いつかの約束

「いやさ、まじで。何の得があんの、それ」


「うるさい!」


クラスメイトの女子に蹴り飛ばされて、思わず後ろに尻もちをつく。体幹のない私にこれはちょっと、転ばず耐えろってのは難しい。あ~、虐められるってわかってたら先に鍛えて…ないわ。そんな面倒なことしない。するならもっと、自分にとって価値のあること、するかな。それこそ、タルト作ったり…?もう苺の季節よね。苺タルトって見た目も華やか。同時に材料費も華やか。くだらないことを考えるうちに浴びせられるのは暴言と、それから。思わずその冷たさから何か、小さく声が出そうなくらいに冷たい、バケツ1杯の水。いや、典型的。虐めのレパートリーって、ほんと少ないよね…昔から。別に、呑気なこと考えつつ、されるこれに傷つかないわけじゃあない。私だって人間だもの、嫌な思いや怖い思いを抱かないわけがない。だけどさ。


「ねぇ」


尻もちをついたまま、水を被った私を見て、ゲラゲラと下品に笑う彼女達に、私は声をかける。


「こんなことして、本当に何の得があるの?」


考え続けてもう半年。答えは誰も教えてくれず、未だに私の中でさえ、出なかった。


まあ、虐めをするのって色んな理由があると思う。単純に相手が気に入らないとか、自分にストレスが溜まってて、その発散のためとか。後は恨んでるとか?ん~、駄目だ。色々あるとは思うのに、明確には浮かばない。私って馬鹿だ。さすがあだ名が”赤点常連ちゃん”。点数1桁のテストは、休み時間になるといっつも教室の黒板に張り出され、毎度晒し者。…いや、いいのよ。私ほんとに馬鹿だから。でも。それにはちゃんと理由がある。私は人より物事を理解するのが、極端に遅い。だから中学校の授業のスピードには、まるで追いついていかない。その上家に帰ると、待ってるのは家事…。わからないままどんどんと進む内容に、私も初めは必死に食らいついていた。きちんと、自分が理解できるまで何時間かかったって、それこそ馬鹿みたいに同じところを繰り返して。成績優秀な楓にさえ、無理言って付き合ってもらったことも、何度かある。でも、さすが私は馬鹿の頂点って感じ。楓に教わればそれは何とかなるのに、でもそんなの焼け石に水。楓がいなければ、楓が教えてくれなければ、何をどう頑張ったって、私が学校の授業に追いつける日はこなくって。もちろん楓も暇じゃない、どころか忙しい。だから私に勉強を教えられる日ってのはほとんどない。そうしてそのうち、諦めた。人生諦めが肝心。時にはね。それに、私はこの先の進路、もうとっくに決めてるし。だから私は私に出来ることを、やるだけなんだ。


お母さんは、お父さんがたまに帰ってくると、いつもよりもずっと、私に優しくなる。


「楓、クリスマスプレゼントは何が欲しい?」


「あ、えーと…」


お父さんから聞かれて、私は思わずお母さんの顔色をつい、ちらりと窺ってしまう。どんなのだったら許されるかなあ…。そういう意味で、本当につい。私の希望はいつも、そこにはない。あるのは。


「せっかくだから、英語の教材なんてどう?ほら、この前のテスト、98点だったじゃない」


許し、許可。それならあなたが手にしてもいいという、それ。私は毎年恒例のお母さんからのそれに、今年も頷く。


「…そうだね!」


ばっちり笑顔で、ちゃんと明るく。



「クリスマスかあ。楓、彼氏とデートとかすんの?」


すっかり冷えてきた12月の帰り道。私はりっちゃんからそう聞かれて、「う~ん」と小さく声を漏らす。どうだろう。付き合ったはいいものの、何か、あんまり会ってないしなぁ…。私とクラスの違う彼は、付き合ってからというものの、あんまり自分から私に会いに来てくれなくて。本当に付き合いたての頃、付き合って数日とかそれくらいの頃は、私の方から彼へと会いに、そのクラスへ足を運んでいたけれど。今はもう、そんな労力すら、彼にかける価値はない気がして。て、駄目駄目。そんな酷い、失礼なこと思っちゃ…!なかなか言葉を返さない私に、りっちゃんは少し悪っぽく笑って、言う。


「はは、何。あんまいい男じゃないって?」


「ち、違うよお!」


何だか私が遊んでいるような、それこそ悪い女の人みたいなことを言われてしまって、私は咄嗟にそう返す。無意識に頬を膨らませて怒れば、りっちゃんはそんな私を見て、可笑しそうに笑っていた。…りっちゃんは、どうなのかな。りっちゃんって、クラスのみんなと上手く関わろうとしないからクラスで1人なだけで、本当はすごく可愛いのに。見た目も、その性格だって。だから彼氏くらい…。思ったその時りっちゃんは、私から顔を逸らし、前を向いて言った。


「今年も私は1人かな」


あ…。1人。その言葉が指すのは何も、”彼氏がいない”というそれではなく。…りっちゃんは男の人が嫌いだ。嫌いというより、苦手。でもそれより、りっちゃんは差別や偏見の方が苦手だから、仲良しの男友達だって他校にいるけれど、でも。クリスマスともなれば、当然お客さんの相手をしに行くお母さんと、学業の傍ら、昼間は働きに出ているお姉さんと。まだまだ元気に、働くおばあちゃん。みんなを支えるため、りっちゃんはその日も1人だ。クリスマスでも、家のことをするために、1人。目の前の道路を大きなトラックが通る度に、室内が揺れるほど、ちょっとぼろぼろな木造アパートのそこで。りっちゃんの大変さを思うと、私の受験勉強の苦労、ストレス、お母さんとの軽い確執のようなそれ。そんなものは全て、可愛く見えてくる。いつかりっちゃんは。クリスマスのその日、「毎年必ず会いに来る」と言ってくれたお父さんを、いつも待っていた。養育費が送られなくなっても、連絡がとれなくなっても、「きっと」って待ってた。いつから、待たなくなったのかな。それともまだ、りっちゃんはお父さんを待っているの?私のお父さんはどんなに忙しくたって、年に何度か帰ってくる。1度だけじゃない、何度か。りっちゃんのお父さんはもう、何年、りっちゃんのところに帰っていないんだろう。たったの1度も。1人かなと呟いたりっちゃんへと、私は返す、最適な上手い言葉が浮かばない。ねぇりっちゃん、今でも、お父さんが好き?そっと、私が心の中で問いかけたりっちゃんの、窺った横顔はきちんと、今も前を向いていた。



