しくて、あの子の好きなチョコにした。貧乏なうちにはない、初めて手にした電動ブレンダーは、だけど私には重すぎて。


「…も、もう無理」


生クリームが出来上がるよりも早く、私の腕が力尽きた。それを隣で見ていた尾野が、可笑しそうに笑いながら、私から電動ブレンダーをとる…と思ったのに。


「じゃあ一緒にやろうか」


こいつはあろうことか私の手をとって、そのまま一緒に、電動ブレンダーを上手く動かして、生クリームを作っていってしまう。…は、いや…。まだ知り合い程度のやつに、何かけっこう馴れ馴れしくされて、私は戸惑った。ええ、どうしよう…。いやでもこれ楽だな、私は力入れなくていいし。目の前で生クリームが綺麗に出来ていく様は、本当面白い。


「…へへ」


ボウルの中を見ていると、楽しくて思わず笑みが漏れた。


作間さん、楽しそうだな。…誘ってよかった。生クリーム作りはたどたどしかったけれど、さすが、家に簡単なオーブンレンジがあるという彼女は、スポンジケーキを焼くのがとても上手で。焼きあがったそれの扱いさえ、手馴れていて上手いんだから、そこに至っては俺よりずっと上手に見えた。でもスポンジケーキに熱いまま、クリームを塗るわけにはいかない。クリームがスポンジの熱で溶けてしまうから。俺らはそれが冷めるまでの間、一旦休憩することにした。


「にしてもあんたんちって、すごい広いのねー」


普通の一軒家だと思うけれど、作間さんはリビングを見回して、そう呟く。そう、かな?彼女から見て、散らかってないといいな…。


「そうかな?」


素直に聞き返しつつ、足下をちょっと見やる。乱雑に物が置かれたりはしていない。だけど、作間さんは何か綺麗好きそうに見えるから、これでももしかしたら…。作間さんを前に要らぬ緊張、不安ばかりしていると、不意に、予想だにしないことを作間さんから言われて、俺は驚きから変な声を上げた。


「で?楓とはどんな感じ?」


「はっ?!」


わ、やば。変な声出た。自分でもわかるくらいの。慌てて俺は口元を抑える。そんな俺に作間さんは淡々と、続けて。


「楓のこと好きなんじゃないの?あの子今、彼氏いないわよ」


…え、いや…。どうしよう、どこからつっこめば。むしろどこからどうやって訂正すれば、上手いこと何もバレずに収まるんだろう。俺は驚いて、それから慌てて、後はあまりの勘違いをされていることに何か肩を落とし、そうして。


「…違うよ」


それだけをようやく零せば、今度は作間さんが驚いたような声を上げて、聞き返してくる。


「えっ、違うの?」


その様子に、とりあえず自分が宮寺さんを好きだなんて、そんな勘違いを解けただけでもう、いいかと思えてきた。だってまさかこんなふうに、純粋な反応をする作間さんに、さすがに自分の本音は言えなかったから。


デコレーションケーキ、クリーム塗るのってこんな難しいの…?「作間さん、どうぞ」と、クリームを塗るための道具を渡されて、言われた通りやってみるけれど、全然上手くいかない。


「駄目だ…」


不器用すぎる自分に力尽きそうだった。そんな私に、尾野は笑う。


「ふふ、大丈夫大丈夫。作間さん、これが初めてなんだし」


くそ、得意げに…。尾野のくせにと、からかいがいのある彼に何かそう思って、その瞬間気がつく。…あー、なんか、この感じ。謙達に思うのと、似てるかも。もしくは叶恵や梨々花、ルミカに愛…。こいつはもう、こうやって共にお菓子を作ったこの時間を経て、私の知り合いから友達に昇格したのか。それなら。


「はい後やって」


「え?でも」


「せっかくだから見てくれがいいケーキが食べたい」


私から押し付けるようにして差し出された道具を、やつは戸惑いがちに受け取る。それから、「じゃあ、頑張るね」と微笑むそいつに、私は聞いた。


「ねぇ、あんた名前なんだっけ」


聞けば、やつはスポンジケーキにデコレーションをする、それに集中したまま答えた。


「小夜太だよ」


あーそうだ、何かそんな名前だった気がする。字は…覚えてないけど。


「そ、じゃあこやた」


「なあに?」


呼んだってこやたは手元のデコレーションに集中したまま。こっちなんて見やしない。それを見て、こやたって、のめり込むと周りが見えなくなるタイプかと思うが、まあ、何でもいいか。


