第100話、ジャクリーンのクッキー


 史実では、パルカナルハ平原の北西側に陣取る蛮族軍に対し、ヴァーレンラント北部・東部軍は六百メータの距離を置いて対峙した。風は南西から吹き、王国軍は風上に位置していた。


 夜も近づき、飯時となった王国軍は、それぞれの部隊で食事を摂り始めたが、その匂いが風に乗って蛮族軍のもとへと届いた。人間の嗅覚より優れた亜人も混じる蛮族たちは、己が空腹を抱えじっとしていたが、ご馳走の匂いに釣られて王国軍陣地に殺到した。


「コンラード君、早く指示を出せ。敵が迫っているのだぞ?」

「……各隊、迎撃――」


 コンラード騎士生の顔は蒼白だった。幕僚たちも目の前で起きていることが信じられずにただ様子を眺めているだけだった。


 最前線で警戒していた王国軍部隊が蛮族軍と衝突する。食事――休憩のピンを付けられていた部隊は反応が遅く、それらのピンが外される頃には、前線部隊を突破した蛮族軍の先鋒部隊と交戦を開始した。王国軍は騎兵を展開させることもできず――できたとしてもすでに戦場は混戦になっており騎兵の突撃は不可能だった――数に任せた蛮族軍によって王国軍は部隊連携をとることもままならず壊滅した。


 見事に史実を再現し、戦史の授業として完璧な形となった。戦術面でも、教訓を与えるという点でもこれ以上ない警句となっただろう。


 パルカナルハの戦い――それは第四次北方戦役において、王国北部軍と東部軍の半数以上を一挙に喪失し、以後、北部領を蛮族軍に蹂躙される結果となった大敗戦である。



  ・  ・  ・



 どうして誰も文句を言わないのか――ジュダは首をかしげる。


 一日のうち、午前と午後に一刻から一刻半の間、ジュダは臨時教官として指導をしていたが、生徒数が三十を下回ったことはなく、むしろ少しずつ増えていた。


 新たな教官がぽつぽつと着任し、授業再開に向けて動き出しているのを感じてはいたものの、誰もジュダの臨時授業を止めることなく、いまだ教官役をこなしていた。


 警備隊長であるジャクリーンがジュダをおやつに誘ったのは、午後の授業が終わった直後だった。彼女は食堂のテラス席にジュダを座らせると、お茶とクッキーを提供した。


「口に合うといいが……厨房を借りて作ってみたんだ」

「いただきます」


 ジュダは、クッキーを一つまみ。あまり形がよろしくなく、ぼろぼろした外見だった。


「あなたがお菓子を作るとは……意外です」

「うん、私が料理をすると皆そう言うんだ」


 ジャクリーン隊長は淡々と告げた。


「皆の想像どおり、私はあまり料理をしない。このクッキーにしろ、数年ぶりという代物だ」

「以前作ったのは、何のきっかけですか?」


 口の中でボロボロとなるクッキー。……硬かった。お茶を一口。


「弟の誕生を祝った時」

「なるほど」


 ジュダは頷いた。


「弟君は、何と言いましたか?」

「『お姉さまありがとう』だったかな。ただ、あまりおいしくはなかったようだ。二つ目は食べなかった」


 かすかに睨むような目だった。何となく、さあ二つ目をどうぞ、と無言のプレッシャーを感じ、ジュダはクッキーを手にとった。


「弟君は、好き嫌いが激しいのですか?」

「好き嫌いを許せるほど贅沢な家ではない」


 ジャクリーンは鼻を鳴らした。まあ、普通だよ、という彼女にジュダはまたも頷いた。


「それなら、あなたの料理スキルは上がっているのではないでしょうか。……二つ目を口にするのを遠慮するほどのものではない」

「遠まわしに、おいしくないということだな。どうもありがとうございました」


 警備隊長は皮肉げだった。ジュダは僅かに首を傾ける。


「悪くはないですよ」

「よくもないんだろう」


 拗ねているようだった。ジュダはジャクリーンをじっと見つめる。


「次も期待しています」

「次を作ると思っているのか?」

「楽しみにしている、と言ったら、作ってはくれませんか?」

「考えておく」


 ジャクリーンは腕を組んで軽くそっぽを向くように横顔を向ける。ジュダはボソボソとしたクッキーの三つ目を咀嚼したあと言った。


「それで、あなたがお菓子をわざわざ作ってくださってまで声をかけた理由は?」

「デート……では不足か?」

「光栄ですね」


 ジュダは皮肉の虫を隠さなかった。


「でも違いますね。暇を持て余している騎士生と違って、警備はそんな余裕はないはず。わざわざ、お菓子を作っている手間をかけてお誘いいただけたのは……何かまた面倒事を俺に言う、あるいは言わざるを得ない状況なのでは?」

「……まあ、お前のご機嫌とりにでもなれば、と思ってな」


 ジャクリーンが言えば、ジュダは『やっぱり』と内心呟いた。


「あと二、三日で、騎士学校の機能は回復する。要するに、また授業が始まるということだ」

「それはよいことですね」


 ようやく臨時教官の真似事ともおさらばできる。――普通に考えたらそうなのだが。


「で、それと俺のご機嫌とりって、何かあるんですか?」

「明日の午前が、お前の臨時教官最後の講義になる。……何の授業をやらかすつもりだ?」

「亜人についての講義の予定でした。……そうですか、明日は休みにはさせてもらえないというわけですね」

「いかない。ついでにお前の亜人学講義に見学者が追加される」


 嫌な予感がする。ジュダは舌の先がざらつくのを感じた。


「見学者ですか、もったいぶった言い方ですね。どこぞの貴族閣下が、子供の授業風景でも参観なされるのですか?」

「参観ね、間違っていないな。新任の学校長殿と、お前のクラスの担任――つまり私の後任 の教官が、お前の講義を見学するそうだ」

「学校長と担任教官!」


 ジュダは目を回して見せた。


「冗談ですよね?」

「わざわざ警備の時間の合間を縫って、私がお菓子作りをしたのが、そんな冗談をいうだけのためだと思うのか?」

「……」


 ジュダは口元に歪んだ笑みを貼りつけた。


「まあ、史実や戦史や神学を教えるような学者教官殿でないだけマシ、と考えましょうか」

「そうだな学者教官だったら、ああだこうだと教育方法に難癖をつける。決まった手順に従い、それに逸脱する教育を認めない。歴史教育関連が、つまらない授業になるのはそのせいだな……と、私はもう教官ではないから、今のは現役の頃の愚痴だ」


 まったくの同意だった。ジュダがやった戦史と戦術ひっくるめた講義など、学者教官は絶対に認めないだろう。その点、臨時講義とはいえ、かなり自由にやらせてもらえたものだと思う。


「とはいえ」


 ジュダは姿勢を正した。


「今さらというのは俺も同じですね。別に教官になりたいわけでもなく、単なる暇つぶしが元でやらされていることですから。いまさら真面目な講義をやる必要などない」


 一種の開き直りだった。おかげで、少しだけ気分が軽くなった。

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