「律にいいもの持って帰らないと!」


間近に来たるクリスマスは、私の勤め先のスナックのお客さんと、毎年デートする日。…というよりかは、こっちからすれば都合よく相手を利用する日だ。いくら貢がせて、どんな物をどれだけ献上させるか。そんな真っ黒な日。だから意気込んで、私は家事をしつつ、まだ少し先のその日のことをよーくシミュレーションする。ブラッククリスマス~。心の中で歌いながら、でもどうしても頭の一番前の方。思いだしてしまうのは、いつか夫と娘2人と穏やかに幸せに過ごした、25日のその日。全く普通の、ブラックじゃないクリスマスの、家族の優しい時間。12月の25日はクリスマス。以上に他でもない、私の娘、律子の誕生日だった。離婚する時、夫は言った。律子へと、「毎年律子の誕生日に、クリスマスに会いに来るからね」と。当時まだ7歳。小学校2年生になったばかりの、お父さん大好きっ子の律子は、それに頑張って笑って応える。「うん!」。ねぇあんた、律子との約束はどうしたの。もう3年も、その約束をすっぽかしてるじゃない。律子からの連絡のひとつだって、自分には繋がらないようにして。そんなに新しい奥さんと子供が可愛い?そりゃそうよね。若い女と小さな子供には、私達はどうしたって負ける。可愛いに決まってる。あなたの仕事だって、やりがいはあれど大変だろうし、日々は過酷でしょう。でも。あれだけ、お父さんが大好きだった律子を、裏切っていい理由には、どれも全部ならない。律子との繋がりを断てば、全てがなかったことになんて、ならない、のに。


「ねぇ、それもう固茹でじゃない?」


「…ああっ!」


ふと隣から声をかけられて、手元の片手鍋を見遣れば、そこには立派な固茹で卵が。それに私は、気も何もかも、遠くなるようなきつい考え事から一気に現実へと引き戻されて、思わず大きな声を上げる。かけたキッチンタイマーはとっくに鳴った…のか?本当に鳴ったのかと、責めるようにそいつを鋭く見たって、やつは静かにそこに座している。…え、ええ…。


「母さん、何作ってたんだっけ?」


そんな私に、隣に並ぶ律が悪戯っぽく、可愛い笑顔でそう聞くんだから、確信犯め!


「…温泉卵よぉ~…!」


「あはは、ざんねーん」



お父さんが家にいる間は、私はちょっとだけ勉強の手を抜くことが出来る。お父さんがお母さんに、「もうちょっと楓の好きにさせてやったらかどうかな」と、優しく提案してくれるからだ。だから、昨日帰ってきて、今日もお家にいてくれるお父さんの影響力のおかげ。私は今夜は早々に勉強を切り上げて、友人とグループ通話していた。


「楓ちゃんが通話に参加してくれるの、珍しい~」


「めっちゃ嬉しいんだけど!」


いつも、クラスで仲良くしている女の子のお友達、梨々花ちゃんと叶恵が、口々に電話口の向こうから、私へとそう声をかけてくれる。こんな楽しい、自由な時間は私だって嬉しくて、その気持ちのままに私も、口を開いた。


「えへへ、私も~。こういうの、とっても楽しいね!」


惜しいな。今私、本当の笑顔をしている気がする。なのにそれを、お友達ときちんと向き合って見せられないのは、何か、もったいない気がした。


クラスのお友達との通話は、話題がころころと変わる。それはそうか。女の子が5人も集まれば、自然、かな。勉強、友達、習い事、恋愛、アニメやゲーム、お菓子の話…どれもこれも楽しくて、でも中には私がついていけないものも、ある。


「えーっ。楓ちゃん、あのアニメ知らないの?今流行ってるのに!」


「すごく面白いよ!」。ルミカちゃんに言われても私には、そのタイトルすらわからない。今、若い人達の間でとても流行っているというそれは、けれどアニメなんてほとんど見ることの許されない私には、縁遠くて。


「わ、わかんない。ごめんね…」


思わず焦って、慌てて謝れば、けれどお友達はみんな優しく、私へとフォローの言葉をくれた。


「全然!」


「むしろ楓ちゃんは、そういうところが可愛いの」


可愛い。愛ちゃんからのその言葉を聞いた瞬間、私はつい、電話の向こう側で固まってしまう。スマホの画面からまだ続く、お友達からの私に対する、褒め言葉。「可愛い」、「清楚」、「優しい」…。言われているのは悪口じゃない。だけど、私はそれらの言葉が嫌いだ。贅沢なことだとはわかっている。それでも、「可愛い」と言われ周囲からもてはやされ、「楓といれば学校生活で困らない」と擦り寄られ、男の子からはトロフィーのように彼女にされる。私の内面を見て、内面を褒めてくれる人が、私はもっと多く、欲しかった。りっちゃんだけじゃなくて、他にも。こんなものは我儘な望みだとわかっていたって、どうしても。…欲しかったんだ。


楓、通話中かあ。昨日からお父さんが帰ってきてるっていうから、楓と夜、電話したかったけれど、仕方ない…。私は、大好きなその人にかけてみたけれど、「お話中」と無情な女性の声に淡々と言われて、繋がらなかった通話の画面を閉じ、ちょっと考える。…こんな時は。都合良くいつでも暇な相手が、私には何人かいる。おっしゃ、こいつにしよ。その中でも特に気の置けないやつへと、通話のアイコンをタップすれば。