「私のことは律でいい。友達に、苗字で呼ばれるの好きじゃないから」


だけどそう続ければ、途端にこやたはスポンジにクリームを塗るその手を止めて、何か目を丸くして固まってしまう。こっちは向かない。だけど、え、何。どうしたの。わからなくて、私はこやたの顔を覗き込んだ。


「…どうかした?」


「わあっ!あーいえ何でもっ!」


聞けばこやたは慌てて、手にした道具を取り落としそうになって、それをすんでのところで回避し、またケーキのデコレーションへと戻っていく。…何?まじで。何でこやたが顔を赤くして照れてるのか、この時の私にはわからなかった。


できあがったケーキはすごかった。こやたってこんな器用なの?すご。見た目はプロが作ったデコレーションケーキと全く遜色ない。私がブルーベリーや苺が好きだから、それの果物で彩られたそれは、本当美味しそう。あんまり綺麗にデコレーションされてるから、切り分けるのがちょっと勿体ないな。もちろん、こんな素晴らしい完成形の写真は、先に撮ったけれど。


「律さん、どれくらい食べる?」


切り分けてくれるとこやたが言うので、その役なこやたに任せた。聞かれて、「ちょっとでいい、私そんな食べないから」と答えれば、こやたも「わかった」と、丁寧に私の分のケーキを切り分けてくれる。皿に乗せて、渡されて。でもていうかその前にさ。


「あのさ、さん付けもいらないから。律でいいの、わかった?」


「律さん」。”さん”。それ、気に入らない。ちょっと機嫌悪く言えば、こやたは惑ったように、慣れないように頷きながら、試しか。言われた通りに”律”と呼んでくれる。


「わ、わかった…律」


「ん」


全く不慣れ感が拭えなくて、それはそれで微妙な気持ちだけど、まあいいか。そのうちすぐに慣れるでしょ。適当に返事をしながら、私は切り分けられて、皿に乗って私の元へとやってきたそのケーキを、見る。…美味しそうじゃん。へへ。1人、ケーキを見つめて笑顔になってしまうのは、こんなだからまさかちびロリと謙から言われるのか…。昨日電話したからかな。何かそんな、嫌なことを思い出した。なので、彼女に振られてざまーみろーと、私は内心で謙に嫌味を送る。そうしていると、自分の分も切り分け終えたこやたが、私へと微笑んで言った。


「食べよっか」


「よっし」


やったね。へへ、味はどんなんだろー。不味かったら楓に持っていくのはやめようかな、さすがに。思いながら口にした、生まれて初めての自作デコレーションケーキはけれど、美味しくて。


「…美味しい」


甘さもいいわ。計算通り、程よい感じ。呟いた言葉に、こやたも笑顔で返す。


「すごい、程よい甘さだね!律って、レシピの分量見直す才能あるんだね」


「まあ、ね」


ふふん、当たり前でしょ?内心でどやって、でもこの、程よく甘いケーキ。…せっかくだから、傷心中のあいつにも、持ってってやるか。家だってうちから遠くない。いつかの、スノードームの礼代わりに。


少し遅くなっちゃった。はぁ。内心ため息をつく。今付き合っている女の子。その子の我儘を聞くあまりに、帰宅がどんどんと遅れて、スマホの時刻を見ればもう、表示は19時を過ぎている。やばい、早く帰って勉強しないと。別に俺は、中高一貫に通っているんだから、受験のそれとは縁がない。だからそっちの勉強じゃなくて、俺が中学入学以来、ずーっとしているのは医学。それを独学で。何故ならそれはやっぱり、将来医者になるためだ。学校の勉強は正直、つまらない。一応それなりのとこに通ってはいるけれど、勉強で壁にぶち当たったことは、俺はこれまでには1度も、なくて。だけど医学は違う。そもそもこれは独学をするものじゃあない。理解している。だから、俺のこれは医学部に進学するまでの暇つぶしにして、予習だ。好きでも何でもない女の子と付き合うことだって、それもこれも、そう、全てが。


