第32話【ミサンガ】
急遽バイトがお休みになってしまった私は、同じくお休みで予定の空いていた一ノ瀬さんをお誘いし、やってきたのは最寄り駅から三駅離れた駅前にある、大型雑貨店。
来月誕生日を迎える
「ここなら手作りか既製品の物を選べますので最適ですよ」
「うわぁ......生地だけでこんなにも種類があるだなんて。専門店、恐るべしですね」
端の見えない広い店内。
複数の棚や壁にずらりと陳列された
ワンフロアに丸々そのお店のテナントが入っていて、どこを見ても色鮮やかで沢山の生地や手芸グッズが所狭しと溢れていた。
「組紐だと、多分この辺り......あ、ありました」
一ノ瀬さんに連れられ組紐コーナーへやってくると、反物に負けずとも劣らない種類の組紐の数々が私たちを出迎えてくれた。
これだけ揃っていれば、イメージ通りの柄を作れそうだ。
「でもミサンガなんて作れるの凄いです。前から思ってましたけど、
「そんなことありませんよ。構造さえ理解してしまえば、誰でも簡単に作れるものなんですよ」
組紐を手に取りサイズを確認しながら、さり気なく一ノ瀬さんにも勧めてみる。
きっかけはバイト中、とあるお客さんが腕にしていた素敵なミサンガ。
訊くとそれは自ら手作りしたものらしく、英語で私に作り方を簡単に教えてくれた。
見た目に騙されてしまうが、ミサンガは凝ったデザインでなければ初心でも容易く作れてしまう。
私もハマってまだ日は浅いけど、手軽に手作りの装飾品を誕生させるのはなんとも言えない楽しさがある。
「良かったら一ノ瀬さんも一緒に和人さんにプレゼントしませんか? きっと喜びますよ」
「いえ、さすがにそれは......」
「
引かずに優しく私が背中を押してみると、一ノ瀬さんは、
「......そこまで凛凪さんが簡単だというなら......そうですね。あの時のお礼もまだしていませんし」
「あの時?」
「......実は私、お店で働く前に一度、橘店長とお会いしたことがあるんです」
目の前の棚にあった赤い組紐を手に取り、一ノ瀬さんは和人さんとの出会いを語り始めた。
「姉に買い物を頼まれて初めて秋葉原の駅前に降りたあの日。何も知らない私は駅前で話掛けてきた男性に捕まってしまって。途中で勧誘されてるなっていうのは気付いたんですが、逃げようとしてもその人は私の前を塞いでいて。どうしようどうしよう、頭の中がグルグルして泣きそうになった時――助けてくれたのが橘店長でした」
苦笑を浮かべながら一ノ瀬さんは言葉を紡ぐ。
「周りの人は見て見ぬフリだったのに、橘店長は私とその男性の間に入って守ってくれました。職業柄、そういった人の対応に慣れているんでしょうね。そしたら簡単に相手が去ってくれて」
「和人さんらしいですね」
彼の優しさを身に染みて知っている私だからこそ、彼が損得勘定無しで動いたことが想像できる。
人間だろうが
「秋葉原で働くようになれば、またあの人に会えるかなって。おかしいですよね、秋葉原で働いてる人かどうかもわからないのに、一人で勝手に期待しちゃって。でもまさかバイト先の店長だったなんて思いもよらなかったですが」
「運命的な出会いだったのですね。なんだか羨ましいです」
「それを言ったら凛凪さんの方こそ。実際どうなんですか?」
「どう......と言いますと?」
話の腰を折り、一ノ瀬さんが何かを期待をする眼差しでこちらを向く。
「橘店長とのことですよ。私の目からはお二人ともお似合いのカップルだと思いますが」
「そんなことはありません。私はあくまで同居人兼、家事担当。家でもお店でも雇われの身なのですから」
カップルと言われ、顔が熱を帯びたように暑い。空調は効いているはずなのに。
「現実でも主従関係から始まる恋の物語があってもいいじゃないですか」
「一ノ瀬さんの理想を渡しに押し付けないでください」
「じゃあ橘店長を誰かに獲られてもいいと?」
「うぅ......一ノ瀬さん、意外と意地悪です」
「ごめんなさい。そんなつもりは......お二人を見てると、なんかつい応援したくなる気持ちが湧き上がってきちゃって。不思議ですよね」
唇を尖らせ抗議する私を、一ノ瀬さんがやりすぎたと我に返ってフォローを入れる。
私だって和人さんを異性として意識していないわけがない。
あんな相手のことを第一に考えてくれる優しい人に愛されたらどれほど幸せだろう――
だからこそ、私には勿体ない。
ずっと一緒にいてはいけない。
もっと和人さんに相応しい方がこの世にいるはずだ。
それに私の過去を知ってしまえばきっと――和人さんは私への態度を変えてしまう。
軽蔑されてもおかしくない”罪”を、私は犯してしまっているのだから。
先日お店に現れた時は絶望で心臓が止まりかけたけど、皆さんのご協力もあってどうにか切り抜けられた。
神様がいたらどうかお願いします。
私のことはもう放っておいてください。
そう願わずにはいられなかった。
その
一ノ瀬さんと作ったこともないのに生地を手に取り思い思いの欲しい服を想像したり、
女子高生に混ざってぬいぐるみのパーツのコーナーでこの目が誰に似てるとか他愛のない会話を重ねているうちに、時間はあっという間に夕方へ。
「今日は本当にありがとうございました。遅くなっちゃいましたけど、夕飯の準備とか大丈夫ですか?」
家の最寄り駅に着く直前。
電車内で一ノ瀬さんが愛らしい笑顔でお礼を述べてきた。
このあとはお姉さんの部屋には寄らず、そのまま家に帰るとのこと。残念だ、もう少しだけお話ししていたかったのに。楽しい時間はいつも一瞬で過ぎてしまう。
「こちらこそ本当に助かりました。その心配には及びません。出かける前に予め仕込んでおきましたから。一ノ瀬さんこそ、親御さんが心配されませんか?」
「私の家、そこまで門限早くないですよ」
冗談で言ったと思われたらしく、鼻で笑われてしまった。
そうだった。普通の家はそこまで厳しくないんだった。
「じゃあまた明日、お店で」
「はい。お気をつけて」
扉が開き、ホームに降りた私は、一ノ瀬さんが乗った電車が見えなくなるまで手を振り見送った。
今生の分かれでもない、明日お店でまた会えるのに。
そんな気分にさせたのは、多分今回
が女性の友達との初めての買い物だったから。
男性、和人さんとの時にはできない会話が、女性同士では躊躇いもなくすることができる。
和人さんと生活を共にするようになっていろいろ気付かされる。
人の当たり前は、誰かにとっては必ずしも当たり前ではないのだと――。
茜色に染まりはじめた空の下を、帰る場所に向けて足を動かす。
夕方4時を過ぎれば駅前は帰宅・買い物の喧騒で賑わい、行きかう人たちの表情には今日起きた出来事が染みついている。
良かった人がいれば、悪かった人もいて、それを各々が受け入れまた明日へと旅立って行く――本当に、和人さんのおかげで私は今まで見えてこなかったものが見えるようになった――。
胸の中にポカポカとした感情を抱きながらアパートの前まで戻ってくると、階段付近を塞ぐよう、誰かを待っている様子の若そうな男性が一人。
タバコを吸うその男性の顔がこちらを向いた瞬間、ポカポカの感情はハンマーような衝撃で勢いよく粉々にされた。
「――ったく、おせぇよ。俺に一体何箱吸わせるつもりだよ」
「......どう......して......」
抱えていた買い物袋がするりと、私の胸から抜け落ちた。
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