「急にかけてくんな!」


そいつは怒声から始まった。あーこれこれ。このノリは好き。だから私も同じくらい声を張り上げて、さっさと言葉を返す。


「うっせーどうせ暇でしょ!」


小学校から友人付き合いのある、謙。私の何人かいる男友達のうちの1人。の中でも特に仲が良く、気の置けないそいつは、けれど。


「んなわけあるか!風呂はいんだよ馬鹿!」


なーんかいつもよりカリカリしてる。でも謙が怒ってるそんなのって、ただ面白いだけで。ていうかこんなに苛立つってことは、もしかして駄目だった?思って私は、にやつく顔を抑えられないまま、謙へと礼儀なんて投げ捨てて聞いた。


「あー、ふられたんだ?かわいそー」


心にもない”可哀想”を、笑いから微かに震える声で。言えば謙はきっとこのスマホの向こう側、頭を抱えているんだろう。


「わああ言うな馬鹿っ!傷心中なんだからっ!」


こいつってほんとオーバーリアクションだ。目の前にいない謙の動きが、でもこれまでの友人付き合いもあって、簡単に私の頭の中で予想がつく。まあ、謙のこういった真っ直ぐさは面白くて、私はけっこう好き。ひねくれて、変に格好つけてるより、いいじゃない?からかいがいだって、あるし。思うから、「言うな」と言われたって私は言うんだ。


「誰だっけ。相手は確か超可愛い清楚なー」


「だから言うなって!!」


なのにからかえば、恥ずかしさに耐えかねたのか、謙は一際大きな声を上げて私の言葉を遮る。何だよ、いいじゃん。面白いんだから。つーか恋愛相談する相手、私にした時点で、告白成功しようが失敗しようが、からかわれるのは目に見えてね?でもきっと、謙というのは私並みに馬鹿だから、そんなことは浮かびもしなかったんだろう。


「あーあー残念。謙は今年もぼっちクリスマスだねー」


気持ちのまるで入ってない声で言ってやれば、謙は「ああぁぁ…」と電話口で何やら嘆く。はは、ざまあ。大体ね、謙なんかがクリスマスに女の子と過ごそうってこと自体、天変地異が起こるレベルで有り得ないのよ。贅沢もいいとこ。うちにある女の子のピカチュウのぬいぐるみ貸すから、それで我慢しときなさいよ。デートのためのふりふり可愛いドレス、特別に作って着せてやるからさ。それをそのまま、嘆く謙へと提案しようとしたその時。


「もうお前でいい!」


「…は?」


いつの間にか嘆くことをやめていた謙が、何か投げやりに私へと言葉をぶつけてくる。いや、何が。驚いて反応が遅れた私が、聞き返すよりも早く、謙の方が私へとその言葉の続きを放った。


「お前でいいからクリスマスどっか行くぞ!」


「………まじかよ」


私が呟いた言葉は本気の、呆れからきているものだった。



「お前でいいってやばくない?!私何なのよ!」


私とクリスマス、12月の25日に、絶対どっか遊びに行くと言って聞かない謙との電話を切った直後、私は苛立ちからそう声を荒らげる。と、やばいやばい。プライベートなんてまるでない、女4人で暮らすこのぼろアパート。別に誰がどの部屋で何を話してようが、最悪歌ってようが何も気にしないけれど、あんま騒ぐとさすがに母さんが見に来る。時刻は夜だし…。お隣さんのことも考えて、私は自分の布団に座り込むと、自分の気持ちを意識して、落ち着けた。…いや、でも。考えるほど、腹が立ってくる。だって振られた腹いせに、とりあえずその時自分の前に現れた女を、自分の寂しさを埋めるために利用するってことでしょ?その上、私の拒否権はどこに行ったのよ…。あーもうっ、謙なんかに電話するんじゃなかった!今日のミスはそれだ、それ!私だってさっさと風呂入ってきてやるわよ!


「りつー、これいるー?」


「いらない!」


ノックもなく、突然私の部屋に訪れた姉、美久のいつもの、”不用品を私に押し付ける術”を、今夜ばかりはとにかく雑に突っぱねながら、私は入浴の準備を始めた。


「行きたくない」、「面倒くさい」、「1人で行けこのタコ」だの、散々な言われようでその電話は、切れた。何だよ、自分からかけてきたくせに。さては構ってちゃんのツンデレかと、俺は思う。大体あのちびロリ、性格が可愛くない。見た目はそれなりなのに。ちびだし、どっからどう見ても容姿が幼くて、小学校低学年かって見た目してる。今もきっとそんなだ。しばらく会ってないから知らないが、頑張っても小学校高学年くらいにしか、見た目変わってなさそー。つーか俺だって、生意気な律なんかとは、クリスマスにわざわざ出かけたくなんかねーよ。誘ったそれを散々嫌がられたもんだから、俺はつい今しがたまで律と話したそのスマホを、ベッドに投げ捨て強がって、でも。…つい昨日、ちょっと好きになりかけていた人に振られたのはホントだが、25日は元から律を誘おうと思っていた。その日はクリスマスなんかじゃない。律と仲の良いやつらからすれば、その日はそいつの、誕生日だから。でもまー、さすがに俺と2人じゃ、律が楽しくないのはわかる。嫌がるのも。仕方ねー、誘うか!小学生の頃いっつも遊んでたそのメンバー。……楓に声をかけるのはやっぱ、ただの友達であっても緊張するが。でも律には”みんながいること”は教えてやんねー!意地を張って俺は、ベッドに放ったスマホをもう1回、仕方なく手にした。