昨日もバドミントン、今日もバドミントン、明日もバドミントン…。明けても暮れてもバドミントン。そこに終わりはない。終わるとしたらそれは、俺がラケットを完全にどっかに置く時だ。昨日、律に励まされてから、俺は自分の中で人生初の彼女と別れたことは、仕方がなかったのだと納得していたし、ある程度すっきりしていた。でもやっぱまだくすぶる。こんなんでも、ちゃんと好きだったから。初めて、向こうから告白されて、初めて付き合って。…ちゃんと好きだったんだ、なのに。俺はラケットを置くと、いつも余計なことばっか考えて、時にはこうして落ち込む。だからいっそ素振りでもとまたラケットを手にした時、家のピンポンが鳴った。あ?誰だこんな時間に。宅配?母親の通販とか?まあいいや、もうちょっとしたら帰るだろうから、そしたら外に素振りに…。考えた瞬間、母親からでかい声で呼ばれた。


「謙ーっ!りっちゃん来てるわよー!」


「はあ?!」


律?!何で?!別々の中学に行ってから、律が俺んちに来たことなんて、1度もない。なのにこんな夜に何で。何かあったのかと慌てて部屋を駆け出せば、向かった玄関に律はいた。


「何だ、どうしたっ?!」


絶対何かあったと、この時の俺は最早決めつけていて、入れ替わりで室内へと去っていく自分の母親には目もくれず、前のめりに律へとそう聞く。律は俺の勢いに圧倒され、身を引きながら応えた。


「…いや…ケーキ、食べる?」


「……は?」


なのにそんなことを言われて、その平和さに拍子抜けしてよーく律を見てみれば、律の手には確かに、小さな白い箱。ケーキが入ってそうなよくあるやつ。


「作ったの、デコレーションの、生チョコクリームケーキ。いる?」


律はその白い小さな箱を差し出して、俺へとそう聞いた。律ってのは正直、表情の変化がちょっと乏しい。笑う時は笑うし、怒る時は怒るくせに、普段は無。この時もそう。え…何で?理由はわからないがまあ、律の作るもんは上手いし。


「…おう、ありがとう」


何も考えずに受け取って。


「いいえ。こやたと…友達と作ったから、まあ見た目は悪くないと思うんだけど」


だけど続いた律のその言葉に、俺は受け取ったばかりのケーキの箱をほっぽりそうになった。誰、こやたって。男?!いや名前の限り男だよな?!つーかデコレーションケーキ作れる男って何!むしろデコレーションケーキ一緒に作るくらい、律が仲良くしてる男って何…!色々弾けて堂々巡りして、1人、何かに悶える俺を見て、律は冷たく言う。


「…いや、お前どうした?」


「…う、うるせー…!」


そもそも何で俺は、”律が自分の知らない男と仲良くしていること”に、こんなに複雑な気持ちになっているのか?わかりたいけどわかりたくない。


「くそ、帰れ、もうっ!」


その気持ちのままつい、八つ当たりのように律を追い返せば、律は驚いた様子で慌てて外へと出ていく。


「何だよ、馬鹿っ」


ちょっと不満そうに、俺へとそう言い残して。あああくそお。律がこやたなんてやつと、2人で仲良く作ったって知らなければ、これ、美味しく食べられたのに…!きっとあれだ、好きだった彼女に振られたばっかで、俺はおかしくなってるんだ。この瞬間、たった数分でわかってきてしまっている自分の気持ちを、俺は無理やり押さえつけて、誤魔化した。…多分、息づいたのは今だとか、そんな短時間じゃない、これを。


なーにあいつ。突然怒りだしやがって。楓にケーキを届けた後、彼女に振られたばっかで可哀想な謙にも、同じようにケーキを届けてやれば、だけどやつは何か変だった。まあ、彼女に振られたばっかだしね。きっと頭がおかしくなってんだろう。つーかあいつ、元から常に頭のどっかがおかしいし?多分バドミントンのしすぎだ。いつものこと、いつものこと。疲れたし、さっさとかーえろ。慣れないデコレーションケーキ作りで、体に変に力が入ったかな。ちょっと凝った気がする体を、控えめに伸ばしながら私は、夜の帰路を辿った。


