第86話、反撃の時


 もし、敵が人質をとった場合――ジュダが予めシアラに告げていたそれ。ジュダは人質を無視するように動く、その時可能ならば、と彼は言った。


『敵の注意を一瞬でも逸らしてくれ」


 シアラはそれを忠実に実行した。壇上で吹き上がった煙。ヘクサから見て背後で起きたそれは、彼女の注意を瞬間的に奪うのに充分だった。

 スロガーヴの本性を隠していたジュダは、狼脚に魔力を加え、突進した。


「っ……!?」


 とっさにラウディを離したのは、鍛えられた暗殺者の勘だったのか。


 まとったローブを脱ぎ捨てたところに、ジュダの突き出した舞風が迫り――ローブがカーテンのように視界を覆ったことで、ヘクサの顔面を貫くそれが避けられた。


 ヘクサが脱ぎ捨てたローブの下は漆黒の戦闘服。彼女は曲芸さながら後退、自らを襲った戦士から距離をとる――いや、とったつもりだった。

 しかし凶暴なる獣の牙は喰らいついたら離れない。


 狼!


 ヘクサは戦慄する。ジュダの振りかぶる舞風の一閃は、断頭台の刃の如く宙を斬った。


「ちっ!」


 両手を床について、回転しながら後退するついでに顎先を狙った蹴り。ジュダはヘクサの足技を避け、再び突進。


 場は完全にジュダに支配された。騎士生たちを操るヘクサが新たな指示を出せない。その隙に、リーレとメイアが戦闘を再開、次々に騎士生たちを昏倒させていく。


 ラウディは槍を拾うと、コントロとサファリナ、二人を拘束したまま動かない騎士生たちを倒していく。自由になった二人が戦列に加わり、形勢は逆転した。


 ジュダはヘクサを追い詰める。

 ふだん扱う剣より刀身の長い舞風――重さは気にならないが、重心の変化が挙動にわずかながらの間を作り、感覚的に振りが遅くなっている気がした。


 狐のように素早く下がるヘクサを捉えそうで、あと一歩、いや半歩足りないような歯がゆさ。まだ腕の感覚が完全ではないのかもしれない。


 しかし、一太刀さえ浴びせれば、おそらく彼女の命を奪うなり戦闘力を喪失させることはできる。舞風の切れ味は、それだけ鋭い。


 ウルペ人暗殺者は身を捻り、全身の筋肉を不足なく使いジュダの太刀を避ける。その彼女の腕が不意に、舞うように伸ばされる。


 毛穴が逆立つような、皮膚をかすめるように走る魔力の流れを感じた。背後からの殺気に反応して屈めば、寸でのところを騎士生のものと思しきブロードソードが通過した。


「よく躱した!」


 ヘクサの振り向けた手に、引っ張られるように飛んできたブロードソードが収まる。


 大気を操りモノを引き寄せる魔法。彼女の右手は――さらに別のショートソードを引き寄せ、それをジュダめがけて飛ばしてくる。


 とっさに舞風で弾き飛ばす。

 ヘクサの右手は別の方向に向けられる。新たに剣が引き寄せられ、その手に吸い込まれる。


 二刀流。


 狐の暗殺者は攻勢に転じた。右、左と繰り出される剣を、ジュダは舞風で凌ぐ。懐に飛び込まれると、長すぎる長刀より二本の剣のほうが手数で勝る。


 響く剣戟。


 ヘクサも巧みにジュダに剣を振らせない。攻撃を凌ぐジュダは、刹那、ヘクサに接近する人影に気づく。


 そのわずかな目線の変化に、ヘクサは素早く身を引いた。両手に短剣を握るメイド――メイアがヘクサに襲い掛かる。それぞれ左右の剣、四本が甲高い音を立てて、一瞬のあいだ双方の動きを止める。


「惜しかったわね。もう少しだったのに」

「お前は殺す……!」


 メイアの声には殺意がこもっていた。敬愛するラウディを辱めた憎い敵――その憎悪の感情は凄まじい。


 剣と剣が火花を散らしてこすれあう。流れるように繰り出される二本の短剣。ヘクサはそれを弾き、左手の剣でメイアの喉元へカウンター。しかしメイアは頭を下げて凶器をかい潜ると重心を前に倒して、前転するように回転、強烈な蹴りでヘクサの顔面を蹴り飛ばした。流れるような早業だった。


 一瞬の怯み。態勢を整えたメイアの追い打ちはしかし、こちらも立ち直ったヘクサによって止められる。睨み合う両者。だがそれも刹那。蹴りで唇を切ったヘクサが、メイアの顔に血の混じった唾を吹きかける。