…あれ?みんなとの通話中、何かアプリにメッセージが来る。こんなことはもちろん珍しいことじゃあない。でも、その差出人。名前は皆川謙の表記。…謙くんは、正直私とはあんまり関わりのない、男の子のお友達だ。それこそそう。小学校低学年の頃に、りっちゃんを通して知り合い、りっちゃんとみんなで、小学生時代、何人かで遊ぶ程度の仲で。そんな彼が、どうしたんだろう?私に連絡なんて。


「そーいえば、次のテス勉、楓教えてくんない?」


「あ、うん!いいよ」


今回もまた利用されてる。その声に私は当たり前に応える。意識は謙くんからのメッセージに、全部向けながら。


25日、結局どこ行くって言うんだろう。謙と電話してから数日。クリスマスはもうほんと目と鼻の先。だけどあいつはまだ、私に何の連絡も寄越してこなかった。何よ、誘うだけ誘ってドタキャン?むしろこのまま無かったことにとか…?ちょっとだけ、どうしても1人じゃないクリスマスに期待してしまっていた自分がいたから、あれから音沙汰なしの謙には益々、腹が立ってくる。ま、まあでも、25日まではまだ…。…言い訳がましい、何か希望に似たようなものにすがろうとする、こんな自分にだって、ものすごく苛立って。ああもうっ。12月の25日に、いいことなんてあるはずがない。期待しちゃ駄目だ。その日は、もう3年は前から、誰も来てくれない日になったんだから。


お父さんは、また24日の夜に帰ってくるねって言って、2日ほど前にお仕事に行ってしまった。その瞬間からお母さんの私に対する態度はまた、厳しい方向へと変化する。特に、お父さんが仕事で家を出た直後というのは、お母さんの厳しさはいつもよりも少しだけ、多く増して。


「お風呂に30分もかけないの!」


「ご、ごめんなさい…!」


バスルームから出れば、お母さんの中でのお風呂にかける所要時間の基準、許容範囲を私ははみ出してしまっていたみたいで。途端に、きつく叱り付けられる。…仕方ないよね。お風呂に入ってる暇があったら、受験勉強、だもんね。でも。受験は来年なんだ。普通、こんな早くから勉強なんてしない。2年生の夏からなんか。少し前に、泣きながらりっちゃんがくれたチョコチップマフィン。それを口にしてからの私の世界は、何か歪みながら、電光掲示板の表示が変わるみたいに、少しずつ変化していた。


冬休みに突入するのはほーんと有難い。学校なんてない方が楽。というかさっさと卒業して、早く働きたい。世の中金が物言うとこって、けっこうある。どんな綺麗事言ったって、お金というものはわかりやすいひとつの、価値。まあそれは置いといて、望んだ冬休みにようやく入ったことに、私はひとつ安堵していた。これでもう、冬の極寒バケツ水を浴びることはしばらく、無くなる。少なくとも、年明けまではせめて無いわね。まさか冬休み中までわざわざ、こんなちっさい私を町中で血眼になって探し出し、水をかけに来るほど、あいつらも馬鹿ではないだろう。にしたって。


「あのクソほんとにぶん殴りたい」


今日はもう24日。昨日から冬休みが始まって、なのに。謙のやつ、まじで何の音沙汰も無い。次会ったらいっそ殺してやる、あのクソ野郎。男なんてやっぱ嘘つきだ。…梅雨とクリスマスの時期は駄目ね。正そうとしたって、どこまでもひん曲がる自分を自覚しながら、今日もこの家に母さん達はいない。私は、私にできることを、精一杯全力で。いつからか、自分の中での合言葉になっているそれを、私は今もまた内心、静かに呟いた。



「ごめーん!お待たせー」


言いながら向かう先、きっと会ってるはず。駆けて行けばそこには、小学校卒業からずっと会っていない謙くんと、宙くんがいて。…ええと、合ってる、かな?何せ約2年ぶり。2人は私の記憶にある2人よりも、ずっと。


「遅いじゃん、楓」


声も顔も。


「15分遅刻、珍しいね」


背丈も雰囲気も、随分変わっていて。私は15分も遅刻してしまったことに、2人へと慌てて頭を下げながら、何か照れくさくなる。


「ご、ごめんねっ。抜け出すのにちょっと手間取っちゃって…」


言えば2人は不思議そうな顔をして、それぞれを見合わせる。そっか、私がこんな早い時期から受験勉強をしているのを、他校に通う2人は知らない…。そう、だよね。どこから説明しようか。そもそも今日のこの時間、家から抜け出せたことだって、今夜にお父さんが帰ってきてくれるその影響があるからこそ、で。…お母さんの機嫌が良いからこそ、何とかなっただけのもので。その上明日もなんて、本当にお父さん効果には感謝しないと。ええとええと。相変わらず余計にぐるぐる頭を回す自分に、自分ですら混乱していると、宙くんがすっかり大人びた優しい微笑みで、私へと言葉をかけてくれる。


「とりあえず行こうか、楓が1番忙しいだろうし」


「あー、それは確かに。んじゃ行こーぜ」


続いて謙くんが言ったその言葉に、私は宙くんから謙くんへと顔を上げて。…2人とも、何だか別人みたい。特に謙くん、背伸びたなあ。昔は私と変わらないくらいだったのに。いくつくらいあるんだろう?余計な考え事をしながら私は、2人の後にそっと、続いた。右肩に提げたポシェットに、「ごめん、別れよう」のその通知を、知らぬふりしたそのまま、放置して。


にしても、久しぶりに会った楓はやっぱ、楓だった。昔から美人で有名だったけど、尚のことそれが増して。聞けばやっぱ勉強やら習い事やらで忙しく、文武両道。でも変なとこドジなのはやっぱ変わんねぇなー。


「そういえば、文太くんはどうしたの?」


待ち合わせ場所を発って、30分以上経ってから、もう1人の待ち合わせ相手のことをようやく思い出すくらいには、楓は昔から変わらずマイペース。今更かよ。内心突っ込んだのは俺だけじゃ多分、ない。宙も一緒。だけど楓はあのちびロリではないから、そんなことはお互い気を遣って口にはせず。