帰ったら帰ったで、今度は宙から着信だ。


「律、もう帰ってる?」


「帰ってるよ、お疲れー」


帰ってるつか、今帰ってきたが正しいけれどな。でも細かいことなんて気にしない。宙と話すのはここ数ヶ月の、最早日課に近い。それくらい宙からはまめに連絡がくるし、私からもよく電話していた。宙って何か、気合うんだよね。落ち着いて過ごせるっていうか。宙は昔っから大人っぽい。優しいし頼りになる。謙みたいにスポーツが突出して得意だとか、文太みたいな高すぎる知能とか、そんなのはないけど、なのに考え方や雰囲気、物事への構え方がいつも大人で、好きだ。余裕があるっていうのかな。なのに私を陰険な感じでからかってきたり、謙達と同レベルの会話をしたり。年相応や遊び心を忘れないから、尚更憧れる。とりあえず、宙との通話が終わったら風呂入ろ。その支度をしながら私は、宙と気の置けないやりとりをする。


「今日も放課後は楓と勉強してたの?」


聞かれて、でも今日は違う。


「ううん、今日は友達とお菓子作りしてきた。そいつ男なんだけどね」


だから素直に応えれば、男なのにお菓子作りなんて面白いでしょって、そんな意味で言えば、なのに。


「…そう」


すごく素っ気なく、返されて。スピーカーにした私のスマホから聞こえた、宙の今の声は素っ気ないどころか、何か冷たい。宙…?私は布団の上に置いたスマホの方を、着替えを出すためにタンスを漁っていたこの手を止めて、振り返る。だけど次には。


「…あ、ごめんね。お菓子作りが得意な男なんて、俺の周りにはあんまりいないから、びっくりしちゃって」


続いた、宙の声はいつも通りの余裕と優しさを含んでいて。そっか。まあ、そうだよね。私も初めて聞いたし、一からデコレーションケーキ作る男なんて。何だ、宙はびっくりしてただけなのか。言われたら納得して、私も笑いを漏らしながら「だよね」と短く、そう返した。


「そういやさ、宙は進路、もうちゃんと決めた?」


それから選んだ着替えを手に布団へと座り込み、ずっと気になっていることを聞けば、宙は迷ったような声で歯切れ悪く、応えた。


「あー…どうしようかなって、思ってるんだ」


へぇ、意外。でもまあ何となく想定内?ほぼ毎日私と、暇電するくらいだし。


「どの高校行くか悩んでんの?」


宙は小学校の頃は勉強も運動も普通にできていたし、単純にそのまま考えるなら、今だってそうであるはず。少なくとも、落ちこぼれてなんかないんじゃないかな。宙だから大丈夫。何かそんな変な自信を胸に、宙へと軽く聞けば、やっぱ宙が悩んでいるのは自分の成績のことなんかじゃないみたい。迷う声は、私にはわからないものを見て、発せられているようで。


「そうなんだよね…。律はどこだっけ、楓と同じとこ…霊峰青海?」


だからかすぐに話を逸らされたから、私もそれになるべく明るく、のってやる。


「そうそう!偏差値50…あるかないかだっけ?」


見た情報はとうに忘れた。ただ楓とそのお母さんが、「ここの制服可愛い!」、「りっちゃんに似合いそうだわ!」なんてはしゃいで決めたもんだから。ちなみに馬鹿の私に偏差値50の高校ってのは、それでもまあきつい。だって馬鹿だもん。言い訳っぽいことを内心で呟いた時。


「じゃあ俺もそこにしようかな」


「まじ?」


宙がさらっとそんなことを言うもんだから、私はつい笑ってそう聞き返す。「まじ」と返した宙もまた、少し笑いに声を震わせていた。宙って時折こんな風に、ノリがたんぽぽの綿毛並みに軽いよね。だからか私と気が合うのは。何か納得しながら今日も、宵は更けていく。この木造ぼろアパートは、深夜のトラック運転手のおっさんが頑張ってるかな。目の前の道路を通るそれに、また揺れていた。

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