 今度はメイアが怯んだ。ヘクサは頭突きで追い打ち、さらに振り上げた足でメイドの腹部を強烈に蹴り上げた。

 吹き飛ぶメイア。しかし彼女も倒れない。両手が瞬間的に腰――に仕込んだ魔石ポケットから武器を抜く。赤い魔石は形状をダガーへと変え、メイアはそれを投げた。


 四本。


 ヘクサは自分に当たるダガーだけを適確に叩き落とし――メイアの仕掛けた罠にかかった。

 投げたダガー状の魔石が、その魔力を爆発させた。爆発飛散する破片と衝撃波にヘクサの黒装束は破れ、彼女の身体を跳ね飛ばした。


 床を転がるヘクサ。さすがにダメージが大きいのか、すぐには起き上がれないようだった。彼女が顔を上げた時、ジュダとメイアは狐人に剣を向けていた。


「終わりだ」


 講堂から剣戟は聞こえなくなっていた。

 操られている騎士生や教官たちは倒れている。シアラも、自身の妹であるアクラを意識を奪っていた。


 残っているのはヘクサただ一人。メイアは呟いた。


「殺します」

「待て、メイアさん。まだ早い」


 ジュダは、いまにもトドメを刺しに行きそうなメイアの前に舞風を出して止める。


「こいつには、騎士生たちにかけられた呪術を解いてもらわないといけない」


 殺すのはその後だ――ジュダの低い声に、メイアは頷いた。

 ラウディのことで、怒りを溜め込んでいるのはジュダも同じだ。メイアもそれを察する。


「ふ、ふふ」


 ヘクサが薄く笑った。


「私が、あなたたちの言うことを素直に聞くと思う?」

「聞いてもらう」


 ジュダは淡々と告げた。


「呪術を使うのに、腕は何本あればいい?」

「は?」


 要領を得ないヘクサが呆れ顔になるが、ジュダは構わず彼女の右腕に舞風を当てた。


「腕は一本あれば大丈夫かと聞いている」


 ジュダの怒気を感じ取ったヘクサは押し黙る。ジュダは今度は左腕に刀を当てる。


「二本必要か? 腕が駄目なら足にしようか? 足なら術には関係ないからな」

「……」


 ヘクサはがっくりと頭を垂れる。ジュダは容赦なかった。ヘクサの左肩に刀身を当て――


「危ないっ!」


 シアラの声に、ジュダは身を翻す。そのわずか一秒、ジュダの胸の前を剣が通り抜けた。

 ヘクサの魔法――しかし彼女は両手を床につけていた。


 ――こいつ……! 


 再び向き直るジュダ。メイアが一足早く、ヘクサを蹴り飛ばしていた。


「今度やれば、その腐れ心臓を引きづり出して……」

「慌てないでメイドさん。騎士生たちの呪術を解く方法を教えてあげるから……」


 すっと、ヘクサは無数の鈴がついた木の枝のような杖を、ゆっくりと抜いた。


「これが制御杖――」


 しゃらん――と鈴の音が講堂に響いた。


 ジュダはビクリとした。この音――嫌な予感がした。もしかして講堂の外にいる騎士生たちを呼び寄せたのではないか……?

 同じ考えに至ったのか、メイアが声を上げた。


「貴様!」

「だから慌てないでメイドさん。外にいる連中を呼んだだけ。でもそうね……それらに攻撃命令を下すのは――」


 そう口にした瞬間、ウルペ人の魔女の口元が歪んだ。


 ジュダは舞風を振り上げ、メイアは短剣を構えたが、それよりも速く――


 ズン、と大気が震動したような衝撃が起きた。


 魔法? ――ジュダが息を呑んだ次の瞬間、ヘクサの手から鈴付きの杖が見えない力にもぎ取られ、宙を飛んだ。飛翔する杖は何かに押し潰されるようにバキバキと音を立てて折れ、講堂の入り口付近で粉々に飛び散った。


 ただ、その講堂の入り口に、人影があった。


「……感心しないな。人を操る魔法の杖など。……だがこうなってしまえば操れまい」


 緋色のドレス、その腰元から入ったスリットから白くしなやかな足が艶かしく覗く。

 銀色の髪を三つ編みに、眼鏡をかけている美女は、表情というものが欠落した人形めいた表情で、小首をかしげた。


 エレハイム・レーヴェンティン。魔法科目教官。図書館の魔女の異名を持つ彼女。そういえば、ここ数日、彼女の姿を見ていなかった。ヘクサが騎士生全員や教官に呪術をかけている時でさえ。


 注意が削がれたその一瞬だった。カン、と床を跳ねた固い玉――その音に視線が集まった瞬間、それは強烈な閃光を発し、周囲の人間の目をつぶした。


 ――くそっ……!


 そこから起こることは容易に想像がつき、事実その通りになった。

 ヘクサの姿は消え失せていた。閃光を利用し、逃げたのだった。

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