「明日に備えるってさ」


文太から言われたそれをそのまんま楓へと伝えれば、楓は「明日?」と不思議そうに、聞いた言葉を繰り返す。


「そう、明日」


それに宙が愛想良く微笑んで返して。でも楓はやっぱりわからないんだろう。尚のこと不思議そうに、その”明日への備え”とやらを俺達へ聞いてきた。


「明日って…でも、明日の準備するのに、今日集まるんじゃあ…?」


どこまでも不思議そうにする楓に、俺達だってそんなもん知らねぇ。文太に聞け、文太に。あーでもあいつ、日本語通じんのか?何か宇宙人感増してたけど…。数ヶ月ぶりにやりとりをした文太との、そのおかしなレスポンスを思い返して、でも。


「ああっ!」


「ひえっ?!」


めちゃくちゃ大事なことを俺はすっかり、間抜けな程に忘れていた。それに気がついてその場に立ち止まり、でかい声をあげれば、それに驚いた楓もまた、俺に続いて大きな声をあげた。


今日はばあちゃんの好きな魚メニュー。鮭の煮付け。キャベツときのこの優しい出汁が、鮭を一層引き立たせる、そんな優しい味の夕飯。それを少し早めに作ろうと、私は台所の前に立つ。時刻はもう15時。明日は25日。何度だって意識して、心の中で繰り返してしまう25日。謙は…当たり前に、ここまで音沙汰なく。今度会ったら、やっぱ絶対ぶち殺そう。そこには苛立ちじゃなくて、寂しさばかりが募って、何か変な方向に感情がいきそうだ。だから私は慌ててそれを、1人ぼっちの明日のことなんて、頭の中から振り払う。なるべく考えないようにして、でも。


「…え」


スマホの画面が光り、謙からの着信を表示するんだから、思わず変な顔で固まってそれを見つめてしまう。…どうしよう、無視こく?だって、こいつ自分から「25日遊びに行こう」ってあれだけ騒いだくせに、今の今まで何にもなしで。いくら何でも酷いよ。だけど。何ていうか、だからってここで友達からの連絡を無視こく自分は、想像したら確実に好きではなかった。だから私はひとつ小さな息を吐いて、仕方なく自分のスマホを手に取り、タップしてそれに出る。


「はい」


「なーごめんっ!明日!明日なっ!」


そうすれば私の「はい」の言葉にほぼ重なって、食い気味に焦った様子の謙の言葉が、だけど焦りすぎて何言ってんだかまるでわからない。


「明日!えーと、何だっけ明日!違うええと待ち合わせがさ、いや場所!場所な?!」


何こいつ。どんだけテンパってんの。あーなんか予想ついた、察したわ。ひねてた自分が馬鹿馬鹿しい。きっと、こいつすっかり私に、連絡すんの忘れてたんだ。自分の中ではもう、25日に私とどこか行くことは決めていて、きっと時間と場所まで勝手すぎるほど好き勝手に、決めている。なのに伝えるのをこんな直前まで忘れるとか、こいつも私並みに馬鹿?あー大したことないのね、その頭。すっかり戻ったこの調子で、私はやつを内心こっ酷く馬鹿にしながら、一言だけ言葉を返す。


「落ち着けよ」


「わ、わかってるつの!」


冷静に言えば、反して謙は指摘されて、恥ずかしかったんだろう。語気を強めてそう言う。


「はいはい。で、場所が何なの?」


「あーそうだ!」


そんなやつを誘導するように、元の話へ引っ張ってやれば、謙はやっと落ち着いた様子で、その続きを話し始めた。



「でー?11時に外苑前駅でいいの?」


確認されて、俺は律には今日、楓達と一緒だとばれないよう、2人に黙ってもらっているその中で、言葉を返す。


「そうそう!潰されずに来られるかー?」


どーせ今もちびなんだろうから、からかい9割、心配1割で聞いてみれば、それはもう。


「うっさい!」


元気よく怒られて、最早耳が痛い。思わず自分の耳元にあてていたスマホを、そこから少し離し、俺は顔をしかめる。くそ、こんなやつに今年のクリスマス全部持ってかれてる俺って。でもまあ、仕方ない。ふと、思い出してしまったんだから。


「潰されんなよ!」


そう言って、けれどもう何か言われる前に通話を終了すれば、俺のスマホはいい子に静かなまま。あー、セーフ。思わずひとつ、安堵して息を吐いた俺に、楓が少し歩み寄って言う。


「りっちゃん、嬉しそうだったなあ」


まじで?あれが?


「は?どこがだよ」


わからなくて聞けば、楓は自分の考えや気持ちを上手く言葉にできないのか、困ったような笑顔で俺を見る。そこから目を少し落として、まあ。…まあ、嬉しいならいいか。俺は待ち人が全然来ない、いつかの律の姿を思い出していたから。


家を出るまでに一通りの家事を済ませて、謙との待ち合わせ時間。その場所へと向かえば、でも人が多すぎて確かに…悔しいけど、背丈の小さい私は潰されそうだった。でも、あいつだって昔のままなら、昔で言えば楓と変わんないくらいだったんだから。そんな、でかくなってなければ、この人混みに押されてたっておかしくないはず。ていうかそうであれ。何か憎らしくなって、随分久しぶりに会う謙へと内心嫌味を向ければ、不意にこの腕を引かれて私は驚く。何…?誰、どこの強引なナンパ?思って睨んだ先には、何か、見たことある顔。ん?でも。


「やっぱ潰されかけてんじゃん」


え。その声。進んだ中学が違って、会うことはなくても、今でもまめに電話してるからちゃんとわかる。


「謙…?」


「そ!ていうか、わかんねぇの?」


わかるもんかよ。何、その…背高くなりすぎじゃない?いや、見上げるの疲れるんだけど。顔つきだって変わってて、上手くわからなかった。対して、謙がこんな人混みの中、迷わず私のこの腕を引いたっていうことは、私は。…小学6年生の頃から、変わってないってこと?顔とか、背丈とか、何かもう諸々全部が。うわ…自らやなこと考えて、私は何とも言えない表情をしている自分の、その顔を自覚しながら、謙へと言葉を返す。


「わかんないし、見上げんの疲れるから背縮めよ」


「無理言うなよ!」


精一杯の嫌味、なのか抵抗なのか。そんなものを小さく、最早謙の顔を見上げるのなんて首が痛いから、さっさとやめて。


「つかお前こそ縮んだ?」


「死ねよ」


久しぶりに会った律は、相変わらずちびロリだった。本当、最後に会った時から伸びたのかってくらいに疑わしい、小さい背丈と、いわゆる幼女体型。胸も尻も何もないそれは、昨日楓に会ったからかな。益々可哀想に思えてくる。俺が想像していた通り、律はこの2年近くで、見た目が小学校低学年からようやく、高学年くらいに昇格した、程度で。しかも口悪い。電話の時と違えずいつも通り、口悪い。可愛くねー…。見た目は可愛いのに。多分そういうの好きなやつだったら、律はめちゃくちゃ好かれると思うのに、肝心の中身がな。思いながら行く先には、さすがに今日は文太も来てるよな?つーか律が来るのに来ないなんて、それこそあいつだったら有り得ないか。目当てのクリスマスマーケットの方。その道へと進む途中に、やっぱやつはいた。特別、他の2人とはこちらに近い場所で、律を探す輝いた目で。


「あっ、律ー!」


「…へ」


思いもよらない声に驚いたんだろう。律は文太の声がすると、その場に足を止めて、人の多い周囲を見回す。でもやっぱ、頑張ったって150あるかないかくらいに見える背丈の律には、この人混みの中、文太の姿はすぐには見えなかったようで。思っきし、抱きつかれてからようやく律は、文太に気がついたようだった。


「わー会いたかったよ律!相変わらず可愛い~!」


いやほんとこいつ大丈夫か。一応こいつだって男だし、律だって女だし。なのに文太は小学校低学年の頃からずっと、律に対してはこうだ。無邪気に純粋そうに振舞って、抱きついて、「可愛い」と言って。対して律もこう。


「…何でいんの?文太」


全く文太を意識していない。気にしない。…あー、こいつら本当。いつか、律が自分へと抱きつく文太に「こいつ男なの?」と言っていたそれを、何故か不意に思い出す。それはもう皆が小6の時で、当たり前に男女差なんてそういったものを、色んな意味で意識し始めている時のことで。そんな中どうでもよさそうな律に、文太は言ったんだ。「どっちでもいいよ!」。どっちだよ。意味のわからないこいつらは、あれから2年が経とうが変わらずか。


「さすがに離れろって」


でもさすがに何かやばい気がして、律から文太を引き剥がせば、文太は口をとがらせて不満そうに俺を見る。


「え~、何で」


「何でじゃない、何でじゃ」


お前の中で性別の概念はどうなってんだ。聞きたいそれはけれど、明るい楓の声でかき消された。


「おーい、りっちゃーん!」


その声に1番に反応したのは、他でもない、律。


「楓!」


律は楓に呼ばれると、声がしたそちらへと迷わず走って行ってしまう。あーちょっと、お前ちびなんだから、人混みに突っ込んだら迷子になる…。慌てて追いかけようとした俺よりも早く、文太が律のその後を、「あ、待って律!」とマイペースに追うんだから、全く。


「…自由がすぎねぇ?」


俺らって前からこうだ。小学生の頃、皆で遊んでた時もこんなん。まとまってんだかまとまってないんだか、よくわからない。なのに律を中心に俺らは動いていく。まるで律が、台風の目みたいに。


楓の声がした方に行ってみれば、そこには宙までいた。


「あれ、宙?何、かっこよくなったじゃん」


随分イケメンになってたから、思ったまま言えば、宙はイケメンの雰囲気を纏ってそれらしく微笑み、私へと言葉を返す。


「そう?ありがとう。律は相変わらずは小さいね」


「訂正。やっぱ陰険」


宙って前からちょっとかっこよくて、優しい笑顔が女子から人気の男の子だったけど、やっぱ中身はそう簡単に変わんないもん。陰険のままだ。でもやっぱ、楓と並べば宙は様になるな。美男美女ってこういうことか。2年かけて美男ぶりに拍車がかかった友人と、元から美女の親友の図は中々の目の保養。でもそこに邪魔が入る。


「律ー、俺は、俺はっ?」


後ろからまたべったり抱きついて、何かよくわからないことを聞いてきたのは、間違いなく文太。見た目はこいつも大人っぽく変わったのに、やること言うこと昔と変わらなくて、まるで拍子抜けだ。だけどそこに、昔と変わらないという安堵さえ、私は微かに覚える。


「文太はお子ちゃま」


だからこっちにも素直な評価をしてやれば、文太は。


「えぇー、俺のこともかっこいいとか可愛いとか…」


「ない」


落ち込んで自ら、私からの褒め言葉をねだってくるんだから、それさえすっぱり私は切り捨てる。つか文太は、いつまで私に抱きついてるつもりよ。邪魔なんだけど…。久しぶりに思うそれは、けれど謙の呆れたような声と共に、なくなった。


「だからくっつくなって」


「何で!」


謙が文太を引き剥がし、そう注意すれば、だけど文太は不満そうにそう食らいつく。何でって、邪魔だからでしょ。全く当然なそんなことを心の中で思う私とは裏腹に、謙が続けた言葉は。


「当たり前だろ馬鹿。いい加減歳考えろ」


男女のそれを意識させるような、それだったから。そんな、ことを譲達との間には感じたくなくて、考えたくなくて。私は思わずその場に軽く視線を落とし、1人、黙り込む。


「いーじゃん、律は嫌がってないんだから」


「そもそも律が嫌がってるそれすら、文太からすれば喜んでるように見えてたりしてね」


「そ、そうだね。…その、文太くん、りっちゃん多分、ちょっとは嫌だと思うんだ」


「えー…」


みんなが、それぞれに交わす言葉さえ、何か遠くに聞こえるくらい。…私が子供なのか。この背丈と同じくらい、意識や考えまでもがもしかして。でも違うんだ。そんなもの…。わかってる、私はただ、怖いんだ。周りの恋人や夫婦の幸せな形、愛情の幸せな終わり方を、私はひとつも知らずに来たから。


クリスマスマーケットは華やかで、初めて来た私もつい、はしゃいでしまう。


「わあーっ、すごいね!こんなとこ、来たことない…!」


なんて言いながら、いけないいけない。今日の主役はりっちゃんなんだから。そのために、私達は今日ここに集まった。りっちゃんへのプレゼントを、4人のうちの1人へと忍ばせて。ふふ、りっちゃん、喜んでくれるといいなあ。クリスマスなら昨夜、お父さんとお母さんと楽しく過ごしたけれど、お友達と過ごすこういったことも、悪くない。どころか楽しい!だけど、ふと見やったりっちゃんは、何か。暗い顔で、僅かに視線を下へと落としていた。暗い、というより、何かを考えている?…りっちゃん、どうしたの…?さっき、謙くんに連れられて、私達と合流したりっちゃんは、普通の様子だったのに。何か、私達はりっちゃんの気分を害してしまったんだろうか。だけどりっちゃんと久しぶりに会う他の3人は、りっちゃんの様子には気づいていない様子で。私とりっちゃんの間にだけ、何か気まずい空気が流れていた。



「なあプレゼント、誰が渡す?」


「文太は今日来なかったから、その権利がないとして、やっぱり楓かな」


「私?」


24日。日も暮れて暗くなってきた頃、皆で悩みながらもひとつを決め、律へと買った誕生日プレゼントを、俺達は今度、誰が律に渡すかで頭を悩ませていた。文太は、今日来なかったんだからいいだろうと言う俺に、誰も異論はないようで、そこは素直に通る。けれど、「楓が渡すのが最適では」というそれには、楓は少しその目を見開き、不思議そうにした。それから、今は謙が手に持つ、律への誕生日プレゼントが入ったその紙袋を見て、楓は何か、真っ直ぐに言う。


「…私は、謙くんがいいと思うな。私は毎日のようにりっちゃんに会うし、去年も私からりっちゃんに、プレゼントあげたもん。」


優しく語るようなその言葉は、けれどやはり何か、真っ直ぐだ。いつも上品に、礼儀良く微笑む顔さえ、今は何の陰りもないように見える。いつもは三日月か、良くて半月か。そんな風な彼女の微笑みは、この時ばかりは満月のそれのようで。何か、律のおかげでいいことでもあったかな。それを見て俺は、自然とそう考える。他でもない律の親友に、そう言われてしまっては謙も断れず。「…わかった」と、自分の手元の紙袋を見て、何か神妙に呟いた。


…可愛い雑貨。クリスマスマーケットって初めて来たけど、こんななのね。ふーん…。クリスマスらしい雑貨の数々、お菓子…。未成年の私達にはもちろん無理だけれど、何かお酒?とかもあるな。え、こんななんだ。今しがた思ったことを、私はまた改めて思う。謙にクリスマスマーケットに誘われた時は、こいつなんかと行って楽しいのかとも思ったけれど、行ってみれば実際、謙は楓達いつものメンバーをばっちり呼んでたんだから、まあそうか。私と2人じゃ楽しくないのなんか、謙だって同じ。ちょっと考えればわかったはずのカラクリに、私は騙されて。


「せっかくだからりっちゃん、お揃いで何か買わない?」


右隣を歩く楓のその提案に、私は考え事をするあまり、ちょっと俯かせていた顔を上げ、頷く。


「うん」


だけどその時私の左隣から、全くうるさく文太が絡んできた。


「え~いいな、俺も律とお揃いしたい」


こいつ。瞬間呆れて、文太って何で昔っから私にべったりなの?中学が違うから、もうこんなことないと思ってたのに。全く変わらないやつに、だけどさっきの、謙と文太のやりとりがまた、私の脳裏を過ぎる。「歳を考えろ」。つまりそれは、「性別を考えろ」。文太なんて文太なんだから文太でいいじゃん。何だよ、謙なんか。もやもやとしてはっきりとしないこの気持ちの矛先を、私は理不尽だとわかっていながら、少し前を宙と2人、笑顔で行く謙に、向けていた。


結局、文太とのお揃いは自分で雑に退けて、私は楓と、サンタ帽を被った白兎のマスコットをお揃いに、する。嬉しくて2人で顔を見合せ、笑う中、楓は言った。


「これ、冬休み明けたら、学校の鞄につけてくね!」


え。それはまずいんじゃあ。だって私は虐められっ子。対して楓は学校の人気者、マドンナ。今でさえ、2人でよく下校を共にするそれを、私は不安視している。幸いこれくらいなら、「あの作間さんと帰ってあげてるなんて、さすが宮寺さん、優しい~」と、楓の身の安全は大丈夫みたいだけれど。でも私と、スクールバッグにこのお揃いの兎をつけたいなんて、そんな。それは、さすがに危ない気がして、でも。楓の言葉の意味を察して、思わず黙り込む私に、楓は言う。


「りっちゃんも、つけて来てくれると嬉しいなあ」


可愛く綺麗な、本物の笑顔で、はっきりと。


そうしてみんなで会場をがーっと回って、珍しい雑貨にはしゃいだり、美味しいお菓子に感動したり。満喫すれば空はすっかり暗くなってきていた。いや、どんだけ満喫したのよ。私達、休憩無しノンストップで、待ち合わせの11時からこんな時間まで…。コートのポケットから取り出したスマホを見遣れば、表示は16時半。は、なかなか。年甲斐もなくはしゃぎまくった自分に、自分ですら何か、呆れた半笑いが出た。そんな時。


「ん!」


「は?」


何か謙に、大して何も詳しいことは言われず、紙袋を差し出されて私は目を丸くする。「ん」って何。それじゃ意味がわからない。だけど。この中で1番頼りになる楓を見れば、目が合うと同時に優しく微笑まれたから、まあ…受け取れ、ってことなのか。楓が言うなら。よくわかんないまま、取り出したスマホをまたポケットに戻し、受け取った紙袋。何だろう?何気なく中身を覗いた。だけどご丁寧にラッピングされてて、中身が何かはよくわからない。ん…?ていうか、これって。今日は。渡された物が何なのか、ようやくひとつの心当たりが浮かんできて、私は思わずこの顔を、しかめる。嬉しくないわけじゃない。そうだとしたらすごく嬉しい。だけど、どうしても悲しみに歪むのは。


「くよくよ待ってんのはお前らしくないって!」


その瞬間目の前に立つ謙に、でっかく明るい声で言われて、私は歪ませた顔を今度、驚きへと満たしていく。…何、それ。そんなでかい声で言われたら、恥ずかしいじゃん。道行く人が私と、謙を見ては、「何だろう?」と呟いていくから。なのに。


「待ちつつ前に進もうぜ!俺、律にはそっちのが似合う気がする!」


らしくないとか言いながら、待つことを許し。なのにくよくよするなと、私に前へ進むことを促すこいつの、その言葉をひねくれて受け取る人もいるだろう。だけど謙は見てきた。分裂した家族。幼さからか、どちらかを選ぶことが出来ずに、姉を選んだ私。いつからか、果たされなくなった父子の約束。それも人生なのだと、そもそも父親母親とは私と同じ、1人の人間なのだと、悟って。甘えてはいけない。だから穿って許すことを選んだ。子供らしい何かより、今を生きることに必死になった。そんな私をよく知ってる、謙達が言うんだから、こんな私はらしくなくて。だけど前へと行きながら待つのなら、それはいいのだろう。むしろ、謙達はそうしてほしいんだろう、私に。真っ直ぐ何かを信じていたい。私は、何度ひねくれても結局自分の根底に、それを見つけているから。


「…ん、ありがと」


ひねくれて可愛くない私より、馬鹿でいい。あんな父親でも私には、優しかったんだ。その全てを否定なんてできないし、したくないよ。だって人間は、色んな側面で出来てるでしょ。私だって、謙達だって。思えばもうずっとずーっと、私は青いままでいいや。多分そこには、世界を悟りきった大人にはない輝きが、あるはずだから。笑顔で礼を言う私に、謙も笑顔を見せると、けれど今思い立ったように、宙へとひとつ聞く。


「そういや、文太は?」


あ、そういえば。その質問に、私は確かに今ここに文太の姿がないことに気がついた。まさか迷子?そうしだとしたら面倒くさい。思ったのと同時に、宙が応える。


「大丈夫、迷子じゃないよ」


自分に聞いた謙ではなく、まるでそれを見て、めんどくさって思ってた私の心を、見透かすように。


「じゃあ、文太くんどこに…?」


楓が不思議そうにそう呟いた時、私は突然後ろからもふもふの、大きな何かに襲われた。


「へっ…」


驚いて、小さく声が漏れる。目の前の謙達ばかり見ていたから、油断していた。慌てて振り返ればそこには、でっかいクマの顔。…は?いや、驚いて固まりつつもこれ、知ってる。だってさっき。


「じゃあ俺からはこれね。はい、律、ハッピーバースデー!」


大きな白いクマの向こうから、それを抱える文太がひょこっと顔を出して、邪気のない子供っぽい顔で、笑う。私へと差し出された、両手いっぱいの大きな白いクマのぬいぐるみ。首元のサックスブルーのリボンが綺麗なそれは、ついさっき、私が「いいな」ってこっそり、ひとつの店先で目を奪われた子なんだから。こいつ、目ざとい。受け取りつつ、文太って昔から本当によく他人を見てるなと思う。でもさ。


「…へへ、ありがと、嬉しい」


今回、その恩恵を受けられた私は、ちょっと勝ち組かも?何かくだらないことを考えて、零れる笑みは多分卑しい。だけど文太はそんな私なんて気にせず、私より嬉しそうに笑うんだから、こいつ本当邪気がない。


「えへへ、いいえ~っ」


「何だよ、現地調達?」


「せこくね」。謙が何か、負け惜しみみたいに呟いた言葉が、私の背中越しに聞こえた。


帰宅してから、1人。文太から貰ったクマを隣に置いて…て、この子、座らせると背丈が私の座高くらいあるな、やっぱ。まあそれはともかく、部屋で謙達から貰った包みを、開けてみる。私の手にはちょっと余るくらいの大きさの割に、何か重たいその中身は、スノードーム。あ。…はは、覚えてたのかな?私が札幌生まれだってこと。つい、たまに謙達には方言が出ること。今日も、お菓子の包み、”投げて”って言っちゃったもんな。遠い記憶、小学校1学年。自分のプロフィールを作る授業で、生まれた場所を「さっぽろ」と書いた私に、まだ当時幼い謙と宙は群がって、言う。「さっぽろ?雪ふるの?」。「知ってる!スノードームだろ!」。その時、楓とは残念なことにクラスが別で、文太ともまだ知り合っていない。だから楓も文太も知るはずがないこんな思い出は。へぇ、意外と粋なことができるじゃん。思うと私の顔にはどうにも、変な笑みが浮かんでくる。それは、何か幸せのようなあたたかさで。文太は文太で、ぬいぐるみに依存する私さえも、何か見抜いているのかもしれない。文太って昔は気が弱かったくせに、その頃から変に洞察力に優れているんだから。ああでも。このスノードームも、ぬいぐるみも。今までの私にはできない方法で、強く深く大切にできる気が、していた。

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